第27話 腹中の蛇

 今日も、夜の帳が静かに下りる。星は瞬き、白かった月は輝きを放つ。しかし、あと数日すれば月は姿を隠すだろう。

 規則的な月の満ち欠けは、チヨに欠けてもまた元に戻ることが自然に起こると教えてくれた。

 幼馴染み達との友情も、また丸く収まる日が来るだろうか。一方的に敵対視し始めたチヨを……きっとアサギとマツは、許してくれないだろう。それでも、長年の友情を壊してでも、手に入れなければならない立場がある。

 チヨは、目の前に座す皇子と向き合って座るか隣に座るか迷っていた。

 やっと、待ちに待った番が巡ってきたのだ。

 昨日のマツとの初夜がどんなだったか知らないけれど、きっと楽しくなかったはずだと決めつけている。


(私は、絶対に楽しませてみせるわ)


 チヨには、アサギのためと思って仕入れてきた妻木の里の女性達直伝の技があるのだから。


「どうした。そなたの部屋だというのに、所在なさげだな」


 気のせいだろうか。皇子の声音が、チヨのことを気遣っているように思えて、突き放されているような冷たい 印象を受ける。

 でもきっと、皇子はアサギのことが大好きなのだから、仕方がない反応なのだろう。多分、マツにもこんな感じだったに違いない。

 チヨは気を取り直し、ニコリと笑みを向ける。


「お隣を失礼致します」


 ひと言断りを入れ、皇子の隣に腰を下ろす。そっと腕に触れようとすれば、体勢を変える動きと相まって、スルリと抜けられた。


(あれ? 意図的に逃げられてる?)


 確証はないけれど、そんな気がする。女の勘とでも言おうか、本能がそう告げていた。


(めげないわよ)


 あからさまな体の接触が拒まれているのなら、少し接するに留まろう。少しだけ膝を向き合わせ、膝頭だけ布越しに密着させた。

 皇子の眉が、ピクリと動く。それでも、また体勢を変えて避けられることはなかった。


(よかった……)


 少しだけ安堵するも、これだけで満足しているわけにはいかない。

 まずは、なにか会話をしよう。どんな話題が皇子の気を引くか、チヨは承知している。


「今日は、アサギ姫とお会いになられたのですか?」


 ピクリ……と、わずかに、ほんの少しだけ表情が変化した。やはり、話題の選択は間違っていないと確信を深める。

 チヨ自身の話をするよりも、皇子自身の話を聞き出すよりも、アサギの話題が一番効果的だ。

 気持ちを掴むために、アサギが大事だという皇子の感情を利用してやる。


「先日お見かけした折り、大分お腹も大きくなられていましたわね。もうそんな時期に差し掛かったのねと、大変驚きました」


 皇子は、アサギの名を口にし、話を続けるチヨに怪訝な表情を向けた。

 皇子がどんな感情を抱いていようが、チヨの話に興味を持たせることには成功したのだ。もう無視はさせない。

 心の中でほくそ笑み、チヨは続けた。


「もう、いつ生まれてもよい頃に差しかかって参りましたわね。男の子でも女の子でも、皇子様とアサギ姫の子であれば、きっと美しき赤子でございましょう」

「……どういうつもりだ?」


 皇子の冷たく静かな問いかけに、チヨは惚けて首を傾げる。


「どういうつもり、とは?」


 皇子は、うんざりしたような溜め息を吐いた。


「我が知っていたチヨとは、随分変わってしまったものだ」


 皇子の言葉が、グサリと胸に突き刺さる。


(そんなこと言ったって、気持ちを切り替えなきゃ……どうにもならなかったんだもの。仕方ないじゃない)


 チヨは、袖の中で拳を握り締めた。

 皇子の声音からは、常にトゲを感じる。ここに来てからも、常に不機嫌だ。

 チヨが言葉を発する度、その不機嫌に拍車がかかっていく気がする。これからも皇子は、声をかける度に不機嫌になっていくのだろうか。

 正直なところ、話をするのが、怖い。

 相手はヤマト族の皇子。機嫌を損ねれば、命を失う可能性も無くは無い。

 慎重に丁寧にと思うのに、皇子が不機嫌になる原因がなに、全く分からないでいた。


(これが、アサギちゃん以外と接するときの皇子なのかしら?)


 否、少なくとも……アサギの侍女として仕えていたときのチヨには、もっと優しい対応をしてくれていた。


(なにが気に入らないのかしら)


 耳年増ではあっても、男性経験は無いから、皆目見当がつかない。


(そんなに私が嫌いなら、側室の話を受け入れなければよかったじゃないのよ)


 次第に、チヨの胸中には不満が渦巻き始める。渦巻くどす黒い感情は蛇のようにとぐろを巻き、腹の中に鎮座していく。チヨが抱く不満を餌に、腹の中に巣食う蛇は肥えて大きく成長を続けていくようだ。

 この蛇が発する思念に身を委ねてしまえば、楽になれるような気がする。でも、委ねたらチヨの全てを支配されてしまう気もするから、自我は保たねばと気を引き締めた。


(めげるなチヨ。諦めるなチヨ)


 自らを鼓舞し、皇子に対して向けている笑みを崩さない努力を続ける。

 皇子の瞳に、憂いとも嫌悪とも受け取れる色を見付けた。目は口ほどに物を言うとは、このことかと実感する。

 そんな哀れみを向けられるほど、今のチヨの姿は惨めに思われているのだろうか。


(悔しい……)


 妻木の頭領に命じられなければ、こんなことにはならなかったのに。

 チヨだって本当は、心から寄り添える伴侶が欲しかった。

 逞しい腕で力強く抱き締めてほしいし、優しく名を囁かれ、愛を告げられたい。そんな相手と出会いたいのだと、常々口に出して言っていた。


(それなのに、こんな……)


 いくら命じられた仲とはいえ、もう少し優しくしてくれてもいいのにと、不満が止まらない。

 チヨのことが気に入らないのなら、態度で表すのではなく、率直に言葉で述べてもらうほうが何倍もいい。


(私は、気に入られようと努力してるのに)


 長年思い描き続けた夢。自分だけの伴侶と中睦まじく命尽きるまで共にありたいと願う夢。それが叶わぬと理解してしまうと……やはり、虚しい。自らに対しての気持ちがないのは、とても辛い。

 頭領は愛が必要かと言っていたけれど、やっぱりチヨには愛が必要だ。

 でも、せっかく刺さった白羽の矢。この機会を物にしなければ。


(いつか、心も手に入れてみせるわ)


 チヨは意図して、あざとい女を目指すのだ。

 皇子の胸に手を添え、様子を伺いながら顔を近付ける。冷たい視線は注がれるも、避ける素振りは見られない。


「皇子様。どうか、チヨを受け入れてくださいませ」


 皇子からの返答は無い。

 見詰めていると、視線を逸らされ、フッと軽く目を伏せられた。

 拒絶。その二文字が頭に浮かぶ。

 腹の中に巣食う蛇が、また肥えた。


「……チヨが嫌なら、なぜ側室の話を受け入れられたのですか?」


 もう、聞かずにはいられない。なぜチヨばかりが頑張らねばならないのか。

 頭領の命令は、妻木とヤマトの絆を深めてより強固にするために、子を成せというものだ。チヨ一人ではできない。無理だ。

 無理。無理無理。無理なのだ。

 視界が歪み、目頭が熱くなる。溢れ出ようとする涙は、心からの叫びか。チヨの仲にある不快意識が、もう嫌だと、大きな声で悲鳴を上げ始めているのだろう。

 諦めるなと、叱咤する別の声もチヨの中にある。

 腹の蛇は、また太さを増す。

 皇子は胸に添えていたチヨの手を外し、膝に下ろした。そして、仕事で荒れているチヨの手をスルリと撫でる。突然の行動に慌てて手を引こうとするけれど、皇子はそれを許さなかった。

 荒れてカサカサする手が恥ずかしい。

 小さな嘆息ののち、皇子のまとう雰囲気が少しだけ優しくなる。


「話を受けたのは、チヨがもっと素直な娘だと思っていたからだ」


 素直な娘……。


(私……十分、素直で従順じゃない?)


 こうして、頭領の命令に大人しく素直に従っているのだから。


「あざとい女は、いくらでも居るのだ」


 皇子は今日この部屋へ来て初めて、自分からチヨと視線を交わらせた。


「チヨ。あざとい女にならなくていい」


(そんなことを言われても……)


 あざとくなる以外に、どうやったら男の興味を引けるのか、手段を知らない。


「健気に、役割を全うしようとする姿には、感銘を受ける」


 だが、と皇子は言葉を続けた。


「我は、心を込めてアサギのために働いていたときのチヨが、よいと思うたのだ。明るく元気で、周りに居る者達を笑顔にしてくれる。そんな温かな雰囲気を作り出すことができるのも、ひとつの才能だ。今は、そんな長所が隠されている。勿体ない……」


 手を引かれ、ゆっくりと視界が反転する。皇子越しに天井が見えた。


「心に着けた鎧を脱げ」

「……っ!」


 ばれていた。なんて恥ずかしい。穴があったら入りたいとは、今みたいな気持ちなのだろう。

 皇子に、強がって精一杯に虚勢を張る小心者のチヨを見透かされていた。


(いつから気付かれてたの?)


 おそらく、最初から。

 チヨを見詰める皇子の瞳は、哀れみを宿したままだ。


(その目は……やめて)


 そんな、可哀想な子という目で見ないでほしい。より哀れに、惨めになってしまうから。

 腹の中に巣食う蛇が、チロリと赤く細い舌を出す。


 ーー今だ。弱くなれ。弱みを見せろ。


 蛇の囁きか、もう一人の自分の声か。チヨは、その誘惑の囁きに従うことにした。


「鎧を……鎧を脱げば、チヨにも優しくしてくださいますか?」


 目尻から、スーッと涙が伝う。

 優しくされたい。愛されたい。

 アサギに向けられている愛情の一端でもいいから、チヨにもその愛情を向けてほしい。

 皇子は、伝う涙を優しく拭う。


「ああ。そなたも、アサギの大事な幼馴染みだ。大切にしよう」


 チヨは、目蓋を閉じた。


(違う……違うの。アサギちゃんの幼馴染みだからじゃなく、私を私として大事にしてほしいの)


 言葉にして、伝えることはやめた本心。

 また涙が一筋零れる。


「泣くでない」

「申し訳……ございません」


 皇子には、この涙がどんな意味を込めて流されているものなのか、知る由もないだろう。きっと見当違いな結論に辿り着いているはずだ。


 ーーさぁ、堕ちた。


 チヨは濡れた瞳に皇子を映し、男の両頬に手を添える。目蓋を閉じて、降ってくる口付けを大人しく受け入れた。

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