大正モダンクトゥルフ 帝都虚構神話 浅草百二十階 〜泡沫の記憶塔〜 前編

松田鶏助

序章  観測者がやってきた日


雲を凌ぐほどと称えられた浅草凌雲閣。

浅草の真ん中に聳え立つ十二階建ての塔、通称「浅草十二階」と呼ばれるその建物は明治期の高層建築ブームに乗って建てられた。

日本で初めて電動式エレベーターを備えた高層建築は、明治の目覚ましい技術発展の行く末を示すように蒼天を衝いた。

目玉は塔から見渡す景色だけではない。塔の上階では美術品の展示が行われ、特に浅草の芸者百人の写真を集めた美人コンテストは、それはもう盛りあがったという。

しかし、一八九〇年の出来上がった当初こそ物珍しさに多くの人が訪れたものの、十年も経てばただの塔。客足は減り、明治の終わりには経営難に陥った。とはいえ、一度建てた馬鹿でかい塔をすぐに壊して更地にすることもできず。浅草十二階はじりじりと衰退の中、虚しく突っ立っていることしかできなかった。

さて、その日もいつもと同じはずだった。

まだ残暑が続く九月のはじめ。浅草十二階の周辺には朝から飲んだくれる酔っ払いや、朝寝から目覚めて間の抜けたあくびをする娼婦が昼の光に目を細めていた。

浅草十二階にも、寂れているとはいえ多少の人出はある。

心もとなく揺れるエレベーターの中には逢引きをする男女や物見遊山に訪れた観光客などに紛れて、十歳ほどの少年がいた。

見たところ保護者の姿もなく、少年はたった一人でここまで来たようだ。

やがてエレベーターが最上階に到着し、チンとベルのなる音がする。少年は真っ先にエレベーターを飛び出すと、一番眺めのいい場所へと走った。

晴れた日には、浅草十二階のその場所から富士山が見えるという。

昔、その話を聞いた少年は富士山が見たいと言って駄々をこね、父親と初めて浅草十二階へ登った。残念ながらその時は見通しが悪く、富士山は見えなかった。

「また来よう」と笑って約束をしたものの、その約束は守られることはなかった。

それからすぐに、母は少年を連れて家を出た。仕事ばかりの父に愛想が尽きたのだという。母の実家に身を寄せながら、少年は父を恋しがってこっそりと手紙を書いた。

返事が来たのは十歳の誕生日。

『浅草十二階で会おう』と書き添えられた手紙には浅草十二階への入場券が入っていた。

今度こそ一緒に富士山を見られる。浮かれながら少年は一人、浅草十二階へと向かった。

待ち合わせ場所は展望台。あの時見られなかった富士山の見える場所。塔へ吹き付ける強風に髪を乱されながら約束の場所へたどり着くも、そこに父の姿は無かった。

(……少し、遅れているだけだ。きっと次のエレベーターに乗ってお父さんはやってくる)

そう思いながら少年は自分を慰めた。

(そうだ……富士山は……)

今日こそ、見られるだろうか。そう思いながら窓にむかって背伸びをする。

その時だった。

地を割くような轟音と共に、足元がぐうらりと揺れた。

「地震だ……!」

誰かが張り詰めた声を上げる。

揺れはすぐに大きくなり、塔全体がゆたりゆたりと揺れ、落下防止用の鉄柵が大波のように撓んだ。

悲鳴と地鳴りが重なり合う中、少年は立っていられずに座り込んでしまう。必死に手すりに手を伸ばそうとするが、揺れる床の上では這うことすら難しく、必死に床へ張り付くことしかできなかった。

(お父さん、お母さん、助けて……!)

泣きそうな少年の願いも虚しく、バキリ、という嫌な音が少年の下から響く。

自分の喉から劈くような悲鳴が響く。ガラスを割ったかのような甲高い悲鳴の合唱と共に、少年は落ちていた。


暗闇に意識が落ちていたのは一瞬だった。

再び目を開くと、崩れかけた天井の向こうに空が見えた。

あたりを見回すと、そこは浅草十二階の中だった。几帳面に並べられているはずの美術品はがれきに埋もれ、無残に壊れ、破れ、燃えていた。

きっと自分はあの天井から落っこちたのだろう。

(逃げなきゃ)

少年は立ち上がろうとする。しかし、できない。

見れば仰向けに倒れた自分の腹には大きな鉄柱が刺さっていた。

これは、駄目だ。

幼いながら、少年はすぐに理解した。

諦めと恐怖がないまぜになりながら、少年はただ空を見上げる。

雲が、やけに早く流れていた。

遠くで誰かが呼ぶ声がする。せめてそれにどうにか答えようとするが、声の代わりに自分の喉から鉄臭く赤黒い液体がごぽりと音を立てて出ただけだった。

自分の命はあと数分と経たずに尽きる。

動かない体をあたりの火が焼いていくのをただ感じることしかできない。

(熱い。苦しい。痛い。怖い。寒い。寒い。寒い)

いつか話に聞いた地獄のようだった。

(ああ、今わかった。あの声は呼んでいるんじゃないんだ。叫んでいるんだ。燃え盛る火の中で焼かれながら、人が悲鳴を上げているだけなんだ)

自分も叫ぼうか。だめだ。もう声は出ないのであった。

(痛い。痛い。痛い)

何かを考えようとすればするほど、自分の命が終わっていく音がした。

(死ぬんだ。このまま、苦しいのは嫌だ。……もう何もわかんなくて、いいや)

朦朧とする意識を手放そうとしたその時、この場に似つかわしくない音が響いた。

チン、というエレベーターのベルの音。

音の方を見ようとしても、もう首は動かない。せめてと思い、目玉だけでも音がする方へ向ける。

(お父さん……?)

来るはずもないのに、なぜかそんな風に思ってしまった。

蛇腹の扉が開いた向こう側には何もいなかった。代わりに、声のようなものが少年の脳へと響く。

『赴任先が斯様な修羅場とは聞いておりませんでした。これでは依代を見繕うのにも大変ではないですか。まともな形は期待できませんね。まあ、形だけですので見てくれがどうにかなっていれば構いませんが』

(どこの誰だろう。こんな場所で悠長にしている奴は)

『おや、まだ生きていらっしゃいましたか。……しかしそれも後数分みたいです……。こう言う時、この社会機構ではそう、確か『ご愁傷』と言うのでしたね。どうか気を落とさずに。あなたたちが定命の種族ですから死ぬことは仕方ありません』

(……?僕の言っていることが聞こえるの?)

「ええ。聞こえますとも。私たちの体はあなたたちと異次元にありますから、空気を振動させずとも会話ができます」

少年は、一言も声を発していない。だというのに、少年が思うだけで声は答えた。

(変なの。一体あなたは何なの?)

『何、と聞かれますと……返答に困ります。何せあなた達の世界では我々を呼称する固有名詞がまだありませんので……』

(……天使、なの?)

『天使。この世界における上位存在の御使いと認識されている架空の生物ですね。それと同一視したいのであれば、それでも構いません。あなたがた本来の倫理観で言えば、おそらくは、程遠い存在になると思いますが』

(言っていることが難しい)

『左様でございますか。申し訳ございませんこの星の幼体向けの言語はまだインストールしておりませんので』

(でも、もう面倒だから天使ってことでいいや……天使さんは、このまま僕を連れて行くの?)

『連れて行く?どこへです』

(天国)

『……………………。』

(それとも地獄?)

『……いいえ。会ったばかりの下等存在の幼体。私はあなたを天国へも地獄へも連れて行けないのです。そこは観測上未確認の場所で、我々はまだ到達していない。あなたをそこへお連れすることはできません』

(そう……それは残念だな……。)

『……ですが、あなたが了承してくれるなら別の次元へ連れて行くことができます』

(どういうこと?)

声は少し躊躇うように間を置いて、その方法を少年に話した。少年は今にも絶えそうな意識で考えて、そして選択をした。








観測記録

場所:第三次元世界 銀河太陽系第三惑星 

時期:繧、?昴せ譁ー暦 蝗帛鴻蝗帷卆蜆?ケ晏香荵昜ク?コ泌鴻蜈ュ逋セ荳牙香荳?年

記録者:譖ク險伜ョ連


観測理由

第三惑星を構成するコアが変動。コア外骨格に歪みが発生。

コア外骨格を構成するプレートが移動。隣接プレートに衝突。

数分後、第三惑星地表にて振動を確認。

以後、振動とその後の火災により文明の部分的喪失を確認。

同時刻、第三惑星より恒星に向けた膨大なエネルギーの放出を確認。

本件は現地呼称暦 西暦一九二三年九月一日。

現地呼称『地球』『日本列島』『関東』地域で発生した大地震について調査する記録となる。

大地震の現地呼称は後年より名付けられた『関東大震災』を採用するものとする。


現地呼称時刻 十二時二分十秒

言語。地球・西暦一九〇〇年代の日本語に設定。

当時代の知的生命体との交渉・精神交換に成功。

個体識別名特定。識別名『瀬戸佳寿真』。

個体成熟値。男性。十歳。この星の知性体としては未熟。

個体との精神接続を開始。

シンクロ値30………50……。

脳回路との接続を確認。使用に問題無し。

表皮知覚にて痛覚を確認。位置特定。腹部に広範囲の裂傷有り。

感情感覚の接続完了。恐怖、困惑を確認。

思考回路の接続完了。絶望を確認。


エラー発生。

本個体での生命活動の維持ができません。

エラー発生。

本個体での生命活動の維持ができません。


本個体の即刻の時間世界よりの隔離及び生命時間の停止が必要。


イ=ス式時間隔離プログラム起動。並行亜空間へのアクセス完了。一時間前の現地建造物を参照。再現。再編集。再構築。

対ティンダロス認識阻害装置展開。

対高次元生命体遮断フィールド展開。

現実時間軸より時流を隔離。空間の時間進行停止に成功。


本個体の精神シンクロを再起動。

シンクロ値70……90……100。

本個体名……いいや。

「僕」の名前は、瀬戸佳寿真。

これより記憶塔の管理人として着任します。



第一章 あるはずの無い場所


一九二六年 十一月某日


原俊作は走っていた。目の前の男を追いかけながら、夜明け前の浅草をひた走る。木枯らしが吹く時期にも関わらず、汗をかいて息も切れている。一息入れたいがせっかく掴んだ標的を逃すわけにもいかない。

原は特別高等警察、通称「特高」の人間だ。今はある邪教団体の活動を追っていてようやくその標的にまで近づいていた。

追っている標的は邪教団体の関係者。教団の情報を手に入れるためにも絶対に逃してはいけない。

標的は浅草の狭い通りを右へ左へと駆け回り、原を翻弄した。

「くそ、ちょこまかと小賢しいやつだな……!」

苛立ち紛れに吐き捨てて、疲れた足に活を入れる。

『特高』というだけあって、流石に原も獲物を追い詰める心得をもっていた。

やがて標的を袋小路へと追い込み、ようやく原は敵と相対した。

「はあはあ……いい加減、おとなしく捕まってくれよ……!」

「ッ……!」

標的の青年は青ざめた顔であたりを見回し、自分の後ろに扉があることに気が付いて、がちゃがちゃと回し始めた。

原は無駄なあがきをする標的を嘲笑うかのように鼻で笑って見せる。

「無駄だよ。ここは凌雲座の裏手だ。この時間だ。裏口とはいえ開いているはずが……」

ガチャリ、と言う音がして扉が開く。

「は?」

予想外のことが起きると、人は思考が停止してしまうものだ。

原があっけにとられている間に青年は勝ち誇ったように笑って扉の中へと消えていく。

「ちょ、嘘ぉ!?」

すぐさま我に返り、原も後へ続く。閉じかけた扉をこじ開け、隙間に体を滑り込ませる。すると、そこは数人でいっぱいになってしまうような、箱型の小さな部屋になっていた。

「なん、だ……ここ……」

標的の姿は無い。まして、凌雲座の裏口にも見えない。

原が困惑している間に、後ろの扉が閉まり、蛇腹の鉄扉が引かれた。

振り返ると、右手には数字の書かれたボタンとレバーハンドル。扉の上には数字の書かれた扇形の文字盤があった。文字盤には捻じれた矢印が付いていて、「一」「九」「?」「?」と数字の間をせわしなく動き回っていた。

「おい、なんだよこれ!」

原が焦って蛇腹の鉄扉を引こうとすると、がたんと箱が大きく揺れて内臓が置いていかれるような上昇感が襲ってきた。

(凌雲座にエレベーターなんてあったか……?)

あったとして、凌雲座は低い建物のはずだ。しかし文字盤の矢印はぐるぐると周り、エレベーターが止まる気配はない。

十秒、二十秒……六十秒は立っただろうか。

随分時間が経って、大きな揺れと共にエレベーターが止まり、蛇腹の鉄扉が開く。

恐る恐る外へ出てみると、夜明け前の劇場にしてはやけに明るかった。

そこは、回廊のような場所だった。おそらくは多角形のような構造をしているのだろう。内側には店舗のショウウィンドウのようなものがエレベーターを取り囲むようにぐるりと並び、外側の窓の向こうには青空が広がっている。

ただ、奇妙なことにショウウィンドウの中には商品ではなく古今東西の様々な書籍が入っており、外側の壁には窓があるところ以外、すべて本棚が置かれていた。

「なんだ……ここ……」

なんだと問いながら、原はこの場所を知っていると思った。まるで、自分はここへ一度来たかのような気がしてならないのだ。

既視感の正体を探り、記憶を呼び起こそうとする。

「浅草、十二階……」

それはまだ両親がいたころの幼い記憶だった。

多忙な両親が仕事の合間を縫って連れてきてくれた浅草十二階。 

エレベーターの轟音に少しだけ怯えながら上ったこの塔のことを、原は思い出した。

(そうだ……俺はここへ来たことがある。……小学校にあがりたての頃、桜の季節に親と来て……展望台からの高さに俺は怖くなって泣いてしまったんだ。父さんが困ったように俺を抱くのを見て、母さんは苦笑いして、土産物屋でキャラメルを買ってくれたんだ……)

どうして急にそんなことを思い出したのかは分からない。

懐かしさを感じたもつかの間、原はすぐさまおかしいと気が付く。

(この場所は、もうどこにもないはず……!)

浅草十二階は存在しない。今から三年前の一九二三年九月一日。関東を襲った大地震で倒壊したのだ。

地震で崩れたのは八階から上だったが、その後安全のために陸軍の手で爆破解体され、跡地には劇場が建っている。明治に建てられた時代の栄華を示す塔は、跡形もなく消えたはずだ。

しかし、目の前には確かに在りし日の浅草十二階の内部があった。

「どういうことだよ……」

混乱しながら原は窓の外の景色を見ようと近づく。ありえない話ではあるが、ここが浅草十二階であるなら、眼下には浅草の街並みが広がっているはずだ。

しかし、窓の外に期待した景色はない。

果てが無い、というべきだろうか。どんなに高くとも地上くらいは見えてもいいはずなのに、いくら目を凝らしても階下の景色は見えなかった。

気の遠くなる高さに眩暈を感じながら窓から離れると、原はぐったりと床にへたり込んだ。


浅草百二十階。

その高さでは足りないほどの異界に原は放り出されてしまったようだ。

#


銀座の片隅、にぎわう大通りから少し外れた場所に老婦人・甘粕レモンの煙草屋はある。

木枯らしが吹く昼下がり、レモンは冷え切った皺だらけの手を擦りながら煙草屋の窓口にもたれ掛かっていた。

店は特別繁盛しているというわけでもないが、煙草のほかに新聞やお菓子なんかも置いているので客層は幅広かった。

休日の今日もまばらに訪れる客を相手にしながらレモンは次の作戦を練っていた。

(春に暴れてから少し時間も経ったことだし、そろそろ大きな仕事をしてもいいかしらねえ)

仕事、というのはテロのことだ。

仕立ての良い着物を纏い、煙草屋に座って一日をぼんやりと過ごす姿は、余生をのんびりと過ごすか弱い老婦人に見えるが、その外見とは裏腹に銃や爆弾をはじめとした重火器の扱いに長ける危険人物である。

齢六十を越えてはいるものの、背筋はしゃんと伸び、澄んだ目は品定めするように銀座の摩天楼を見上げていた。

(そういえば、どこぞの政府高官に嫁いだ女が、新しい劇場を作るとか言っていたかしらね……完成間近の劇場を……いや、こけら落としに壊してやるのも面白いかしらねえ)

そんな風に思索を巡らせていると、びゅうとひときわ強い風が吹いた。

芥子色の羽織の前をぎゅっと羽織り直していると、店の前にひとりの青年がやってきた。

「こんにちは、レモンさん」

「あらあ、やっちゃん!久しぶりねぇ~」

レモンは愛想を崩し、訪ねてきた青年に挨拶を返す。

少し色素の薄い髪を後ろで括った学生服姿の青年・八ツ橋ユウは学生帽を取りながらレモンに軽く会釈をした。

「今日はどんな御用かしら~?」

「新聞を一つ。それと、うちで漬物を多めに作りすぎてしまったので、ちょっとおすそ分けです」

「あら~ありがとう~!なんの漬物かしらこれ」

「茄子ときゅうりと、あと大根のべったら漬けです」

「まあ嬉しい~!ちょっと待っててね、いただきもののシベリアがあるから今出すわねえ」

「そんな、お構いなく……」

八ツ橋は口では遠慮したものの、シベリアという言葉に心を弾ませた。三角に切ったカステラに餡子を挟んだシベリアはこの時代、若者に人気のお菓子だった。

「はい、これお母様と一緒に食べて頂戴な」

駄菓子を包むための新聞紙でシベリアを器用に巻いて、レモンは八ツ橋に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

八ツ橋はおずおずとした手つきで受け取るが、その顔は年相応に綻んでいた。

「ばばあになると漬物を付けるのも一苦労だから助かるわあ~。早速今日の夕飯にいただくわ。それでそうそう、新聞を買いに来たのだったわね。はい、どうぞ」

レモンから新聞を受け取ると、八ツ橋は一面に目を落とす。紙面には『聖上陛下御容體』の文字が大見出しになっていた。

「陛下のご容態が危ないって、本当みたいだ」

ここ最近の新聞やラジオでは、連日宮内庁が発表している天皇の容体に関する報道で持ち切りだ。この国の一番上にいる人間に死が迫っていると市井では口々に噂され、愛国心の強い者たちによる平穏祈願が全国に広まっていた。

「あらあ、そうなの。お上も大変ねえ」

レモンは、さほど興味が無いとでも言うように相槌を打つ。実際、事情通のレモンからすれば聞き飽きた情報だった。天皇の体の弱さは今に始まったことではない。

興味が無いとでも言うように別の話題へと移った。

「そういえばご実家の道場はあれからどうなったの?」

八ツ橋の実家は没落した武家であった。八ツ橋はどうにかおんぼろになった家の道場だけでも復興させるため、金を手に入れようと、この春に起きた『令嬢連続失踪事件』において行方不明となった財閥令嬢の捜索に報奨金目当てで参加した。レモンとはそこで出会い、それはそれは壮絶な冒険を共に乗り越えた仲だった。

それ以来、八ツ橋はレモンと家が近所だったこともあり時折こうして訪ねている。

「おかげさまである程度の修繕ができましたよ。雨漏りもしなくなりましたし。……まあ、まだ門下生を集めるまでには至らないので、これからは師範や門下生になってくれそうな方とのコネクションを作りたいところですけど……」

「あらあ、大変ねえ。でもやっちゃんまだまだ若いからこれからがんばっていけばいいわよ~」

八ツ橋とレモンがそんなことを話していると、店から家へと続く板の間の襖が開き、奥から八ツ橋と同じ学生服を着たくせっ毛の少年が現れた。

「レモンさん、大変です!原さんが消えました!」

「…………シナティ、頭でも打ったの?」


先の『令嬢連続失踪事件』で冒険を共にしたのは八ツ橋とレモンだけではない。

テロリストのレモンと秘密裏に繋がっている特別高等警察の原俊作。そして『令嬢連続失踪事件』の渦中の人物であり、レモンにシナティという渾名で呼ばれる仁科八津彦少年もまた、共に危機を乗り越えた仲である。

さらに言えばこの少年には、特別な力があった。


「頭は打ってません!無事です!さっきまで庭先で蛇たちと話したんですけど、大変なことになりました!」

本当に頭を打っていないのか、疑いたくなるような言動だが八ツ橋もレモンも茶化さずに続きを聞こうと姿勢を正した。

仁科には特殊な能力がある。

仁科は蛇の一族と呼ばれる、人ならざる者の末裔であり、蛇と話すことができた。テロリストであるレモンはその力に目を付け、下水や庭先に住む蛇たちから市中の情報を集めさせることもあった。

蛇は聴力や嗅覚に優れ、情報収集能力もかなり精度が高いらしく、生きたネズミと引き換えに頼めば、民家の排水管に潜り込んで盗み聞きをするなんてこともできた。

「そろそろ蛇たちが冬眠に入るので、その前にできるだけ情報を集めておこうと思って、浅草にいる蛇たちから、三日前に原さんが凌雲座で消えたって聞いたんです。何かの間違いだろうと詳しく聞いたら、凌雲座に入った途端、原さんの匂いがぷっつりと『消えた』って言うんです。近くにいた蛇たちからも情報を集めたんですけどみんな『消えた』としか言わなくて……。原さんに何かあったのかもしれません!」

「まあまあ落ち着きなさいなシナティ。俊ちゃんは腐っても特高よ?蛇くらい撒けなきゃ……」

レモンはそういって宥めようとするが、仁科は首を振った。

「僕もそう思って職場や原さんの家の近くまでいって蛇たちと一緒に確認しました。だけど、どこにもいませんでした。おかしいのは蛇たちの言い方もなんです。彼らは人間よりも鼻が良い。みんなそろって原さんを追っていた気配ごと『いなくなった』とか『分からなくなった』とかじゃなくて、『消えた』って言うんです。いままでそんな言い方、したことないのに」

仁科は白い肌をさらに蒼白にさせながらまくし立てる。

「もしかすると、原さんは誰かに殺されて……」

「いや~?俊ちゃんに限ってそれはないんじゃないかしらぁ」

レモンは困り顔で頬に当てながら言う。八ツ橋も困惑したように腕組みをして首を傾げた。

原は特高の中でも腕が立つ方だ。そう簡単に殺されるようなことなどあるだろうか。

「消える直前まで、原さんがなにをしていたとかは分からないの?」

「蛇たちが原さんの職場で聞いた話では、『刻見先智教団』っていう教団の関係者を追っていたみたいです」

その名を聞いた途端、レモンは厄介ごとに巻き込まれる気配を察知してげんなりとした顔をした。



『刻見先智教団』は数年前から活動している邪教団体だ。

震災後の混迷期に珍妙な宗教団体がいくつも生まれた中で、刻見先智教団は信者を増やしながらもその全容は一切明かされることはなかった。曰く、怪しげな儀式をしているだの、人死にを出したなど黒いうわさは枚挙にいとまがないが、その真実は社会の暗部を知るレモンでさえつかみ切れていない。というよりも、興味がなかった。

はじめは国家転覆を目論む同胞として利用価値がないかと調べもしたが教義は「未来を見て平和を取り戻さん」などという意味不明なもので、礼拝内容もあちこちの宗派を混ぜたような儀礼が行われるだけで、はたから見ればいかれた集団だった。

触らぬ神に祟りなしとレモンは早々に見切りをつけたのだが、まさかこんなところでその名が出てくるとは思わなかった。


「ふーんそうなのぉ……」

「……レモンさん、さっき渡し忘れてたんですけど家で煮た黒豆もあるんですよ」

「わあー☆本当~?」

「話を!聞いて!ください!」

不穏を察知した八ツ橋とレモンはわざとらしく話を逸らそうとするが、仁科はそれを許してくれないようだった。

「そんなに心配しなくても俊ちゃんなら大丈夫よ~」

「とりあえず、腕の一本でも出てきてから探しに行きましょうよ」

「あなたたちそれでも人間ですか!知り合いが事件に巻き込まれているかもしれないんですよ!」

人外の血を引く仁科にそう言われると、それはそれでなんだか悔しいものがあった。

「原さんがいなくなったら二人だって困るでしょう?」

ふくれっ面でそう詰められ、レモンはバツの悪い顔をする。

レモンはテロリストながら、特高の原と繋がっていた。お互いに情報を提供しあいながら上手いこと『仕事』をしていた。原以外にもそういった人間はいないではなかったが、互いの思想に干渉することもなく利用しあうだけの関係である原を失うのは確かに痛かった。

八ツ橋は八ツ橋で、原と特別仲がいいというわけではなかったが、特高関係者とのコネクションを失うのはもったいないような気がした。

「まあ確かに……今恩を売っておけば後で役に立つかもしれないな……」

「やっちゃん……ばばあは、やっちゃんがそんなことを言う子だとは思ってなかったわ……」

(でも確かに、私も近々大きな爆発テロをするつもりだったし、今ここで俊ちゃんを失うわけにはいかないわね……)

「……分かったわ、行きましょう」

「……!ありがとうございます!」

二人が協力してくれると分かった途端、不安そうにしていた仁科の顔がぱっと明るくなった。

「それじゃあ行きましょう!原さん捜索隊、発足です!」

「オー」

「…………オー」

力なく拳を上げながら、レモンと八ツ橋は原を見つけたら絶対に礼をせびろうと心に決めた

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大正モダンクトゥルフ 帝都虚構神話 浅草百二十階 〜泡沫の記憶塔〜 前編 松田鶏助 @mathudaK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ