3_夏めく日差し、その影で

 被害者発見から捜査が進み、密度の濃い時間が過ぎた。もうずいぶんと時間が経ったような気もするが、あの廃ビルでの出来事はたった一日前の出来事だ。

 

 そうして僕は今、病院に来ている。現場近くの総合病院だ。ここに、被害者が居る。第一発見者であることから、被害者担当になったのだ。

 

 受付で警察手帳を示し自分の身分を明かしてから、被害者、三宅猫の病室を尋ねる。エレベーターで上がって、少し歩いた先に彼の病室はあった。

ノックをするも、中から返事は無い。まだ目を覚ましていないのだろうか。それとももう目を覚ましていて、どこかに出かけているのだろうか。おそらく前者だろうなとあたりを付けて、それでもすぐに踵を返す気にはなれなかった。別に見慣れないものではないはずなのに、どうしてかあの憔悴しきった彼の顔が忘れられなくて、せめて穏やかに眠っている顔が見たいと、そう思ってしまった。

 やや躊躇ってから、病室のドアを開ける。日の当たる南側の個室だ。すぐに、ベッドに横たわる青年が視界に入った。念のため一言声を掛けてから、病室に足を踏み入れる。想定通り返事は無い。できるだけ静かに、ベッドに近づき横に立つ。

 やはり、彼はまだ眠ったままだった。やつれてはいるが、それでも昨日、あの廃ビルで見た顔よりはずっと穏やかなそれに、どうしてか、酷く安心した。


 しばらく、特に意味もなくその顔を眺めていた。


カチリ、ふと、ずっと鳴っていたはずの時計の音が耳に入る。それで自然と、今日はもう帰るか、と思った。

 というか、そもそも被害者の意識が無いのであれば情報は得られない。眠っているということが分かった時点で撤収するべきだったのだ。僕らしくないな、一人苦笑してから、体の向きを変えようとしたとき、視界の端で彼の手がピクリと動いた。慌てて振り返る。

彼の目が、うっすらと開いた。


「君、目が覚めたの?」


 驚きのあまり上がってしまいそうな声のボリュームを意識して落としながら、それでも体は冷静にナースコールを押していた。


「え……っと」

「大丈夫? 昨日……廃ビルでのこと、覚えてる?」


 できる限り刺激しないように、穏やかな声で話しかける。少しでも情報を得られないかと思っての行動だったが、彼は困惑したような表情を浮かべるばかりだった。やはりまだ意識がはっきりしていないのだろう。 

 ナースセンターの方から常よりも大きめな足音が近付いてくる。今情報を得るのは難しいだろうと諦めが浮かんだ時、彼が口を開いた。


「その……すいません、あなたは、誰、ですか?」


 ほぼそれと同時に、病室のドアが開く。近付いてくる看護師さんたちにベッドの横を譲って、邪魔者であろう僕は一旦病室から退散した。

 

 報告のために本部へ戻りながらも、僕の頭には彼の最後の発言がずっと残っていた。一応、僕と彼はあの時廃ビルで顔を合わせている。混乱していたのか、それとも単に覚えていないのか。

 それと、三宅猫発見時、彼が掠れた声で口にした僕の名前らしき音。

 その二つが、妙に引っかかっていた。

 

 三宅猫の意識が戻ったことを報告すれば、本部は浮足立った。彼に事情聴取が出来れば、すぐにでも犯人逮捕に踏みきれるだろうという目論見があったからだ。しかし、その数時間後三宅猫について衝撃の事実が分かった。

 彼は、記憶を失っていたのだ。捜査本部では、彼が意識を取り戻せば捜査はすぐに進展するだろうと期待していただけに空気が沈んだ。

 今は地道に聞き込みなどの情報収集を続けている最中だが、容疑者は三名のまま、いずれも決定的な証拠は得られていない。

 

 そして、僕は再び、彼の入院する病院へ来ていた。昨日と同じように彼の病室へ向かう。コンコン、扉を軽く叩けば、すぐに答えがあった。


「どうぞ」


 やや掠れていて、そしてやや不安げ。そんな声でも妙に安心したのは、やはり先日死亡一歩手前のボロボロな様を見たからだろうか。

横開きのドアを開ければ、ベッドに体を起こして座っている三宅猫が居た。顔色は良いとは言えないけれど、あの時に比べればずっと良い。


「こんにちは。君にとっては、初めまして……かな」

「あ、えっと……この間、僕が目を覚ました時にいらっしゃった方、ですよね?」


 その回答に驚いて、小さく目を見張って見せる。


「すごい、よく覚えてたね」

「……どうも」


 正直に褒めると、彼はやや居心地悪そうに頭を下げた。


「そうだ、自己紹介しないとね。……そっち、行ってもいいかな?」


 問いかければ、慌てつつも了承の意が返ってきた。続けて、「良ければ使ってください」と丸椅子が示される。


「ありがとう。それじゃあ失礼して」


 椅子に腰かけながら、胸元から警察手帳を取り出す。


「まずは自己紹介だね。僕は烏宗田千蔭。警察官なんだ」


 取り出したそれを開いて見せれば、今度は彼が驚く番だった。


「そう、だったんですね」

「家族や友人、とかじゃなくてごめんね。だからまあ、言ってしまえば、僕は捜査の一環でここに来ているわけなんだけど」


 そう言えば、彼は神妙に頷いた後に、すぐに申し訳なさそうな顔になった。


「すいません、でも僕……」

「大丈夫、分かってるよ。記憶を、失っているんだよね?」


 確認も合わせてそう問えば、彼は申し訳なさそうな顔のまま頷いた。


「目が覚めてからのことしか、覚えてなくて……自分の名前すら、分からなかったんです。酷い有様ですよね」


 そう言って薄く笑うその表情は、どこか自嘲気味だ。


「そんなことはないさ。あんな目にあったんだ、記憶を失ったって、おかしくないよ」

「そういうもの、ですかね」

「そういうものだよ」


 言いつつ、彼の顔色を窺う。彼の表情の、自分自身を嘲るそれは少し薄くなっていた。


「確認なんだけど、自分に関する記憶……例えば、名前とか、年齢とか生まれとか、数日前何をしていたかとか、そういったものは全て失っている、ということでいいんだよね?」

「そういうことになりますね」

「なるほど、分かった、ありがとう」 


 そう言って、椅子から立ち上がる。その拍子に椅子が擦れて、がが、と音が鳴った。


「あんまり長居しても良くないだろうし、今日はこれでお暇するよ」

「いえ、そんなことないです」


 身振りも交えつつ否定する彼に「警察官と二人きり、っていうのは。どうしても気疲れしちゃうでしょ?」と笑って返す。


「君の担当は僕になったから、明日からも何回かここに来ることになると思う。その時は、よろしくね」


 続けて言えば、彼は安心したような表情で頷いた。


「じゃあ、僕はこれで」


 そう言って立ち去ろうとしたその時、「あの」と声がかけられる。三宅猫からだった。


「これは、完全に私情なんですけど」

「うん?」

「入院中って、すごく暇で。それに、誰か来てくれたとしても、こっちは分からないじゃないですか。だから、お互い気を使ってしまって疲れるんですよね。だから、烏宗田さんみたいな人が来てくれると、ありがたい、っていうか」


 少し口籠ってから、彼は続けた。


「お時間あるときで良いので、ここでちょっと僕と話していってくれたら、すごく助かります。……ほら、もしかしたら、何かのきっかけで、記憶が戻るかもしれないし」


 その取ってつけたような理由に、思わず笑ってしまった。僕の反応に対して、三宅猫がおろおろし始めたのを見て、笑いを収めていく。


「ごめんごめん……うん、そうだね。そしたら、僕も暇を見てここに来るようにするよ」

「ほんとですか! それは……すごく、うれしい、です」

「うん、そっか。それじゃあ今日はこの辺で。また近いうちに、ここに来るね」


 そう言って、今度こそ病室から出る。扉を閉めようと振り返ったタイミングで、再び声を掛けられた。


「お仕事、頑張ってください」

「ありがとう、頑張ってくるよ」


 言って、軽く手を振ってから扉を閉める。閉め切って、廊下を歩いて、エレベーターに乗ったところで一つ息を吐いた。


 記憶を失っていると聞いていたから、もう少し動揺しているかと思っていた。想像以上に落ち着いていたのは良かったが、本当にきれいに記憶を失ってしまっているらしい。これは情報源としては期待出来なさそうだ。これを改めて報告しないといけないことを考えると気が重かった。

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