第22話 動くランドマークはマジで勘弁してほしい
鉄球でビルを解体する映像を見たことがあるが、あの鉄球がそれて当たればあんな感じになるだろうか。ビルの一辺が崩れて、瓦礫と煙をガラガラと吐き出す。
その向こうで、なにかがうごめく。
「……は?」
必然的に、自転車をこぐ足を止めてしまっていた。
ゆっくりと姿を現したその鬼は、特撮ものでも見ているのかと思うくらいに巨大だった。
人鬼も充分、巨人と呼ぶにふさわしいが、そんなものは比較にもならない。
空を仰ぐように見上げたその一本角は、ビルの四、五……六階くらいの高さにある。肌はやはり赤黒く、筋骨隆々で、とにかくその太すぎる剛腕が目についた。もしもあんな腕で殴られたら、かすっただけで消し飛ぶだろう。
「ちょっと待て、なんだあれ……あんなん出てくるなんて聞いてないぞ!」
「うわあ……多分あれ、剛鬼だね」
不意に自転車が揺れたのは、夏希が荷台から飛び降りたせいだった。
まだ距離が離れているせいか、事態をよく飲み込めていないのか。周囲の通行人たちは慌てて逃げ出すことはせず、少し引き気味に巨大な鬼の様子をうかがっている。
「退治したことあるのか?」
「まっさかー。ひーちゃんの説明で聞いたことがあるだけだよ」
大太刀を背負い直しながら隣に来た夏希が、苦笑する。
「確か『らいこう』が確認できてる中で、サイキョーの鬼だったと思うよ」
身震いする俺の前で、剛鬼が一歩、前進する。
たったそれだけのことで、重い地響きと砂煙が上がった。
動きは遅いが、その一歩がまたぐ距離は大きかった。またも悲鳴が上がり、たくさんの人がこちらに向かって逃げてくる。
「頼さんに連絡はつかないのか?」
「うーん、それがねー、今かけてるんだけどつながらなくて」
「さすがにあんなのと戦うのは……無理だよな」
下手に近づいたところで踏みつぶされるか、崩れた建物の下敷きになるのが関の山だ。
逆方向に流れていく人波の中、これ以上二人乗りで進んでいくのは危険だろう。俺は道の端に自転車をとめた。スマホを耳に当てたまま、渋い顔をしている夏希を手招きする。
「研究所の方に行ってみよう。鬼ごっこアプリの方はどうなってる?」
「相変わらずだよ。あちこちに点滅が出たまま!」
「こんなとんでもない鬼が出てきたくらいだから、アプリの点滅もバグじゃないんだろうな……」
剛鬼のいる位置を大きく迂回して走り出し、歴史生物科学研究所方面に向かう。
「それにしても……一体なにが起こってるんだ? みのりが研究所に戻ったんだから、次元の壁は安定するはずじゃないのかよ」
人の流れに逆らいながら、ランドマークのように存在する剛鬼の背側面を見上げる。
いくら動きがゆっくりだからといって、急に方向を変えてそのでかい腕や足を延ばされたら、それだけで射程範囲に入ってしまう。
「なるなる! 前!」
夏希の声にはっとして、目の前に意識を戻す。
目線の高さよりさらに高い位置で、空間が黒くゆがんでいる。
まさに次元の裂け目から鬼が出てこようとした瞬間に、夏希は跳躍していた。
空中で抜刀すると同時に、次元の裂け目ごと餓鬼を斬り伏せる。
逃げていく人たちは中空に発生した黒いゆがみと煙、そして突然飛び上がって大太刀を振るった女子高生を避けつつ、驚きの表情を浮かべていた。
「あ、ありが……」
「行こう!」
夏希は人目を避けるように、俺の手を引っ張った。
再び並走しながら隣を見ると、夏希の顔がほんの少しだけ赤い。人目につかない前提だったこれまではともかく、なにも知らない人たちに鬼退治している姿を見られるのはさすがに恥ずかしいのかもしれない。
まぁその気持ち、俺は痛いほど分かるけど。
「なるなるも升、すぐ出せるようにしておいた方がいいかも」
「あ、ああ、そうだな」
言われて、走りながらカバンのジッパーを開ける。
満タンの升を出して走ると豆をこぼしそうなので手に持ってはおけないが、ただでさえ豆は初動が遅い。せめていつでも投げられる態勢を整えておく。
少し離れた場所から、パトカーの音が聞こえてきた。
研究所に近づけば近づくほど、すれ違う人の数は減っていった。
剛鬼が一歩動くごとに上がる地響きを肌で感じる。走りながらも、剛鬼の動向は常に警戒しなければならなかった。
「なるなる、ごめん」
鬼ごっこアプリを確認しながら走っていた夏希に、急に謝られる。
「どうした?」
「もしかしたら、ハズレルート引いちゃったかも」
夏希の言葉の意味はすぐに分かった。
鬼退治などしていなければ、そいつが鬼の一種だとは思わなかったかもしれない。
無数にあった点滅の一つであろう、見たことのない四つん這いの怪物が進行方向をふさいでいる。
「……あいつも大型鬼、ってやつか?」
小豆色と黒の縞模様に、しっぽの先まで続く黄ばんだたてがみ。虎のような姿をしているが、身体の大きさだけでいえば象くらいある。
サーベルタイガーのような牙と黒ずんだ爪、そして額にはやはり二本の角。
「中型かな? 剛鬼と比べたら」
俺が升を取り出すと同時に、夏希も背中の大太刀を抜く。
この通りを抜ければ、歴史生物科学研究所はすぐそこだ。
「なんて鬼だ?」
「分かんない! 前に聞いたかもしんないけど、忘れちゃった!」
おしゃべりをしていられたのはそこまでだった。
赤虎の鬼が低くうなり、一瞬だけ身を縮める。まばたきの直後、赤虎はその巨体からは想像もできない速さで突進してきた!
「ぅわっ!」
とっさに真横に跳んでよけたが、通り過ぎた風が前髪を巻き上げていく。
生ぬるい吐息が、肌をなめたようだった。
十メートル以上は離れていた距離を秒で詰められ、血の気が引く。
「なつ……っ!」
赤虎をはさんで対岸に消えた夏希の方を気にしている余裕もなかった。
突進の勢いで数メートルほど行き過ぎた赤虎が、アスファルトを鋭利な爪でひっかきながらしっぽをくねらせ、こちらに方向転換する。
考えるよりも早く、俺は雑につかんだ豆を投げつけていた。
同時に赤虎の正面、直線軌道上から逃れる。的が大きいのでほぼ全弾が命中したが、足を止めることはできなかった。身体中に小さな穴を開けつつも、赤虎が黒い煙を率いて飛び出してくる。
「ひっ……!」
「なるなるっ!」
喉の奥から引きつった声が漏れた瞬間、夏希の大太刀が赤虎の後ろ足を斬り裂いた。
だがその巨体ゆえか、完全に動きを封じるまでには至らない。こちらに伸びてきた前足を、間一髪で回避する。
いやいやいや無理だろこれ。
直線的な攻撃パターンは人鬼と似ているが、その大きさも、スピードも、方向転換の早さも、すべてがこの赤虎の方が上だ。
動きを止めたら殺される。
死にたくない。ただその一心で素早く後ずさりながら、赤虎の顔面目がけて豆を投げつける。
これはさすがに効いたらしく、赤虎は咆哮を上げて大きくのけぞった。その隙に夏希は再度、左の後ろ足を斬りつけていた。少しでも赤虎の機動力を奪わないことには、息をつく間すら与えてもらえない。
グガオオォオォオオォッ!
「うわ……!」
「きゃあっ!」
顔面と左後ろ足から黒煙を上げながら、赤虎が発した咆哮に思わず耳をふさぐ。
ゲームではモンスターの咆哮で動きが止まったりダメージを受けたりするが、あれはマジだと実感する。
本能的に身体がビビる、とでも言えばいいのだろうか。ビリビリと震える空気に、ぶわっと鳥肌が立つ。
「あっ……」
身体の硬直が解けた時にはすでに、空に向かって咆哮を上げた赤虎はこちらに身を乗り出していた。
夏希が片足を痛めつけてくれたおかげか、派手に飛びかかってはこない。
いや、そもそも赤虎の巨体では、飛びかかる必要すらなかった。
黒い爪が、高い位置から降ってくる。
バッ、と目の前に血がしぶいた。
ただそれだけで、その瞬間は痛みもなにも感じなくて。ただ額を裂かれたんだということと。
ヤバイ、ということだけを自覚する。
いや、死ぬ。
これは本当に死ぬ。
「なるなる――っ!」
血しぶきが、スローモーションで視界を汚していく。
その汚れた視界の中で、上から下へと大きく流れた赤虎の動きが、左から右への流れに変わる瞬間を見届ける。
引き延ばされた一瞬の中で、未来が見えた。
右の爪に額を裂かれ、左の爪に薙ぎ払われて、俺は死ぬ。
夏希の悲鳴が聞こえて、目の前が暗い血の色、一色に染まった。
ガアアアアアアアッ!
赤虎の叫び声がひどく遠く聞こえた。
なにも考えられず、身体が動かない――
「ぼさっとするな、下がれ!」
唐突に耳に飛び込んできた第三者の声に、ハッと我に返る。
考えるよりも早く声に突き動かされて、飛ぶように後方へ下がる。
焦点を取り戻した目に、鋭い刃と、すらりとしたスーツの後ろ姿が飛び込んでくる。
「ひーちゃん!」
赤虎の巨体の向こうで、夏希が歓喜の声を上げる。
赤虎は、俺を切り裂くはずだった左の前足から盛大に出血していた。頼さんは赤虎からいっさい目を離さずに刀を構え直した。
「頼、さん……」
「早く逃げろ。夏希もだ。こいつの始末は俺がする」
「えっ……」
赤虎が低くうなりながら、黒煙をくすぶらせている顔面にしわを寄せて牙を剥く。
左の前足と後ろ足の負傷によって動きは鈍ったが、それでも速い。俺はさらに距離を取り、頼さんも無理に受けずに赤虎の突進をかわした。
「待って待って! 逃げろってどういうこと? 鬼が出てるのって、ここだけじゃないよねっ?」
「ああ、そうだ。緊急事態だから逃げろと言っているんだ。剛鬼はもとより、この猛鬼だってお前たちに任せていい相手じゃない」
「緊急事態って、一体なんっ……!」
赤虎――頼さんが言うところによると、猛鬼の身体が素早く反転する。
距離を開けても間に合わない。
とっさにそう判断し、俺は後先を考えずその場に身を伏せた。遠心力に乗ったしっぽが、後頭部すれすれを勢いよく薙ぎ払っていく。
「みのりの妖力が、暴走した」
頭上の風圧にもかき消されずに届いた言葉に、心臓が止まりかける。
それでも足を止めてはいられない。
反転した猛鬼の注意が夏希の方に向いた隙に、身体を起こしてできるだけ距離を取る。
『あれは私たちお針子のなれの果てよ』
今のこの瞬間に注意を注ぎ、動き続けながらも、ニュースで見た海岸沿いの死体が脳裏をよぎる。
「暴走って! まさかみのりも鬼化して……!」
頼さんは手にしていた刀を、夏希を襲おうとする猛鬼に向かって投げつけた。
くぐもった音がして、刃が右後ろ脚の付け根あたりに突き刺さる。猛鬼の叫び声が上がった瞬間、刀は青白い光に転化して、矢のように頼さんの手元に還っていく。
「鬼人化したみのりの妖力が、次元の壁のあちこちに大きな傷をつけている。このあたりにいたら無限に鬼が湧き出てくるぞ」
「みのりは! どこにいるんですか! 始末されるんですかっ?」
頼さんは答えなかった。
答えの代わりに、手の内に還る直前で形を取り戻した刀の柄が握られる。
「ひーちゃん! 鬼がタイリョーハッセイしてるならなおさら逃げらんないよ! こういう時のための私たちでしょっ?」
「大人の不始末で、お前たちを死なせるわけにはいかないと言っているんだ」
再びこちら側に牙を剥いた猛鬼の前に、頼さんが躍り出る。
俺や、夏希を猛鬼の攻撃から守るために。
自ら射程内に飛び込んできた獲物を、猛鬼は見逃さなかった。ほぼ予備動作なしで突っ込んできた猛鬼の牙と、受け流してかわそうとした頼さんの刀が衝突する。
「分かったら早く行け!」
牙による致命的な一撃を防いでも、突っ込んできた猛鬼の巨体そのものを避け切ることはできない。頼さんは刀ごと猛鬼の肩にはじかれて、アスファルトの上を転がった。受け身を取ったのか、すぐに態勢を立て直して再び猛鬼に立ち向かっていく。
「でも、ひーちゃ……っ!」
「夏希!」
自分自身の迷いを断ち切るように、俺は声を張り上げた。
大太刀を構えて頼さんに加勢しようとした夏希がびくりと動きを止める。
「……行こう」
込み上げてくる悔しさをかみ殺して、俺はその一言を絞り出した。
俺たちがここにいる限り、頼さんは満足に戦えない。
俺が動き出すと、夏希は仕方なくといった風についてきた。相当後ろ髪をひかれているようだったが、あえて無視する。
やっと奮い立ってここまで来たのに、またこれか。
誰かを助けたいとか、守るために戦いたいとか。本当にしたいことをするには弱すぎて。
結局、俺は子供で、無力で、また守られる側に回ってしまう。
頼さんと猛鬼を背後に残して、俺は夏希と一緒にその場から逃げ出した。
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