第18話 魔王、脅迫される

 フェンス脇で、他の四人に囲まれた桃田が頭を押さえながら呻き声を上げていた。


「桃田先輩、大丈夫ですか?」


「ん? ん……瀬良君か」


 混乱というほど取り乱してはいないみたいだ。どちらかといえば寝起きだろう。夢の途中で強制的に起こされて、虚妄と現実の感覚が曖昧になっているのだ。私もよくある。


「何があったか思い出せますか?」


「……登校中、だな。いつも通り自宅を出た後、いきなり目の前に金髪の女が現れて戸惑ってしまった。私は英語が話せないからな。そこからは……よく覚えていない。ここは中央公園だろう? どうして私はこんな場所にいる? 何故キミたちに囲まれているんだ? 私の方が話を訊きたいのだが」


 強引に立ち上がろうとしてよろめいた桃田の身体を鬼頭が受け止めた。


「今は無理そうだな。鬼頭、家まで送ってってやれ」


「承知した」


 あっさり承知したとか言うなよ。相手は女子だぞ? 蒸し返して悪いが、家まで知ってるとか完全に恋人関係みたいだな!


「ひとまずは一件落着だな」


「いえ、そうでもありません。女神の目的は《勇者》候補の確保。保管している『空白空間』にいなくなったと知れば、また何度でも桃田さんを連れ戻しに現れるでしょう」


 公園から出て行く鬼頭と桃田の後ろ姿を見送りながら、龍之介と魔理沙が言葉を交わす。


 確かにその通りだ。いつ地球を滅ぼすかなんてのは女神の匙加減である。ならば滅ぼす直前に連れ戻すことだってできるのだ。女神本人を何とかしない限り、解決には程遠い。


 っと、しまった。約一名、状況に取り残されてしまってたな。


「須野さんも、ありがとね。司書の仕事中に急に呼び出したりしちゃって」


「あ、ううん。なんだかよく分からないけど、お役に立てたのならそれで……」


 須野さんからすれば、行方不明になっていた先輩を一緒に捜してほしいと頼まれ、捜し当てたら捜し当てたで奇妙な空間から引っ張り出される光景も目撃したはずだ。説明するのも面倒だし、事情を詮索しないでくれるだけでも正直ありがたい。


「にしても、まさか『空白空間』がこんな場所にあると……は?」


 足元を見下ろして絶句した。


 まるで某有名RPGに出てくるモンスターが如く、地面から生える白い手が私の足首を掴んでいたのだ。


「セラマオ!」


 最初に異変に気付いたのは龍之介だ。咄嗟に駆け寄り、私の方へ手を伸ばしてくる。


 だが間に合わない。未だ生に未練のある亡者のような手は、私の身体を力任せに地中へと引きずり込んだ。


「ゴブッ!」


 龍之介の手に指先すら触れることなく、私の身体は完全に地面の中へ潜ってしまった。それでもなお下降する勢いは止まらない。


「ボボボボボボ!」


 いや、ボボボボじゃない! 底なし沼で溺れた気分になっていたが、別に呼吸ができないわけじゃない。ここは『空白空間』の中なんだ!


 降下する勢いで顔の肉を引き攣らせながらも、私は頑張って足元へと視線を移した。


 予想通りだ。例の女神が私の足首を掴みながら、『空白空間』の底へ底へと潜り続けているのが見えた。


「このッ!」


 反対の足で女神の手首を蹴りつける。が、タイミングよく解放されてしまった。


 前方に移動した女神は、昨日と同じ顔で私を嘲笑ってくる。


「こんにちは、《魔王》さん。実に一日ぶりだわね」


「……?」


 いや、前言撤回だ。この女神、妙に落ち着いてやがる。感情に任せたまま喚き散らす醜悪な態度とは打って変わって、本日の女神は比べ物にならないほど心に余裕があるようだった。それはもう、本当に同一人物なのか疑っちゃうくらいに。


「昨日はよくもまあ『空白空間』から抜け出せたものね。ま、どうせ外にいた仲間に出口を開けてもらったんでしょうけど」


 しまった。ここにコイツがいるということは、寧々子ちゃんの存在も露見してしまったと考えた方がいいだろう。今後は五人いっぺんに捕まらないよう気をつけなければ。


「ふん。昨日の駄々っ子が随分と落ち着いたじゃないか。この一日で何か心境の変化でもあったのか?」


「頭を冷やしたのさ。冷静に考えてみたら、どうあっても私の方に利があるんだし。もちろんバカにされたことは今でも腹が立ってるんだけど」


 厄介だな。こういう手合いは激昂すると猿並みに知能が落ちる反面、落ち着いてしまうと一気に頭が冴える。知能指数のギャップが激しいからそう見えるだけかもしれないが、冷静さを取り戻した女神に私が勝てる道理はない。


 少しでも相手の優位性を下げるため、私も余裕があるように装いながら口を開いた。


「で? 私だけ『空白空間』に閉じ込めてどうするんだ? 仲間が見ていたぞ? ここは時間の流れが遅いみたいだし、すぐに助けに来てくれるはずだ。人間並みの能力しかない今の女神なんかワンパンだぞ、ワンパン」


「あら、何も知らないのね。『空白空間』は入り口を開けたままにしておけば、時間の流れる早さは外と同じなのさ」


「あっ」


 思い出した。寧々子ちゃんが隙間から顔を覗かせた時、別に超スピードで動いているわけではなかった。


 上も下もない真っ暗な空間の中で、引きずり込まれた方向へと首を向ける。


 まるで夜空に瞬く一等星のように、遠くの方に光が見えた。おそらくアレが出口だ。光が徐々に大きくなっていることからも、ゆっくり引き寄せられていることが分かる。誰かが『空白空間』の中へ手を伸ばし、私を引き上げようとしているのだろう。


 全身を翻して慌てて光の元へ泳いでいこうとするものの、即座に阻まれてしまった。


 女神が拘束魔法を放ち、私の身体の自由を奪ったのだ。


「くっ……」


 悶えている間にも、女神は私の背後へと回り込む。


 そして私の首筋へと両手を回してきた。


「気づいているのなら話が早いわ。確かに今の私には大したことはできない。でも、貴女の細い首ぐらいなら簡単にへし折れるわよぉ」


 女神の爪の先が、首の薄皮一枚を抉った。


 動きが封じられている今なら、別にへし折る必要もない。絞め殺したり、刃物で刺し殺したりもできる。完全に命を握られている状態だった。


「だったら早く私を殺せよ! 魔力を地球に持ち込んだ私たちが憎いんだろ!? だから一人ずつ捕らえて殺そうとしているんじゃないのか!?」


「今は殺さない」


 耳元で囁いた女神が突然、背後から私に抱き着いてきた。


 そのまま両腕を蛇のように這わせ、無遠慮にブレザーの中を弄ってくる。


「な、なにするんだ! くすぐったいだろ!」


「あらあら、良い反応ね。あんまり女神が言っちゃいけないことだろうけど、実は私、人間が好きではないのよねぇ。でも、お人形さんのように可愛らしい貴女なら別。生ごみみたいな中身は捨てて、このままはく製にしたいくらいだわ」


「離せよ!」


 どっかの誰かさんみたいなことを言いつつも、女神のセクハラは止まらない。それどころかさらに密着していろんなところを撫でてくる。胸とかお尻とかなんて、触れられただけで鳥肌ものだ。私は幼女に触る趣味はあっても、熟女に触られる趣味はないんだよ!


 つーか背中に当たるふくよかな感触が恨めしい。女神は人間が思い描く理想形の肉体を有しているので仕方が無いのかもしれないが、奴が意図していないところで嫌がらせが進行しているのは腹が立つな。


 魔法で拘束されているため、私は早々に抵抗することを諦めた。


「で、何のつもりだよ。私の身体を堪能したいから引き込んだわけじゃないだろ? ってか、顔や身体なら魔理沙の方が良い物を持ってると思うけどな。あっちにしろよ」


「ふん。あの女は好きになれそうにないのさ。無駄に頭が良いし、ネコ被ってそうだし。周りから一歩引いて状況を俯瞰している態度も鼻につく。肉体は他の女神と大差ないしねぇ」


 すげえ、女神からのお墨付きかよ。


「対して貴女は私よりおバカさんっぽいものねぇ。身体の方も幼すぎず、かといって成熟しているわけでもなく。女神にゃいないタイプだから、愛玩動物みたいに可愛がれるわぁ。中身は本当にクソだけど」


「無能に言われたかねーよ!」


「うふふ、おバカさん」


 ダメだ、挑発に乗ってはいけない。


 にしてもコイツ、本当に昨日とは別人のようだ。自分の優位性のおかげで余裕を取り戻したからなんだろうけど、情緒不安定にもほどがある。私ですらこうはならないぞ。


「なあ、女神。一つ訊きたいんだけど、お前は本当に地球を滅ぼすつもりなのか?」


「それを決めるために貴女だけを引き込んだのさ。貴女、私と取り引きするつもりはない?」


「は?」


 何を言っているんだ? 取り引き? 女神が私と? 何の得があるというんだ?


 真意が分からず首を傾げていると、身体を弄るのをやめた女神が私の肩に手を置いた。


「貴女は《魔王》の概念体から分裂した魂なんでしょう? なら八百長させてくれないかしら?」


「八百長?」


「私が勇者を送り込んだ世界の魔王に、素直に負けてくれと頼んでほしいのよ」


 なるほど、そういうことか。


 落ちこぼれだからこそ、優秀な《勇者》候補が必要だった。しかし彼らを見繕うのがいずれ不可能となってしまう今、魔王の方が弱体化してほしいと願うのは当然だ。《魔王》の分裂体である私を脅迫しない理由はない。


 だが二つほど勘違いしているな。


「まず、今のこの身体が概念体と繋がっているわけじゃない。死亡して概念体に還った後でしか情報を共有できないんだ。ここで取り引きしたとしても、実現できるのはもう少し先の話になるぞ」


「なら、貴女が今ここで死ねばいいんじゃないかしら?」


 女神が再び私の首に手を掛ける。


 確かに概念体に還る事実は変わりないので、いつ死のうが関係ないのだが……。


「もう一つ。各世界の魔王は概念体が送り込んでいるわけじゃないぞ。魔王とは自然発生するものなんだ。だから概念体が取り引きに承諾したからといって、お前が攻略しようとする世界の魔王が素直に応じるかは別の話だぞ」


 そう。実は各世界の魔王は、《魔王》の概念体と関りがない。


 私みたいに概念体から意図的に分裂した魂は別だが、魔王とは本来、最も強大な力を持った魔族個体のことを指す。もしくは魔族を統一し、その頂点に立った者のことを。概念体とはあくまでも、その魔王が死した後に縋る拠り所みたいなものなのだ。


 故に概念体から各世界の魔王に命令が下る、なんてことはない。あるのは助言くらいだ。


 勇者にわざと負けろなんて命令、誰も聞くわけがないだろう。んなもん目に見えている。たとえ相手が概念体であろうと、誰かに命令されて「はい、そうですか」と素直に従う奴が魔王になるはずないんだから。


 しかし女神は、それすらも問題なしと言わんばかりに囁いた。


「貴女は今、こうしてここにいる。なら勇者が召喚された世界にも同じように《魔王》の分裂体を送り込んで、手助けしてあげればいいのさ。もちろん、勇者側のね」


「そんなこと……」


「取り引きに応じるのならば地球は滅ぼさないであげる。地球に魔力を持ち込んだこともチャラにしてあげるわ」


「…………」


 魔王である私が勇者の手助けをするだって? バカバカしい。そんなこと、天地がひっくり返ったってあり得ない。


 はずなんだけど……。


 迷ってしまっている自分がいるのも事実だった。


「そもそもだ。お前は本当に地球を滅ぼすことができるのか? いや能力的な問題じゃなくてさ、神界のルールに違反してまでやることじゃないだろ。腹が立ってるのなら、普通に私たちを殺すだけに留めればいいじゃないか」


「あら、なに? そんなことを心配しているの?」


 女神が私の頭を両手で鷲摑みにする。すると同時に、女神の作ったイメージ映像が私の頭の中に流れ込んできた。


 その風景は地上と同じ。つまり中央公園のグランドだった。


 ルールは二つ。公園内にある物を持ち出してはいけないし、破壊してはいけない。


 グランドのど真ん中に突っ立っている女神が、ゆっくりと端の方へ歩いていく。フェンス脇で屈むと、小石を一つ拾い上げた。周囲に誰もいないことを確認した女神は、怪しげな笑みを浮かべながら小石を握り潰した。


「その小石が地球さ」


「そんな……」


 私は戦慄した。こんなん、バレるわけがない。


 地球は田舎と称した通り、星の数ほど存在する世界の中でもだいぶ端っこの方にあるのだろう。そんな小さな世界を潰したところで露見するとは思えない。この女神が悪事を働くだろうと事前に予想をつけて、誰かがどこかから監視でもしていない限り。


「日本には、こんな格言があるわ」


 再び女神が耳元で囁いた。


「『バレなきゃ犯罪じゃないんですよ』」


「くっ……」


 確信した。コイツは間違いなく地球を滅ぼす。


「私の要求は二つ。貴女はすぐに自死して概念体に還りなさい。そして各世界に分裂体を送り込み、勇者の手助けをするの。そうすれば地球は平和のままさ」


「ちょっと待て。お前は《勇者》候補を集めているんだろ? それはどうするんだ?」


「続けるに決まってるでしょ? 本来なら一年間で数人程度を異世界に送り込んでいれば十分だったけど、次第に魔力が広まっていくなら確保しておくに越したことはないわ。少量なら取り除けばいいだけだし、地球には良質な素体が多いしね」


「…………」


 そうだ、そもそも前提から間違っていた。


 女神の仕事は異世界へ《勇者》を送り込むこと。本人の意思にかかわらず、平穏に暮らしていた人間を一方的に未知の世界へと放り出すなど許されていいわけがない。確保に走るというのなら短期間で行方不明者が爆発的に増えるだろうし、何より数の問題じゃないんだ。


 異世界を救うための《勇者》召喚というシステムそのものが、人間にとっての平和から程遠いものだと感じた。


「私が力を完全に取り戻すまでの数ヶ月くらいは猶予をあげるわ。それまでに親しい人たちと別れを済ませなさいな」


 魔理沙の見立てでは地球を滅ぼすまでに二年はかかると言っていたが、それはあくまでも神界に露見しないよう準備を進める場合だ。女神が見せたイメージ通りなら、そんな準備も必要なく、力が戻るだけで実行可能だろう。


 女神が離れるのと同時に、全身を拘束していた魔法も解けた。すると身体が自然と出口に向かって浮上し始める。


 下方から見上げる女神は「良い返事を待ってるわ」と唇を動かしながら、とても女神には見えない醜悪な笑みを浮かべていた。

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