第24話

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 神作真哉は少し離れた位置から高橋の容姿をまじまじと見つめながら言った。

「二十年前への渡航を三回繰り返していたとすると、プラス六十歳。第一実験当時に三十八歳で、現在の高橋は、本来なら四十九歳。ということは、今、この爺さんは百九歳……タイムトラベルの後遺症で、さらにそれ以上に老化しているというわけか」

 山野紀子も高橋を観察しながら言う。

「百歳以上のお年寄りなんて珍しくないものね。団塊世代も百歳前だけど、随分と元気だし。この人がここまで重篤そうなのは、やっぱりタイムトラベルの影響ね。どう見ても、ただの病気で具合が悪いとは思えないわ。肌も緑色だし」

 高橋を見つめながら永山哲也も言った。

「百九歳とは言わず、もっと上を行っているのかもしれないですよ。田爪博士は、新型のタイムマシンには後遺症を軽減する処置を施したと言っていました。それに、バイオ・ドライブには田爪博士が残した後遺症に関する医療データも入っていたはずです。それを基に何らかの医学的な対処方法を見つけているのかもしれません。つまり、老化を抑える方法を。その上でこの状況なのだとしたら、かなりの年齢に達している可能性があります」

 山野紀子が食いついた。

「なんですって! 老化を抑える方法! それ、早く教えなさいよ!」

 神作真哉は高橋に視線を据えたまま、冷静に言った。

「あんた、バイオ・ドライブの中身を見たら、量子エネルギー・プラントの設計図や量子銃の設計図が入っていて驚いたと言ったよな。それも全部嘘だな。バイオ・ドライブから引き出した設計データを基にして製造したタイムマシンで『過去』に戻ったのなら、その到着時点からバイオ・ドライブの中身について知っていたことになる。ハルハルが推理した事が当たっているとすれば、バイオ・ドライブを再生させた三年前の時点でも、あんたはその中に何が記憶されているのか、いや、記憶されてのかを知っていたはずだ。だから、驚くはずはない。あんた、相当な嘘つきだな」

 永山哲也も高橋の顔を見て言う。

「あのバイオ・ドライブに入っていたのは、タイムマシンと量子エネルギー・プラント、そして量子銃の各設計データです。その中で田爪博士が実際に製造しておらず実用していないのは量子エネルギー・プラントだけ。タイムマシンと量子銃は実用性が証明されているが、量子エネルギー・プラントは作ってみないと分からない。それで製造に三年もかかったのですね。量子銃を実用実験もしないまま自分たちの軍に配備したのも、プラントの製造に時間がかかったのも、それなら納得できます」

 春木陽香は神作と永山に言った。

「軍隊の兵隊さんたちの量子銃とかに充填する量子エネルギーがギリギリの量なのは、たぶん、このタイムマシンに大量の量子エネルギーが注がれているからです。これまでも、生成した量子エネルギーは全てタイムトラベルに使ってきた。そして、兵隊さんたちの武器には最低限の量しか回していない。そういえばさっき、この閣下さんは、AB〇一八が半分だけになっても機能停止する云々という話をされました。もしかしたら、本当はそれくらいの量しか兵隊さんたちの武器には充填されていないのかもしれません」

 高橋諒一は記者たちから顔を逸らした。それを見たナオミ・タハラは剣幕を変えて高橋に尋ねた。

「閣下、本当なのですか。閣下のために、いや、人類救済のために命を懸けようとしている兵士たちに、嘘を言っておいでなのですか」

 高橋諒一は咳き込んで答えない。その様子を見て神作真哉は言った。

「どうやら図星だな。この野郎、十分な量のエネルギーを充填していない武器を持たせた兵隊たちにお膳立てをさせておいて、自分は必要な量のエネルギーを積んだこのタイムマシンで、さっさと『過去』にトンズラするつもりだったんだ。田爪健三や瑠香を利用して作った、このマシンでな。――さっきから疑問だったことがようやく分かったよ。タイムマシンは時間を遡らなければ、ワープマシンとして使えるはずだ。前にハルハルが指摘したように、中に武器や兵士を乗せれば、敵の防衛線を無視して目標地点に到達できる。AB〇一八を消去するために軍隊をあの施設に送り込みたいのなら、このタイムマシンを何機も作り、中に兵隊たちを乗せて、ここから新首都のAB〇一八施設の敷地内に直接ワープさせれば、わざわざこんな協定を結んで警備兵名目で軍隊を輸送しなくても済むはずだ。それをしない理由は二つ。一つは、何機もワープさせられるだけの量子エネルギーが無いということ。あっても、このタイムマシンに注入することを優先させた。もう一つは、自分たちが『過去』に逃げた後、追跡されないようにするため。田爪博士のパラレルワールド否定説が正しいのなら、時間軸は常に一本線だ。それなら、過去に行ったマシンを別のマシンで追いかけて行けるはずだからな。だからタイムマシンは量産しなかった。作ったのは、自分たちが逃走するための、この一機だけ。その他には作っていない。それで後から追跡されないように」

「じゃあ、タイムマシンの設計データや、バイオ・ドライブそのものも……」

 そう言いかけた永山に顔を向けて、神作真哉は頷いた。

「ああ。このタイムマシンの中か、こいつが持っているか、あるいは既に廃棄処分しているか。いずれにしても、自分たちがタイムマシンで飛び去った後に発見されないようにしているはずだ。その設計データで後からタイムマシンが作られて、追って来られたら困るからな」

 振り返った永山哲也は、軽蔑的な視線を高橋に向ける。

「だとすると、AB〇一八を滅失しようとしているのも、バイオ・ドライブを接続して中のデータを引き出した際に記憶されて保存されたかもしれないタイムマシンの設計データを消去することが真の目的なのですか。いや、きっとそれも兼ねているということですよね。だからあのコンピュータを破壊する必要がある。それに、IMUTAも一緒に壊れてくれた方が都合がいいんですね。バイオ・ドライブも無く、IMUTAも使えなければ、AB〇一八の残骸からデータを引き出すことは完全にできなくなりますから。――なんて卑怯なんだ。あなたは自分が逃げることしか考えていないじゃないか!」

 永山哲也は強く高橋を指差した。

 ナオミ・タハラは真剣な顔を高橋に向けて、必死に尋ねた。

「閣下、説明してください。彼女や彼らの言っていることは本当なのですか。これまでに言っておられた計画は全て嘘なのですか」

 高橋諒一は神作や永山、タハラを無視して、春木に言った。

「なかなか、鋭い推理をする子じゃ。諒太の嫁にしてやってもよいかもしれんの」

 春木陽香は思わず目を大きくする。

「本当で……いえ、やっぱり、さっきの申し込みは撤回します。タイムマシンには乗りたくありませんから。老けちゃうんですよね。それに、いつの時代に行くつもりなのかも分かりませんし」

 彼女は下を向いて口を尖らせた。

 高橋諒一は、神作と永山の後ろの卵型のタイムマシンを指差して言った。

「このマシンなら、老化の影響は少ないぞ。それに、老化対策の肉体的処置も済ませてから飛ぶつもりじゃ。心配はいらん。太平洋戦争終結直後なら、君のお祖母さんの出生にも立ち会えるかもしれんぞ。フォッ、フォッ、フォッ」

「はあ……。私が生まれるずーと前ですかあ……」

 高橋諒一は、カクリと項垂れた春木を指差して言った。

「それに、鋭い推理じゃったが、当たっておるとは言っとらんぞ。何点か間違えておる」

 春木陽香は更に深く項垂れた。

「はあ、やっぱりなあ」

 隣から山野紀子が励ます。

「大丈夫。何点かってことは、当たっていた点が多かったってことよ。気にしない、気にしない」

 高橋諒一は言った。

「ワシの名誉のために、幾つか言っておこう。ワシが田爪夫人の研究費を提供するよう指示したのは、純然に善意からじゃ。時の狭間に消えた田爪君を探すために、実家の光絵家も頼らずに一人で孤独に研究を続けている夫人が不憫に思えて仕方なかった。ワシもよく知っている人間じゃからの。せめてもの慰めにと思い、NNC社を通して研究費を提供させてもらったのじゃよ。じゃから、司時空庁が彼女を幽閉した時も、彼女を救い出そうと兵を送ったのじゃ。君らが発射施設に潜入した時も、我が軍の部隊を送るはずじゃった。しかし、あの無人戦闘機の墜落でAB〇一八が介入していることを知ったために、兵を引かせざるを得なかったのじゃよ。結果として、彼女には本当に申し訳無い事態となった。本当じゃ。本当に、そう思っている」

 春木陽香は高橋の目を見て言った。

「それは信じます」

「そうか。信じてくれるか」

 嬉しそうにそう言った高橋諒一は、更に語り続けた。

「もう一つは、タイムマシンじゃ。田爪君は第二実験でタイムトラベルに失敗し、南米の貯水槽の中に移動してしまったが、ワシは違った。第一実験でのワシのタイムトラベルは成功したのじゃ。ワシのマシン設計の構想は間違えてはいなかった。正しかったのはワシなのじゃよ」

 永山哲也が怪訝な顔をして言う。

「成功した? じゃあ、あなたはあの第一実験で、いつの時代に飛んだのですか。そして、そこで、いったい何があったのです?」

 高橋諒一は遠くを見つめて、ただ黙っていた。

 記者たちは老人に視線を向けたまま、その答えを待ち続けた。



                  21

 やがて、神作真哉が苛立った表情で高橋に言った。

「どういうことなんだ。あんたは、あの第一実験で何年前に飛んだんだ」

 高橋諒一は大きな声を出した。

「ワシは、この子と話しておる。邪魔をするな!」

 山野紀子が小声で春木に言う。

「ハルハル、気に入られたみたいよ。ここはスマイルよ、スマイル。全力で機嫌を取りなさい。老化防止の方法を教えてもらえるかもしれないのよ!」

「ニカッ」

 春木陽香は高橋に笑って見せた。横に居たナオミ・タハラが鋭い視線でにらむ。下を向いた春木陽香は、山野のシャツの半袖を摘まんで言った。

「はああ、だ、駄目です。タハラさんが恐いです。編集長とは違った恐さがあります」

「負けちゃ駄目よ。あんたは笑顔、笑顔。ノッポのお姉ちゃんは私に任せなさい」

 眉を強く寄せた山野紀子は、春木の隣で懸命にタハラにガンを飛ばした。ナオミ・タハラは山野を無視する。神作真哉が顔をしかめて言った。

「何やってんだよ、紀子……」

 永山哲也が咳払いをした。高橋諒一が語り始めたからだった。

「あの実験で、ワシのタイムマシンは確かにタイムトラベルをした。しかし、辿り着いた先には、海水しか無かった。埋め立てられる前の那珂世なかよ湾じゃよ。ワシは無防備な実験機で海面から数メートルの所に出現し、そのまま機体ごと海に落ちたんじゃ」

 神作真哉が永山の方を見て小声で言う。

「埋め立て前の那珂世湾ってことは、いま司時空庁の発射施設がある場所か?」

「たぶん。あの施設が以前は実験管理局の発射実験施設だった訳ですから。第一実験が実施されたのも、そこです。でも、埋め立てられる前ってことは、遷都宣言がされる二〇二二年よりも前ってことですよね」

「新首都建設の工事自体は、リオデジャネイロ・オリンピックの頃から少しずつ行われていたみたいだからな。そうすると二〇一六年以前ってことか。場所は移動せずに、時間だけ飛び越えたとすると、田爪と逆だな」

 高橋諒一は遠くを見つめながら過去を語り続けた。

「機体は着水の衝撃で大破してしまった。バラバラになって海の底じゃ。ほとんど骨組みだけの構造じゃったからの。衝撃に弱かった。じゃが、それが幸いして、ワシは機体から脱出することが出来たんじゃ。そして、たまたま通りかかった漁船に拾われたのじゃよ。水温が低くてな、溺死する寸前じゃった」

 永山哲也が神作に言う。

「海水温が低かったってことは、二〇一六年末の桜島大噴火で海水温が上がる前ってことですよね。あれから二、三年の間は黒潮海流域の水温が高かったはずですから」

「そうだったっけな。覚えてねえなあ」

 高橋諒一は語っていた。

「そこからは苦労した。未来から来た人間だとは言えん。自分の戸籍も住民票も無い。ワシはまだ生まれていなかったからな」

 神作真哉が聞き返した。

「う、生まれていなかっただって?」

「真ちゃん、シー」

 山野に注意された神作真哉は、小声で隣の永山に尋ねた。

「高橋諒一は何年生まれだ?」

「一九八九年です。とすると、それ以前に……」

 高橋諒一は自分から答えを言った。

「一九八一年じゃよ。二〇二七年から二〇二六年に移動するはずじゃったワシは、実際には、そこから四六年も前の一九八一年に移動していたのじゃ」

 山野紀子が目を丸くした。

「せ、一九八一年? 私も真ちゃんも生まれる前じゃないの!」

 神作真哉は思わず言った。

「俺が生まれる、十年も前だ」

 指を折って計算した永山哲也も言った。

「僕が生まれる十八年前……」

 春木陽香が呟いた。

「私の父さんが生まれた年かあ……」

 山野紀子は脱力して呟いた。

「今から五十七年も前……無理。その頃の画像や動画は見たことがあるけど、実際にどんな感じだったのか、全く想像できないわ」

 永山哲也が神作に言う。

「とにかく、想像以上の遠い過去に飛んだってことですよね」

「そ、そうだな。それにしても、これまでよく生きていたなあ」

 高橋諒一は、咳と笑いを交互にしながら咽る。

「ゴフッ、フフッ、まあ、よい。そんなものじゃ。世代の違いとはの。ワシだって、今の諸君と同じで、想像の範疇を超えていた。当時のワシも始めて見る世界じゃったからの。そう、妙な世界じゃった。あの頃は、アフガン、ポーランド、南アフリカで紛争が続き、アメリカと旧ソビエト連邦を二極とする冷戦が深刻化しておった。一方で、日本経済はこれから本格的なバブル経済になろうという時じゃ。世の中には不必要な競争意識と浮かれムードがちらほらと出ておったよ。まさに愚陋ぐろうの時代が始まろうとしていたのじゃ。そんな日本を東南アジア諸国は目標に掲げた。『東を見よ』とな。愚かなことじゃ」

 高橋諒一は昔を懐かしむように目を細めながら語り続けた。

「生活も随分の違ったのお。電話はダイヤル式じゃったし、カメラもフイルム式。どこの電気屋にもカセットテープしか置かれていなかった。エアコンは高級品、もちろん、本格的なコンピュータなど、大企業にしかない。しかも、机にも載せられん大きなものだ。まあ、小型の陳腐なゲーム機は開発されておったかのう。じゃが、街で見る大抵のゲーム機は机型の大きなものじゃった。若者が皆、背中を丸めて座っておったよ。ああ、缶ジュースの蓋が缶から離れたのには、随分と驚いたことを良く覚えておる。じゃが、その他は、たいして変わってはおらんよ。文明も、人間の質も。まあ、今よりも良かったことも有るには有った。空が青かった。気候も穏やかじゃったな。ああ、天気予報はよく当たった。とにかく、高い精度じゃった。それから、老人が凛としていた。うん、それだけじゃ。他の人間は今と同じじゃ。年長者を敬い、従う者などおらんかった。今でも、昔はああだったとか、こうだったと知った顔で言う奴らがいるが、大抵は嘘っぱちじゃ。ワシは本当に知っているぞ。同じ過去を再度、観察してきたからの。だから忠告しておく。そういう奴らの話は聞かん方がいい。そいつらが批判している『今』は、『過去』のそいつらじゃ」

 神作真哉が真顔で話を元に戻した。

「それで、どうなったんだ」

「まあ、いろいろじゃ。とにかく影で生きた。そして、ワシの知っている基本的な知識を企業に売った。色々な物が発明され、ワシは金を得た。その金で、これから発明される新技術で使われる基礎技術の特許を買い集めた。やがて狙っていた新技術が開発されると、ワシは手許の特許権を行使して技術使用料を得た。そうやって金を集め、いくつもの会社を世界中に作り、それらを束ねて組織を作った。この『ASKIT』をな。暫くすると、最初のワシがやってきた。ワシはワシと協力して仕事をこなした。その後また暫くして、もう一人ワシが現われた。ワシらはそのワシに従って働いた。九十を過ぎた頃、ワシは老化に対する処置をした。そしてもう一度『過去』に飛んだ。ついこの前の話じゃ。そしてワシの指示に従いながら、ワシに指示を出して、働いた。さらに、つい先日『過去』に飛び、ワシらに指示しながら、彼らの『過去』への出発を見送り、今日を迎えておる」

 話を聞いていた神作真哉は鳥肌を立たせたまま、高橋の顔を凝視していた。

 永山哲也が眉をひそめて言った。

「二回目以降は、いつに飛んだのですか。二十年前ですか。三十年前ですか」

 ナオミ・タハラは高橋の車椅子から一歩離れた。その顔には嫌悪すら浮かべている。

 山野紀子は青ざめた顔で高橋の全身を観察しながら、言った。

「――あんた、いったい何歳なのよ……」

 彼女はその目に疑念と恐怖を浮かべていた。



                  22

 その老人は、皺に覆われた灰色の顔に笑みを浮かべていた。窪んだ目の奥の冷徹な眼で記者たちの表情を確認している。

 高橋諒一を名乗ったその老人は、静かに言った。

「三十八歳の時に一九八一年に飛んだと言ったのじゃよ。今更、ワシの歳を換算しても仕方なかろう」

 神作真哉は驚愕に満ちた顔のまま、隣の永山に言った。

「当時三十八歳だった奴が第一実験のタイムトラベルで一九八一年に飛んで、そこから今まで生きていたとすると、その時点で九十五歳だ。そこからさらに、AB〇一八が建造された二十年前の二〇一八年に飛んだとしても、それを二回繰り返せば百三十五歳。それ以前に飛んでいるとすれば、さらに上をいっている」

 永山哲也も眉を寄せて高橋を観察したまま言う。

「明らかに普通の人間の肉体の限界を超えています。話が本当だとしても、まだ何か隠していますね」

 神作真哉が小声で言った。

「聞き出してみるか」

 永山哲也は老人に視線を向けたまま頷いた。

 高橋諒一は言った。

「無駄じゃ。諸君とこれ以上話をするつもりはない。ワシは行かねばならん。さあ、協定書にサインをするんじゃ。そうすれば、君らを生きたまま帰してやる」

 神作と永山は視線を合わせた。目の前の老人は、耳がいい。彼から少し距離を置いた位置に立っている二人の小声での会話をしっかりと聞き取っている。老眼鏡も掛けていないし、コンタクトレンズを入れているようにも見えない。緑がかった灰色の肌。不自然な呼吸。何かがおかしかった。神作真哉と永山哲也は、その老人を観察し続けた。

「あの……」

 口を開いた春木陽香に高橋が視線を向けた。

「何じゃ」

 春木陽香は不機嫌そうな顔で言った。

「私は、まだ質問してませんけど……」

 ハッとした山野紀子が、春木の隣から援護射撃する。

「そうよ。この子はまだ、あんたに一度も質問をしてないわ。一人だけ質問させないつもり? かわいそうじゃないの。ちゃんと答えなさいよ」

 そして、小声で春木に言う。

「老化防止の方法よ。いいわね」

 春木陽香は口を尖らせる。

 高橋諒一は言い捨てた。

「早うせんか。ワシは忙しい」

 永山哲也が春木に「バイオ・ドライブ」と口を動かして見せて、その質問をするよう促した。

 春木の視線を確認した山野紀子が、春木に言った。

「いいから、老化しない方法よ。九十五歳から何十年も老化に耐えられるなら、私たちの年齢のうちに同じことをすれば、ずっと若くいられるかもしれないのよ。あんただって、若い方がいいでしょ」

 神作真哉が春木に言った。

「爺さんの体の秘密だ。それを訊け」

 山野紀子が春木の肩をパタパタと叩く。

「ほら、ね、老化防止よ。それしかないでしょ」

 春木陽香は眉間に皺を寄せて、苛立ったように声を出した。

「あの、すみません。ちょっと、黙っててもらえませんか。なんか、私、今、猛烈に腹が立っているので」

 高橋諒一に顔を向けた春木陽香は、彼の顔をにらみながら言った。

「だって、そうですよね。一九八一年に戻ったのなら、そこから第一実験で旅立つ二〇二七年までに起こった出来事を、この閣下さんは事前に全て知っていたってことですよね。災害とか、事故とか、事件とか。なのに、少しでも被害者を減らそうとか、事故や事件が起こらないようにしようとか、そういう努力は何もしてないんですよ。ただ隠れて、特許権を集めて、ASKITを作って、お金儲けをしていただけじゃないですか。与えられた天才的頭脳を世の中のために使おうとか、世界を良い方向に変えようとか、この人は何もしてこなかったんですよ」

 春木陽香は強く老人を指差す。

 老いた高橋諒一は、片笑みながら春木の顔を見て、言った。

「若いのう。一九八一年の実際の歴史を調べてみなさい。科学史だけでもいい。どういうことが起きているか。ワシが何もしていないじゃと。そんな訳は無かろう。存在しないはずのワシの名前が歴史の中に記されていないからといって、どうしてワシが何もしてこなかったと言える。君らが気付いておらんだけじゃよ」

「でも、陰でお金を集めていたんじゃないですかあ。特許とかを集めたりして。それってズルいと思いますけど」

 春木陽香は頬を膨らませる。

 老人は春木に挑戦的な視線を向けて言った。

「ズルをして、何故いかん」

 春木陽香は考えた。内から沸き立つ怒りが彼女に反論を駆り立てる。必死に考えて、模索して、春木陽香は高橋に言った。

「お祖母ちゃんが言っていたからです! ズルして生きちゃ駄目だって。理由なんか分かりません!」

「フォッ、フォッ、フォッ。それでよい。それでよいぞ。君は正しい」

 笑いながらそう言った老人に、春木陽香は紅潮した顔を突き出して怒鳴った。

「嘘ばっかし! 絶対、そう思ってませんよね。馬鹿にしてるんですか!」

「ほう、君の質問は、それかね」

「これは質問じゃありません! 確認です。質問と確認は違います」

「よかろう。では、早く質問したまえ。君らをリムジン・オスプレイに乗せるか、死体袋に入れるかを決めねばならんのじゃ」

 春木陽香は両肩を張って言った。

「じゃあ、お尋ねします。閣下さんは……」

 春木陽香は発言を止めた。彼女の視界に予想外の光景が飛び込んできたからだ。車椅子に座る高橋の横に立っていたナオミ・タハラが、高橋に拳銃を向けていた。

 高橋諒一は落ち着いた声で言った。

「タハラ、やめろ。無駄じゃ。ワシは過去に行くのじゃ。家族と共にな。そういう未来を既に知っておる」

 ナオミ・タハラは黙って拳銃を突きつけている。

 神作真哉が高橋に言った。

「会っているんだな。過去のあんたは今のあんたや家族に過去で既に会っているんだな」

 高橋諒一は、ゆっくりと首を横に振った。

「いいや。会えるはずはない。ワシは、AB〇一八が生まれる二〇一八年よりもずっと前に行くつもりじゃからな。ワシが最初に到着した一九八一年よりも前じゃ。じゃが、ワシは八十一年に或る男からの手紙を受け取った。それで全てを知ったのじゃ」

 永山哲也が尋ねる。

「誰なんです、その男は」

「名前は無かったがの、あれはワシじゃよ。今から更に何十年も生きたワシが、ワシに手紙をよこしたのじゃ。そして、ワシに何をすべきか教えてくれたのじゃ。ワシはその未来からのワシの指示に従って、事を為してきた。これまでに『過去』へと飛んだワシの指示にも従いながらな。まあ、時に反発したこともあったが、今思えば、若いワシがワシに反発することは知っていることじゃからの。それも全て計算の内じゃ。そうして、事実、このASKITは生まれ、ワシもこの地位についている。最初の指示通りになったのじゃ。だから、ワシがこのマシンで過去に向かうのは確かなのじゃよ。諦めろ、タハラ」

 老人は窪んだ目の奥の瞳をタハラに向けた。

 ナオミ・タハラは言う。

「いいえ。行かせる訳には参りません。このままあなたの計画が進めば、多くの人が死にます。それに、あなたが話したことも本当かどうか、分かりません」

「それが『未来』なのじゃ。従え」

「ならば、その『未来』を変えてみせます」

「タハラさん……」

 発言しようとした春木に、タハラは素早く銃口を向けた。

「あなたたちも、早く協定書にサインするのです」

 そして再び、車椅子の上の老人に銃を向けて言う。

「ASKITの長として、組織に命じて下さい。AB〇一八からIMUTAを安全に離脱させ、AB〇一八を修復せよと。我々の技術を結集すれば、可能なはずです」

 高橋諒一は嘆息を漏らして言う。

「無駄じゃと言ったであろう。奴には敵わん。おまえも一緒に乗せて行ってやる。兵が奴を攻撃している隙に、奴が支配する世界から逃げるのじゃ。奴が生まれる前の世界に」

 神作真哉が呟いた。

「本音を溢しやがったな」

 ナオミ・タハラは首を横に振った。

「いいえ。どうか閣下、組織の長として、責任ある選択をして下さい」

 老人は言う。

「選択? そんなものは無い。未来は全て決まっている。選択の余地など無い。『時』はただ『今』から『過去』へと流れていくだけなのじゃ。決められたとおりにな」

 春木陽香が口を挿んだ。

「それは違いますよ。閣下さんは、未来から来た自分に会って、そう思い込んじゃって、聞いた話の通り行動してきただけなんですよ。違うことに挑戦してきていたら、もしかしたら、違う『今』になっていたかもしれませんよ」

 高橋諒一は春木にしっかりと顔を向けた。

「パラレルワールドは無いのじゃ。この点は田爪君の言ったとおりじゃった。時の流れは決まっておるのじゃよ」

 春木陽香も高橋の顔をしっかりと見返して言う。

「そうでしょうか。今自分が生きている世界がパラレルワールドなのか、前と同じ時間軸上の世界なのか、本当は誰にも分からないんじゃないでしょうか」

「ワシは未来からやって来た何人ものワシに会っておる。何度も同じ過去を見ておる。これは時間軸が一本線だという証拠じゃ。『未来』など無い。時間は放棄され積もっていくだけじゃ。決められたとおりに取得されてな」

「それは、閣下さんが同じことを繰り返してきたからじゃないんですか。自分が記憶している過去を再現しようと、過去と同じことを正確に繰り返してきたから、その後の時間の流れもずっと同じ流れになっているだけかもしれませんよ。新しい選択をしたり、行動に出たりしていたら、そこから時間軸が分岐して、別の未来に進んで行っていたかもしれないのに。どうして『未来』を変えようと努力しなかったんですか!」

「ワシのパラレルワールド肯定説は間違えていたのじゃ。それは否定しようのない事実なのじゃ。ワシは科学者として、この事実から目を背けるつもりはない!」

 永山哲也が頭を傾けながら言った。

「しかし、それは本質的なことなのですか。田爪博士は、パラレルワールドの有無についての議論はAT理論の本質的な問題ではないと言っていました。肯定説と否定説はコインの表と裏のようなものだと。時吉総一郎が庶民を扇動するために唱えた『時吉提案』に、あなた自身が翻弄されてきただけなのではないですか」

 神作真哉も強い口調で言った。

「そうだ。ハルハルが今言ったとおり、結局は自分自身の問題なんじゃねえか。俺たちの世代はあの議論に随分と翻弄されたが、俺はもう、パラレルワールドがあるかどうか、未来が変えられるかどうかなんて考えないようにしている。そんなことを考えている時点で負けちまってるんだよ。自分に。分かんないのが『未来』だろうが。だったら分かっている『今』にしっかりと目を向けて、その都度考えて、その時にできる精一杯の努力をするしかないだろう。その結果として記憶や記録に残る事実が『過去』というものに過ぎないだけなんじゃないか。あんたが言っていた『悟り』という奴は、そういう事を言うんじゃないのかよ。それがAT理論の本当の本質なんじゃないのかよ」

 春木陽香は戸惑うことなく老人に指を差した。

「せっかくタイムトラベルに成功しているのに、しかも何回も成功しているのに、どうして何かを変えようと努力しなかったんですか。それって結局、自分の過去を反省していないからですよね。自分が取ってきた行動やその結果にしっかりと目を向けていなかったからですよね。あなたは『過去』に戻ったのに、何も『過去』には目を向けていないじゃないですか。今の世界や今の状況や、今の自分を再現しようと、自分で決めつけた『未来』に自分で自分を縛り付けてきただけじゃないですか。そんなの、ただの自己満足と思い込みですよね。科学者なのに、『過去』を違う角度から見てみようとか、発想を転換してみようとは思わなかったのですか。『未来』を変えるって、そういうことじゃないんですか」

 その隣の山野紀子も言った。

「そうよ。あんた、歳取った自分に命じられるままに動いてきただけじゃないの。しっかりしなさいよ! それじゃ、すぐにネットの情報に頼る人たちと同じじゃないのよ!」

「そうなんですか? どうしてですか?」

 キョトンとした顔を横に向けた春木に、山野紀子は言った。

「自分の頭で考えないってことよ。よく観察してみなさい。たいていはアホだから」

 高橋諒一は記者たちの指摘を鼻で笑った。彼は車椅子の上に座したまま、逆に記者たちに軽蔑的な眼差しを向ける。

 ナオミ・タハラは銃を向けたまま、高橋に言った。

「計画を変更してください、閣下!」

 高橋諒一はタハラの顔を見上げて言った。

「タハラ、ワシがこれから『過去』へ飛ぶということは、既に確定した事実なのじゃよ。解かってもらえんか。何度も言うが、時の流れは決まっておる」

 永山哲也が高橋に言った。

「いや、それはどうでしょう。もし時の流れが決まっているのなら、AB〇一八は何をしているのです? あの機械は、操作できないものを操作していることになる。AB〇一八が予測演算によって因果の流れを作り出し、時の流れを操っているのなら、それは未来が選択によって変わるという証拠なのではないですか」

 高橋諒一は激しく首を左右に振って、声を荒げた。

「いいや、決まっておるのじゃ。起こるべき未来は決まっておる。時の流れは全て予定されているのじゃよ。ワシには、このタイムトラベルが最後となる。次の『過去』で寿命を迎えるのじゃ。未来のワシからワシへ届いた手紙には、そうはっきりと記されていた。そしてワシは、この事実を手紙に記し、ワシへ送るのじゃ。そうせねばならん。時の流れを変えるわけにはいかんのじゃ。だから、なんとしても予定通りに飛ばねばならん。未来から来たワシがやった通りに、その通りに、予定された通りにやらねばならんのじゃ!」

 神作真哉が訝しげな目を高橋に向けて、彼を指差しながら言った。

「その、あんたが未来の自分から貰ったという手紙、そんな物は本当に存在したのか? もし在るのなら、見せてみろよ」

 高橋諒一は目を激しく泳がせた。ひどく狼狽する彼の様子を見て、神作真哉が続けた。

「あんた、過去の話ばかりしているが、未来の話になると、どうもいい加減だな。計画や予定などと、さも計算めいたことを言うが、まったく意欲がない。未来に進む意欲が。それはあんたが過去をしっかりと認識していないからだと俺は思うんだが、もしかして、あんた、過去の記憶が混濁しているんじゃないか? だから、それを基にして未来を考えることが出来ない。あんたの頭の後ろに繋がっているそのチューブ、そりゃ何だよ。まさか老化した自分の脳にも、何か手を入れているんじゃないだろうな。だから事実と妄想の区別がついていない。実はそうなんじゃないか」

 灰色の老人は首を何度も強く横に振った。

「そんなはずはない! ワシは、ワシがやるべきことをやるんじゃ。ワシの記憶に間違いなど起こるはずがない。ワシの脳は忘れない。ワシの脳は完璧じゃ!」

 老人の擦れた声が広い部屋に木霊する。

 春木陽香は眉間に強く皺を寄せて、老人の顔を見つめていた。



                  23

 高橋の発言を聞いた神作真哉と永山哲也は顔を見合わせていた。互いに、これまでに無いほど怪訝な表情をしている。

 山野紀子が高橋を指差して言った。

「だったら何か証拠を見せなさいよ。あんたの言っていることは、確かめようがないことばっかりじゃない」

 永山哲也が鳥肌を立てながら老人に言った。

「忘れない脳とか、脳が完璧って、まさか、そのチューブはバイオ・ドライブに接続されているんじゃないでしょうね。あなたは、老化で衰えた自分の脳細胞をバイオ・ドライブの人工細胞で補っているんじゃ……」

 春木陽香が老人を観察しながら言う。

「私もそう思います。この人は、何か変です」

 記者たちの発言を聞いたナオミ・タハラが、高橋に銃を向けたまま言った。

「上着を脱いで下さい。胸の前に伸びているチューブの先を見せていただけませんか」

 酸素マスクを手にした高橋諒一は、それを口に当てると深く呼吸をして、タハラの要求を無視した。

 ナオミ・タハラが大きな声を出す。

「見せなさい!」

 酸素マスクを放り投げた高橋諒一は、少し振り向いて声を張った。

「誰か、誰か居らぬか」

 記者たちが入ってきたドアと向かいの壁のドアが開き、戦闘服姿の兵士たちが小銃を抱えて駆けつけてきた。武装した兵士たちは左右から記者たちを囲む。

 老人は言った。

「全員を拘束しろ」

 素早く老人の側頭部に銃口を押し当てたナオミ・タハラが、兵士たちに鋭い視線を向けて声を放った。

「それ以上近づけば、この人を撃ちます!」

 兵士たちが立ち止まり、タハラに小銃の先を向けて構える。

 老人は目を瞑ったまま彼女に言った。

「無駄なことはよせ。そんなことをすれば、ここから生きては出られんぞ」

 ナオミ・タハラは静かに言った。

「タイムマシンの設計データをお渡し下さい」

「それは無理な相談じゃ」

 老人がそう答えた時、兵士の一人がタハラに狙いを定めた。

 老人は手を上げてそれを制止すると、兵士たちに言った。

「狙いは記者たちに向けておけ。誰もタハラを撃ってはならん。この者は、ワシが亡きあと、ASKITを支える人物じゃ。決して撃ってはならん」

 兵士たちは小銃を構えたまま、互いに顔を見合わせた。

 春木陽香がキョロキョロと兵士たちの顔を見回す。

 山野紀子が老人に言った。

「さっきはタハラさんを脅してたじゃないのよ」

「紀子、よせ」

 神作真哉が山野を制止した。

 老人は山野に視線だけを向けて言った。

「ここから勝手に出ようとすれば、ワシとしても対処せねばならんが、この島に残るかぎり、タハラは安全じゃ」

 目線を横のタハラに向けた老人は、落ち着いた声でゆっくりと言った。

「タハラ、銃を下ろせ。つまらぬことで、得られるはずの利益を無にすることはない。ワシは、この組織をおまえに譲るつもりなのじゃぞ。考え直せ」

 兵士たちは再び顔を見合わせた。どの兵士も顔をしかめている。

 顔を老人に向けたまま視線だけを動かして素早く兵士たちの反応を観察したナオミ・タハラは、目を閉じて言った。

「すみません、閣下……」

 そして瞼を上げると、老人を見え据えて言った。

「閣下の御厚情には感謝いたします。ですが、私は、私がやるべきことをやります」

 ナオミ・タハラは老人の側頭部に銃口を押し当てたまま、周囲の兵士たちに顔を向けて大きな声を放った。

「あなた方に要求します。オスプレイの離陸の準備をしなさい。それから、ここにいる記者の全員が安全に移動できる大型車を準備しなさい。そして、ラングトン社長をここに」

 老人が言う。

「あの女のことを気にすることはない。奴は日本政府に引き渡すつもりじゃ」

「そんな……」

 ナオミ・タハラは驚いた顔を老人に向けた。

「話が違います。ラングトン社長については協定条項に何も記載されていません。なぜ、社長まで」

「彼女は『証人』じゃよ。ワシがASKITの頭領であるということを証人に証言させると言ったじゃろう」

「その証言は私がします。ですから、社長を解放して下さい」

「タハラ、ラングトンごときに義理を尽くすことはない」

 ナオミ・タハラは老人の側頭部に当てた拳銃を少し押して、言った。

「私はラングトン氏の秘書です。彼女は連れて帰ります」

 頭を傾けた老人は、笑みを浮かべた顔で言う。

「忠臣を通すか。立派じゃのお」

 そして、老人は兵の一人に目配せすると、ラングトンを連れてくるよう指示した。

 ナオミ・タハラは少し振り向いて、記者たちに言った。

「早く協定書にサインしなさい。ここから脱出します」

 山野紀子が純銀製の万年筆を振って見せながら応えた。

「もう、とっくにしているわよ。後はハルハルだけよ」

「紀子」

 口を滑らせた山野を神作真哉が再び制止した。

 ナオミ・タハラは春木に視線を向ける。

「ハルハルさん、早くサインをしてください。二冊のうち、ここに残す方の一冊だけでもいい。急いで」

 春木陽香は首を横に振った。

「この協定書に私が署名したら、協定の効力が発効するんですよね。そしたら、ここの兵隊さんたちは日本のAB〇一八の施設に乗り込んで行くんですよね。そして、AB〇一八を消しちゃって、世界中を大混乱にする。私は、そんな協定には署名できません」

 ナオミ・タハラが言った。

「それは私が止めます。それに、協定の効力発効の条件はもう一つあります。あなた方が無傷のまま生きて帰国すること。ASKITも日本と交戦すること無しに効率よくAB〇一八の施設まで兵を送り込みたいはずです。だから、あなたが署名すれば、彼らはあなた方を生きたまま帰国させようとする。ですが、もし、あなたがこのまま署名しなければ、その時点で協定は無意味となります。あなた方はここで殺されてしまうのですよ」

 春木陽香は真剣な顔で言った。

「でも、関係も無い多くの人々を犠牲にする方法なんて、絶対に間違えていますよ。それに、自分だけは家族と一緒に過去に逃げるなんて。家族も大事でしょうけど、職業人としての責任も大切なんじゃないですか。あまりにも、針が一方に振れ過ぎています。閣下さん、日本政府と協力してAB〇一八を修理する内容で再協定して下さい。その内容なら、私は署名します」

 永山哲也が春木に言った。

「ハルハル、いいから署名しろ。この爺さんは逃げ出すつもりなんだ。後はタハラさんにASKITを譲ると言っていたじゃないか。だったら、タハラさんと改めて話をすればいい。署名しても大丈夫だ」

 春木陽香は老人を見つめたまま、永山に答えた。

「いいえ。それは信用できません。きっと閣下さんは、そのようなことまで既に検討し尽くしているはずです。おそらく、『過去』に戻り、何かの準備をするつもりなのではないでしょうか。私や皆さんを抹殺するか、計画通りAB〇一八を消滅させるための何らかの準備を」

 老人は春木の目をにらみながら呟いた。

「疑り深いのお」

 春木陽香は言う。

「記者ですから」

 ナオミ・タハラが春木に言った。

「ですが、日本に帰れば何らかの手が打てます。まずは生きて帰ることを優先させてください」

 山野紀子も万年筆を差し出して言った。

「ほら、ハルハル、さっさと署名しちゃいなさい」

 春木陽香は汚れたスカートの横で拳を握り、首を左右に振った。

「嫌です。絶対にしません」

 神作真哉が厳しい顔で春木に言った。

「俺たちの身が危険になるんだぞ。早く署名しろ」

 春木陽香は老人を見据えたまま答える。

「すみません。できません」

 ナオミ・タハラは唇を噛むと、少し考えてから老人に言った。

「西郷社長も呼んで下さい。生きているのですか」

 それは彼女なりの時間稼ぎだった。

 老人は頷く。

「当然じゃ。殺す価値も無い。おい、あの男に西郷を連れてくるように言え」

 老人が兵の一人に指示を出すと、その兵士が無線を送った。

 ナオミ・タハラは再び大きな声で兵士たちに言う。

「オスプレイと車両の準備は」

 老人は蛇のような冷たい目線をタハラに向けて、言った。

「おまえをこの島からは出さんぞ。それに、協定書への署名を拒否するのなら、この記者たちも生かして帰す訳にはいかん。オスプレイごと撃ち落すことくらい、我が軍にとって簡単なことじゃ。無理をすることはない。諦めて銃を置くんじゃ」

 ナオミ・タハラは静かに首を横に振る。

「いいえ。閣下も一緒に乗ってもらいます」

「タハラ!」

 老人が怒鳴った。ナオミ・タハラは老人に言った。

「兵士たちの前で閣下に辱めを受けさせる訳には参りません。閣下が胸に着けている装置が何なのか、日本で調べてもらう必要があります。それに、あの国は私と閣下にとって、帰るべき場所でもあります。共に帰国しましょう、閣下」

 老人はひどく狼狽した。

「ば、馬鹿を言うな。この中にある情報が日本に漏れたら、奴らはタイムマシンを量産するに違いない。人間が『時』を支配することになるのじゃぞ」

 神作真哉が老人を見据えて言った。

「やはり、バイオ・ドライブなんだな」

 ナオミ・タハラは老人の発言に答えた。

「その方がいいのかもしれません。人間は、人間を選別して殺すようなことはしません。私はそう信じています」

 老人は兵士たちに怒鳴った。

「何をしておる。さっさとこの女を殺せ!」

 兵士たちは一斉にタハラに狙いを定めたが、困惑した顔のまま引き金を引かない。

 周囲の状況を見回した山野紀子が、兵士たちに聞こえるように大きな声で言った。

「どうも変よね、さっきから。殺すなって言ったり、殺せって言ったり。なんか、このお爺ちゃん、言っていることが一定していないわね。こんな人の言うことを真に受けてもいいのかしらねえ」

 神作真哉も大きな声で言った。

「ああ。バイオ・ドライブと脳を直結しているせいかもしれんなあ。これまでの話自体も正気で話していたのかどうか分からんぞ」

 兵士たちは互いに顔を見合わせた。数人の兵士たちが訝しげな視線を老人に向ける。

 ナオミ・タハラは黙って老人に銃口を押し付けていた。

 すると、拍手を打つ音が鳴り響いた。音した方に兵士たちが銃口を向ける。

「ブラヴォ、ブラヴォ。いやあ、なかなか面白い舞台だった。すばらしい。本当に楽しませてもらったよ」

 階段の下から白いスーツ姿の「刀傷の男」が姿を現した。拍手をしながら階段を上がってくる。その後からニーナ・ラングトンが現れた。二人はそのまま歩いてくると、玉座の横に並んで立った。

 拍手を止めた刀傷の男が、ニヤニヤとしながら言う。

「なんだ、偉そうなことを言っていたが、あんたも俺と同じじゃないか。邪魔な駒はすぐに排除。いやあ、気が合いそうだったが、残念だな」

 ナオミ・タハラがフランス語で言った。

『社長、こちらへ。島から脱出します。閣下はあなたを日本政府に引き渡すつもりです』

 ニーナ・ラングトンは玉座の黄金の肘掛を指先で撫でながら言った。

『そしてASKITは、タハラに引き渡すつものなのね』

 ナオミ・タハラは困惑した顔で言おうとした。

『社長……』

 二発の銃声が鳴り響いた。

 ナオミ・タハラは体を反らせて前に押され、車椅子の後ろに倒れ込んだ。



                  24

「タハラさん!」

 春木陽香が叫んだ。

 老人が声を荒げる。

「タハラ! 誰じゃ、撃ったのは! 撃つなと言ったはずじゃ!」

 床に倒れているタハラの足下に歩いてきた刀傷の男は、大袈裟に深く溜め息を吐くと、老人に言った。

「あんた、さっき、この女を殺せと言ったじゃないか。なあ、西郷さん」

 赤いカーテンの横に、銃を構えている西郷京斗が立っていた。彼が握っている銃口から白煙が昇っている。

 刀傷の男は、横たわったまま動かないタハラの傍に屈んだ。テーラードカラーの首元に手を入れて、脈を確認しながら言う。

「人間が一番、同類を選別する生き物なんだよ。――ああ、死んじゃったか」

 春木陽香はタハラの傍に駆け寄ろうとした。兵士たちが銃口を春木に向ける。山野紀子が慌てて春木の腕を掴み、制止した。

 タハラの体の下から赤い血が床に広がっていく。

 神作真哉がラングトンに怒鳴った。

「なんてことを。この人は、あんたを守ろうとしたんだぞ!」

 ニーナ・ラングトンは両手を肩の高さに上げて首を横に振った。おどけた仕草をした彼女を、拳を握った永山哲也がにらみ付けた。

 刀傷の男が立ち上がり、車椅子の上の老人を一瞥して小さく笑うと、そのままこちらに歩いてくる。彼は、春木と山野の前も、神作と永山の前も素通りして、タイムマシンの前まで歩いていった。西郷京斗は銃口を老人に向けたまま、車椅子の方に歩いていく。

 刀傷の男はタイムマシンを近くで見上げながら言った。

「へえー。これがタイムマシンかい。あんた、これで逃げるつもりだったんだな」

 老人は周囲の兵士たちに怒鳴った。

「何をしている、さっさとこいつらを排除しろ。殺しても構わん!」

 刀傷の男がもっと大きな声で言った。

「やめときな、爺さん。何もかも放り捨てて逃げようとしている男のことを、誰が『頭』だと思う。なあ、そうだろ」

 刀傷の男は振り向いて兵士たちの顔を見回した。兵士たちは互いに顔を見合わせたまま動かなかった。

 老人が叫ぶ。

「どうした。早く殺せ!」

 戸惑っている兵士たちに、刀傷の男は顎先で春木たちの方を指し示した。

 兵士たちは一人ずつ記者たちに銃を向けていった。

 刀傷の男が言った。

「ほらな。もう、誰もあんたの指示は聞かないぜ」

 老人は刀傷の男をにらんで言った。

「貴様、裏切るのか」

 刀傷の男は頭を掻きながら、気だるそうに言い返した。

「別に忠誠を誓ったつもりは無いですがね。契約の解除ですよ。ラングトン社長の方が多く支払ってくれるようですので」

「分かった。ワシは、その倍を払おう。それでどうじゃ」

 刀傷の男は鼻で笑った。

「無理でしょう。だって、あんた、ここを捨てて逃げる気なんだろう? 全部聞かせてもらったよ。あんた、高橋諒一博士なんだってな。AB〇一八を俺たちに消させて、自分は安全な過去に家族と逃げる。そんないい加減な奴と契約なんて出来るかよ」

 神作真哉が口を挿んだ。

「協定はどうするんだ。そっちが結ぶ気が無いなら、俺たちは帰らせてもらうぞ」

 歩き出そうとした神作に刀傷の男が素早くリボルバー式の拳銃を向けた。

「おっと、そうは言っていないだろう。協定はASKITと日本政府が締結するんだ。あんたらには、その証人として、ちゃんと署名してもらう。そうしないと、協定の効力が生じないらしいからな」

 山野紀子は玉座の方に視線を向けた。裏面を見せる背もたれの向こうで、椅子に座り、はしゃいだ様子で脚を動かすラングトンの肩がちらりと見えた。

 顔の向きを変えた山野紀子は、刀傷の男を強くにらみ付けて言った。

「そのお爺さんが居なくなったら、ASKITを乗っ取るつもりね。あの女と二人で」

 刀傷の男は言う。

「俺は只の雇われだ。組織の統治には興味が無い」

 西郷京斗が拳銃を老人に向けたまま山野に言った。

「ASKITは永遠に不滅だ。こいつが居なくなっても壊滅などしない。乗っ取るだと? 人聞きの悪い。組織構成員の正当な選挙の下で、次の頭領を決めるのが民主的組織運営というものだろう。だが、その時、この窮地を救った功労者が最も多く票を獲得するのは、目に見えていると思わないかね」

 永山哲也が西郷に言った。

「それが狙いか。あんたはラングトンと組んで、次の頭領の椅子を狙っているんだな」

 西郷京斗はあっさりと答える。

「そうさ。だから、帰国したらしっかりと事実を記事にしてくれよ。この爺さんがした話をな」

 神作真哉が鼻で笑った。

「裏の取れない話など、軽々しく記事にできるか」

 老人が声を荒げる。

「ワシを売るつもりか!」

 西郷京斗は笑みを浮かべながら言った。

「組織を裏切れば、制裁されるべきなんだろう? じゃあ、あんたにも罰が与えられないとなあ」

「この恩知らずめが! 恥を知れ!」

 そう言った老人に、西郷京斗は顔を近づけて言った。

「恩? 他人を何日も汚い牢獄に閉じ込めておいて、恩だと。ふざけるな! 『過去』に逃げて何をするつもりか知らんが、絶対に『過去』になどは行かせないからな!」

 老人は顔を逸らして言う。

「無駄じゃ。愚か者共が。ワシは『過去』に行くのじゃ。それは決まっておる」

「いや、どうかな。あんたに手紙を送ったのは、俺かもしれないぞ」

 そう言うと、西郷京斗は老人のシャツを引っ張り、胸を開かせた。千切れた釦が絨毯の上に転がる。

「や、やめろ!」

 老人は必死に抵抗した。西郷京人が老人の腕を払ってシャツを開く。

 老人の痩せた胸の中央には、金属製の黒い箱が埋め込まれていた。



                 25

 老人のはだけたシャツの間から、四角く黒い箱が覗いている。その金属製の弁当箱のような箱は、厚さの半分程を老人の痩せた胸の中に埋めているようだった。箱の表面には大きな傷がある。箱の上部から伸びた二本のケーブルが、老人の左右の鎖骨の方に走り、そのままシャツの中に消えていた。

 西郷京斗はシャツを引っ張り、その箱を刀傷の男に見せて言った。

「これだな、司時空庁からおまえか盗み出したバイオ・ドライブは」

「ええ、そうです。間違いありませんね。その傷に見覚えがある」

「……」

 永山哲也は眉間を強く寄せて黙っていた。

 老人は胸元を必死に隠そうとしたが、西郷京斗が老人の痩せた腕を掴んで押さえつけた。彼は周囲の兵士たちに言う。

「見ろ。これが俺たちのボスの正体だ。天才なんてのはインチキだよ。機械と脳を直結していただけだ。騙されていたんだよ、俺たちは」

 兵士たちは警戒した様子で少しずつそれぞれの間合いを詰めると、互いにヒソヒソと何かを話し始めた。

 老人は西郷に押さえつけられたまま、必死に叫ぶ。

「ち、違う。これは生命維持装置じゃ。神経伝達の補助装置じゃ」

 神作真哉は隣の永山に言った。

「永山、あれか、おまえがタイムマシンに乗せたのは」

 永山哲也は老人の胸部を観察しながら自信無さそうな声で答えた。

「ええ……たぶん。しかし、まさか、体に埋め込んでいたとは……」

 山野紀子が眉をひそめながらい言う。

「本当に、脳と生体型ドライブを繋いでいたのね。だから異常に長生きすることが出来ているのかしら……」

 春木陽香が隣の山野に言った。

「朝美ちゃんが言ってた、あれ、ええと……『変調療法』ですよ、きっと。バイオ・ドライブからの信号を利用して、体の治癒能力を上げているのかもしれません」

 永山哲也が神作に言う。

「ていうか、バイオ・ドライブの人工細胞自体を利用しているんじゃないでしょうか」

「ああ、たぶんな。脳以外は現代医療技術でも代替が可能だが、脳は入れ替えられない。だから、劣化する脳機能をバイオ・ドライブの人工細胞で補っているのかもしれん」

 神作真哉がそう言うと、すぐに山野紀子が言った。

「あるいは、その両方かもね。ハルハルが言ったことも、哲ちゃんが言ったことも当たっているんじゃないの」

 神作真哉は老人の胸のバイオ・ドライブを見つめたまま、黙って頷いた。

 老人は必死に訴える。

「これはバイオ・ドライブではない! 田爪君のデータは別の場所じゃ!」

 西郷京斗は老人を無視して言った。

「AB〇一八が製造された二〇一八年に行って、これをストンスロプ社にでも売ったら、高額で買い取ってくれるだろうな。いや、やはりNNJ社に持ち込もう。それが、我が組織のためになる」

 永山哲也が西郷の背中をにらんで言った。

「あんたも同じ穴のむじなか」

 春木陽香は西郷に怒りをぶつけた。

「あなたも過去の世界に逃げるつもりなんですか。その中の研究データは、世の中のために使われるべきものなんですよ! 田爪博士も、瑠香さんも、きっとそのために命を懸けたんですよ! タハラさんだって! ……タハラさんだって、世の中の人々のために頑張ろうとしたのに! なんで撃ったんですかあ! どうしてみんな、お金儲けとか権力のことしか考えないんですかあ!」

 西郷京斗は老人から手を離すと、春木の方を向いて言った。

「いいや、私は逃げるのではない。支援要員だよ。『過去』からのな。ASKITがASKITとして、これからも世界に君臨し続けることが出来るように、私が『過去』に行き、『過去』から支援するのさ。組織のみんなのためだよ」

 山野紀子が西郷の顔をにらみ付けて言う。

「嘘言いなさい。あんた、一儲けを企んでいるだけでしょ。そういう目をしてるわよ」

 車椅子の上で、両腕で胸元を覆い背中を丸めていた老人が、肩を震わせて笑った。振り返った西郷京斗は、再び拳銃を老人に向けて怒鳴る。

「何を笑っている! 何がおかしい!」

 老人は顔を上げ、西郷をにらみ付けた。

 西郷京斗は老人の胸元に左手を伸ばし、胸に埋め込まれた箱を掴んで言った。

「これを外せば、あんたは死ぬはずだ。どうだ、恐いか」

 老人から無理矢理バイオ・ドライブを外そうとする西郷に、神作真哉が叫んだ。

「おい、やめろ! 本当に死ぬぞ」

 老人は西郷の目を見て言った。

「西郷、この愚か者が。NNJ社に渡すじゃと? では今、それは何処にある。『過去』の世界でNNJに渡すのなら、今、それを貴様が持っているはずじゃろうが。そもそも貴様、過去に『未来』からやってきた自分に会ったことがあるのか? これまでに、これと同じ物を見たことがあるのか?」

 バイオ・ドライブから手を離した西郷京斗は、困惑した顔で一歩下がった。

 老人は西郷の顔を見据えて言う。

「貴様はNNJ社にも、NNC社にも、他のASKITの傘下企業にも渡さんのじゃよ。だいたい、組織を裏切ろうとした貴様が、そんなことをするはずがないじゃろうが。自分のことも、ろくに分かっとらんようじゃの」

 西郷京斗は銃口を老人に向けた。老人は西郷の目を見て片笑みながら言う。

「貴様の反乱は失敗するのじゃ。だから、今、貴様はこれと同じものを持っていない」

 拳銃を握っている西郷の手は震えていた。

 玉座から立ち上がり、台座の上から降りてきたニーナ・ラングトンが、腰を振りながら歩いてきて、黙って春木を指差した。

 刀傷の男が春木に銃を向けて言った。

「こっちはバイオ・ドライブになど興味は無い。さっさと署名しろ。生きて帰してやる」

 春木陽香は刀傷の男をにらんで、はっきりと言った。

「嫌です。この協定内容が実行されたら、AB〇一八が消されて、IMUTAも壊れて、SAI五KTシステムが崩壊しちゃうんですよ。そしたら、世界中の人々が困ります。分かってるんですか」

 刀傷の男は春木に言った。

「知るか。SAI五KTシステムが崩壊してくれた方が、こっちにとっては都合がいいんだよ」

 神作真哉が刀傷の男とラングトンを交互に見て言った。

「貴様らの狙いはそれだな。システムの崩壊によって世界中が混乱状態になったのを契機にASKITの勢力拡大を図ろうとしている」

 西郷京斗は言う。

「世界支配だよ。我がASKITが地球上を支配するんだ」

 それを聞いた兵士たちは、小銃を構え直し、春木にしっかりと狙いを定めた。

 老人は西郷に言った。

「世界支配じゃと? 地球上を支配する? 貴様とラングトンでか。ならば、タハラを殺したのは失敗じゃったの。ゴホッ、ゴホッ……。貴様らの足らん脳ミソでは、世界どころか、地域一つも治められんわ。ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 老人が激しく咳込み始めた。

 刀傷の男が吐き捨てるように言った。

「いつまでも強がっていろ、爺さん」

 彼は春木に向けたリボルバー式の銀色の拳銃の撃鉄を、ゆっくりと親指で下ろした。

「おい、さっさと署名しないか」

 春木陽香は首を横に振る。

「嫌です。署名はしません。どうしても私に署名して欲しいのなら……」

 刀傷の男は春木の発言の途中から大きな声で言った。

「あんたを傷つけないようにして苦しませる方法はいくらでもあるんだぞ。例えば、あんたの家族を連れてきて、目の前で拷問するとかな」

「この野郎……」

「キャップ」

 刀傷の男に近づこうとした神作真哉を永山哲也が後ろから羽交い絞めにして止めた。そして、神作に耳打ちする。

「キャップ、奴の胸元を見て下さい」

 神作真哉は刀傷の男の胸の辺りに視線を向けた。刀傷の男が神作の視線に気付き、それを追って自分の胸元を見る。赤い光点が映っていた。刀傷の男は慌てて床に身を倒した。一瞬の風を切る音の後、後方の壁の絵画に拳大の穴が開いた。

 刀傷の男は床に伏せたまま、兵士たちに叫んだ。

「スナイパーだ! 敵がいるぞ!」

 兵士たちは一斉に一階の大広間の方を向き、据銃して腰を落とした。

「くそ!」

 兵士の一人がそう叫ぶと同時に、肩の防具から火花を散らして床に倒れた。他の兵士たちは一斉に床に伏せ、伏射体勢をとった。ラングトンも慌てて床に伏せる。西郷京斗は老人が座っている車椅子を盾にして、その陰に隠れた。

 山野紀子と春木陽香は顔を見合わせると、二人してニヤリと笑って頷いた。しかし、彼女たちの期待は大きな爆音によって一瞬で消し飛ばされた。一階の大広間の窓から、外で黒い大きな煙が上がるのが見えた。その向こうの森にロケット弾が何個も降り注いで、たて続けに爆発する。遠くの滑走路からは幾筋も黒煙が昇っていた。再び高い音が鳴り、爆音がして、凄まじい振動が床を揺らす。永山哲也と神作真哉は、天井で大きく左右に揺れているシャンデリアを気にしながら、入ってきた入り口に近い壁に寄った。春木陽香と山野紀子も身を低くしながら、反対側の壁に走る。洋館の中に警報音が鳴り響いた。

 春木陽香と山野紀子は壁際に並んで立ち、少しずつドアの方に移動していた。

 老人は二人を指差して叫んだ。

「この記者たちじゃ。こいつらが約束を破ったんじゃ。記者たちを殺せ!」

 山野紀子は目を剥いて言い返す。

「知らないわよ! なんでもかんでも他人のせいに……」

 兵たちが山野に銃を向けた。春木陽香が山野を引っ張って行こうとする。

 刀傷の男が床に伏せたまま銀色の拳銃を振って叫んだ。

「駄目だ! 殺すな、人質に使える。そいつらを逃がすなよ!」

 ニーナ・ラングトンがドアを開けて廊下に駆け出していった。それを見た刀傷の男は舌打ちして言った。

「あの女、逃げやがった。――西郷! そのジジイを連れて行け! そいつが本物の高橋博士なら、プレミア・チケットになるぞ!」

 西郷京斗は抵抗する老人を後ろから羽交い絞めにすると、そのまま車椅子を押して移動しようとする。刀傷の男は兵たちに指示した。

「潜んでいる狙撃手を探せ! この部屋の中に……」

 近くで凄まじい爆音が響いた。一階の大広間の奥に見えていた両開きの大きな扉が、枠ごと吹き飛ばされて宙に舞う。二枚の大きな扉は、まるで風に舞う落ち葉のようにゆっくりと回転しながら落下し、大理石の床の上に衝突して砕けた。立ちこめる黒煙の中に外からの光が射し込む。その光を背にして大きな人影が幾つも現れた。人影は機械音と金属音を交互に鳴らしながら前進してくる。

 黒煙を切り裂いて姿を現したのは、全身を深紅のアーマースーツで覆った鋼鉄の兵士たちだった。



                  26

 島の滑走路に幾筋もの黒煙が上がっている。ミサイルが黒い尾を引いて直進し、格納庫や整備舎を次々に破壊していった。続いて雨霰のように降ってきたミサイルが、駐機されていたオスプレイを正確に爆撃していく。地表の兵士たちは四分五裂に逃げまどい、安全な場所へと退避した。兵士の一人が急いで通信する。

「くそ! どうなってるんだ。エアポートだ。空から攻撃を受けている。繰り返す。空から攻撃を受けている! ミサイル攻撃により、こちらの航空戦力を叩かれた。至急、巡洋艦を出して迎撃態勢を……」

 兵士は空を見上げた。上空を飛び越えた数発の中距離ミサイルが島の中心部へと向かっていく。それらは森の中や畑に着弾し、炎の固まりを幾つも膨らませた。彼の無線機に雑音と銃声に混じって応答が届いた。

『こちら第一港。現在敵と交戦中。応援を回してくれ! チクショウ! きやがれ! うわっ……』

 大きな銃声の後、雑音が通信を遮った。続いて別の通信が入ってくる。

『――ディフェンス・ツーまで退避しろ。繰り返す。エアポートは放棄。防衛線を立て直せ。至急、ディフェンス・ツーまで退避しろ!』

「わかった。直ちに向か……」

 上から降り注いだ銃弾に、その兵士は倒れた。上空には真っ赤なオムナクト・ヘリが何機も飛んでいた。機体から四方に伸びた支柱の先端に付いている多角可動式回転翼「オムニローター」の下には、むき出しの銃座が設置され、赤い装甲具を着た兵士がグリップを握っている。その銃座の下に固定された大型の機関砲が火を噴きながら、地表に激しい銃撃を加えた。同時に、機体の左右の側面から畳一枚程度の大きさの壁板が、鳥が羽を広げるように、上部のつがいの部分を軸にして次々に上げられた。そこに開いた出口から、赤い鋼鉄の鎧に身を包んだ兵士たちが粘性ワイヤーで次々と降下してくる。地表の部隊の兵士たちは、慌てて量子銃を構えた。兵士たちは口々に叫ぶ。

「くそ! インビジグラム装甲だ。透明化して接近してきやがった。プラズマ・ステルスも装備してやがるぞ、どうなってんだ!」

「知るかよ。さっさと反撃しろ! これ以上、敵を降下させるな!」

「野郎、どこの奴らだ。国連の海兵隊か。協働部隊の連中か!」

「違う! あいつら、深紅の旅団レッド・ブリッグだ! 日本軍だぞ」

「日本軍? くそ、舐めやがって。返り討ちにしろ!」

「駄目だ、この量子銃、使えねえじゃねえか! 反応しないぞ。どうなってるんだ!」

「こっちも駄目だ。壊れてるんじゃねえか、これ!」

「通常武器に切り替えろ! 高角砲でヘリを撃ち落せ!」

 兵士たちは量子銃を投げ捨て、次々と通常の機関銃を構えた。すると、滑走路の端の海岸線の向こうに、天に向かって垂直に延びる赤く細い光線が何本も並んだ。海岸線の端から端まで立ち並んだ赤い縦線は、こちらに向かって一斉に倒れた。光線が地面と水平になると、その光源に横一列に並んだ赤い装甲兵たちが海岸線の下から一斉に姿を現し、内陸に向けて猛烈な射撃を開始した。弾丸が空気を切り裂き、火の筋を引く。無数の閃光が走り、内陸にいた兵士たちは次々に倒れていった。塹壕ざんごうに飛び込んだ兵士が血相を変えて通信する。

「海岸線から歩兵が上陸してきたぞ! 敵は多数だ。大隊、いや、連隊規模で総攻撃を受けている。敵の装備はアーマースーツに重機関砲! 日本の深紅の旅団レッド・ブリッグだ! 繰り返す。敵は日本軍の深紅の旅団レッド・ブリッグ!」

 洋館が建っている丘では警報が鳴り響いていた。丘の側面の崖に作られたトンネルから、武装した兵士たちを乗せたジープが何台も猛スピードで出てくる。トンネルの横には傭兵たちの指揮官が立ち、無線で司令を出していた。

「配置につけ! 防御壁を緊急上昇させろ! 敵を堡塁ほうるいから中には入れるな! 塹壕に機銃部隊を回せ、掩体えんたいからも一斉掃射だ。ファーストラインは伏射態勢、セカンドラインに砲列を敷け! 固定砲は全砲門も開放、零距離射撃に備えろ! 敵は日本の深紅の旅団レッド・ブリッグだ! 奴らは陸戦部隊だ、射界を保てば、こちらが有利だ。怯むな、撃ち払え!」

 丘の周囲の地中から次々と鋼鉄の防御壁が上昇し、島内の中心にある丘とその上の洋館を囲んだ。海岸線に近い陸地では、凄まじい銃撃が続いている。砲煙弾雨の中、太い光の帯が黒煙を引きながら猛烈な速さで伸び、その先で激しく爆発した。指揮官のイヤホンマイクに通信が入る。

『榴弾砲です! 敵の歩兵は、上空から堡塁内域に、どんどん降下してきています! 敵の装備もレベルが高い。歯が立ちません!』

 指揮官はすぐに指示を出した。

「敵のアーマースーツは最新式だ。徹甲弾を使用しろ! 通常弾丸では通用せんぞ。こっちの機械化歩兵部隊も出せ! くそっ」

 指揮官は空を見上げた。数機の赤いオムナクト・ヘリが地上からの弾幕を掻い潜り、防御壁の内側に飛んでいった。その中の一機は、洋館の上空で素早く急旋回すると、そこで周囲に銃弾を飛ばしながらホバリングし、機体から赤い装甲兵たちを降下させる。防御壁で囲まれた敷地内に粘性ワイヤーで降下した赤い兵士たちは、地表に降り立つとすぐに外を向いて円陣を組み、腰の横に抱えた大きな機関砲を周囲に向けて構えた。そして、一斉に連射を始めた。

 洋館の護衛兵たちは遮蔽物に身を隠しながら赤い標的に向かって射撃を続けた。弾丸は赤い兵士を直撃したが、彼らの全身を覆っている超合金製の赤い鎧兜は、その弾丸を尽く弾き返した。赤い装甲兵たちは敵からの銃弾を正面で受け止めて全身から火花を散らしながら、腰に抱えた大型の機関砲の連射と共に前進を続ける。彼らが放つ弾丸はコンクリート製の壁や彫刻を粉砕し、そこに身を隠していたASKITの傭兵たちを容赦なく射抜いた。特殊な弾丸で防具や武器の上から体を撃ち抜かれた傭兵たちは、薙ぎ払われるように倒れていった。

 赤い装甲兵たちは、横たわる傭兵たちの死体を踏み越えて、発砲しながら前進していった。



                  27

 新日ネット新聞の社会部フロアには張り詰めた空気が流れていた。

 上野秀則が眉間に深い縦皺を刻んで言う。

「はい? 深紅の旅団レッド・ブリッグを派兵? じゃあ、もう島は特定しているのですか?」

 杉野副社長も眉を寄せて頷く。

「ああ、目的地も分からんのに出撃はしないだろう」

 勇一松頼斗は顔の前で手を一振りした。

「そりゃ当然よね。私たち素人に見つけられるなら、向こうさんが本気出せば、簡単に見つけられるってことだもんね」

「レッド・ブリッグ……」

 山野朝美は大人たちの顔を見回しながら、怪訝そうな顔で呟いた。

 別府博が愁眉を開いた顔で朝美に言う。

「これでもう大丈夫だ。なんてったって、あの極秘の最強部隊『深紅の旅団レッド・ブリッグ』だからな」

 別府に厳しい視線を送る杉野副社長と重成の横で、山野朝美は目を輝かせて言った。

「さ、最強部隊……かっくいい……」

 朝美に口角を上げて頷いて見せた永峰千佳は、安堵した表情で上野に言った。

「これで、ハルハルたちも助かりますね」

 上野秀則は険しい顔を戻さない。そんな彼に杉野副社長が言う。

「総攻撃を掛けるそうだ。政府はASKITを力技で完全に潰す気だ」

「そ、総攻撃って、ウチの記者たちの救出もしないうちにですか」

「もう始まっているらしい。国防軍は神作たちが……」

 不安そうな表情で大人たちの顔を見回している朝美を一瞥して、杉野副社長は少し声を小さくした。

「神作たちが生存している確率は、絶望的に低いという結論に達したようだ」

「な、そんな。ただの確率論でしょ!」

「分かってる。俺もそう言っただろう。実際、政府内にも反対意見があるそうだ。だが、機を掴んだ国防軍は一気に敵陣を叩く構えを崩さないらしい」

 勇一松頼斗が苛立った様子で言う。

「いったい何考えてんのよ。ハルハルたちは民間人なのよ。自国の民間人を守るのが軍人でしょうが」

 上野秀則も苛々とした調子で言った。

「しかも、こっちはマスコミですよ。昨夜の救出劇もあるのに、軍はいったい何を……」

きじだ……」

 ボソリとそう呟いた別府博に、全員が視線を向ける。

 顔を上げた別府博は言った。

「雉ですよ、ハルハルが言っていた。ええと、あれ、『雉の頓使ひたつかい』。ハルハルたちは、あの雉と同じなんですよ。ただの使い捨てにされて……」

「別府!」

 怒鳴った上野秀則が、厳しい顔を別府に向けたまま、視線で朝美を指した。山野朝美は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 重成直人が記者たちの輪から少し離れ、一緒に離れた杉野副社長に小声で確認した。

「民間人をビーコン代わりにした事実を葬り去るためか」

「たぶんな。敵ごと、こっちの記者たちも消すつもりだ」

 谷里部長が高い声で杉野に言った。

「副社長、なんとかならないんですか。あんまりじゃないですか」

「ちくしょう……」

 電話の子機を持ち上げてボタンを押し始めた上野に、勇一松頼斗が尋ねた。

「どこに掛けるのよ」

「ストンスロプ社の光絵会長だ。あの人なら、軍を止められ……」

 杉野副社長が冷静に彼を止めた。

「上野、深紅の旅団レッド・ブリッグを動かしているのが誰か、知っているだろう。よく考えろ」

 深紅の旅団レッド・ブリッグと呼ばれる国防陸軍第十七師団は内閣総理大臣の直轄部隊であると噂されている。内閣総理大臣・辛島勇蔵の背後にストンスロプ社がいることは周知の事実だった。

 上野秀則は悔しそうに子機を机の上に戻した。その時、割れんばかりの大声が響いた。

「やっぱり、大人、駄目じゃん!」

 大声でそう怒鳴った山野朝美は、ゲートの方に駆け出していく。

「ちょっと、朝美ちゃん」

 永峰千佳が追い掛けた。

 ホログラフィーの地図を囲んで立つ記者たちは、ただ黙っていた。



                  28

 豪華な大広間には黒煙が立ち込めていた。大理石の床や中央の絨毯の上に破壊されたドア板の木片が散らばっている。その上を弾丸が飛び交う。階段の下から攻撃する深紅のアーマースーツの兵士たちと、階段の上の二階から応射するASKITの傭兵たちとの間で、凄まじい銃撃戦が続いていた。鳴り響く銃声の中で傭兵の一人が通信する。

「アーマースーツ部隊の応援はまだか! 敵がマシンに近づいている! 急いでくれ。食い止め切れん!」

 深紅のアーマースーツに身を包んだ兵士たちは全身から火花を散らして弾丸を弾き飛ばしつつ、猛烈な発砲を続けながら少しずつ階段に近づいてくる。傭兵の一人が天井のシャンデリアに向けて発砲した。巨大なシャンデリアが一人の赤いアーマースーツ姿の兵士の上に落下し、音を立てて砕け散った。ガラス片が飛び散り、シャンデリアのフレームがバラバラに壊れ、装飾のガラスが崩れ落ちる。赤い装甲兵が立っていた位置にガラスの破片が積み上がった。他の傭兵たちも同じようにシャンデリアを撃ち、次々に赤い兵士たちの上に落下させる。凄まじい銃声の中でガラスが砕け散る不快な音が何度も響いた。飛び散ったガラス片が二階の玉座の周囲まで飛んでくる。部屋中に響いていた低く重い銃声が断ち切れた。傭兵たちも射撃を中断する。一階部分の大広間にガラスの山がいくつも並んだ。それはアーマースーツの兵士の墓標のようだった。硝煙と静寂が辺りに漂う。すると、そのガラスの山の一つが内側から赤い影を覗かせながら倒壊した。光を返しながら崩落するガラスの中から赤い装甲兵が立ち上がる。その装甲兵はシャンデリアの支柱の残骸を重そうに退かすと、鋼鉄のブーツでガラスの破片を踏みつけながら、再度、前進と射撃を始めた。他のガラスの山からも赤い装甲兵が次々と立ち上がり、攻撃を再開する。

 壁際で床に伏せていた神作真哉は、革製のファイルで頭と肩に乗ったガラスの破片を払いながら叫んだ。

「くそ! どうなってんだ!」

 同じように伏せて耳を押さえていた永山哲也は、すぐ近くの神作に叫んだ。

「分かりませんよ! あの赤いアーマー・スーツ、深紅の旅団レッド・ブリッグじゃないですか」

「はあ? 何だって?」

「レッド、ブリッグう! 国防軍ですよ! 例の極秘特殊部隊!」

「国防軍? 何でこの場所が……」

 神作真哉が少し身を起こし、開いていたドアから部屋の外の廊下の方を覗くと、窓の外で再び激しい爆発が起こった。廊下の窓ガラスが爆風と共に入り口から中に吹き飛んでくる。革製のファイルで咄嗟に頭を覆ったまま、神作真哉は叫んだ。

「くそ。無茶苦茶しやがるな。何考えてんだ!」

 神作真哉は顔を上げて、山野と春木を探した。その時、向こうから、体中に銃撃を受けながらASKITの傭兵が後退して来て、神作の方に倒れ込んだ。神作真哉は慌てて身をかわして兵士を避けた。床に倒れたその兵士は、銃弾に装甲具ごと何箇所も撃ち抜かれていて、その場で息絶えた。まだ若い西洋人の男だった。同情の眼差しを向ける神作と永山の周囲にも銃弾が激しく浴びせられる。二人は壁際に伏せたまま身を丸めた。

 反対側の壁際で山野紀子が立ち上がり、手に持った協定書のファイルを一階に向かって大きく振った。

「ここよ、ここ! 助けに来たんでしょ。私たちは、ここに……」

「危ない!」

 春木が山野に飛び掛かり、二人で床に伏せた。山野が立っていた所の後ろの壁に容赦なく無数の銃弾が撃ち込まれる。二人は匍匐ほふく前進しながら近くの柱の陰に隠れた。

「な、何よ、今の。助けに来たんじゃないわけ? あの人たち、深紅の旅団レッド・ブリッグでしょ。国防軍でしょ」

 春木陽香は、何度も身を屈めて弾を避けながら、叫ぶ。

「私に聞かれても分かりませんよ。危ない! これ、リアル銃撃戦じゃないですかあ!」

「真ちゃんたちは?」

 山野紀子は首を伸ばして周囲を見回した。春木陽香が山野の半袖の端を引っ張って身を低くさせ、自分も二人を探しながら言う。

「向こうの壁の方だと……ああ、居た! ドアの横です。二人とも床に伏せてますよ」

「あんたも頭下げなさい! 流れ弾に当たるわよ!」

 山野紀子が革製のファイルで春木の頭を下に押さえつける。

 春木陽香は柱の陰にしゃがんだまま、山野に尋ねた。

「編集長と神作キャップは防災隊経験者ですよね。こういうの、慣れてるんじゃないですかあ?」

「慣れてるわけ無いでしょ! 防災隊と軍隊は違うのよ! うわっ、危な!」

「どこの部署にいたんですかあ」

「私が通信指令小隊で、真ちゃんが探索小隊。銃撃戦とは無縁よ!」

 二人は必死に、壁際の太い柱の影に身を隠した。

 大広間には高低それぞれの銃声が鳴り響き、無数の閃光が飛び交っていた。



                  29

 神作真哉が匍匐ほふく前進して永山の横に移動してきた。

「くっそお。何なんだよ。俺たちを殺す気かよ」

 永山哲也は頭を覆いながら一階の大広間を覗いて言った。

「ホントに、そうかもしれませんよ! 深紅の旅団レッド・ブリッグが噂通りの奴らなら、僕らのことなんて御構い無しでしょうから。僕らのことを考慮してくれているなら、僕らがこの島を退去してから攻撃を始めたはずです」

「完全にハメられたな。俺たちを使って、この場所を特定したんだ。戦闘が終わった後で俺たちの死体が見つかっても、取材に来ていた馬鹿な記者四人が戦闘に巻き込まれたってことで終わりにするつもりかもな」

「民間人の僕らを餌に使ったとしたら、問題になりますからね。口封じした方がいい」

「不味いな。何とか脱出しないと」

 神作真哉が深刻な顔でそう言った時、横のドアの向こうから、聞き慣れない足音が聞こえてきた。神作真哉は永山に言った。

「ヤバイ、廊下の方から誰か来るぞ! 永山、伏せて死んだふりしてろ!」

 二人は慌てて床にうつ伏せになり、動きを止めた。

 モーター音と金属音を交互に響かせながら、短いテンポで踏み鳴らされる低い足音が、次第に大きくなってくる。

 神作真哉と永山哲也は毛並みの良い絨毯にうつ伏せて、息を止めた。

 大きな金属製のブーツが絨毯に靴底を埋めた。神作の足下には、緑色のアーマースーツで全身を覆った兵士が大きな機関銃を抱えて立っている。その後ろから、同じ緑色のアーマースーツを着た複数の兵士たちが突入してきた。兵士たちは一階の広間に向かって発砲しながら二階を奥まで走り、階段に沿って横一列に並ぶと、抱えた機関銃を素早く据銃して一斉に射撃を続けた。階段のすぐ前まで迫っていた深紅の装甲兵たちは、鋼鉄の鎧から火花を散らしてその場に留まり、腰に抱えた重機関砲で応射する。数人の赤い兵士が後ろに押されて倒れた。階段の上の緑色の装甲兵たちは鋼鉄の防具から火花を放ちながら、先端が二股になった最新式の機関銃を肩で構えて連射する。銃の先端の二つの銃筒が交互に前後しながら弾丸を発射し、階段の上から下に幾つもの白い線を引きながら、その先の赤い装甲兵を射抜いていった。赤い装甲兵たちが次々に床に倒れる。二階から連射していた緑色の装甲兵たちは新型の機関銃を撃ちながら一歩ずつ階段を下りて前進していった。端の緑色の装甲兵が猛烈に火花を散らして銃弾を受け止めながら、階段の上へと押し戻されていく。体を揺らしながら二階まで戻らされたその兵士は、上半身を神作と永山の前に投げ出して床に倒れた。鎧に開いた無数の穴から細い煙が昇っている。

 恐る恐る顔を上げた神作真哉が永山に言った。

「大丈夫か、永山」

「ええ、大丈夫です!」

 永山哲也は頭を上げると、目の前の装甲兵の遺体が握っている二股の機関銃を見て、神作に言った。

「それにしても、何ですか、こいつらの武器。最新式の機関銃ですかね」

「ああ、弾の発射速度が明らかに違うな。防具は深紅の旅団レッド・ブリッグと同じようなアーマースーツだが、銃器はこっちの方が上か」

「いや、この兵士の鎧を見てください。弾が貫通してます。深紅の旅団レッド・ブリッグは、かなり強力な弾丸を使用しているみたいですよ」

「マジか、くそ。こんなのに生身で当たったら、体がバラバラになっちまうじゃねえか。でも、なんでASKITの兵隊は量子銃を使わねえんだ?」

「たぶん相手もアーマースーツで全身を覆っているからじゃないですか。量子銃は人体に直接照射しないと有効じゃない。だから銃撃戦をするしか方法が無いんじゃないでしょうかね」

「方法がないって、おまえ、これ滅茶苦茶じゃねえか。撃ちまくってるぞ」

深紅の旅団レッド・ブリッグは徹底攻勢が売りらしいですからね。これが彼らの戦法なんじゃないですか」

「知るかよ。くっそー、とんだとばっちりだな。紀子とハルハルは」

「向こうの柱の陰です。二人とも無事です」

 神作真哉は永山が指差した方角に顔を向けた。柱の陰に隠れて、必死に口を動かしている山野と、横でコクコクと頷いている春木の姿が見えた。神作真哉は首を傾げた。

「あいつら、この銃弾の嵐の中で、何を話し込んでいるんだ? こっちを何度も指して」

「さあ。脱出の方法でも練っているじゃないですか。ノンさんがハルハルに何か指示しているみたいですよ。うおっ!」

 永山の頭上を弾丸が通過した。神作真哉と永山哲也は再び絨毯に顔を埋めた。



                  30

 反対側の壁に近い太く大きな柱の陰で、山野紀子は革製のファイルで頭を覆いながら話している。

「だからね、目玉焼きには絶っ対に塩なのよ。なのに真ちゃんは醤油なんですって。ね、おかしいでしょ」

 身を屈めて一階の広間の様子を見ながら、春木陽香が言った。

「どっちもおかしいですよ!」

「はあ? あんたが死ぬ前に私たちの離婚の理由を知りたいって言うから、プライバシーに関する話をしてあげたんじゃない! どっちもおかしいってどういうことよ。こんなことで離婚した私たちがおかしいって言うの?」

「違います。コショウです。私、目玉焼きにはコショウ派なんです。醤油も塩も、かけません!」

 山野紀子はファイルを頭に乗せたまま、神作たちの方と自分を交互に指差しながら春木に怒鳴った。

「あっちも私も変だって言うわけ? 何よ、それ。普通、女の私の肩を持って『塩の方がヘルシーですよね』とか言わない? しかも私、あんたの上司でしょ。少しは気を使いなさいよ!」

 春木陽香は、二階から階段を少しずつ下りながら射撃を続ける緑色の装甲兵と、一階の階段の手前で踏みとどまったまま一歩も後退せずに連射している赤い装甲兵を数えながら言った。

「塩は天ぷらです! 目玉焼きには掛けません。あいたっ」

 山野紀子はファイルで春木の頭を叩いた。

「なに小洒落たこと言ってんのよ! 天ぷらには天汁でしょうが!」

 春木陽香は頬を膨らませる。

 山野紀子はファイルを握った手で大広間の反対側の壁際を指した。

「真ちゃんはね、何にでも醤油を掛けるのよ。私が作ったコールスローにも醤油を掛けようとして、あぶっ! 危ないじゃないの! 何でこっちに弾を飛ばしてくるのよ! それはファウルでしょうが! これはファイル!、大事なファイルなのよ、これ!」

 彼女は一階の赤い装甲兵たちに向かってファイルを振りながら怒鳴り散らした。春木陽香が山野の腕を掴んで必死に屈ませる。その様子を見ていた神作真哉が永山に言った。

「紀子のやつ、こっちを指して深紅の旅団レッド・ブリッグの奴らに何か言っているぞ。協定書のファイルを振ってる。まさか、こっちまで走って来ようとしてるんじゃないか、アイツら!」

「こっちにファイルを持って来ようとしているのかも。でも危険すぎますよ。今はあそこに居た方がいい」

「いや、退避路は、ここのドアしか無いのかもしれんぞ。あいつらの位置からなら部屋全体が見えるが、こっちからは見えん。紀子のすぐ後ろのドアは開かないのかもしれんな。よし、俺がそこの倒れている兵士を抱えて、盾にする。おまえが二人をこっちの廊下まで連れて来い!」

「無茶ですよ。銃の威力が半端じゃない。全員撃ち殺されますよ」

「じゃ、どうするんだ! 深紅の旅団レッド・ブリッグの奴ら、少しずつこっちに前進してきてるじゃねえかよ!」

 永山哲也が神作の肩を掴んで叫んだ。

「待って下さい。ノンさんが向こうを指差してます!」

 永山哲也と神作真哉は山野が指差している方角に目を向けた。そこには、三階の天井から吊るされた赤いカーテンがあった。



                  31

 山野紀子は、自分たちの側の壁に掛けられている丈の長い赤いカーテンを指差して、春木に言っていた。

「だいたいね、カーテンの陰で人を頼って相談するくらいなら、どうしてさっさと降参しなかったのよ! 話が長引いたから、何だかややこしくなったんじゃないの! さっさとサインして帰ればよかったのよ!」

 春木陽香は目を丸くして反論した。

「ハードルを上げたのは編集長じゃないですかあ! 私、お腹空いてるのに、頑張ったんですよ!」

 山野紀子は向こう側で伏せている神作、永山、次に自分の順で指差しながら怒鳴った。

「真ちゃんも、哲ちゃんも、私も、サインしたくないのにサインしたのよ。生きて帰るためでしょうが!」

 そして、もう一度、赤いカーテンを指差して怒鳴る。

「あんな所に隠れて頭をフル回転させる暇があったら、適当にサインして帰国した後に、どうやってリベンジするかを考えなさいよ! 死んじゃったら何もできないでしょ!」

 必死の形相で向こう側の赤いカーテンを指差す山野の姿を遠目に見て、神作真哉が言った。

「向こうのカーテンの方だな。あそこに退避路があるのか?」

 永山哲也も真剣な顔で言う。

「分かりませんが、さっきハルハルは何度か、あのカーテンの裏の方に行ってましたから、あの裏で何か出口らしき物を見つけていたのかもしれません。どうします?」

 神作真哉は少しだけ頭を上げて、何とか階段の下を覗いた。緑色の装甲兵たちが赤い装甲兵たちに発砲しながら、後ろ向きに階段を上っている。緑色の装甲兵の間を抜けた弾が二階へと飛んできた。すぐに頭を下げた神作真哉は、反対側の赤いカーテンの方を覗いて言った。

「くっそー。かなりヤバイが、あの椅子の後ろを回れば、何とか行けないことはない。よし、床に這いつくばって移動するぞ、絶対に頭を上げるなよ。行くぞ!」

「了解です!」

 柱の陰から神作と永山の動きを見ていた春木陽香が、隣の山野の膝をパタパタと叩いた。

「あれ、編集長、神作キャップたちが這ったまま移動し始めましたよ。わ、危ない。なんで、あんな危ない方向に移動するんでしょう。横の出口から逃げればいいのに」

「分かんないけど、すぐ横の出口から出ても、廊下は通れないのかもしれないわね。ここよりも酷い銃撃戦をしてるのかも」

「こっちはどうします?」

 山野紀子は振り向いて言った。

「そこにドアがあるけど、真ちゃんたちが廊下に出なかったってことは、こっちのドアから出ても危険なのかも」

 山野と春木は、真剣な顔で後ろのドアを見つめた。

 その頃、神作と永山は椅子の近くまで這ったまま移動していた。玉座には何発も銃弾が当たり、装飾の宝石を四方に散らしている。傷んだ玉座の近くには絶命したタハラが横たわっていた。彼女に手向けられるように、玉座から剥がれ落ちたアメシストの石がその遺体の近くで光を返している。神作真哉は憐憫のまなざしを向けた。玉座を銃弾が叩く。神作真哉は我に返り、頭を低くしたまま振り返った。

「永山あ! 無事かあ!」

「無事です。いいから、早く先に進んで下さい!」

「椅子の後ろまで走るぞ。思った通り、あの椅子は頑丈だ。弾が貫通してない。行くぞ」

「了か……イテッ」

 弾丸を掻い潜って走り、玉座の後ろに飛び込んだ神作真哉は、長い身を小さく折り畳んで丸めた。その後ろに永山哲也が顔を押さえながら飛び込んでくる。

 神作真哉は赤いカーテンの方を覗きながら言った。

「よし。こうやって一列になれば、弾は避けられる。どうした、顔に何か当たったのか」

「キャップの足ですよ。どうして人の顔を蹴って飛び出していくかな。イタタ……」

「すまん。足が長過ぎてな。よし、カーテンまで隙を見て行くぞ。一人ずつだ。まずは俺から行く」

「了解です。次は蹴らないで下さいよ」

 二人は玉座の後ろに隠れながら、飛び出す機会を伺った。

 柱の陰から神作たちの様子を心配そうに見ていた山野紀子は、二人が無事に玉座の後ろに回ったのを確認して、息を吐いた。

「ふう。――あの二人、馬鹿じゃないの。デカイのが二人で椅子の後ろなんかに隠れて、何するつもりなのよ」

 春木陽香が山野の肩をパタパタと叩きながら言った。

「もしかしたら、神作キャップが編集長のことを助けに来てくれているのかもしれませんよ。あ、じゃあ、永山先輩はやっぱり私を。きゃー永山先輩!」

「アホか。哲ちゃん、顔を押さえてるじゃないよ。真ちゃんにド突かれて、仕方なくついてきたのよ」

「ええー。なんですか、それ。――あれ? 閣下さんが居ませんよ。ラングトンさんも、西郷さんも。刀傷の殺し屋さんも居ませんよ!」

「殺し屋に『さん』は要らない!」

「ああ! 居ました。閣下さんが西郷さんに……うわ!」

 春木の傍に着弾した。横の柱の石が砕け散る。身を屈める春木陽香。山野紀子が叫ぶ。

「ハルハル! 大丈夫!」

「大丈夫です。それより、閣下さんが西郷さんに――」

 春木の声は銃声に掻き消された。山野紀子は春木を壁際に押さえつけながら、自分も精一杯に背中を壁に押し付けて、春木が向いた方角に目を向けた。

「え? 西郷がなに? あ、居た。あのお爺ちゃん、括弧、高橋諒一かもしれない括弧返し、あそこに倒れてる。ほら、タイムマシンの横!」

 山野紀子はタイムマシンの方を指差した。



                  32

 神作真哉は玉座の陰から銃撃戦の様子を伺っていた。彼は後方の永山に言う。

「よし、奴らが弾倉を入れ替える時に間が空くはずだ。そこで出るぞ」

 永山哲也は向こうの柱の陰の山野と春木を見ながら言った。

「ちょっと待って下さい。ノンさんが、また指差してますよ。こっちです」

 神作真哉は永山が指差した方角に顔を向けた。

「お、爺さんじゃないか。血が出てるな。撃たれたのか?」

「いや、違います! 外されています。胸のバイオ・ドライブが外されています!」

「くそ、西郷か! どこに行った。ラングトンも刀傷野郎も!」

 永山哲也は赤いカーテンの方を指差しながら言った。

「分かりませんが、今はそれどころじゃないですよ。とにかく、向こうのカーテンの後ろまで行ってみないと」

「そ、そうだな。それにしても、あいつら、なんで横のドアから逃げないんだ。本当に開いてないのか?」

「かも知れませんね。外から鍵が掛かっているのかも。先に僕らがカーテンの後ろから外に出て、外から鍵を開けましょう。その方が安全だ」

 神作真哉は山野と春木に向かって手を交差して見せて、玉座の後ろから叫んだ。

「おおーい、駄目だ、爺さんは死んでる。おまえら、そこを動くなよ。俺たちが、そこのカーテンの後ろの出口から出て、外から鍵を開けるから、待ってろ」

 柱の横の壁に身を押し当てながら、山野紀子が顔をしかめた。

「もう! もっと大きな声出ないの? 銃声で、何言ってるかさっぱり聞こえないじゃないの。うわ、危ない!」

 山野の横の壁に数発が着弾した。壁に拳大の穴が幾つも開く。

 春木陽香が柱と壁の角に立って体の幅を小さく畳んだまま言った。

「カーテンの方とかを指差してましたよ。私たちに、そこまで走れってことじゃないですか。おっと、危ない」

 春木陽香は素早く屈んだ。山野紀子も腰を落として身を丸める。

「冗談でしょ。この弾丸の嵐の中をどうやって移動しろって言うのよ! 体積が少ない私でも、すぐに弾に当たっちゃうでしょ。死んじゃうじゃないの! うわっ、ちょっと、マジ? すごい近くに飛んでくるんだけど」

 春木陽香は目線だけ動かして言った。

「編集長の後ろのドアの方も指差しましたよ。最初にバッテン印もしてましたし、やっぱり開けるなってことかも。わっ!」

「どうするのよ。どう考えても……おお……このままここに隠れていた方が安全じゃないのよ」

「それもどうだか……。うわっ! 危ない! なんか、さっきから、隠れる所がどんどん狭くなってますけどお!」

「おっ! ちょっ! た、たしかにそうね。こっちに飛んでくる弾が、増えてるもんね。うわっ。弾だけに『だんだん』とか言ってる場合じゃないわよね。うわっ」

「でも、ほら。外を見て下さい。見えますか。空から赤い兵隊さんたちがたくさん降ってきてますけど。すごい数ですよ」

「降ってんじゃないわよ。粘性ワイヤーっていう特殊繊維体のワイヤーで降下してるの。さっきも見たでしょ。宇城中尉がそれで降りてきたじゃない。ああ、また助けに来てくれないかしら!」

「そんなことより、さっきより外の戦闘が激しくなってますよ。ボカン、ボカンって鳴ってるじゃないですかあ! きっとここも壊されちゃいますよ! わっ、また飛んできた」

「ていうか、ASKITの兵隊が後退してきてるじゃないのよ! わっ、ちょっと、あぶなっ! 何なのよ! ここヤバイじゃないの! このままここに居たら確実に巻き添えを食らうわよ。早く逃げなぎゃ!」

「逃げるって、うわっ、どこに逃げるんですかあ!」

「真ちゃんたちの方よ。あのカーテンのところ! だっ、これ、マジでヤバイわよ! とにかく、うわっ、向こうに行ってみるしかないじゃない!」

「さっきは弾が当たるって言ってたじゃないですかあ! わあ!」

「当たるも八卦、当たらぬも八卦。ここは勝負してやろうじゃないの。行くわよ、ハルハル!」

「いや、ここも別に勝負する場面じゃ……ああ! 編集長、ちょっと待って! 危ないですよ! わあ、ここも危ない!」

 春木陽香は頭を覆って更に身を屈めた。柱に何発も着弾する。山野紀子は勢いよく駆け出していった。山野を追って春木陽香も走り出した。



                  33

 赤いカーテンの中に永山哲也が飛び込んできた。先にカーテンの中に飛び込んでいた神作に叫ぶ。

「キャップ! 無事ですか!」

「ああ、無事だ!」

「出口は分かりましたか」

「いや、それより、別の事が分かった」

「何です?」

「緊急時に、あの二人を信用したらいかんという事だ。ここ、壁しかねえじゃねえか!」

「はあ? 出口は無いんですか?」

 赤いカーテンの裏で男たちは必死に出口を探した。何も無い。そこに山野紀子と春木陽香が駆け込んで来た。二人は急いで赤いカーテンを捲り上げ、その裏へと入ってくる。

 青ざめた顔に玉汗を浮かべながら、山野紀子が怒鳴る。

「ちょっと、真ちゃん。何でわざわざ、こんな危ない所に移動したのよ!」

 神作真哉は目を丸くした。

「はあ? おまえが移動しろって指示したんじゃねえかよ!」

「してないわよ! 馬鹿じゃないの。ここ、一番狙われやすい位置じゃない! そんな指示する訳ないでしょ!」

「だって、おまえとハルハルが何度もここを指差したりするから」

「こっちだって、真ちゃんが横のドアは駄目だって合図したから、銃弾の嵐の中を走ってきたのよ。撃たれたらどうするのよ!」

「してねえよ、そんな合図は!」

「してたわよ!」

 神作と山野の言い合いに、永山哲也が口を挿んだ。

「と、とにかく、移動しましょう。ここは危険だ」

「そうね。いい大人がみんなで仲良くカーテンの中で撃たれたら、みっともないわね」

 春木陽香が言った。

「ちょっと待って下さい。この音。この音は何ですか」

 記者たちはカーテンの中で外の音に耳を澄ました。銃声に混じって、長く低い音と短く高い音が交互に繰り返しなっている。音は次第に大きくなっていた。繰り返す間隔も、その度に短くなっていく。

 山野紀子が言う。

「何かの機械音ね」

「この音は……」

 永山哲也が眉間に皺を寄せた。聞き覚えのある音だった。顔を上げた彼が叫んだ。

「タイムマシン! 僕が南米から飛ばした時と同じ機械音です。タイムマシンの!」

 神作真哉が床を踏み鳴らす。

「くそ、あいつらか! タイムマシンを使って逃げるつもりだ!」

 記者たちは慌ててカーテンを捲り、外に出た。そして、全員がすぐに立ち止まる。目の前にASKITの傭兵が一人立っていた。額から血を流しているその男は、恨みに満ちた目と小銃の銃口を記者たちに向けていた。

「おまえらが兵を連れてきたんだな。騙しやがって。ぶっ殺してやる!」

 その男は小銃の引き金に指を掛ける。

 短く乾いた銃声が立て続けに鳴り響いた。



                  34

 記者たちは首をすくめて目を瞑っていた。

 春木陽香が目を開けると、さっきの男の傭兵が床に倒れていた。横から新型カービン銃を握った黒髪の女性兵士が飛び出してきて、春木の腕を掴んで下に引き、叫んだ。

「危ない! みんな、しゃがんで!」

 記者たちは慌ててその場にしゃがんだ。赤いカーテンの上を銃撃が襲う。

 春木陽香は、その紺碧の防具姿の兵士に言った。

「綾さん! 来てくれたんですか!」

 綾軍曹はカービン銃を肩で構えて立ち上がりながら言った。

「危ない時は助けに来るって言ったでしょ!」

 太い雄叫びが聞こえた。大きなバルカン砲を腰の横で構えた山本軍曹の声だった。彼は階段の手前から下に向かって四方に連射しながら声を張った。

「早くしろ! 十七師団の奴ら、敵味方の関係なく撃ってくるぞ!」

 その横で綾軍曹がカービン銃で援護射撃しながら、後方の春木たちに叫んだ。

「光で兵士たちの眼を眩ますから、銃撃が止まったら向こうのドアまで走って!」

 記者たちは屈んだまま顔を見合わせる。隙を見て素早く屈んだ綾軍曹は、腰の横から取り外した太い筒を斜め上に向けて構えると、叫んだ。

「閃光弾!」

 彼女が引き金を引くと、筒の先からロケット砲が射出され、高い天井に向かって弧を描いて飛んでいった。山本軍曹がバルカン砲を放り投げ、左手で両目を覆う。砲弾は降下を始めるとすぐに眩い光を放った。室内が明るい白色に覆われ、そこに在るあらゆる物が濃い黒影を敷いた。深紅のアーマースーツの兵士たちも、ASKITの傭兵たちも、緑色のアーマースーツの兵士たちも、銃撃を止めて一斉に光源から顔を逸らす。

 綾軍曹が叫んだ。

「今よ、走って!」

 神作たちは一斉に立ち上がり、さっき山野と春木が隠れていた所の近くのドアまで走った。その後ろから綾軍曹と山本軍曹がカービン銃を一階に向けて撃ちながら走っていく。

 廊下に出ると、宇城中尉が廊下の先に向かって銃撃を続けていた。彼は銃を撃ちながら叫んだ。

「屋上にオムナクトが停まっている! 二分後に攻撃レベルが上がるぞ。急げ!」

 宇城の横に山本が加わり、廊下の先のASKIT兵に向かって猛烈な射撃を始めた。その反対の方に神作と永山が駆けて行こうとする。

 綾軍曹が二人に叫んだ。

「突き当たりの階段を上って! 急いで!」

 彼女の横を走り過ぎようとした山野が立ち止まり、後ろを見ながら言った。

「あれ? ハルハルは? どこ行ったの?」

 急停止した神作真哉が顔をしかめて振り返った。

「あの馬鹿、また暴走か!」

 永山哲也も立ち止まった。

「どうしたんですか。ハルハルは!」

「居ないのよ。どっか行っちゃった。もう!」

 綾軍曹は山野の背中を押して叫んだ。

「行って下さい! 私が探してきます!」

 カービン銃を構えた綾軍曹は、長い黒髪をなびかせて、大広間の中に戻っていった。



                  35

 二階の奥のトンネルの中で、タイムマシンが細かな振動を繰り返している。側面から開いて倒れたハッチが高い位置で水平になったまま停止していて、その上で尻をつき、搭乗口の枠に手を掛けて倒れている人影と、ハッチの下に腰から下をぶら提げて、両足をバタバタと動かしている小さな人影が在った。血の付いたバイオ・ドライブを握ったまま搭乗口に手を掛けている西郷京斗は、自分の右脚にしがみ付いている春木陽香の肩を左足で押す。春木陽香はそれに必死に耐えながら叫んだ。

「ぜっっっったいに行かせませんよお!」

「は、放せ! この、小娘!」

「うーんにゃ! 絶っ対に放しません! バイオ・ドライブも返せえ! むぐぐぐう」

 西郷京斗は左足を春木の顔に押し当てて、力一杯に押す。春木陽香は歯を喰いしばって耐えた。西郷京斗は春木の肩を蹴り始めた。

「なんで、おまえに、返さなきゃ、ならないんだ。俺は、人生を、やり直すんだ。邪魔するな!」

「あいたっ、いたっ。あなたは、何十年前の『過去』に戻っても、あいたっ、同じですよ!」

「高橋に、出来たのなら、俺にだっっって、出来……とにかく離せ、コラッ!」

 春木陽香は必死に西郷の右脚にしがみ付いたまま、ハッチからぶら下がっている。彼女は顔を蹴られながら言った。

「ムグッ。いたっ。離しません。高橋博士は、最初は何十年も前に行ったんですよ。痛いっ。その後は、捨てることになってしまった自分の家族への責任を果たすために、無理して長生きして、頑張ったんじゃないですかあ! それなのに、なんで……」

「知るか! 頑張り過ぎだろうが。こんな豪邸までは必要ないじゃないか。いいから、手を離せ」

「痛い! 確かにそうですけど、あなたとは違いますよ。あなたは、自分がお金持ちになりたかったり、偉くなりたかったり、女の人にモテたかったり、警察に捕まりたくないから、『過去』に行こうとしてるんですよね。そんなんじゃ、何年昔に戻っても、成功するはず無いですよお! 痛いっ。ただ逃げて、楽しようとしてるだけじゃないですかあ!」

 西郷京斗は春木の肩や頭を蹴りながら言った。

「それは、高橋だって、同じだろう」

「閣下さんは、家族も連れて行こうとしてたんですよ! 痛いっ。あなたは、閣下さんをあやめて、ラングトンさんも見捨てて、自分だけ逃げようと……あいたっ。なんで、さっきから蹴るんですかあ。あなたも日本人なら、他人の頭を足で蹴ったらいけないって……」

 西郷京斗は上着のポケットから拳銃を取り出すと、それを春木に向けた。

「うるさい女だ。調子に乗りやがって。殺すには惜しいが、悪く思うなよ」

 西郷京斗は春木に狙いを定めた。春木陽香は力を入れて西郷の脚にしがみ付き、目を瞑って頭を押し付ける。

 一発の銃声が響いた。

 西郷が握っていた銃が弾き飛ばされる。

 カービン銃を据銃した綾軍曹が、赤いカーテンの横で西郷に狙いを定めていた。

「ひっ」

 慌てて体を倒した西郷京斗は、渾身の力で上半身を引いて、機体の中に入れた。春木陽香は目を瞑ったまま歯を喰いしばって、西郷の脚に強く抱きつく。西郷京斗は春木ごと機内に引きずり込もうとした。春木陽香は両足をバタつかせて必死に抵抗する。綾軍曹が角度を変えて、機内に上半身を隠している西郷を狙う。綾軍曹の横の赤いカーテンが銃弾に揺らされた。彼女は素早く床に伏せる。ほぼ同時に西郷京斗が春木の頭部を強く蹴った。 

「ふんぎゃ!」

 春木陽香はハッチから落下した。西郷京斗は急いで両脚を機内に入れると、身を隠しながら壁のスイッチを操作した。ハッチが縦に角度を変え始め、閉まっていく。床に転がった春木陽香は、すぐに立ち上がり、飛び上がってハッチを掴もうとしたが、届かない。ハッチは角度を上げていき、やがて機体の側面の搭乗口を塞いで閉じた。

 階下に向かって射撃をしながら、綾軍曹が叫んだ。

「春木さん! 行くわよ! 早く脱出しないと、十七師団(レッド・ブリッグ)の総攻撃が……」

 再び綾軍曹は身を屈めた。背後の赤いカーテンを銃弾が激しく叩く。立ち上がった綾軍曹は、階段の下に向けて猛烈に射撃しながら、苛立ったように怒鳴った。

「ええい、何でこっちに撃ってくんのよ! 仲間だっつうの!」

 春木陽香は鼻の下をシャツの半袖で拭くと、トンネルの奥へと走っていった。タイムマシンに背中を向けて射撃していた綾軍曹が、背後を二度見して春木に叫んだ。

「何やってるの! 戻って!」

 春木陽香は、振動するタイムマシンの前に立ち、両手を左右に広げた。

「絶対に行かせませんよ! あなたみたいなスットコドッコイが過去に行ったら、大変なことになるじゃないですかあ! ぜっっっったいに、行かせません!」

 その頃、西郷京斗はタイムマシンの機内を見回していた。一人掛けのシートが前後左右に同じ向きで設置されている。その四つのシートには誰も座っていない。機内にいるのは自分だけである。西郷京斗はニヤリと片笑んでから、前方の右側の席に座った。左側の座席の上に血が付いたバイオ・ドライブを放り投げると、ネクタイを緩め、シャツの一番上の釦を外す。短く強く息を吐き、操作パネルの上を見回した。目の前に据えつけられた四角いモニターに機体前方の外の様子が映し出されている。モニターの中央には、行く手を塞ぐように小さな体で仁王立ちしている春木陽香の姿が映っていた。

 西郷京斗は顔をしかめた。

「くそ、あの馬鹿。どけ、邪魔だ!」

 彼は必死にモニターに向けて手を振った。モニターの下のテンキーボタンが目に入る。周囲の表示を素早く確認した西郷京斗は、不安気な顔で頷いた。

「これか、行き先の年代を入力するのは……」

 西郷京斗は、テンキーのボタンを血まみれの指先で押してみた。右横の到着時刻を表示しているらしき小さなモニターに数字が並ぶ。

「よし。たぶん、これだな」

 大きく頷いた西郷京斗は、少し考えた。そして、彼は結論を出した。

「二〇三五年だ。三年前なら大体のことは覚えているし、細胞補完による全身若返り整形手術も始まっている時代だ。それに、その頃なら俺も金を持っている。マネーカードも今のカードに切り替えたばかりだ。待てよ、到着場所は……大丈夫だ、ここにすればいい。この部屋は既に在ったはずだ。よし。い、いくぞ。に、ぜろ、さん、ご……と。日時は今日と同じ八月二十四日。場所は、このままでいい」

 西郷京斗は、目の前のモニターの中で両手を左右に広げて何かを叫んでいる春木と、機械音を鳴らし続ける周囲の機器に何度も目を遣りながら、正面のテンキーのボタンを押していく。タイムマシンの振動が徐々に細かくなっていき高音を発し始めた。西郷京斗は恐怖と期待で顔を引き攣らせながら、慎重に操作パネルの上を確認していった。

「よーし、いいぞ。発射までのカウントは……十五秒後だな。十四、十三、……」

 高音が次第に高くなり、空気を振動させ始めた。右横のモニターを一瞥して、正面のモニターに顔を向けた西郷京斗は、慌てて右横のモニターに視線を戻した。その小さなモニターを見ながら、彼は正面のテンキーを激しく何度も叩く。

「違う、その時代じゃない。二〇三五年だ。二〇三五年だよ! どうして!」

 春木陽香は微振動を続けているタイムマシンの前に立ったまま、両手で両耳を塞いでいた。空気がタイムマシンに向かって流れ始め、春木の髪が風に巻き上げられる。春木陽香は口を真一文字に縛り、足を踏ん張ってタイムマシンの前に立ち続けた。再び両手を左右に広げて、大声で叫ぶ。

「どうしても行くつもりなら、私を轢いて行けえ! 絶対に退かないぞお!」

 タイムマシンの表面が薄く光り始め、周囲の空気の流れが逆転した。トンネル内に高い轟音が響き始める。

 機内の西郷京斗は、半泣き顔で操作パネルの上のボタンをあれこれと押していた。

「くそ、停止スイッチはどれだ。どうすれば止まるんだよ! 止まれ!」

 タイムマシンの周囲に電光が走り出し、機体の方から周囲に向かって風が激しく吹き始めた。

 春木陽香は吹き付ける生暖かい風に目を細めながら、耐え、両手を広げて立ち続ける。

「恐くない、恐くない。負けるもんか。絶対に行かせない。行かせない!」

 大きく広げた彼女の両腕は震えていた。春木陽香は歯を喰いしばり、強く目を瞑る。

 タイムマシンは青白く発光し始め、次第に色を薄くしていき、やがて白く輝いた。

 機内では、西郷京斗が右横の小さなパネルを叩きながら喚いている。

「違う、違うぞ。二〇二五年じゃない! それに、この座標は爆心地の……」

 強く発光したタイムマシンは、一度、ほんの少しだけ後ろに後退すると、撃ち出される弾丸のような勢いで前に飛び出した。その直前、紺碧の人影が春木に飛び掛り、彼女と共に横に倒れ込んだ。その後ろをタイムマシンが高速で通過していく。機体は長い通路を途中まで進むと、一瞬だけ強く光って、その残像を残したまま消えた。

 風が止み、振動が止まる。

 銃声が鳴り響く中、白煙が漂っていた。トンネルの隅に二人の人影が倒れている。

「ふう……、勘弁してよ」

 春木に覆い被さって壁際に倒れていた綾二等軍曹は、そう言いながら起き上がると、長い黒髪をかき上げた。

 春木陽香は床にうつ伏せたまま顔を上げない。彼女は肩を震わせ、拳を強く握った手で固い床を何度も叩いていた。



                  36

 島の森や畑からは幾筋もの黒煙が立ち昇っていた。洋館が建っている丘を守っていた防御壁は何箇所も破壊されて既に突破されている。丘の下の量子エネルギー循環生成プラントも無惨に破壊され、炎を上げていた。周囲には焼け焦げた建材が散らばっている。

 洋館の屋上に突き出した建屋部分から、両手で頭を覆った春木陽香が飛び出してきた。続いて、階段の下に向かって銃撃しながら綾軍曹が後退して出てくる。彼女は叫んだ。

「ヘリまで走って!」

 屋上には、端の方にオムナクト・ヘリが停まっていた。春木陽香はそこに向かって全速力で走った。彼女と入れ替わりに、宇城中尉と山本軍曹が綾の方に走っていく。春木がヘリの近くに着くと、中から背広姿の男が春木の腕を掴んで中に引き入れた。春木陽香はその男の顔を見て、声を上げた。

「増田さん! 生きてたんですか」

 増田基和は片笑んで見せた。

「簡単には死にませんよ。私も一応は、軍の人間なんでね」

 春木陽香は、先に乗っていた山野紀子や神作真哉、永山哲也の顔を見回して、もう一度増田の顔を見た。そして、返事をする。

「はあ……」

 増田基和は機体の出入り口から身を乗り出し、遠くの紺碧の兵士たちに目を凝らした。

 銃撃して敵を食い止めていた綾軍曹の所に駆けつけた宇城と山本は、すぐに射撃を始めた。綾軍曹が宇城に報告する。

「ASKIT兵が追ってきてます。さっきより数も増えて……ああ、弾切れだ」

「無駄撃ちには気をつけろって言ってるだろ。山本、手榴弾だ」

「了解」

 山本軍曹は小銃を放り投げると、腰のベルトから二個の手榴弾を外し、左右の手に握ったそれらを顔の前でぶつけてスイッチを入れた。彼がそれらを素早く階段の下に投げ入れたのを見ると、宇城中尉は綾軍曹を庇って共に床に伏せた。

 爆音が鳴り響き、屋上に突き出した建屋部分は粉々に吹き飛んで崩壊する。

 瓦礫を払いながら素早く身を起こした宇城中尉は、体の下で伏せていた綾に言った。

「怪我はないか」

「あ、はい。大丈夫であります」

 宇城から目を逸らしながら綾軍曹が答えた。宇城中尉が指示を出す。

「よし。撤収だ。ヘリへ急げ!」

 宇城中尉はオムナクト・ヘリに向かって駆け出していった。咳き込みながら山本軍曹が後を追う。綾軍曹は体から塵を払いながら山本と併走した。山本軍曹は怪訝な顔で綾軍曹に言った。

「おまえ、なに赤くなってるんだよ」

「なってない! ていうか、BC4手榴弾を二個も使ったの? 一個でいいでしょ」

「だな。ちょっとやり過ぎたか。次からは一個にする」

 三人がヘリの所にやってきた。宇城中尉が乗り込んだ後から、山本軍曹が顎を掻きながら搭乗する。続いて、綾軍曹がブツブツと文句を言いながら乗り込んだ。増田基和がスライド式のドアを閉めた。オムナクト・ヘリが上昇を始める。

 記者たちを乗せたその特殊ヘリは弾丸を避けながら旋回し、そのまま急上昇した。そして翼の回転音を大きくすると、猛スピードで島から離れていった。

 島では四方八方で爆音が響き、炎が立ち上がっていた。



                  37

 一機のオムナクト・ヘリが海の上を飛んでいる。

 キャビン内の左右の壁際の席には、汚れた服を着た記者たちと、紺碧の防具に身を包んだ兵士たちが座っていた。

 操縦席のすぐ後ろの席に座っていた背広姿の増田基和が、ヘッドセットでパイロットに指示を出す

「我々はこのまま撤収する。あとは十七師団に任せよう」

 増田基和はヘッドセットを外した。

 神作真哉は椅子の後ろの小さな窓から、離れていく島の様子を見ていた。その隣で増田基和は協定書のファイルを開いて中の署名を確認している。春木の署名がされていないことに気づいた彼は、キャビンの後方に目を遣り、軽く溜め息を吐いてファイルを閉じた。二冊のファイルを持った増田基和は、席を立ってコックピットの補助席に移ろうとする。すると、隣の席の神作真哉が、窓から外を覗いたまま増田に尋ねた。

「ここは、どこなんだ?」

 補助席に腰を下ろした増田基和は、振り向かずに答えた。

「日本の領海の東。公海上の島です」

 増田が座っていた席の向かいの席で、山野紀子が不機嫌そうに口を開いた。

「こういう計画だったのね。最初から協定なんてどうでもよかった。ASKITの拠点を攻撃して、組織を壊滅させることが狙いだったんでしょ」

 神作の隣に座っている永山哲也も言った。

「僕らを利用したんですね。この島の場所を知るために、僕らを送り込んだ」

 山野の斜め向かいの席の神作真哉が、少し振り向いて言った。

「俺たちが乗せられたオスプレイは、最新式のプラズマ・ステルス機で、レーダーや衛星による追尾は出来ないと連中は言っていたぞ。インビジグラム装甲も施していたから、目視による追跡も出来なかったはずだ。どうやって俺たちの居場所が分かったんだ」

 入り口の横の席に座っている山本一等軍曹が、向かいに座っている永山の腕を指差して言った。

「それだよ。あんたの腕時計のスーパーGPS機能。その腕時計が発している微弱電波を国防軍が総力をあげて拾ったのさ」

 永山哲也は自分の左腕の腕時計を見た。それは南米への渡航前に、空港で春木が永山に贈った腕時計だった。

 永山の隣に座っていた綾軍曹が自分の左腕の腕時計を見せて言った。

「私たちも同じ物をしてる。軍用に開発されたストンスロプ社製の超小型発信機が内蔵されているの。位置データを超瞬間電波に乗せてランダムな間隔で送っている。敵に探知されないようにね。すごく微弱な信号だけど、プラズマ・ステルスのブレイクタイムを通過すれば、衛星からも拾えないことはない」

 山本軍曹の隣に座っていた宇城中尉が付け加えた。

「晴れていてよかった。雲が掛かっていたら、いくら日本の超高感度衛星でも見つけられなかったかもしれん。ツいてましたよ」

 宇城の隣で山野紀子が不愉快気に言った。

「私たちの命は、天気次第だったということね」

 兵士たちが沈黙すると、コックピットから頭を出して振り向いた増田基和が言った。

「そんなことはありませんよ。公安からの情報で、ある程度の絞込みは出来ていました。その時計がなくても、あと九十分以内には特定も出来ていたでしょう。ただ攻撃の開始が早まっただけです」

 窓から外の景色を眺めながら会話を聞いていた神作真哉が、一言だけ発した。

「信用できんね」

 増田基和は黙って体を前に向けた。

 山野紀子が呟いた。

「ストンスロプ社製の位置情報送信機……。結局、私たちは『きじ頓使ひたづかい』をさせられていたってことね」

 神作真哉が窓の方を向いたまま言った。

「どうだかな。仮に俺たちが『雉』の役をさせられていたとしたら、ASKITのあの爺さんが天若日子あまわかひこ役で、辛島総理が『高木神たかぎのかみ』役だったということになる。じゃあ、『天之加久矢あまのかくや』や『天之波士弓あまのはじゆみ』役は誰なんだ? 矢が西郷で、弓はあの刀傷の男か? そんな訳ねえだろ」

 神作真哉は鼻で笑って首を傾げた。

 山野紀子は、神作から思わぬ知識が出てきたことに驚き、目を丸くして彼の背中を見つめていた。

「雉の頓使」にまつわる伝説では、こうである。天若日子は問責使者として使わされた雉を、天神から賜った天之波士弓と天之加久矢を使って殺した。雉を射抜いた天之加久矢は高木神の所まで飛来し、高木神が天若日子の善悪を占う呪文を唱えてその矢を投げ返すと、天若日子はその矢に当たって死んだ。

 記者たちは考え込んだ。事情が分からない兵士たちは、ただ顔を見合わせている。キャビンの中を沈黙が包んだ。外の回転翼の音だけが微かに響いている。

 暫らくすると、宇城中尉が顔を上げ、左の山野と、正面の神作を見ながら説明した。

「あなた方の同僚の上野さん。彼が軍規監視局に情報をくれたのですよ。春木さんが永山さんに軍の仕様と同じタイプの腕時計をプレゼントしたということをね。娘さんがあなた方の携帯の位置情報を必死に拾おうとしているのを見て、永山さんの腕時計のことを思い出したそうです。それで、我々の作戦が急遽早まった」

「朝美が……」

 山野紀子は神作を見た。神作真哉も振り向いて山野の方を見ていた。

 永山哲也が斜向かいの宇城に怪訝な表情で言った。

「ですが、増田さんが防弾チョッキを着ていたということは、はじめから全て作戦として計画されていたからなのでしょう?」

 永山の真向かいに座っていた山本軍曹が自分の青い鎧の胸元を指差しながら言った。

「俺たちは皆、この鎧の下に甲一一七防弾具を着装している。普段からな。薄くて丈夫。伸縮性にも富んでいて、着心地はいいんだぞ。俺は下着代わりにしてる。綾だってブラの代わりに……」

「はい、セクハラ一回。今日の昼食は山本の奢りね」

 そう綾に言われて、山本軍曹は項垂れた。

 中断した説明を宇城中尉が続けた。

「最新式の防弾チョッキですよ。甲一一七式は、衝撃拡散型の特殊繊維で作られた補助防弾着なんです。直接被弾した場合に対応できる弾丸には限界がありますが、あの『刀傷の男』は、昨夜我々が津田たちからあなた方を救出した際に発射施設に展開していた陸軍部隊の兵士を襲って、その戦闘服と武器を奪ったようで、局長に使用された銃器も、その兵士が所持していた物でした。昨夜の我々は、津田や郷田たちの逮捕が目的で出動していましたから、敵を殺さない武器を使用する必要があった。それで、装填していた銃弾も狭窄弾でした。だから、甲一一七でも対応できたんです」

「きょうさくだん?」

 永山の問いに隣の綾軍曹が答えた。

「先端を丸くしたり、ほぼ潰したように削った訓練用の銃弾よ。私たちが通常の戦闘で使用する物と違って、射程距離も短いし、破壊力も小さい。と言っても、弾は弾だから危ないけど、よく小銃射撃の訓練とかデモンストレーションで使用されるの。日本の警官が使用しているのも、大抵はそれ」

「へえ……」

 唖然としている永山を余所に、山野紀子が隣の宇城中尉に尋ねた。

「その『刀傷の男』や、ニーナ・ラングトンはどうなったの?」

 宇城中尉は頭を傾けて答えた。

「さあ。我々の要救助者のリストには在りませんでしたから」

 山本軍曹が続けた。

「まあ、あの島から脱出するのは無理だな。十七師団……ああ、深紅の旅団レッド・ブリッグな、あいつらは徹底的にやるから、あの島に居て生き残ることは出来ないはずだ。後日の現場検証で、遺体になって見つかるだろうよ」

 神作真哉が呆れ顔で言った。

「皆殺しか。邪魔者と一緒に全ての証拠を消すつもりなんだな」

 山野紀子は再び尋ねた。

「あのお爺さんの家族は? 高橋千保と千景、諒太かもしれないのよ」

 操縦席の隣の席で話を聞いていた増田基和が、また振り向いて口を挿んだ。

「証拠を消すつもりなら、歩兵を投下するなどせずに、最初から空爆して全てを焼き払っていますよ。――三人とも無事です。高橋諒太らしき青年は、到着先の空港で現地警察に身柄を確保されました。残りの二人と戦闘員ではない他の使用人たちについては、我々の別チームが既に救出しています。これから、あの三人が高橋千保と千景、諒太なのか、精密なDNA鑑定を行って調べるところです」

 神作真哉が増田に尋ねた。

「あの三人は、これからどうなるんだ」

 増田基和は暫く考えたが、神作の目を見て答えた。

「噂として聞いて下さい。名前を変えて第三国で保護されるようです。今、私から言えるのはそれだけです」

 神作真哉は暫く増田の目を見ていたが、黙って頷くと視線を山野に向けた。増田基和も黙って頷き、再び前を向く。

 二人の様子を見ていた山本一等軍曹は、斜め向かい側の席の綾二等軍曹と視線を合わせると、両眉と両肩を上げて見せた。綾軍曹は少しだけ口角を上げて髪をかき上げると、山本とドアを挟んで角の椅子に座っている春木に目を向けた。春木陽香は黙ったまま、後方の小窓から外の景色を眺めていた。水平線の上で小さな島が点滅を繰り返し、行く筋も黒く細い煙を上げている。

 ドアの正面の席に座っていた綾軍曹は、空いていた隣の角の席に移ると、向かいの角の席で横を見ている春木に話しかけた。

「あなた、勇敢ね」

 春木陽香は黙って窓の外を見つめていたが、戦場となった島が水平線の向こうに消えると、綾の方を向いて言った。

「さっきは有難うございました。助けてくれて。あ、今日はホントに、何回も。本当に有難うございました」

 深々と頭を下げた春木に面食らったように、綾軍曹は慌てて言った。

「あ、そんな。気にしないで。仕事だから……」

 そう言うと、綾軍曹は髪をかき上げながら少し前屈みになった。彼女は顔を春木に近づけて、小声で言った。

「……と言いたいけど、ホントは同い歳だから、気になってね。あなたの警護担当を私にしてくれるように頼んだの。ずっと観察していて、気が合いそうだと思ったから。友だち候補に死なれちゃ困るし」

 今度は春木陽香が驚いたように、目をパチクリとさせていた。

 綾軍曹は手袋をした手を口元に添えて、更に小声で春木に言った。

「軍隊って、男ばっかでしょ。それか、ゴリラみたいな先輩女性兵士とか。友達が居ないのよねえ。ハルハルさん、友達になってよ。今度、一緒にご飯食べに行こ」

 春木陽香は少しだけ顔をほころばせながら答えた。

「はい、是非」

「よーし、じゃあ、決まりね」

 綾軍曹は握った拳を小さく差し出す。春木陽香はその拳に自分の拳を軽く当てた。

 寺師町の中裏地区に居た、あの老婆の占いは一つ当たっていたのかもしれない。

 春木陽香は、そう思った。

 春木たちを乗せたオムナクト・ヘリは大海原の上を水平線の向こうへと飛んでいった。



                  38

 記者たちを乗せた軍用のオムナクト・ヘリが新首都の国防省ビルに到着したのは、午後のことだった。ビルの屋上に設置されたヘリポートには、多くの人々が一箇所に集まってヘリの到着を待っていた。コンクリート製の床の上に記された大きなH字のマークの上に静かに着地したオムナクト・ヘリは、四方の回転翼の速度をゆっくりと落とした。キャビンの左側面のドアがスライドして開き、中から大きな体の山本軍曹と中背の宇城中尉が降りてきた。二人は小銃を肩に掛けて登場口の左右に立つと、降りてくる搭乗者に手を添えて降機を補助する。最初に降りてきた記者は春木陽香だった。彼女は山本に手を取られて軽やかに機体から飛び降りると、髪を押さえながら走り、機体から離れた。すると、人ごみの中から上野秀則と永峰千佳が駆け寄ってきて、春木を出迎えた。勇一松頼斗が上野と永峰を押し退けて前に出てきて、春木を抱きしめる。重成直人と別府博も駆け寄り、上野と永峰と共に春木を囲んだ。次に機体から降りてきたのは永山哲也だった。彼は宇城中尉と山本軍曹と順に握手をすると、ゆっくりと歩いてヘリから離れた。彼の前に杉野浩文副社長が歩いてきた。杉野副社長は永山と握手を交わすと、反対の手で彼の肩をしっかりと叩いた。苦笑いをして見せた永山の後方では、先にヘリから降りて立っている神作の手を借りて、山野紀子が降機していた。彼女はヘリの高い段差にブツクサと文句を言いながら降りてくる。彼女は屋上のコンクリート製の床の上に両足を付くと、すぐに、向こうで待つ関係者の人ごみの中に視線をやった。大人たちをかき分けて、小柄なお下げ髪の少女が駆けてきた。山野朝美は紀子と神作の姿を見つけると、一瞬立ち止まる。後ろから谷里部長に背中を押されて、再び駆け出した。今にも零れそうな程に涙を溜めながら、彼女は精一杯の笑顔を見せている。山野紀子は我が子に駆け寄ると、屈んで強く抱きしめた。母の腕の中で照れくさそうに笑いながら、山野朝美は紀子の脇の下から左手を伸ばした。その手を神作真哉が取り、強く握って、紀子に抱きしめられている朝美の頭を撫でた。朝美は鼻を啜りながら笑っていたが、頬には大粒の涙が伝っていた。

 生還を喜び合う記者たちと人々の様子を機内から見つめていた綾軍曹は、少し振り向いて、コックピットからこちらに歩いてくる増田基和に言った。

「局長、どうして言わなかったのですか。当初の参謀司令本部の作戦では、島の位置が特定できたら、長距離ミサイルと無人空爆機で彼らごと爆撃するつもりだったのに、それをさせないために、局長がわざわざ十七師団の投入をご提案されたのですよね。で、情報局で独自に永山さんの位置データを解析して、私たちを彼らの救出に向かわせた。もし、あの腕時計の情報が入ってこなかったら、局長は彼らを行かせることはしなかったんじゃないですか」

 増田基和は綾の前を通りながら彼女に言った。

「それ以上、機密情報は口にするな」

 そして立ち止まると、口角を上げて気まずそうな顔を綾に見せながら付け加える。

「情報局長が賭けをしたとなれば、いろいろとマズイだろ」

「――はあ。――了解しました」

 綾軍曹は降機する増田の背中に機内から敬礼した。増田と入れ替わりに乗り込んできた山本軍曹が綾に尋ねる。

「何を賭けたって?」

「機密情報は漏らせませーん」

 そっぽを向いて見せた綾の前に宇城中尉が乗り込んできて、横で口を尖らせている山本に言った。

「正義さ。局長は、あの記者たちがそう簡単に署名するとは思っていなかったんだ。だからGPSデータを解析して位置を特定するだけの時間が作れると踏んでいた。自分が殺されるのを覚悟で彼らの引渡しの場所に単身で同行したのも、陽動作成の一つかもな。現場の指揮官が死ねば、こっちの作戦立案が混乱するとASKIT側が高を括るのを予想していたんだろ。そうやって時間を稼ごうとしたんだと思う。司令本部に位置情報を上げるのも、ギリギリまで遅らせたみたいだしな」

 山本軍曹は機内から外を覗きながら言った。

「かあ、相変わらず策士だねえ、あのオッサン」

 宇城中尉は、コックピットに座っているパイロットを一瞥すると、声を潜めて言った。

「それに、勇み足の司令本部をけん制して、十七師団に先手を打たせるよう局長に指示したのは、たぶん国防軍の最高指揮権者だと思うぞ」

 綾軍曹が目を見開いて言った。

「辛島総理ですか」

 宇城中尉は人差し指を口の前に立てた。

「シー。だって、よく考えてみろ。深紅の旅団レッド・ブリッグは形式的には師団クラスの兵団だ。局長だけじゃ、勝手には動かせないはずだろ」

 綾軍曹は口を開けたまま、大きく頷いた。

 山本軍曹は人混みの向こうに歩いていく増田の後姿を見ながら、頭を掻いて言った。

「でも、あの刀傷の男が狭窄弾を使用したのは偶然ですよね。俺たちのボスは、肝が据わってますこと」

 宇城中尉は通りすがりに山本の肩を叩きながら言った。

「どうだろうな。情報局長様だぞ。分析と確率で、そう予測していたのかもしれんじゃないか」

「かあ。AB〇一八みたいだな。どんな頭してんだよ……」

 振り返りながらそう呟いた山本軍曹の横で、座席に腰を下ろしながら綾軍曹が小声で言った。

「ま、信頼できるボスであることは確かですね」

 席に戻った宇城中尉は、黙って頷いて見せた。

 自分の席に座った山本軍曹は、腰を叩きながら伸びをして言った。

「次は大仕事でしょうけど、中尉が局長について行くなら、俺も従いますよ。なあ、綾」

 綾軍曹が答えた。

「うん。彼の指揮なら、安心して本命の敵と戦える」

 宇城中尉が頷いて見せた。

 山本軍曹は肩を回しながら、気だるそうに言った。

「しっかし、疲れたなあ。さすがに、この後は休暇ですよね、中尉」

「どうだかな。暫くは、彼らの護衛も必要だろうしな」

「マジっすか。ちょっとくらい休ませて下さいよ」

「あんたガリガリと機関砲をぶっ放してただけでしょ」

「あのな、綾。あれ、重たいんだぞ。何十キロあると思ってんだよ」

「あ、そう言えば、今日の昼飯は山本の奢りだったな。綾、任務の成功祝いに、ちょっと豪勢に行くか」

「いいですね」

「ええ! ジョウさん……いや、中尉の分もですか? 勘弁して下さいよ」

 山本軍曹は項垂れた。綾軍曹がパチンと指を鳴らす。

「じゃあ、生還祝いに春木さんたちも呼んじゃいましょう。ね、中尉」

「そうだなあ。一緒に食事すれば、警護にもなるしな。あ、あの山野さんの娘さんも呼ぶか。永山さんの娘さんも。山本、しっかりご馳走してやれよ」

「中学生は食べるからねえ」

「おいおい……」

 眉を八字に垂らして困惑する山本をみて、宇城と綾はクスクスと笑った。

 黒髪を掻き上げながら、綾軍曹が窓の外に目を遣る。

 再会を喜ぶ人の輪から少し離れて、小さな人影が立っていた。春木陽香が一人、遠くの雲を見つめている。彼女は肩を落とし、憂鬱そうな顔をしていた。するとそこに増田基和が歩いてきた。彼は春木に何か言っていた。

「どうして協定書に署名しなかったのです?」

 増田に顔を向けた春木陽香は、少し困惑しながら答えた。

「えっと……あの協定書に私たちの署名が揃っちゃうと、後はAB〇一八が量子銃で消去されちゃって、IMUTAも壊れちゃって、たぶん一般市民に犠牲者が出ちゃうんじゃないかと……」

 増田基和は少し微笑んでから春木に尋ねた。

「先輩さんたちを助けようとも考えたのではないですか。彼らが先に署名していれば、もうASKITの連中から責められることは無い。あなたは、自分の署名と引き換えに彼らを先に帰すように条件提示するつもりだったのでは? 自分だけがあの場に残って、彼らが無事に帰国したことを確認してから自分は署名すると。いや、そう運んでおいて、最後まで署名を拒否するつもりだった。死を覚悟で。違いますか?」

 春木陽香は下を向いていた。汚れたスカートの横で小さく拳を握りながら、彼女は小声で言った。

「でも、結局、何も出来ませんでした……」

「それが悔しい。失敗したことが」

 増田にそう言われ、春木陽香は一度だけ首を縦に振った。

 増田基和は笑顔を作って首を横に振って見せた。

「西郷のことは、気にする必要はありませんよ。あのマシンがタイムトラベルしたという確証はありません。我々の分析ですが、タイムトラベルに成功した確率は非常に低い。それに、あなた方が聞いた話が本当なら、高橋はバイオドライブを一度AB〇一八に接続しているはずだ。ということは、AB〇一八の中に田爪健三の研究データが記憶されている可能性が高い。IMUTAを使ってAB〇一八からそれを引き出すことが出来れば、解析することができます。最悪、もし西郷がタイムトラベルしていたとしても、我々の方で田爪健三の設計図通りにタイムマシンを製造して、過去の世界に奴を追いかけて行くことは可能です。ま、個人的には、あまり得策とは思いませんがね」

 春木陽香は下を向いたまま首を小さく横に振った。スカートの横の拳はギュッと握られている。

 増田基和は彼女を見つめたまま暫く黙っていたが、やがて静かな口調で語り始めた。

「我々があの島を攻撃することは、いずれ実行されたはずです。ですが、もし今日のような流れでなければ、陸海空すべての部隊を総動員した大規模兵団で遠方から包囲を狭めて行く作戦になったでしょう。その場合、おそらく、ASKITは財力や人脈を利用して第三国を介入させたはずだ。そうなれば、また大きな戦争になってしまうところだった。あれだけの最新装備を備えた敵を相手に白昼の急襲作戦を実現できたのも、その中から先に非戦闘員を救出できたのも、あなた方が協定書に署名するまでに時間をかけてくれたお蔭です。その間、彼らが協定条項の履行として直ちに自軍を輸送する準備に追われていたからこそ、我々の部隊は敵に気付かれないで、あの島に近づくことができた。結局、犠牲は最小限で済んだのですよ」

 春木陽香の拳は緩まなかった。彼女は小さな声で言った。

「でも……」

 増田基和は眉間に皺を寄せて言う。

「犠牲者が出たことを悔やんでいるのですね」

 春木陽香は下を向いたまま肩を震わせて答えた。

「前に占いの御婆さんに言われたんです。これから大変なことがあるけど、あなたは誰かを救う、全部元通りに出来るって。だから、頑張れって。それなのに、瑠香さんも、タハラさんも、高橋諒一博士も、公安の刑事さんたちも、誰も救えませんでした。西郷さんにはタイムマシンで逃げられちゃうし。私が行くべきだったんです。私が過去に行って、みんなを助けることができれば、全部元に戻せたのに……」

 春木陽香の足下に数粒の雫が落ち、コンクリートの床に染み込んでいった。

 増田基和は言う。

「人間は万能ではありません。自分に出来ることには限界があります。あなたはよくやってくれました。ASKITの陰謀を阻止できたのは、あなたのお蔭です」

 遠くから様子を見ていた山野紀子が朝美を神作に任せて、春木の方に歩いてきた。

 春木陽香は下を向いたまま肩を上げて、掠れた声で精一杯に言った。

「誰も救えませんでした。兵隊さんたちも、その他の人たちも。私、記者なのに。記者なのに……」

 横風の中で立っていた春木陽香は、下を向いたまま、髪に隠れた顔を左腕で拭った。増田基和は、彼女の左椀が濡れているのに気付いていた。彼は黙って春木を見ている。すると、下を向いたまま鼻を啜っている春木陽香の肩を山野紀子が優しく包んだ。

 山野紀子は春木の顔を横から覗きこむと、軽くおどけた口調で言った。

「コウルァ、ハルハル。助かったのに泣くことないでしょ」

 彼女は春木の肩に手を掛けたままハンカチを渡すと、増田の方を見て言った。

「すみませんねえ。この子、どっかが飛び抜けちゃってるんですよ。可愛い顔してるくせに、意地っ張りで、いつも全力投球、フルスイング。他人の百倍頑張るんです。馬鹿正直じゃなくて、正直な馬鹿なんです。だから、気にしないで下さい。何か食べさせたら、すぐ元気になりますから」

 ブー。

 春木陽香は山野のハンカチで鼻をかんだ。そして、左手で大きく涙を拭うと、肩に乗せられていた山野の手を振り払って言った。

「他人のことを馬鹿、馬鹿って言わないで下さい。私だって、一生懸命やってるんですから」

 春木陽香は二人に顔を向けることなく階段の方に歩いて行こうとした。

「ハルハル、待ちなさい」

 山野紀子が呼び止めた。春木陽香は振り向かずに立ち止まる。

 山野紀子は言った。

「ちゃんとお腹に何か入れなさいよ。あんた記者でしょ。あんたがやるべき戦いは、これからなんだからね。『腹が減っては、戦はできぬ』って言うでしょ。ねえ、局長さん」

 増田基和は苦笑いをして頷く。

 春木陽香は二人に背中を向けたまま、言った。

「ハンカチを洗ってきます」

 そのままスタスタと向こうに歩いていく春木に、山野紀子が大声で言った。

「ちゃんと顔も洗いなさいよ。ここ、国防省ビルだからね。どこに出会いがあるか分からないわよ。あんたの笑顔、結構いいんだからね。膨れっ面してたら、可愛い子ちゃんが台無しよお」

 春木陽香は階段の手前で立ち止まると、上を向いて大きな声で返事をした。

「分かってます!」

 そして、そのまま振り向くことなく、階段を下りていった。

 春木の背中を見送りながら、増田基和は山野に言った。

「いい部下さんですね」

 階段の方を見つめながら山野紀子は自慢気に答えた。

「ええ。上司の教育がいいですから」

 増田基和は穏やかな顔で、ゆっくり一度だけ頷いた。

 そこへ制服姿の若い女性軍人が歩み寄ってきた。軍規監視局の外村美歩監察官だった。彼女は増田の前に立つと、姿勢を正して敬礼した後、歯切れのよい口調で彼に言った。

「失礼します。司令本部より伝令を賜りました。至急、司令室に戻るようにとのことであります」

 増田基和の顔が元の厳しい表情に戻った。

「ご苦労。すぐに戻る」

 増田基和は、高く上げた左手の人差し指を立てたまま素早く数回まわし、駐機しているオムナクト・ヘリのパイロットに離陸を指示した。そして、山野に一礼すると、階段の方へと歩いていった。外村美歩大佐も後に続く。

 山野紀子は、速足で向こうに歩いていく増田に大きな声で尋ねた。

「あの、私たち、帰ってもいいんですか。何か、事情聴取とかがあるんじゃ……」

 増田基和は少しだけ振り向いて答えた。

「結構です。後で、あなた方の記事を読ませてもらいますよ」

 横風に赤いネクタイをなびかせながら、増田基和は階段を下りていった。

 山野紀子は強い横風に髪とスカートを押さえながら彼を見送った。階段の手前で立ち止まっていた外村美歩大佐が、少し振り返ってヘリの方を覗く。

 四方のオムニローターの回転速度を上げたオムナクト・ヘリが、ゆっくりと上昇し、ビルから離れた。そのまま垂直に上昇すると、空中に留まったまま機体を傾けて転回し、風を掴んで青漢の奥へと飛んで行く。

 高く、どこまでも広がる青空には、白く膨らんだ入道雲が浮かんでいた。その向こうから、真夏の強い太陽が力強くはっきりとした光を放っていた。




 二〇〇三年五月三日


 日に照らされたアスファルトは熱を持っていた。道路の上には長い車列が出来ている。その中に、荷台に大きなコンテナを積んだ一台のトラックが停まっていた。中年の運転手は太陽の光を反射しているサイドミラーの角度を変えると、ダッシュボードに手を伸ばし、ラジオをつける。スピーカーから女性アナウンサーの声が聞こえた。

『おはようございます。二〇〇三年五月三日土曜日、今日は憲法記念日です。もう、ホントにね、まだ十時前だというのに、ここ御台場はすごい熱気です。さて、それではまず、ゴールデンウィークの各地の様子を伝えてもらいましょう。気仙沼の倉石さーん』

『はーい。倉石です。私は今、気仙沼市内の……』

 運転手はチャンネルを切り替える。

『せっかいにーひーとーつだあけの、はーなあ……』

『次は天気情報です。県北部、南部、西部、共に晴れ。東部では、所により一時雨のおそれも……』

 運転手は苛立った顔で次々にチャンネルを切り替えていき、交通情報が流れている局で止めた。

『――下寿達かずたち山仮設道路は十七キロの渋滞、蔵園町から千穂倉ちほくら山方面は四十キロの渋滞が予想されます。なお、多久実町の新竹橋南詰は、車両事故により一時通行が出来ない状態となっています。付近を通る際は……』

 運転手は舌打ちすると、今度は無線機へと手を伸ばし、そこから取ったマイクを口の前に運んだ。

「こちら四号車、水島。只今、西バイパスの手前で渋滞にはまっている。このままだと、午前中の試験機の搬入は無理だと思われる。本社の指示をくれ」

 雑音に混じって返事が届く。

『了解。では、Bポイントまで回ってもらえますか。そこで臨時預かりとします』

「了解した。これよりルートを変更する」

 マイクを元の位置に戻した水島は、再び舌打ちをして言った。 

「なんだよ。ってことは結局、第一基地の方か。始めから、そうしてりゃあよかったんだよ。ったく……」

 水島は、シフトレバーを動かすと、ハンドルを切り、アクセルを踏んだ。

 トラックが渋滞の列から横にゆっくりと出る。

「だいたい、なんで、こんな連休中に大事なものを運搬するんだよ。平日なら少しは空いていたのによ」

 片側三車線の幹線道路を埋めていた車の列から、そのトラックは脇へと鼻を出した。そのままゆっくりと車体を出し、後ろのトレーラーを引いていく。銀色の大きなコンテナを載せたトレーラーは、トラックに引かれて車列から離れた。道沿いの角地に建つコンビニエンス・ストアの広い駐車場へと逃げたトラックは、そこを通り抜けて横道へと入っていく。その細い道を暫らく慎重に走ると、再び少し広い道に突き当たった。トラックは、前を流れる車の中に隙を探し、何とか右折して、クラクションを短く鳴らしてから車列の中に割り込んだ。そのまま低速で進んでいく。やがて、さらに広い幹線道路との交差点に出ると、その信号をゆっくりと左折した。トラックが二車線を使って大回りに左折を終えると、運転席の水島はギアを入れ替えながらサイドミラーに目を向けた。引いている後ろのトレーラーの上のコンテナに異常はない。その大きな銀色のコンテナは、側面にも屋根にも、後部の両開きの扉にも、何も書かれていなかった。水島はダッシュボードのモニターに映っているコンテナの内部映像を確認した。そこには、しっかりと固定されて積まれている分解された戦闘機の先端部分と、ジェット噴射装置の部分、翼などが映っていた。

 そのトラックは真新しい綺麗な幹線道路を進み、更に信号を右折して東へと向かった。トラックはそのまま暫らく順調に走っていたが、やがて、車列の最後尾で止まった。道路の先に延々と続いているテールランプの長い列を見ながら、水島はまた舌打ちした。

「ったく……、ここもかよ」

 水島は帽子を脱いで隣の座席の上に放り置くと、ハンドルの上に頭を出して、フロントガラスから空を覗いた。上空を通過する自衛隊のヘリが見える。飛んでいく方角を確認しながら、水島は言った。

「すぐそこなんだけどなあ。こりゃあ、昼になっちまうな」

 短く息を吐いた水島は、車内から左側を見回した。少し先に、住宅街の中へと入っている横道が見える。その横道は片側一車線の広めの対面道路だった。トラックを少しずつ前に進めながら、その横道の入り口の幅とトレーラーの長さを見比べていた彼は、意を決したように勢いよくハンドルを回しながら言った。

「仕方ねえ。住宅街を抜けるかあ」

 渋滞の列の中からゆっくりと左折を始めたそのトラックは、その横道の入り口へと車体の角を向ける。角の民家と左の歩道から自転車や歩行者が飛び出してこないことを確認しながら、慎重に牽引車部分の先を横道の中に入れると、続いて、角に立っているカーブミラーに注意しながら、後方のトレーラーの部分を引いていった。

「ふう、曲がれた、曲がれた。急がば回れってね。抜け道なら任せなさいっての」

 帽子を被り直した水島は、シフトレバーを動かして、アクセルを慎重に踏み込んだ。路肩に立つ電柱にサイドミラーをぶつけないよう注意しながら、そのトラックをゆっくりと前進させていく。すると、突き当りのT字路で、正面の民家の前に横向きで一台の乗用車が停まっていた。水島はブレーキを踏み、少しずつ速度を落としながら言った。

「まったく、どこに停めてんだよ。曲がれねえじゃねえか」

 トラックを停止させた水島が、目の前の乗用車の中を覗いてみると、運転席と助手席に人影が見える。若い夫婦が乗っているようだ。

「おいおい、運転手が乗ってるなら、早く退けよ」

 水島がクラクションに手を掛けた時、その乗用車の後部ドアが開き、中から幼い子供がピョンと降りてきた。水島はクラクションを鳴らすのをやめた。水玉のシャツにオーバーオールを穿いたその幼児は、慣れた足取りで家の前を走って行くと、空の駐車場の角に置かれていた大きめの熊の縫いぐるみの前で振り返り、乗用車の中の男女に向かって笑顔で手を振っている。

 様子を見ていた水島は、呆れ顔で行った。

「なんだよ、忘れ物かよ。早くしてくれよ。こっちは急いでんだからよ」

 水島はクラクションを鳴らそうと手を浮かせた。その時、大きな雷鳴が響き、続いてフロントガラスを雨水が叩いた。突如として振ってきた雨に、その幼い女の子は少し慌てたようにして前を向き、縫いぐるみを抱き上げる。水島はハンドルに両手を乗せた。

「なんだあ? 通り雨か? ったく、この頃の天気予報は当てになんねえなあ」

 フロントガラスに顔を近づけて空の黒い雲を覗いていた水島は、また舌打ちすると、座席シートに身を戻した。その瞬間、ダッシュボードのモニターに閃光が走った。続いて一瞬だけ強く白く光った画面に眩く輝く卵形の光の玉が映る。それとほぼ同時に、水島の背面シートの後ろが強烈に光り、彼を前に強く押し出した。フロントガラスの内側に赤い液体が飛び散る。荷台のコンテナが波打ち、前の牽引車に激突した。トラックはその衝撃で突進し、そのまま乗用車に乗り上げる。凄まじい衝突音と金属が潰れる音が響いた。

 雨が激しく降り始めた。

 曲がったトレーラーのシャフトの端で宙に浮いたタイヤが空回りし、雨水を散らしている。乗用車に乗り上げたトラックには、壊れて変形したトレーラーが斜めに突き刺さって立ち、運転席を完全に破壊していた。その下の乗用車は平らに潰れ、原型を失っている。反り曲がったトレーラーのシャフトの上で、大きく変形した銀色のコンテナが開花直前の百合の蕾のように天に向かって亀裂を広げていた。その細かく波打って曲がった外壁の表面を、雨粒が激しく叩く。

 コンテナの中には、壊れた積荷を押し退けて、卵型の物体が横たわっていた。その物体のハッチがゆっくりと開く。

 パンドラの箱は、こうして開けられた。

 この時、春木陽香はまだ生まれていなかった。自分の父親が大学四年生だった頃だ。春木と同い歳の綾軍曹も当然生まれていない。永山哲也は四歳だった。父親と同じ職業に就くなどとは思ってもいなかった。十二歳だった神作真哉と十一歳だった山野紀子は、まだ出会ってもいなかったから、山野朝美には存在の契機すら無かった。三木尾善人は二十九歳で、勉学に励みながら実家の電気店を手伝っていた。彼が刑事になるずっと前である。浜田圭二と岩崎カエラはランドセルを背負って神作真哉と仲良く登校していた頃だ。三人ともただの悪ガキだった。阿部亮吾は自衛隊員としてイラクで人道復興支援活動に従事する準備に追われていた。外村美歩も町田梅子もまだ法律の勉強などしていない。自分たちが生まれる六、七年前のことである。知る由もない。光絵由里子は四一歳だった。彼女はこの翌年、先代の養父から会社を引き継いだ。西田真希は三歳で、祖母が送ってくれた七五三の衣装に袖を通し、はしゃいでいた。丁度、今の西田の娘と同じ歳だ。南正覚はそう名乗る前で、三十歳だった。この頃は転職して得た新しい仕事に慣れてきた頃で、毎日を活き活きと過ごしていた。田爪健三と高橋諒一は共に十四歳で中学二年生。電気や物理についての基礎的な知識を学び始めたばかりだった。二人はまだ何も知らなかった。互いの存在すら知らなかった。いずれ自分たちがタイムマシンを製造することも、タイムトラベルの実験を行うことも知らなかった。全く何も知らなかった。AT理論のことも、AB〇一八のことも、IMUTAのことも、SAI五KTシステムのことも、新首都のことも。

 そして、『パンドラE』のことも。




 エピローグ

 

 二〇三八年八月二十七日。金曜日の今日は、「週刊新日風潮」の発刊日である。編集室の記者たちは、読者の反応や取材対象者の動きを探るために、朝から忙しそうに出かけていく。付け替えたばかりの真新しいドアが慌しく何度も開閉した。

 編集室内には春木陽香と別府博が残っていた。そこに、山野紀子の大声が響き渡る。

「コルァ! ハルハル! この原稿、全然だめ。はい、やり直ーし」

 山野の茶色い机の前に立って原稿を受け取った春木陽香が言う。

「はあ。またですか……。どこが駄目なんでしょうか」

 山野紀子は、「トゲトゲ湯飲み」でお茶を飲みながら言った。

「うーん、なんかね、こう、情緒が感じられないのよ。ただ淡々と事実関係が述べられているだけで、読者に訴える記者の思いっていうか、気持ちが伝わらないのよねえ」

 春木陽香が言った。

「はあ? 前の時は、事実報道の部分と記者の意見は、分けて書けって言ったじゃないですかあ」

 ハイバックの椅子の背もたれに倒れて、山野紀子が言った。

「昔から『機に因りて法を説く』って言うでしょ。今回は、あんたの感情をドカーンとぶつけなさい」

「はあ……ドカーンとですか。でも、また記事データが無くなっちゃったんですよ。集めた資料も何もかも」

 春木陽香は自分の机の上のペン立てから、そこに挿してあった乾いた青い花を取ると、山野に見せた。山野も引き出しから干乾びた青い花を取り出して、自分もやられたと言わんばかりに、春木に見せる。ペン立てに青い花を戻した春木陽香は、椅子にペタンと座り込むと、眉間に皺を寄せた顔で山野に言った。

「また一からやり直しじゃないですか。しかも、あの『括弧、高橋博士かもしれない、括弧返し』さんが言っていたことも、まだ裏取りが出来ませんし。今は、客観的に明らかな事実だけを並べる記事にしといた方が、いいんじゃないですか」

 山野紀子は顔を左右に振って言う。

「駄ー目。それじゃ、売れないじゃない。こっちは上の新聞と違って、毎回何冊売れるかが勝負なのよ。それには、買って読んでもらえる記事を書かなきゃ」

 春木陽香は口を尖らせて言う。

「でも、あまり読者を混乱させるような記事は書きたくないんですけど……」

 山野紀子が春木を指差しながら言った。

「読者を混乱させないように、客観的に正確な情報をまとめて、記者の主観で熱ーく伝える記事を書くのが、プロの記者の腕でしょ。週刊誌の記者として、少しはプライド……」

「プライドと責任感ですね。分かってます。でも、客観的に正確で、主観的に熱いって、いったいどっちなんですか」

 困惑した顔で尋ねる春木に、山野紀子は笑顔を見せて答えた。

「どっちもよ。『総ての道はローマに通ず』。ね、別府君……って、寝るな、別府う!」

 椅子に座ったまま腕組みして下を向いていた別府博は、慌てて顔を上げた。

「はい! あ、……すみません」

 山野紀子が別府をにらみながら言う。

「こら、弛んどるぞ。トゥン!」

 春木陽香も別府に言った。

「トゥン! ……意味わかんないけど」

 別府博は春木に言った。

「俺、先輩でしょうが」

 トゲトゲ湯飲みを机の上に置いた山野紀子は、真顔に戻って春木に言った。

「とにかく、あのバイオ・ドライブかもしれない装置の傷のこととか、田爪瑠香の視点に立って、もう少し丁寧に書いてみて。あと、あの『括弧、たぶん高橋諒一だよね、括弧返し』の老人の思いとか、あんたの考えた通りでいいからさ、もう少しだけ、チラッと挿んでみてよ」

「はあ……」

 春木陽香は、いつも通りの返事をした。

 山野紀子は手を叩いて言う。

「はい、後は自分で考えーる。『脚下を照顧せよ』。ルック、ルック」

 山野紀子は春木の足下を何度か指差した。

 春木陽香は椅子を回して自分の机に向かいながら、口を尖らせて呟く。

「イタリアに行ったり、インドに行ったり、ホント忙しいなあ……」

「ん、なんて?」

「いえ、何でもないです。トレヴィの泉を思いながら、座禅組んで考えてみます」

 山野紀子は大きく頷いた。

「それでよし。あとはライトの写真であんたの記事に説得力を……あれ? ライトは?」

 室内を見回す山野に別府博が答えた。

「その、『括弧、ナントカカントカ、括弧返し』の遺体を調べている科警研の技官の所に行きました」

 山野紀子は目を丸くした。

「岩崎さん? なんで。昨日、例の島から遺体が発見されたばかりでしょ。それに、遺体は先に警視庁の科捜研に回されるんじゃないの?」

 別府博は眉間に皺を寄せて言った。

「たぶん、美人でスタイル抜群の、その技官さんにグラビア撮影させてもらえないか交渉するのが狙いじゃないですかね。ていうか、そう言って出かけて行きましたけど」

 山野紀子は呆れ顔で言う。

「馬鹿じゃないの? 現職の科警研職員がグラビアの撮影に応じる訳ないでしょ」

 春木陽香は立体パソコンの上に原稿の文書ホログラフィーを表示させて、それに視線を向けながら言った。

「たぶん、本当は取材ですよ。ちゃんとした」

「遺体の写真を載せる訳にはいかないんだけどねえ。まあ、この場合は仕方ないかあ」

 頭を掻きながらそう呟いた山野紀子は、春木の方に目を遣った。春木陽香は黙ってホログラフィーキーボードを叩き、記事原稿を修正している。

 頭の後ろで手を組み、背もたれに身を倒して足を組んだ別府博が、山野に言った。

「でも、あの刀傷の殺し屋やNNC社のニーナ・ラングトンの遺体は見つからなかったんですよね。また記事データを盗んだのが、あの『刀傷の男』だとすると、アイツ、生きてるんじゃないですか。それに、老人の家族の遺体も見つかってないんでしょ。どうも変ですよね。軍や警察は、やっぱり何か隠してますよ。通訳のナオミ・タハラって人の遺体は見つかっているのに……」

 別府博は、山野が眉間に皺を寄せて自分をにらんでいたので、話を止めた。

 山野紀子と春木陽香は、高橋千保、千景、諒太の三名が軍に保護されて第三国に逃れたことを別府にも、勇一松にも、他の記者たちにも話していなかった。それは神作真哉と永山哲也も同じで、彼らもまた、上野や重成、永峰には話していなかった。もちろん、上司の甲斐、谷里、副社長の杉野にも。そして誰も、その事実を記事にはしなかった。だが、山野紀子が別府をにらんで発言を止めさせたのは、そのことが理由ではなかった。彼女はタハラが目の前で凶弾に倒れたことを春木が悔やんでいるのを知っていた。

 山野紀子はもう一度、春木に視線を向けた。春木陽香は、黙ってホログラフィーの立体キーボードを操作している。

 山野紀子は春木の表情を観察する。山野からの視線を感じ取った春木陽香は、ホログラフィーに顔を向けたまま言った。

「大丈夫です、編集長。私は、今の立場でやるべきことをやりますから」

「――そう」

 山野紀子は、少しだけ安堵して、口角を上げた。そして、机の上のトゲトゲの湯飲みを取って前に突き出すと、低い声で言う。

「別府、お茶」

「はあ? 僕ですか? なんでですか」

「いいから。お茶注いできて。熱過ぎず、ぬる過ぎず。適度な温度でね」

 別府博は山野の後ろを指差して言った。

「急須はそこに在るじゃない……です……か……」

 山野紀子が猛獣のような目で別府をにらんでいる。彼女は言った。

「上司に言われたら、さっさと動く。はい、レッツ・ゴー」

「分かりましたよ。注いできます。いてっ。どうして、こんな持ちにくい湯飲みを……」

 別府博はブツブツと小声で文句を言いながら、山野のトゲトゲ湯飲みを持って給湯室へと向かった。

 編集室には二人だけになった。

 腕組みをして椅子に凭れた山野紀子は、そのまま春木を見つめて言った。

「ねえ、ハルハル。一つ、訊いていい?」

「はあ、何でしょう」

 春木陽香がホログラフィーのキーボードを叩きながらそう返事をすると、山野紀子は尋ねた。

「結局、あの時あんただけ、あの老人に『質問』していないわよね。あんた、あの人に何を『質問』するつもりだったの?」

 春木陽香は文書ホログラフィーに顔を向けたまま答える。

「いいじゃないですか、別に。もう帰ってきたんですし」

 山野紀子は春木の横顔を見ながら言った。

「気になるのよ。ハルハルが、あの場であの人に何を訊きたかったのか。まさか、どうすれば諒太くんと結婚できますか、じゃないでしょ」

 春木陽香は原稿の修正をしながら答えた。

「それも少しは考えました。あと、あの島で宅配ピザを注文しても持ってきてもらえるのか、とか」

「真面目な話よ」

 山野紀子がそう言ったので、春木陽香は手を止めて、椅子を回し、山野の方を向き直してから、言った。

「夢です」

「夢?」

 山野紀子は眉を上げて聞き返した。

 春木陽香は頷いてから言った。

「目的というか、信念というか。高橋諒一は、どんなことがしたくて、科学者になったのか。それが訊きたかったんです。きっと、最初は誰でも、何か目標を持って仕事とか、生きる道を選んだはずですから」

「なるほどねえ。そっかあ、……」

 山野紀子は少し考えた。そして、春木の顔を見て言った。

「思い出して欲しかった? あの時、あの場で、あのお爺ちゃんに」

 春木陽香は黙って頷いた。それを見て、山野紀子は言う。

「でも、それじゃあ記者としては失格ね。彼の自伝を書くためのインタビューなら別だけど」

 春木陽香は口を尖らせた。

 山野紀子は、そんな彼女を指差しながら、更に付け加えた。

「だけど、人としては合格。それで、よし」

 春木陽香は小さく頭を下げて笑みを浮かべた。

 山野紀子も少し笑顔を見せて春木に応じる。そして腕組みをすると、今度は天井を見上げて呟いた。

「ふーん、夢かあ……」

 春木陽香は思案している山野を暫らく見つめていたが、やがて椅子を回して自分の立体パソコンに向かいながら、山野に言った。

「あの人が普通の人よりも沢山の時間を生きているなら、きっと、それを実現する方法とか、理念とか、生きるうえで何を優先させないといけないのかとか、他の事とどう調整していけばいいのかとか、いろいろと何か参考になる話が聴けるんじゃないかと、ちょっと期待しちゃいました」

 山野紀子は春木の方を向き、苦笑いしながら言う。

「それに答えてくれたとしても、あのお爺ちゃんの話が何か参考になったかしらねえ」

 春木陽香はホログラフィーの記事原稿に目を向けたまま言った。

「いえ、いいんです。でも、なんとなく、あの人は真意を語っていなかったような気がして……。それに、なんか見た感じが、ウチのお祖母ちゃんと似ていたんで、ちょっと、お祖母ちゃんの言ってたことを思い出しただけなので……」

 そして、山野の方に顔を向けて言い足した。

「あ、お祖母ちゃんは別に、頭の後ろからチューブは出てないですけど」

 山野紀子は笑いながら頷くと、春木に尋ねた。

「お祖母様は、なんて言ってらしたの?」

 春木陽香は答えた。

「若者は、年長者を見習え、年下には模範を示せって。歴史はそうやって紡がれていくのじゃぞい、と言ってます。いつも」

「厳しいわね」

「はい、厳しいです。でも、すごく優しいです。だから、家族みんなで大事にしてます」

 山野紀子は口角を上げた。

「羨ましい。ウチの朝美にも聞かせてやりたいわ」

 春木陽香は再び記事原稿の修正に取り掛かった。ホログラフィーで机の上に浮かべられた半透明のキーボードの上で指を動かしながら、彼女は言った。

「それに、足りてますから。質問しなくても別によかったなと」

 山野紀子は怪訝な顔で首を傾げながら言った。

「――そう。足りてるの……」

 手を止めた春木陽香は、机の上に浮かんでいる記事原稿の立体画像文書に顔を向けたまま言った。

「私には、模範にすべき、いい上司がいます。見習うべき先輩たちも」

「……」

 山野紀子は瞬きしながら春木の横顔を見つめていたが、今度はニヤニヤとしながら春木を指差して言った。

「ははーん。さては、上司に胡麻を擂る術を覚えたなあ。もしや狙ってるな、編集長の椅子う」

 春木陽香は一度首をすくめると、再びホログラフィーキーボードの上で指を動かして言った。

「バレましたか」

 山野紀子は、まだ笑みを浮かべたまま、春木陽香を見つめていた。

 新人記者は照れくさそうに笑みを見せると、上司に向かって軽く一礼した。

 山野紀子は大きく息を吐いて、その後、クスクスと笑い出した。

 春木陽香も屈託のない笑顔を山野に向けて、笑った。

 二人はそのまま静かに笑う。

 春木陽香が急に笑うのをやめた。山野紀子は春木の沈んだ顔を伺う。春木陽香は少し声の調子を落として、呟くように漏らした。

「でも、いろいろと謎が残っちゃいましたね……」

 山野紀子は手を大きく一振りする。

「そんなの当たり前じゃない。何から何までスッキリと判明して物語が終わるなんて、低レベルなマンガや三流小説の世界だけよ。そんなの、全然リアルじゃない。現実の世界では、真相の中のほんの少しのことしか明らかにならないものでしょ。いつも謎だらけ。前にも言ったわよね。現実の世界は、もっと複雑に入り組んでいるって。私たちは常に、謎と疑念と誤解の中で生きているの。それが『リアル』ってことよ」

 春木陽香は肩を落として、大袈裟に項垂れた。

「ですねえ……。今回は、ものすごく実感しました」

「でもね、それはそれで、良い面もあるのよ。分かる?」

 そう山野に言われて少し考えた春木陽香は、目線だけを山野に向けて答えた。

「架空の物語は最終ページで終わるけど、現実の世界に『終わり』はない。だから、私たちは残された謎を一つずつ丁寧に紐解いていくことができる。私たちが諦めないかぎり、ずっと……ってことですか」

 山野紀子は笑顔で頷いてから、再び春木を指差す。

「大正解。いいこと言うじゃない。そのとおりよ。私たちの世界に最終ページは無い。それが現実世界リアル空想世界フィクションの違いね。私たちが諦めないかぎり、必ずいつか、真相が明らかになる。いいえ、明らかにしてみせる。そうでしょ」

「はい」

「お、よし。いい返事だ」

 山野紀子は納得を込めて大きく頷いた。

 再び机の上のホログラフィーに顔を向けた春木陽香は、姿勢を正すと、半透明のキーボードの上で指を動かしながら、つんと澄ました顔を作って言った。

「返事くらいは、ちゃんとしないと。私も管理職への昇格を意識してますから。早く出世して、この会社の、暴力で愛情を表現をするっていう変な『社風』を変えないといけませんからね」

「なによ、根に持つタイプなの?」

「はい。ちゃーんと全部覚えてますし、数えてもいます。だから、私がこの会社の社長になったら、その慰謝料分を編集長の給料から、ちゃーんと引かせてもらいます」

「あら、残念ねえ。そしたら、ハルハルは記者をやめちゃうんだ」

「いいえ、やめません。社長になっても、編集長の下で記者を続けます」

「はあ? じゃあ私は、社長を部下としてこき使わないといけないわけ? やりにくいなあ……」

「お互い様ですね」

「面倒くさいでしょ、それ」

「仕方ないですよ、謎の解明のためですから。世の中のためですし。お互いに我慢しましょう。うん」

 腕組みをして天井を見上げた山野紀子は、ボソリと言った。

「なるほど。それもそうね、仕方ないわね」

 春木陽香も前を見たまま呟く。

「ですね」

「……」

 二人はそのまま沈黙した。そして、ほぼ同時に小さく吹き出すと、そのまま笑い続けた。二人ともカラカラとした爽やかな笑顔だった。

 そこへ湯気を立たせたトゲトゲ湯飲みを持って別府博が戻ってきた。

「入れてきましたよ、お茶。この湯飲み、持ち難いから、お茶を注ぐのも一苦労……ていうか、他人が居ない時に、なに楽しそうに笑ってるんですか。何の話してたんです?」

 山野紀子は別府から湯飲みを受け取りながら答えた。

「女同士の話よ。別府君には、関係なーし」

 別府博は頬を膨らませて言う。

「ええ、ズルイなあ。ハルハル、後で教えろよ」

 春木陽香は記事原稿を修正しながら答えた。

「教えてもいいですけど、その前に、性転換手術は受けて下さいね」

 山野紀子は笑いを堪えながら湯飲みのお茶を啜った。

 別府博はふて腐れた顔で壁際の席の椅子に腰を下ろす。

 顔だけ山野に向けた春木陽香が言った。

「あ、胡麻すりのついでにお尋ねしますけど。朝美ちゃん、ちゃんと宿題の提出は終わりました? 月曜から二学期ですよね」

 山野紀子はトゲトゲ湯飲みを机の上に置いて、自分の立体パソコンに向かいながら言った。

「うん、何とか間に合ったみたい」

 春木陽香は息を吐いてから言った。

「そうですか。よかったあ。これから受験勉強ですもんね。大変ですね」

 山野紀子はホログラフィーで表示された秋の特別号の企画データに目を通しながら言った。

「いやいや、あの子にとっては、九月も十月もイベントが多くて、ほとんど夏休みみたいなもの……ああ、しまった!」

 急に大きな声を出した山野紀子は、別府の方を向いて言った。

「九月十月で思い出したわ。ライトのやつ、新人カメラマンの面接候補者は絞ったのかしら。今月中に面接しとかないと、九月中に研修して、十月から現場勤務でしょ。間に合うの? 公務員とグラビア撮影の交渉なんかしている場合じゃないでしょうが」

「いや、僕に言われても」

 春木陽香は目を輝かせて山野に尋ねた。

「あ、前に言っていた新人の面接ですか。ホントですか」

「うん。ライトが忙しいから、アシスタントを付けてくれって。第一就職の高卒生で、写真学校に通ってた子の中から採るらしいけど、いい子が来るのかしらねえ」

 春木陽香は身を乗り出して山野に言う。

「女子がいいですね、女子が」

 山野紀子は椅子の背もたれに身を倒して言った。

「まあ、人選はライトに任せているから、どうかなあ。美形の男子とかを採用しちゃうかもね」

「それはそれで、問題ありません。はい」

 春木陽香は力を込めて大きく頷いた。山野紀子は呆れ顔で溜め息を吐く。

 電話の呼び出し音が鳴った。

 春木陽香はすぐに机の上の子機に手を伸ばし、電話に出た。

「はい、週刊新日風潮編集室、春木です。――あ、神作キャップ。お疲れ様です」

 椅子から体を起こした山野紀子は、活き活きと仕事に取り組む春木を見つめて安心したような笑みを浮かべると、再び文書ホログラフィーの企画データを読み始めた。

 子機のマイク部分を手で覆いながら、春木陽香が叫んだ。

「編集長! 真明教のカラクリが分かったそうです。神作キャップが、編集長にも見てもらいたい物があるから上に来るようにって」

 企画データから春木へと視線を移した山野紀子は、落ち着いた声で答えた。

「すぐ行くと伝えて」

 神作にそう伝えた春木陽香は、子機を元の位置に戻すと、急いで立体パソコンのホログラフィーを消し、椅子から腰を上げた。

 山野紀子も立体パソコンのホログラフィーを消し、椅子から立ち上がる。後ろに掛けてあったサマージャケットを取り、それを羽織りながら狭い廊下へと速足で歩いていった。

 春木と別府の席の間を通りながら、山野紀子は不敵な笑みを浮かべる。

「よーし。最終ラウンドのゴングね。行くわよ、ハルハル」

 虹模様のトートバッグに立体パソコンを入れて、半袖シャツの上から肩に掛けた春木陽香は、はっきりとした返事をした。

「はい。こっちの資料の整理は出来ています。リベンジ開始ですね」

 春木陽香は山野を追いかけて、暗く狭い廊下の方へと駆けていく。山野が開けたドアから光が差し込み、廊下が少し明るくなった。

 椅子を回した別府博が、その廊下の方に向かって叫んだ。

「おーい、ハルハル。リベンジって何だよ。これからまた、何をするつもりだよ」

 閉まり掛けたドアを手で押さえて立ち止まった春木陽香は、振り返った。彼女は自信に満ちた笑顔で力強く答えた。

「取材して、記事を書きます。私、記者ですから」

 そのまま、記者・春木陽香は、広く明るい中央廊下へと駆け出して行く。取り付けられて間もない新しいドアが、彼女の背中を押すようにゆっくりと閉じていった。



                  ドクターTの証明 サーベイランスA  了


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