第10話

 続4

 彼女の目には零れんばかりの涙が浮かんでいた。下を向いた春木陽香は、スカートを強く握り締めながら肩を上げて言った。

「瑠香さんも……田爪瑠香さんだって、本当ならもっと早く助けられて……」

 皆、口を噤んだ。神作の背中から手を下ろした上野秀則は、真顔に戻って春木を見つめた。神作真哉は背もたれに凭れて、視線を床に落とす。

 その時、内線電話の呼び出し音が鳴った。すぐに重成が電話に出た。皆の視線が重成に集まる中、春木陽香は永峰に背中を向けたまま下を向き、肩を張って膝の上に涙をこぼしていた。

 内線電話の子機を耳から離した重成直人が言った。

「神作ちゃん、杉野副社長からだ」

 深刻な顔でそう言った重成直人は首を横に振って見せた。それを見て、甲斐局長が漏らす。 

「ほらな。知らんよ、どうなっても」

 彼は俯いている春木を一にらみしてから、その場を去っていった。

 上野秀則が甲斐の背中に厳しい視線を向ける。その隣で、神作真哉は杉野の反応の速さに首を傾げながら、自分の机の内線電話に手を伸ばした。

「はい、神作です」

 子機を耳に当てて通話している神作を上野秀則が心配そうな顔で見ている。神作真哉は通話しながら、時折、春木の方に視線を向けた。春木陽香は肩を細かく震えさせて、声を殺しながら下を向いて泣いている。ヘッド・マウント・ディスプレイを外した永峰千佳が春木の肩を後ろから撫でて、彼女を慰めていた。その様子を見て椅子から腰を上げた重成直人は、永峰の机の横に歩いて行くと、彼女に耳打ちした。

「下に行って、紀子ちゃんを呼んでくるよ」

 永峰千佳が頷く。重成直人はゲートの方に歩いていった。

 暫らく杉野と話していた神作真哉が、声を少し高くした。

「え? そうですか、分かりました。じゃあ、大至急まとめて、すぐに届けます。――はい。失礼します」

 子機のボタンを押した神作に不安そうな顔を向けて、上野秀則が尋ねた。

「何だって」

 神作真哉は眉間に皺を寄せて言った。

「今、警視庁公安部の刑事が、こっちに向かっているそうだ。提出できる資料を急いで下まで持って行って渡せって。そのまま警察庁と官邸に向かうらしい」

 上野秀則は目を丸くした。

「公安だって? じゃあ、まさか、さっきのハルハルの通報の会話を拾っていたのか」

 椅子から立ち上がった神作真哉は、少し慌てて机の周りの書類を重ねながら言った。

「たぶんな。ハルハルが発した危険ワードが警察のコンピューターに拾われたのかもしれん。ハルハルからの内線よりも先に公安から連絡が入ったと、副社長は言っていた」

 上野秀則は春木を見ながら言った。

「いろいろ言ってたもんな。『官邸』に『核爆弾』、『毒ガス』ってくりゃ、テロリストからの脅しだと思われても仕方ないか。それにしても、さすがは公安だな。見つけるの、はやっ」

「もしかしたら、本当に官邸に届くかもしれんぞ」

 涙を拭いた春木陽香が顔を上げる。

 神作の目を見て上野秀則が言った。

「そんなに甘くはないと思うが……賭けてみるか」

 神作真哉は頷いた。

「駄目もとだよ。あと何分だ」

「三時半になるところだからな、あと三十分ってところだ」

「ギリギリだな。千佳ちゃん、これまでプリントした原稿、捨ててないよな」

「はい、あります」

 神作真哉は腰を折ってパソコンを操作しながら、春木の後ろの永峰に指示を出した。

「全部を頁順に並べて綴じたら、紙袋に入れてくれ。そのまま渡す」

 永峰千佳が驚いた顔で言った。

「え? ホントに全部渡すんですか。これ、原稿ですよ。社外秘なんじゃ……」

 神作真哉は永峰に怒鳴った。

「いいから、早く! 誰か、エレベーターのボタンを押しておいてくれ! うえにょ、外の様子は!」

 永峰千佳は大慌てして作業に取り掛かった。春木陽香も椅子から立ち上がり、それを手伝った。上野秀則は急いで窓際まで移動すると、ブラインドの隙間に指を入れて広げ、下の道路の様子を覗く。彼は驚いた顔で言った。

「早いな。もうパトカーが近づいて来てるぞ。猛スピードだ」

 そのままブラインドの隙間から上を覗いて言う。

「おうおう、オムナクト・ヘリもかよ。警察も本気になれば、やるもんだな」

 神作真哉が声を飛ばす。

「出来たか、千佳ちゃん」

「はい、どうぞ!」

 資料が詰まった紙袋を永峰から受け取って、そこに自分の手元の資料を放り込んだ神作真哉は、全速力でエレベーターの方へと走っていった。

 春木陽香は永峰の横に立ったまま、赤くなった鼻を啜って神作の背中を見送った。

 永峰千佳がティッシュの箱を差し出す。春木が一礼してそれを受け取ると、永峰千佳は春木の背中を強く叩いた。少し痛かったが、春木陽香は笑顔でそれを受け止めた。

 春木陽香は何枚も重ねたティッシュで真っ赤な目を拭くと、安堵したように思い切り鼻をかんだ。


                  5

 山野紀子と重成直人がゲートを通って社会部のフロアに入ってきた。山野紀子は壁に並んだ本棚に沿ってズカズカと速足で歩いてくると、永峰の後ろに立って怒鳴った。

「コルァ、ハルハル。なに油を売ってんのよ。時間が無いのよ」

 永峰の隣の席に座っていた春木陽香は、立ち上がって山野に頭を下げた。

「あ、すみません」

 顔を上げた春木の目は赤く、少しだけ腫れていた。

 山野紀子は腰に手を当てて春木の顔を覗き込む。

「ん、どうした?」

 そして周囲を見回し、窓際に立って下の景色を覗き見ている上野を見つけると、彼を指差して怒鳴りつけた。

「コルァ、うえにょ! あんたでしょ。ウチのハルハルを泣かしたのは」

 上野秀則は振り向くと、山野たちの方に歩いて移動しながら言った。

「違う違う、俺じゃないぞ。ついでに言うが、名前も違う! 俺は『上野』だ。いい加減覚えろ!」

 春木陽香は山野に言った。

「いえ、これは、何でもありません。ははは」

「そう……」

 重成から大方の事情を聞いて急いで上層階へ移動し、春木を擁護しよう乗り込んできた山野紀子だったが、肩透かしを食らって少し困惑した。春木が強がって言っているのは分かっていたが、どうも事情が違うようだ。山野紀子は重成に目を遣った。自分の席に戻っていた重成直人は肩の高さに両手を上げたまま、両肩と両眉を上げて見せた。

 山野紀子は一度だけ首を傾げたが、すぐに報告事項を思い出し、上野に言った。

「ああ、うえにょ。今、別府君から電話があった。発射場周辺の警備は、まだ解かれてないって。四時の発射まで、もう時間がないけど、どうなの? 止められそう?」

「分からん。警察から総理官邸に上げてもらうことになった。さっき神作が下まで、刑事に資料を渡しに走っていったところだ。それと、もう一つ。俺は『上野』だ。プラス、おまえの先輩だ!」

 山野紀子は怪訝な顔で言った。

「刑事? それに資料って、まだ途中までしか……」

 そこに神作真哉が帰ってきた。彼は少し汗ばんだシャツを手で扇ぎながら、椅子に荒っぽく腰を下ろした。紅潮した顔で彼は言う。

「ヒー。疲れたよ。久しぶりに全力疾走した」

 上野秀則が神作に言った。

「この前も走ったじゃねえかよ」

「あれは半力疾走。お前が遅いから早く感じただけだ。スキップしてたんだぞ、俺」

「ウソ言え」

 口を尖らせて答えた上野の横で、二人を怪訝な顔で見ていた山野紀子が、神作を見て尋ねた。

「ねえ、真ちゃん。哲ちゃんから送られてきた音声データの文字起こし、出来上がっているのは途中までよね。届いた分割データの復元も終わってないんでしょ。まだ出来てない資料を渡しちゃったの?」

「仕方ないだろ。時間が無いんだから。あとはウチの夕刊を読んでくれって宣伝しといたよ。上野、頼むぞ」

「ああ。とにかく、永山のインタビューを全部そのまま活字にして掲載する。まずはそれだな」

 神作真哉は椅子を引いて座り直し、早速、机の上に浮かんだ平面ホログラフィーの原稿データに目を通し始めた。彼は独り言のように言う。

「こっちは文体を整えて、ニュアンスが違わないかのチェックと……」

 山野紀子が神作と上野の顔を交互に見ながら、不安気な表情で言った。

「警察って、誰に渡したのよ。大丈夫なの? ちゃんと官邸に届くの?」

 神作真哉は平面ホログラフィーに顔を向けながら答えた。

「ああ。子越こごし長官が既に官邸に向かっているそうだ。赤上あかがみさんって刑事が、さっき俺が渡した資料を直接、官邸まで届けてくれるんだと。南北幹線道路の自動運転制御システムを上空のオムナクト・ヘリから操作しながら、進行経路の車を強制的に避けさせて走るそうだから、十五分くらいで着くとは言っていた。既に官邸に移動中の子越長官にも車の中からデータを送信するそうだから、まあ、何とかギリギリかな」

 重成直人が向こうの席から顔を覗かせて、少し大きな声で聞き返した。

「赤上? 公安の赤上か」

 その声に驚いた神作真哉は、重成の方に顔を向けて頷いた。重成直人は、いつになく厳しい表情でこちらを見ている。彼はその視線をそのまま山野の方に向けた。

 春木陽香が神作に尋ねた。

「間に合いますかね……」

 神作真哉は、普段は温厚な重成が少し声を荒げたことを気にしながら、春木に答えた。

「公安の即応体制は見事だと聞いているからな。あとは運を天に任せるしか……」

 山野紀子が顔をしかめて口を挿んだ。

「ちょっと待って。やっぱり公安なの? 赤上って言ったわよね。もしかして、その刑事はシゲさんくらいの歳の人?」

 神作真哉は山野の顔を見ながら戸惑い気味に答えた。 

「あ……ああ。そうだったな」

 山野紀子と重成直人が机越しに再び顔を見合わせた。

 重成直人は険しい顔をして首を横に振ると、荒々しく椅子の背もたれに身を倒した。

 山野紀子は上野の方に向けた顔を斜めに傾けながら言った。

「うえにょ。あんた、元政治部でしょ。何やってたのよ」

「何って……」

 事情が判然としない上野秀則も困惑した顔をする。

 重成が眉を曇らせて言った。

赤上あかがみあきらだよ、あの」

 一瞬だけ考えた上野秀則は、すぐに自分の額を叩いて声を上げた。

「ああ! しもたあ! あの赤上かあ、特調の」

 困惑した顔で神作真哉が尋ねた。

「特調の? あいつ、特調のデカなのか」

 山野紀子が言った。

「ええ。それ、きっと特調の赤上あかがみあきら警部よ。警視庁公安部特別調査課の課長」

 神作真哉は椅子の背もたれに倒れ込むように身を倒して、上を向いた。

「しまったあ……」

 永峰千佳がヘッド・マウント・ディスプレイを外して神作を見る。彼は前屈みになって膝の上に肘を乗せ、両手で頭を抱えて項垂れていた。上野を見ると、立ったまま額に手を当てて天井を見上げている。

 春木陽香が神作と上野の様子をキョロキョロと見て、山野に尋ねた。

「その赤上さんだと、問題があるんですか」

 山野紀子が説明した。

「公安部特調の赤上明はね、四十過ぎてから中途採用で警官になったことで有名な刑事なの。もう一人、刑事部の捜査一課にも、そういう刑事がいるんだけど、どちらも切れ者で名が通ってる。特調については前に話したでしょ」

 春木陽香がキョトンとした顔で言った。

「あの、何でも有りの機関ですよね。有働前総理が陰で操っているという。でも、何でも有りなら、丁度よかったんじゃないですか。総理に知らせてくれるのも有りってことで」

 山野紀子は呆れ顔で言った。

「相変わらず呑気ねえ。何でも有りなら、その逆をやる可能性も有るってことじゃない。ちなみに、中途採用の赤上が短期間で課長まで上り詰めたのは、有働の子飼いとして忠実に動くからだって噂なのよ。他の警官たちからも、あまり良い評判は聞かないわね。その赤上が、課長なのに自ら資料を取りに来たってことは……」

 神作真哉は頭を抱えたまま言った。

「くそっ。駄目じゃねえかよ。このタイムマシン事業は、有働が総理大臣時代に始めた事業だろ。それで百二十九人も犠牲になっているんだ……」

 山野紀子が訂正した。

「百三十人よ。田爪瑠香も入れて」

 体を起こした神作真哉は言った。

「有働としては、情報を握りつぶそうとするに決まっているじゃねえか。ああ、時間の無駄したあ!」

 激しく頭を掻いた神作を見ながら、春木陽香が落胆する。

「そんなあ……」

 上野秀則が神作に言った。

「だから言ったろ。そんなに甘くないって。いろいろ有るんだよ」

「その、いろいろ有る話を思い出せっつうの。――ああ、まさか特調の刑事だったとは。マジかよ……」

 神作真哉は再び落胆する。上野秀則は口を尖らせながら言った。

「俺だって『特調』とか『赤上』って聞いてれば、止めたけどさ。『公安』だけじゃ、ピンと来ねえよ」

 振り向いた神作真哉は窓際の棚の上の置時計に目を遣りながら、しかめ面で言った。

「どうするよ。あと十五分後には発射じゃねえか」

 神作と共に棚の方に顔を向けた上野秀則は、窓の向こうに浮かぶ機影に気づいた。

「ほら来た。軍の哨戒ヘリだ。始まるぞ」

 ビルの外にホバリングして停止したオムナクト・ヘリから拡声器の声が聞こえてくる。

『そこのビルの方。窓を覆って下さい。まもなく、視界遮断のための拡散レーザーを放ちます。強い光ですので、窓の外を絶対に覗かないで下さい。繰り返します。まもなく、視界遮断のための……』

 上野秀則は窓の方に歩いて行きながら、憤慨した顔で言った。

「止める気、全く無しだな。畜生……」

 そこへ、再び上の階から下りてきた杉野副社長が姿を現した。彼は窓の方を見ながら呟いた。

「始まったか」

 神作真哉は前屈みで椅子に座ったまま、見上げるようにして杉野の顔を見て尋ねた。

「どうでした。財界の方は」

 杉野副社長は首を横に振って答えた。

「駄目だ。津田長官が方々に手を回している。それに、誰も政府に緊急連絡を入れられる程の強力なパイプまでは持ってはいないようだ。光絵会長以外は所詮ただの金持ちに過ぎんということだな」

 杉野副社長は溜め息を吐いた。そして、今度は彼が神作に尋ねた。

「で。渡せたのか」

 神作真哉は下を向いたまま答えた。

「ええ。渡せましたがね、相手は特調の赤上でした。特調のデカだとは知らなくて……。すみませんでした」

 杉野副社長は一度重成の顔を見てから視線を神作に戻すと、彼に言った。

「有働前総理が操っているという特別調査課だな。公安と聞いて、その可能性までは考えなかったのか」

「俺のミスです。すみませんでした……」

 再度頭を下げた神作に杉野副社長は言った。

「気にするな。そのくらいのことは織り込み済みだ。こっちは春木君が正式に一一〇番通報をしているんだ。受け付けた巡査の名前まで聞いてな。私からも説明してある。いくら公安の特別調査課だといっても、市民からの通報事実を揉み消したりは出来んはずだ。その重要な資料を受け取った以上、奴らも官邸に届けざるを得んはずだぞ」

「ですが……」

 神作真哉は不安を拭えなかった。

 重成直人が隅の席から口を挿んだ。

「こうなったら、私から有働に直接電話をしてみるか。奴の番号なら知っている」

 杉野浩文副社長は重成に顔を向けると、首を横に振りながら言った。

「シゲ、そこまでしなくてもいい。奴がどんな男かは知っているだろう。ここでこちらから連絡を入れれば、奴の思う壺になるかもしれん。奴に対しては先日の一件で十分だ。信用するなら、辛島の方しかない」

 重成直人は顰めた顔で舌を鳴らす。

 山野紀子が髪を強く掻きながら言った。

「ああ、もう……。その辛島勇蔵が清廉潔白な総理なのはいいけど、こういう時にパイプが少ないのよね」

 杉野副社長が尋ねた。

「あと何分だ」

 神作真哉は腕時計を覗きながら答える。

「十三分ってところです」

 山野紀子は、さっきまで目の前に立っていた春木の姿が見えないことに気づき、見回して彼女を探した。後ろから永峰千佳が肩を叩いた。山野が振り向くと、彼女は窓の方を指差していた。山野がその先に目を遣ると、春木陽香が窓辺に立っていた。彼女は、上野が端から順に閉めていったブラインドの継ぎ目の前に立ち、閉められたブラインドの左端を持ち上げて、隙間から窓の外を覗き込んでいる。

 山野紀子は春木に声をかけた。

「ハルハル、レーザー光線で閃光幕が張られるから、外は見ないほうがいいわよ。目をやられるから」

 春木陽香はブラインドを持ち上げた手で拳を握り、タイムマシンの発射施設の方角をにらむように強く見つめていた。


                  6

 天井が高く広いその部屋には窓がない。壁際で大きな振り子時計が音を鳴らしている。部屋の中央には数人掛けの応接ソファーが対面で置かれ、その間に縦長の低いテーブルがあった。テーブルの先には一人掛けの分厚い高級ソファーが幅の広い執務机を背にして置かれている。その両袖の執務机は深みのある赤茶色で奥行きもあり、よく磨かれていた。その向こうに、体の大きな老人が分厚い革張りの執務椅子に座っていた。背広姿のその男は、執務机とソファーの間に立っている制服姿の初老の男の顔をじっと見据え、低く太い声で言った。

「間違い無いのか」

 警察庁長官の子越智弘こごしともひろは直立したまま答えた。

「まだ何とも。急ぎ公安の方で、インタビューで田爪を名乗っている男の声の簡易声紋解析をさせていますが、現時点での報告では、過去の田爪博士の声紋とは適合に幅があるとのことです。転送データを再現した情報ですので、その際に生じるズレのせいかもしれませんが」

 内閣総理大臣・辛島勇蔵からしまゆうぞうは、大きな体を背もたれに倒し、目を瞑った。彼は言う。

「これを届けたのは、特調の課長だったな」

「はい。赤上明警部です」

 目を開けた辛島勇蔵は、その鋭い眼差しを子越に向けて言った。

「たしか、君とは同い年だったな。信用できる男かね」

 子越智弘は頷いて答える。

「警官としては」

 辛島勇蔵は子越の目を刺すように見ていたが、やがて再び目を瞑り、言った。

「よかろう」

 軽いノックの後、部屋の壁のドアが開き、紺の背広を着た長身の若い男が入ってきた。彼は子越に一礼すると、目線を落として言った。

「総理。津田長官と繋がりました」

「出してくれ」

 辛島勇蔵がそう答えると、子越が横に移動した。その若い秘書官が手許のリモコンを操作すると、先程まで子越が立っていた所に天上から光が射され、そこに司時空庁長官津田幹雄の姿がホログラフィーで投影された。

 ホログラフィー映像の津田幹雄は、直立したまま割れた顎を引いて、言った。

『総理。お呼びでしょうか』

「うん。時間が無い、要件だけ言おう。タイムマシンの発射を直ちに中止しなさい」

 津田のホログラフィーは呆気に取られた顔で聞き返した。

『は? 発射を中止ですと? 次回からですか?』

 辛島勇蔵はホログラフィーの津田の顔を見据えて言う。

「今すぐだ」

 津田幹雄は指先で眼鏡を持ち上げながら言った。

『しかし、発射まで十分を切っております。発射シーケンスもフェーズ・フォーまで進んで……』

 辛島勇蔵は津田の発言を途中で遮り、太く大きな声で、ゆっくりと言った。

「君が止められないのなら、今すぐに、止められる人間と入れ替えるだけだが」

 ホログラフィーの津田幹雄は、一瞬言葉を失って総理の顔を見ていた。辛島の鋭い眼光は離れない。津田幹雄はすぐに姿勢を正して言った。

『分かりました。直ちに』

 辛島勇蔵は津田の顔をにらんで言う。

「結果については、発射予定時刻の前に、私に届くはずだな」

『はい。そう致します』

「では、急いで取り掛かりたまえ。以上だ」

 秘書の男がリモコンを操作する。津田幹雄のホログラフィーは停止して消えた。辛島勇蔵を厳しい表情を崩さない。彼は、横に退いた位置に立ったままの子越に言った。

「よく知らせてくれた」

 子越智弘は辛島の目を見て答えた。

「いえ。私も警察官ですので」

「端緒は」

「一般市民からの一一〇番通報です。その際の通報者が発言した単語が我々のデータベースの危険キーワードにヒットし、通話回線が自動的に警視庁公安部とリンクされました。発射前の警戒態勢で、ウチもオムナクト・ヘリを飛ばしておりましたので、訓練での想定以上に早く対処することができ、幸いでした」

「そうか……」

 辛島勇蔵は目を瞑り再び尋ねた。

「通報したのは」

「新日風潮社の春木という記者です。その後、新日ネット新聞社の副社長の杉野という人物が、電話に出た巡査と話しています」

「この情報を掴んだのも、そこか」

「おそらく」

 辛島勇蔵は大きく息を吐いた。そして、目を瞑ったまま言った。

「ご苦労だった。下がっていい。新日については、よろしく対処してくれ」

「かしこまりました」

 子越が一礼して去っていくと、辛島勇蔵は部屋の隅に立つ秘書官に言った。

「有働代議士に連絡してくれ。話がしたい」

 秘書官は頭を下げ、退室した。辛島勇蔵は椅子を回し、横を向く。彼の顔は依然として険しかった。彼の視線の先では、壁際に置かれた大きな振り子時計が秒針を揺らし、休み無く時を刻んでいた。


                  7

 新日ネット新聞社の社会部フロアの窓に外からの強い光が射した。軍のオムナクト・ヘリから照射された拡散式レーザー光による閃光幕である。短い間隔で繰り返し放たれるその緑色の強い光は、窓の内側で閉じられているブラインドの隙間からも容赦なく室内に射し込み、中を何度も強烈に照らした。

 窓から離れて部屋の中央に戻っていた春木陽香は、他の記者たちと同じように目を手で覆った。フロアの隅に居た上野秀則が光に背を向けながら壁のスイッチを押すと、窓が一瞬で完全な黒色に変色し、外の光を遮断する遮光モードへと変わった。少ない電灯で照らされていた室内は一瞬だけ暗くなったが、順次に他の電灯が点き始め、やがて全てのLED蛍光灯で室内が照らされると、そこは真夜中の職場ような景色に変わった。

 壁の方を向いて顔を手で覆っていた記者たちが手を下ろし、それぞれの仕事に戻る。

 腕時計に目を遣った神作真哉が嘆くように呟いた。

「あと二分と少しか……」

 すると、内線電話の子機を耳に当てていた重成直人が、耳から離した子機を持ち上げて神作に言った。

「神作ちゃん、内閣官房から電話だ。二番だ」

 神作真哉が怪訝な顔で重成に言った。

「内閣官房?――ですか?」

「ああ。副長官からだそうだ。神作ちゃんと話しがしたいと言っている」

「はあ? 内閣官房副長官がですか?」

 神作真哉は首を傾げながら電話に出た。彼は少し緊張した声で丁寧に応える。

「はい、お電話を替わりました。社会部の神作です。――ええ、確かに、彼女は系列会社の記者ですが。――そうですか。――はあ……」

 神作真哉は何度も春木に視線を向けながら答えた。キョトンとした顔の春木陽香は、神作から視線を向けられる度に山野の顔を覗く。山野紀子も首を傾げていた。

 そこへ、ゲートの近くから男の声が飛んだ。新日風潮の編集室の記者である。

「おーい、ハルハルう。内閣官房からおまえに電話が来てるぞお。こっちに居るって伝えとい……」

 電話を切った神作真哉は、ゲートの方に向かって叫んだ。

「もういい。今聞いた」

 神作真哉は、そのまま大きな声で言った。

「みんな聞いてくれ」

 彼の声にフロア内が一斉に静まる。

 一瞬だけ間を開けた神作真哉は、にやりと片笑むと、声を張った。

「やったぞ。タイムマシンの発射が止まったそうだ!」

 フロア内に一斉に「おお」と声が上がり、続いて歓声が沸きあがった。

 作業の手を止めて肩を下ろす者、手を叩いて喜ぶ者、机に手をついて凭れ息を吐く者など、安堵の表現は様々だったが、どの記者も口角を上げている。

 一気にざわつき始めた記者たちの間を上野秀則が駆け寄ってくる。重成直人は息を吐いて背もたれに身を倒し、自分の胡麻塩頭を撫でた。永峰千佳はヘッドマウント・ディスプレイを外して髪を書き上げながら、笑みを溢す。春木陽香は顔の前で両手の拳を強く握って背中を丸めると、鼻を啜って顔を上げた。口角を上げて天井を仰ぐ。瞳から零れた涙が一筋だけ頬を伝った。肘を上げて涙を拭いた彼女の肩を山野紀子が抱きしめて揺らした。

 椅子から立ち上がった神作真哉が春木の前まで歩いて来て、彼女に言った。

「辛島総理がおまえに結果を知らせるようにと、官房副長官に指示したそうだ」

 山野紀子が春木に言った。

「気持ちが届いたわね、ハルハル」

 春木陽香は紅潮した顔で大きく頷いた。

 上野秀則が神作の後ろから言った。

「赤上警部、本当に届けてくれたんだな」

 神作真哉が振り向いて、上野に言う。

「ああ。ハルハルの言ったとおり、彼も性根は警察官だったってことだ」

 そして体の向きを変えると、フロア全体に向かって叫んだ。

「よーし。みんな、これからが大変だぞ。夕刊のアップまで時間が無い。タイムマシンの発射が緊急停止された以上、皆、その理由を知りたがる。ウチのネット新聞のアクセス数は、いつもの倍以上になるぞ。気合入れてかかれ」

 横から上野秀則が付け加えた。

「まずは永山のインタビューの全文掲載だ。まだ勝負は終わってないぞ。急げ急げ」

 彼は他の記者たちに発破を掛けるように強く手を叩いた。記者たちは、今度は揚揚として仕事にかかった。誰もが少しだけ誇らしげな顔をしている。その様子を片笑みながら見ている上野の横で、杉野副社長が春木に手を差し出して握手を求めながら言った。

「ジャーナリズムの世界へようこそ、春木記者」

 春木陽香はその手を握って小さく御辞儀をした。杉野副社長は春木の小さな手を強く握ると、反対の手で彼女の肩を叩いてから、その場を去っていった。

 神作真哉が山野に言う。

「紀子、そっちは別府と合流して、ここからの司時空庁の動きを追ってくれないか。できたら五時までに長文の記事が欲しい。時間的に厳しいが、ハルハルと一緒に作れないか」

「あと一時間かあ……」

 腕時計を覗いて渋い顔をした山野紀子は、すぐに顔を上げて答えた。

「――わかった。何とかする。でも、ネタはうちでも使わせてもらいますからね」

「好きにしろ。時事新聞の社会面をお下劣セクシーアイドルの水着写真で埋めるのは俺も気が引けるからな。もし活字で埋められれば、そっちの方がいい。頼む」

「まっかせなさーい。ほら、ハルハル、時間との勝負よ。本気出すわよ、いいわね」

 春木陽香がはっきりと頷いて返事をする。二人はゲートの方へと駆け出していった。


                  8

 夜。日付が替わろうとしている。司時空庁ビルの長官室では、津田幹雄が自分の執務机の上で立体投影されたネット新聞を捲っていた。ホログラフィーで空中に映し出された新日ネット新聞の紙面を熱心に覗き込みながら、津田幹雄は言った。

「これは一体どういうことなんだ。ウチのタイムマシンが南米にだと? そんな馬鹿な」

 横に立っている佐藤雪子が言う。

「でも、実際にその永山哲也という記者は、今日の午前中に馬水様ご一家を乗せたタイムマシンを現地で目撃していますわ。追記の記事に記載されている馬水様たちの服装も今朝の搭乗の際の皆様の服装と一致しています。もちろん、搭乗者の人数も」

「どこかからか情報が漏れたのかもしれんぞ。この前の一件についての、新日の奴らの反撃かもしれん」

「捏造だと仰いますの?」

 津田幹雄は佐藤に顔を向けて言った。

「あり得るだろ。あの発射施設に侵入するような連中だぞ。無人機の墜落も奴らの仕業かもしれん。あれは陽動作戦だったんだ。黒木からの情報が違っていたのも、奴もグルだったからかもしれんな」

 津田幹雄はもう一度、新聞記事を読み直した。佐藤雪子が小さく笑ってから言う。

「黒木さんは、もともと新日の方ですわ。無人機の墜落については、軍が調査しているのでしょう。増田情報局長のお話しでは、現時点ではシステム異常の可能性が高いと。それに、あの一件以来、司時空庁内の情報管理と秘密保持の体制は一段と強化いたしましたのに、今さら情報があの新日に流れることは無いと思いますわよ。まして、タイムマシンの搭乗者の人数や、年齢、直前に着替える服装などが外部に漏れるとは考えられませんわ。しかもリアルタイムで」

 津田幹雄は再び佐藤の方を向いて言った。

「では我々は、金をとって人々を戦場に送り続けていたということか」

 佐藤雪子は口角を上げて言う。

「田爪博士が量子銃で処刑してくれていたのでしょう。苦痛は無かったと思いますわよ」

「……」

 津田幹雄は顔を曇らせた。暫らく沈黙した後、彼は呟いた。

「田爪博士も本物なのだろうか」

「どうでしょうね。生体チップの認識コードが一致したと解説されていましたけど、そんなものを一介の記者たちが、どこから手に入れたのかしら」

 津田幹雄はホログラフィーの新聞を消すと、佐藤に指示を出した。

「とにかく、明日一番で外務省に連絡してくれ。ウチから職員を現地に送る。事の真偽を確かめねばならん」

 佐藤雪子は掛け時計を一瞥すると眉を寄せて言った。

「無理かもしれませんわよ。もうアメリカの朝のニュースで、この記事のことが報じられているようですから。当然、南米連邦政府も協働部隊も事態を把握しているはずですわ」

 津田幹雄は椅子の背もたれに身を投げ、溜め息を吐いて言う。

「日本政府からの人員は、受け入れてもらえんか……」

「それよりも、タイムマシンを無人で飛ばしてみて、検証実験をすることが先ではございませんの?」

「無理だ。辛島総理からタイムマシン発射の無期限の凍結を命じられた。発射の最終決断者も、事業の最高指揮権者も、法律上は内閣総理大臣だ。辛島総理が停止を命じた以上、たとえ無人でも飛ばすことは出来んよ」

「それでは、どうなさるおつもりで。明日以降は問い合わせの電話が殺到すると思いますわよ。どう致しましょう」

 津田幹雄は背もたれから身を起こしながら言った。

「そんなものに応じる必要は無い!」

 机の上に肘をついて頭を抱えた津田幹雄は、そのままの姿勢で佐藤に言った。

「松田君を呼んでくれ」

 佐藤雪子は腕時計に目を落として答えた。

「こんな時間ですわよ。もう、ご帰宅されているのでは」

「なら呼び戻せ。管理担当者は彼だろうが。それから、奥野大臣に繋いでくれ。緊急通信用の回線を使えばいい」

 一礼した佐藤雪子は部屋を出ていった。

 部屋の中に残った津田幹雄は、爪を噛みながら呟いた。

「これは不味い。なんとか凌がねば……なんとか」

 広い長官室の中で、津田幹雄は一人で考え込んでいた。




二〇三八年七月二十四日 土曜日


                  1

 その夜、春木陽香は泣き明かした。

 新日風潮の編集室に一人残り、自分の席で永山のインタビュー記録を聞いていた彼女は田爪瑠香の死の真相を知った。田爪健三の口から語られるその事実は、あまりにも悲しいものだった。席を立った春木陽香は、給湯室へと向かった。自分を落ち着かせようと、牛乳を飲もうとしたが、手が震え、コップに注ぐことさえ出来なかった。春木陽香はその場に崩れるように座り込み、泣いた。田爪瑠香の目の前まで辿り着いていながら、彼女を救えなかった自分を責めた。記者でありながら、あの発射を止めることが出来なかった。人を救えなかった。春木陽香はただ自責の念に駆られた。そして悔しかった。彼女は声を上げて泣いた。彼女の咽び泣く声はいつまでも続いた。

 慟哭が夜を埋める。

 重い闇が続き、ようやく朝が来ようとしていた。


                  2

 夜明け前の社会部フロアでは、神作真哉の机の上だけが明かりで照らされていた。フロアにいるのは彼一人である。左目を緑色に光らせた神作真哉は、真剣な顔で話していた。イヴフォンでの通話の相手は南米の永山哲也だった。田爪健三へのインタビューを終え無事に解放された永山哲也は、田爪の依頼に従い、彼が指定した場所に足を運んでいた。

 神作真哉は永山に言った。

「じゃあ、田爪健三が言っていた建屋は、彼の地図の通り、そこに在るんだな」

 神作の脳内に浮かぶ永山哲也は、真剣な顔で答えた。

『ええ。スラム街からは随分と離れた山の中腹です。誰も人は居ないようですね』

「そうか。だが、気をつけろよ。こっちの記事を米国のメディアが取り上げた。アクセスが世界中から集中して、サーバーはパンク状態だ。お前のことを狙っている人間もいるかもしれんからな」

『はい、分かっています。とにかく、電話はこれで最後にします。たぶん盗聴されているので』

「だろうな」

 神作真哉は背もたれに身を倒した。そして、すぐに体を起こし、永山に言った。

「ああ、それから。――乗るなよ、絶対に。まだ、安全性は分からんからな」

 永山の像が眉を寄せて言う。

『でも、これしか方法はないですよ。それに、実際に事実を証明するいいチャンスですから』

「馬鹿野郎、かみさんや子供のことも考えろ! 田爪の話、聞いてなかったのか。試されてるんだよ、お前も!」

『……』

 暫らく下を向いて口を噤んだ永山哲也の像は、顔を上げて再び口を開いた。

『とにかく、これから、ICレコーダーをイヴフォンと同期させて、リアルタイム送信でそっちに送りながらレポートを記録します。分割されて届くはずですから、結合と復元をお願いします』

「分かった。とにかく乗るなよ。分かったな。こっちで何とか、迎えに行く手筈を整えるから。いいな」

 体を前に出して、宙に向かって指差しながら、神作真哉は独りで言っている。彼の脳内に見える永山の像は笑いながら答えた。

『記者の好奇心ってのも、たまには満たさせてくださいよ。――じゃあ、同期しますので切ります。幸運を祈っていて下さい』

「おい、永山、永山! ――ったく、あの馬鹿……」

 神作真哉はワイシャツの胸ポケットに挿んだイヴフォンを操作して通信を切りながら、椅子の背もたれに体を戻した。

「おはようございます」

 机の上に缶コーヒーが置かれた。神作真哉は驚いて肩を持ち上げる。

「おお。びっくりした。なんだ、ハルハルか。脅かすなよ。お、コーヒーか。すまんな」

 目を赤く腫らした春木陽香が自分の缶コーヒーの蓋を開けながら尋ねる。

「泊まられたんですか」

 神作真哉は缶コーヒーに手を伸ばしながら答えた。

「ああ。シゲさんも上野も、仮眠室だ」

 缶コーヒーを一口飲んだ春木陽香は、永山の席の向かいの散らかっている空席の椅子を引いて、そこに腰を下ろした。熱を保った缶を両手で握りながら、彼女は神作に言った。

「編集長が心配してました。神作キャップ、出社してすぐだから、体が仕事モードに戻ってないんじゃないかって」

 神作真哉は、缶を握った手の人差し指を春木に向ける。

「ハルハルこそ、どうした。こんな早くに。まだ五時半過ぎじゃないか」

「昨日の夜、一度帰ってから、すぐに出てきました。それから、下にずっと」

「インタビューの録音データを聞いてたのか」

「はい。あと、記事をまとめたり……」

 春木の赤く泣き腫らした両目を見て、神作真哉は眉を寄せた。少しだけ顔を逸らした彼は、少しだけ気を使った声で、若い新人記者に言った。

「ああ、昨日の記事、よく書けてたよ。ハルハルと紀子の記事と別府が集めてくれた巷の雑感で何とか空欄を埋めることができた。あの水着写真を載せずに済んだよ。助かった」

 缶コーヒーを見つめながら、春木陽香は言った。

「あの写真、来週号のウチの雑誌に載せるそうです」

「プロダクション側が反対してるんじゃなかったのか。新聞の方で資料として載せるのはともかく、プロダクションと契約した『風潮』が現時点で勝手に掲載するのは、不味いんじゃないか。裁判になるぞ」

 春木陽香は首を横に振った。

「先週、国防省が、無人機墜落の原因はシステム異常だったと非公式のコメントを出したので、プロダクションも態度を変えたようです。だぶん、掲載には文句は出ないんじゃないかと編集長も言ってました」

「そうか。でも、慎重にやれよ。グラビアでも論文でも記事でも、肖像権や著作権の問題があるからな」

 春木陽香は頷くと、缶コーヒーに口をつけた。少し間を置くと、心配そうな顔で神作を見て尋ねた。

「永山先輩は帰国できそうなんですか」

 缶を口から離した神作真哉は、眉間に皺を寄せて答えた。

「正直、厳しいな。昨日から早速、杉野副社長が外務省と交渉を始めている。だが、政府はこの事実が公表されたことで混乱していて、それどころではない様子だそうだ。南米での戦局も大きく変わっていて、ここ暫らくは、おそらく、この十年で一番激しい戦闘になるはずだ。とにかく、一日でも早く、あいつを日本行きの飛行機に乗せることが出来るといいんだが……」

「飛行機にも乗れない状況なんですか」

「ああ。ただでさえ向こうは戦時で空港の搭乗者チェックは厳しい。まして、永山はタイムマシンを目撃した人間で、しかも、田爪からデータ・ドライブやエネルギー・パックを預かっている。どの情報も、戦後の復興を念頭に置く南米連邦政府としては、喉から手が出るほどに欲しいモノだ。空港職員に見つかったら身柄を拘束されるだろうし、預かった物も技術検疫の名目で没収されるだろうからな。だから、何とか秘密裏に飛行機に乗る方法を考えているところだ」

「そのドライブの中は……」

 神作真哉は胸ポケットに入れたイヴフォンをいじりながら答えた。

「田爪が改良したタイムマシンの設計データや、量産型量子銃の設計データ、後遺症の医療データ、それから、量子エネルギープラントとやらの設計データなんかが入っているらしい」

「量子エネルギープラント?」

「タイムマシンや量子銃の基本エネルギーを作り出す工場だよ。科学部の連中の話では、循環型で、最初の稼動の際のエネルギーさえ入れれば、後は、どんどん量子エネルギーを作り出していくんだと。まさに夢の新エネルギー製造工場だな。量子エネルギーは電気の代替エネルギーになる可能性があるそうだ。応用範囲も広く、国内でも様々な研究がされているんだとさ。あのGIESCOも、量子エネルギーの小型パックへの充填に成功したとかいう噂があるらしい。まあ、本当かどうかは分からんが」

 神作真哉は缶コーヒーを飲んだ。

 春木陽香は怪訝な顔で尋ねる。

「そんなの、本当に出来るんですか」

 缶コーヒーを飲み干した神作真哉は、空いた缶を机の上に置いて、再び胸ポケットに挿したイヴフォンを操作しながら、答えた。

「理論的には出来るらしい。実際、政府も過去に何度か、実験用に小型の工場を作っているそうだ。ただ、科学部の連中の話では、試運転の段階でも、まだ一度も成功したことが無いらしい。ま、量子エネルギーとやらのコントロール自体に、世界中の誰も成功していないそうだから当然だと、奴らは言っていたがな」

 まだ熱を残している缶を両手で包みながら、春木陽香は言った。

「田爪博士は、そのコントロールを十年も続けてきた訳ですよね。日本から飛んできたタイムマシンから残留エネルギーを集めたり、量産型の量子銃に振り分けたり」

「そうだ。だから、彼が書いたプラントの設計図なら、信頼度が高い。しかも、これが完成したら、外国から鉱物資源を輸入する必要もなくなるし、そのために戦争なんて馬鹿なことをしなくても済む。世界中の国が喉から手が出る程に欲しいデータさ」

 春木陽香は、また心配そうな顔つきで言った。

「そんなものを永山先輩は持っているんですか……。危ないですよね」

 神作真哉が険しい顔をして頷く。

「ああ。しかも、永山はエネルギー・パックそのものも持っている。危険物って意味でも民間の飛行機では運べんだろうな。だから、あいつは別の方法を考えた」

「何ですか、別の方法って」

「タイムマシンさ。田爪はスラム街の端の山奥で、こっそり別のタイムマシンを作っていたそうなんだ。永山はその場所を教えてもらったそうで、今、その場所にいる。あいつはそこからタイムマシンに乗って、こっちまでワープして帰ろうと考えてる」

「ええー! そんな……もっと危ないですよね、それ」

 目を丸くしてそう言った春木陽香は、飲みかけの缶コーヒーを机の上に置くと、深刻な顔で神作の顔を見た。

 神作真哉は頷きながら言った。

「ああ、俺もそう思う。だから止めたんだが、あいつ、聞きやしない」

「それ、絶対に駄目ですよ。私から電話してもいいですか」

 シャツのテーラーカラーに挟んでいたイヴフォンに手を伸ばした春木を見て、神作真哉が言った。

「今は無理だ。というか、もう無理だ。あいつが持っているイヴフォンにICレコーダーを同期させてレポートを送ってきてる最中だからな」

「イヴフォンにレコーダーを同期? わざわざ録音してから、その音声データをメールで送ってるんですか。そんなことしなくても、普通に通話しながらレポートすればいいじゃないですか」

「ああ。そうなんだが、そうもいかん。こっちと永山との通話は盗聴されているんだよ、南米連邦政府か、環太平洋連合の部隊から。だから、重要な内容を伝えるとすれば、策を講じなければならん。音声データを通常の通話データに偽装した分割ファイルに分けて格納して、それを小分けにして送るんだ。さらに一つ一つを暗号式ファイルにして、順序もランダムにして送れば、誰かに傍受されても、まず解読されることはない。あとは、こっちの順序整理ソフトを使って結合して、自動パスワードを使って展開すれば、音声を再構築できて、あいつの肉声レポートを再生できる。まあ、盗聴防止のための囮ファイルも混在しているから、多少は音が悪くなるが、こっちで活字にしてしまえば、問題ない。要するに、昨日あいつがデータを送ってきた方法と基本的には同じってことだ」

「なんだか、面倒くさいですね……」

「仕方ないさ。世界中の国々が永山のことを探しているんだ。いや、あいつが持っている物と、あいつが今見ている物をな。だから、面倒でもこの方法をとるしかない。という訳で、今あいつのイヴフォンにかけても繋がらない。俺もさっきから何度もリダイヤルしているが、ほら、ずっと話し中」

 神作真哉はシャツの胸ポケットから自分のイヴフォンを外して春木の前に差し出すと、その表面にある小さな画面を見せた。画面の隅で、話し中である事を示すアイコンが点滅している。

 春木陽香は顔を上げて、神作に尋ねた。

「そのレポートは?」

「今、俺のパソコンに少しずつ飛ばされてきてるところだ。――ああ、ちょっと待て。届いている分を自動再生にするから」

 神作真哉は自分の机の上の立体パソコンのホログラフィー・アイコンに手を伸ばして、指先で操作をした。立体パソコンの上に古いラジオのホログラフィーが浮かび、下のパソコンのスピーカーから雑音交じりに永山の声が聞こえる。

『ええ、現地日時、西暦二〇三八年七月二十三日、現地時間十五時五十四分。これより、わたくし永山哲也の、高橋博士及び田爪博士失踪事件にかかる取材レポートの最終章をお送り……』

 椅子の背もたれに体を倒した神作真哉は、机の上に肘を掛けたまま春木に言った。

「な。これが終わるまで、待つしかねえよ」

 春木陽香は真剣な顔で神作に言う。

「待つしかないって、レポートしながら、そのまま乗っちゃったらどうするんですか!」

「乗らねえと思うぞ。あいつ、俺以上に心配性だからな」

「普通の人は、みんなそうですよ。何か連絡をとる方法は無いんですか?」

 腕組みをした神作真哉は、天井を見上げて答えた。

「電報でも出すかあ」

「ふざけてる場合ですか。永山先輩が白亜紀なんかに飛ばされたら、どうするんですか」

「タイムトラベルは成功してない訳だろ。過去になんか行くわけねえよ」

「じゃあ、変な所にワープしたら? 太平洋の真ん中とか、北極の氷山の上とか、アフリカの戦地とか。――宇宙空間ってことも、あり得ますよね。ああ、永山先輩い!」

 春木陽香は両手で頭を覆って髪をくしゃくしゃにしながら俯いた。

 神作真哉は、永山のイヴフォンから送られてくる音声データのパッケージ・ファイルのアイコンを見ながら言った。

「あるいは寺師町の中裏地区とか、西地区のオカマ・バーのロビーとかな」

 頭の上から両手を振り下ろした春木陽香は、顔を上げて真顔で言う。

「絶対に乗せません! 乗せてなるものですか。なんか、方法があるはずですよね。神作キャップも考え下さいよ。ここのパソコンを借りますね」

 春木陽香は椅子から立ち上がると、隣の席の椅子に移り、その机に置かれていた立体パソコンを起動させた。それを見て、神作真哉が言った。

「大丈夫だって。あいつ、所帯持ちだし、意外と慎重派だし……って、おまえ、何やってんの」

 春木陽香は猛烈な速さでパソコン上のホログラフィーを操作し、横文字と数字が並んだ平面ホログラフィーを何枚も浮かべていた。その中の一枚に目を凝らしながら、春木陽香は言った。

「現地のバイク便を探してるんです。止めに行ってもらおうと……」

 神作真哉は呆れたように項垂れて言う。

「ある訳ないし、あったとしても、運ぶ物が無いのに外国から依頼を受ける訳ないだろ」

 春木陽香は、急いで別の平面ホログラフィーを表示させながら、言った。

「じゃあ、宅配ピザ。ピザを届けてもらって、ついでに伝言もしてもらいます」

 神作真哉は頭を掻きながら、しかめた顔で指摘する。

「スラム街に宅配ピザがある訳ないだろ」

「在ったあ! 二十四時間配達します。これだ!」

 春木陽香が内線電話の子機に手を伸ばす。神作真哉は背もたれから体を起こした。

「マジか。あれ……おいおい、ハルハル。待て待て。これを聞け」

 同時に耳に入ってきた永山の声に急いで反応した神作真哉は、パソコン上のラジオのホログラフィーのボリューム摘まみを回して、音量を少し大きくした。

 春木陽香は握っていた電話の子機を机の上に戻し、再生された永山の声に耳を傾けた。

『ええ、いま、搭乗口のハッチを探していますが、ああ、ここか。――分かりました。右の方に開閉レバーがあるということですが……』

 春木と神作は息を呑んで永山のレポートを聞いている。

 永山が懸命にタイムマシンの起動に取り組む様子が伝えられた。一度暗号化されて分割して送信された音声データを再生させた彼の声は、雑音に埋もれ、途切れていた。

 神作真哉が眉を寄せる。

「やっぱ、暗号強度を上げ過ぎたかな。再生音声の質が悪くて聞き取りづら……」

「シッ。静かにしてください。聞こえません」

 机の上に身を乗り出した春木陽香が、厳しい顔で言った。神作真哉は口を閉じる。

 永山のレポートは続いた。彼はエネルギーパックをタイムマシンに接続し、マシンの起動に成功したようだった。機械音を鳴らすタイムマシンの操縦席に座ったままレポートを続ける永山に、春木陽香が必死に叫ぶ。

「降りてえー、お願いだから、早く降りてください!」

 こちらの声が届いてる訳でもないのに必死に懇願する春木を怪訝な顔で見ながら、神作真哉は永山のレポートに耳を傾け続けた。

 一旦レポートに区切りを付けた後、永山哲也は最後の決断を下そうとした。彼はタイムマシンの発射ボタンを押そうとしていた。だが、どうも迷っているようだった。

 春木陽香も神作真哉も、拳を握り締めて永山の声に集中する。

 永山哲也は言った。

『――絶対に危ない。たしかに、単なる好奇心としては乗ってはみたいし、搭乗の体験記事を書けば、ピュリッツァー賞は間違いないと思う。でも、なんかなあ……うーん』

 春木陽香は猛烈な速さで何度も首を縦に振る。

「そうです、そう。その通り。絶対に危ないです。今すぐ降りましょう、永山先輩!」

 神作真哉は呟いた。

「あいつ、そんなものを狙ってたのか。意外とアホだな……」

 春木陽香は神作をにらみ付ける。その時、永山哲也が決断を下した。

『――よし、決めた。由紀、祥子、父さんは飛行機で帰ることにします』

 神作真哉が頬を膨らませて息を吐く。ガッツポーズをした春木陽香は、肩を下げて胸を撫で下ろした。すると、永山哲也は、こう言い出した。

『――民間旅客機で帰国した場合、博士の毛髪は持って帰れるとしても、設計図なんかが入っている、この記録媒体は無理だよな。こっちの空港で技術検疫に……』

 春木陽香は、懸命に首を横に振りながら言う。

「そんなこと気にしなくていいから、飛行機で帰ってください。永山先輩!」

 永山はレポートを続ける。

『――やっぱり、こいつで転送するしか、方法なしか……』

 春木陽香はプルプルと顔を左右に振る。

「そんなことないです。何か他にも方法がありますって。ね、神作キャップ」

「永山には聞こえてねえよ」

 神作真哉は呆れた顔でそう言った。

 永山のレポートは続く。

『――でも、この機械、ヤバそうだしなあ』

 春木陽香がコクコクと首を縦に振る。

 永山は続けた。

『ん、待てよ。送ればいいじゃないか。郵便みたいに送れば。何も僕が乗らなくても、この記録媒体だけ乗せて……』

「そう! それです。それ。先輩、頭いい!」

 椅子から立ち上がった春木陽香は、神作の机の上のラジオのホログラフィーを指差しながら、叫ぶようにそう言った。

「うるせえよ。だから、聞こえてないって、あいつには」

 迷惑そうに春木に言う神作の前で、彼のパソコンは永山のレポートを再生し続けた。

『――あ、そうか。さっき僕の体重を入力したんだよな。これ、博士に言われたとおり、この記録媒体と博士の髪を持って、靴も履いて、この服装で、財布もポケットに入れたまま、昨日、ホテルで厳密に計った数値だからな。これって何か、転送に際してものすごく重要な気がする。うん。やっぱり、僕が搭乗していないと駄目ってことか。ふう。困ったな。さて、これまた、どうするか……』

「どうにもしなくていいです! 乗らないでえー! お願いだから、乗らないでえー! 神様あ!」

 春木陽香は指を組んで両手を握り、祈るように天を仰いだ。

 神作真哉は春木の大声に顔をしかめ、小指を耳に差し込んでいる。

 永山のレポートの調子が変わった。

『――ゴホン。あー、あー、あー。ええ、という訳で、急遽ではありますが、予定を変更いたしまして、田爪博士より預かりました小型記録媒体のみを、このタイムマシンでそちらに送ることにいたします。わたくしのICレコーダーも、このまま乗せて……』

「はあ……良かった……」

 春木陽香は脱力して床に座り込んだ。頭と肩から少し湯気が立っている。彼女は、ほぼ放心状態だった。

 神作真哉は呆れ顔で春木を見下ろしながら言った。

「だから言ったろ、あいつは乗らないって。祥子さんや由紀ちゃんがいるのに、自分の好奇心や野心を優先させるような男じゃねえよ、永山は。ほら、立てハルハル」

 ぐったりと床に座り込んでいる春木に、神作真哉が手を貸した。丁度その時、上野秀則が欠伸をしながらゲートを通り、フロアに入ってきた。

「ふあー。どうだ、神作、永山から連絡は……」

 神作の肩に手を掛けて、彼に抱きつくような姿勢で立とうとしている春木陽香。

 二人を目にした上野秀則は、咄嗟に近くの机の陰に身を隠した。彼は驚いた顔のまま、一人で焦っている。

「はっ。――どうしよう……。み、見てしまった。あの二人……そういう仲だったのか」

 机の陰で膝を抱えたまま身を丸めた上野秀則は、深刻な顔で真剣に悩んだ。

 夜明けのフロアは青く仄暗い。

「――って、ここはナイトクラブか! 太陽よ、早く昇ってくれえ……」

 上野の願いに応えるように、窓の外が少しずつ明るさを取り戻してくる。静かな日光が新首都の街並の輪郭を映し出し、昭憲田池の水面に白霧を立たせ始めた。フロア内に薄い光が射し、室内も少し明るくなる。上野秀則は机に隠れたまま安堵の息を吐いた。

 フロアの奥では、神作真哉が永山からの転送データの結合作業に取り掛かっている。

 机を一つ空けて座っている春木陽香は、パソコンで、南米大陸の民間空港を必死に検索していた。彼女の真剣な顔を、ブラインドの隙間から差し込んだ朝日が微かに照らす。

 こうして、また新たな一日が始まっていった。




 二〇三八年七月二十六日 月曜日


                  1

 黒塗りの高級ステーションワゴンが、新首都総合空港まで続く整備された広い道路の上を走っている。今日は永山哲也が帰国する日だ。職場の仲間たちは永山の妻・祥子と娘の由紀と共に彼を迎えに行くことにした。各会社も彼らに時間を与え、新日ネット新聞の杉野副社長の計らいで、この高級車が準備されたのだった。

 助手席のすぐ後ろの席に座っていた永山祥子が、運転席の神作真哉に言った。

「本当にすみません。こんな立派な車まで準備していただいて」

 神作真哉はハンドルを握りながら答えた。

「いいんですよ。会社には、これくらいのことはさせないと」

 運転席の後ろの席に座っていた上野秀則が左を向いて言った。

「ご主人の記事のお蔭で、うちのアクセス数は一晩で前日の四十倍ですからね」

 前の助手席から体を捻って、山野紀子が言う。

「みんなで出迎えた方がいいし、きっと荷物も多いでしょうから、大きな車の方が便利でしょ」

 上野の後ろの椅子に座っていた制服姿の山野朝美が口を尖らせながら紀子に言った。

「でも、ウチらが乗ってたら、荷物を入れられないじゃん」

 山野紀子は朝美と上野を順に指差しながら言った。

「その時は、あんたとうえにょが地下リニアで帰ればいいのよ」

 朝美は目をパチクリさせながら前の席を指差して言う。

「え? このヒョウタン顔のおじちゃんと。ぶるるる。虹パンお姉ちゃんの方がマシ」

「ヒョウタン……」

 上野が振り返ると同時に、運転席から神作真哉が尋ねた。

「誰だ、ニジパンお姉ちゃんって」

 朝美が隣の席に座っている同じ制服姿の永山由紀の前に手を出して、その左に座っている春木を指差しながら言った。

「このお姉ちゃん。前にお姉ちゃんの家で……ムグッ……」

 由紀の前から右手を伸ばした春木陽香は、必死に朝美の口を塞いで神作に言った。

「何でもないです。私、『人参パン』が大好物で、そのことかな。ははは」

 春木の右腕の下に身を屈めていた由紀が口を開いた。

「私も知ってる。このお姉ちゃん……ムググッ」

 左手で由紀の口も押さえた春木陽香は、二人に言った。

「お姉ちゃんが後でソフトクリームを買ってあげるから。ちょっと黙ってよう。ね」

 上野秀則は後部座席の三人に呆れたような顔を向けると、すぐに隣の祥子の方に顔を向けて言った。

「しかし、良かったですなあ、奥さん。外務省が素早く動いてくれて。永山の奴も、国防軍の要人輸送機で運んでもらえるなら安心だ」

 祥子は上野に御辞儀して言った。

「お蔭様で。でも、向こうから出国できないと聞いた時は、どうなるかと心配しました。昨日の夕方、外務省の方からお電話を頂いて。もう、ほっとしたのなんの」

 神作真哉が前を見たまま尋ねた。

「どこの部署からでした?」

「調整局の国際調整課って言ってましたけど……」

 祥子の答えを聞いて、一瞬、運転席の神作と目を合わせた山野紀子は、その視線を上野にも向けた。上野秀則も表情を曇らせていた。

 それを見て永山祥子が尋ねた。

「何か都合の悪いことでも……」

 山野紀子が振り返って祥子の顔を見ながら言った。

「いえ。調整局って言ったら、外務省の中でもエリート部局なのよ。そんな所が動くなんて、国はよっぽど哲ちゃんのことを気にかけてくれていたんだなと思って」

 そう山野が話している途中で、祥子の膝の上のウェアフォンが着信ランプを点滅させ始めた。振動するウェアフォンを操作しながら、永山祥子は溜め息を吐く。

「はあ、まただわ。主人が立派な仕事をしたって言うのは、私にも解かるんですけど、昨日から携帯が鳴りっぱなしで……。記者の妻でありながら、しかも皆さんの前で言うことではないのかもしれないですけど、正直、マスコミにはうんざりですわ」

 それを聞いた由紀が後ろで真似をする。

「そうですわ。ちょっと、ウルサイですわ」

 朝美も乗る。

「それは大変ですわ。電源を切っとけばいいですわ。――くくく」

 笑う朝美。山野紀子が助手席から上野に目で指示した。上野が春木に目で指示を送る。春木陽香は少し戸惑いながら、遠慮気味に、隣の由紀の頭に軽いチョップを入れた。

「あいたあ……はい、了解。どーん」

 由紀が朝美の頭に強めのチョップを入れる。朝美は頭を押さえた後に、額に手を立てて声をこもらした。

「――ぷあ」

 春木陽香は怪訝な顔で二人の中学生を見つめながら、思っていた。

 ――この子たちは、バカなんだろうか――

 運転席の神作真哉は祥子に言った。

「分かります。記者にも色々な奴らがいますからね。暫く電源を切っておかれたらいい。引っ切り無しに掛かってきて、煩いでしょう」

 上野秀則も言う。

「マスコミと言っても、お宅のご主人や我々のように紳士淑女ばかりではありませんからね。下手に電話に出たりしたら、何を書かれるか分かりませんよ。杉野副社長からも、永山には休みを与えろと言われていますから、マスコミが自宅まで押しかけて煩い様なら、まあ、暫くの間、由紀ちゃんと三人で旅行にでも行かれたらどうですか。たぶん、会社も特別有給休暇を与えてくれると思いますし」

 山野紀子が賛同する。

「そうよね。哲ちゃんだけ休みを取ってないものね」

 運転席から神作真哉が言った。

「俺たちのは謹慎処分だろうが。一緒にするなよ」

 山野紀子はヒョコリと首を前に出して応えた。

 左の一番後ろの席から、春木陽香が言った。

「でも、永山先輩のお蔭で、本当に大逆転でしたね」

 上野秀則が頷きながら言う。

「本当だよ。一時はどうなるかと肝を冷やしたんですから。まあ、私も、ご主人のような優秀な部下をもって鼻が高いですよ」

 運転席の神作真哉が上野に言った。

「どこに鼻が付いてるんだ、おまえ」

 上野の顔を一瞥した永山祥子は、すぐに視線を逸らしたが、耐え切れずに吹き出した。上野秀則は困惑する。その様子を見て、山野紀子も笑った。

 後部座席では、朝美が前の上野の頭の上に翳そうと、プラスチック製の下敷きを脇の下で必死に擦っている。神作と上野の会話を聞いて笑みを浮かべている春木の頭の上には、既に由紀が帯電した下敷きをこっそり翳していて、春木の髪の毛を逆立てさせていた。

 和やかな雰囲気の記者たちとその家族を乗せて、高級ステーションワゴンは軽やかに進んでいった。

 やがて、車がウインカーを点滅させて、新首都総合空港の広い駐車場へと続くスロープへと曲がっていった。

 スロープを下り終えた頃、助手席の山野紀子が言った。

「さ、着いたわよ。――あらら、早速、他社さんのお出迎えね」

 上野秀則が運転席と助手席の間から顔を出して、フロントガラス越しに先を覗いた。

「あっりゃあ。予想以上に多い数だなあ。捕まったら大変だな、こりゃ」

「ホントね。哲ちゃん、今や時の人だもんね。――どうする、真ちゃん」

 車を止めた神作真哉は、遠くで待ち構える他社の記者たちの群れを眺めながら言った。

「仕方ねえなあ。地下のハイクラス車の駐車場に停めるか。それか、とりあえず西ゲート前でお前と祥子さんだけ先に降ろすかな……」

 すると、右横の路上に黒塗りのセダンが停まった。それと同時に神作のイヴフォンが着信を知らせる。神作真哉は胸ポケットに手を伸ばしてイヴフォンを操作し、電話に出た。

「はい。神作です」

 ボンネットの上にアニメーションの人の絵が浮かんで見える。神作の記憶に無い男の声だった。その男は言った。

『外務省の者です。隣の車の中から掛けています。特別通路を用意してありますので、この車について来て下さい。専用駐車場にご案内します。そこなら、マスコミも入れませんから』

 神作は右を向いた。隣の車の助手席に座っているスーツ姿の男が手で合図して、自分たちに付いてくるように指示する。その黒塗りのセダンは、スムーズな運転で神作たちの車の前に移動し、一度停車すると、ハザードランプを短く点滅させてから、再びゆっくりと走り出した。

 春木たちを乗せた黒いステーションワゴンは、そのセダンの後に付いて走っていった。



                  2

 「新首都総合空港」の到着ロビー。その一画にあるVIPスペースに春木たちは通されていた。ここは、他の一般フロアとは区切られた区画で、内装は他のフロアと同じだが、置かれているソファーや飾られている絵画は、どれも高級品ばかりだ。人も疎らで、各国の賓客がスタッフやポーターロボットたちと共に移動している。

 座り心地の良さそうな革張りの長いソファーに座って、春木陽香はソフトクリームを舐めていた。左右には、色の違うソフトクリームをそれぞれ満足気な顔で舐めている朝美と由紀が座っている。春木の肩を由紀がつついた。春木陽香が顔を向ける。反対側から朝美が春木の手に握られているソフトクリームを齧る。それに気づいた春木陽香が朝美の方を向く。するとまた、反対側から由紀が春木のソフトクリームを齧る。朝美と由紀は自分たちのソフトクリームを握ったまま、その場から向こうに駆け出していった。春木陽香は僅かに残ったクリームを乗せた、通常より高めの値段のソフトクリームのカップを握り締めたまま、プルプルと肩を震わせていた。

 窓の近くで神作真哉と上野秀則が滑走路の方を眺めて話している。広い滑走路は端が見えない。手前にゆっくりとグレーの大型ジェット機が移動してきた。その先で、赤い電光棒を握った迷彩服姿の男が誘導している。周囲には深緑色のジープが何台も停めてあり、その上で戦闘服姿の兵士たちが武器を構えて警戒していた。

 一台のジープの横に、背広姿の中年男性が立っていた。彼は、そのジェット機に空港ビルから突き出した搭乗用のボーディング・ブリッジが接続される様子を険しい顔で見上げている。

 窓から下を覗きながら、上野秀則が言った。

「調整局が動き出したとはな」

 神作真哉も険しい表情をしていた。

「外務省の調整局と言えば、事実上の諜報機関あるいは工作機関だろ。そこが動いているということは、各国政府が本気で永山を狙っているということだな」

 上野秀則は飛行機の正面に視線を向けて言う。

「秘密は持たせん方がいいな。永山の身に危険が及ぶ」

「祥子さんや由紀ちゃんにもな。とにかく、見聞きしたことは洗いざらい公開する。杉野副社長も言っていたが、それしか無いだろう」

「だな。さっき奥さんには、ああ言ったが、永山にはもう一踏ん張りしてもらって、記事を書いてもらわんといかんな。旅行はその後だ」

 神作真哉が窓から下を指差しながら言った。

「ところで、あのスーツ姿の背の高い男は?」

「ああ、校長先生か」

「校長先生?」

 怪訝な顔をした神作の隣で、上野秀則は地表の背広姿の男を見下ろしながら言った。

増田基和ますだもとかず。国防軍のエリート武官だよ。階級は、少将か何かだったと思う。情報局の局長を務めていて、連絡将校としても総理官邸に頻繁に出入りしている男だ」

「なんで、校長先生なんだ」

「噂だが、軍内部に『増田学校』とかいう秘密の派閥組織を形成しているらしい。軍曹以上の兵隊を集めて教育し、正式な配置転換で国防軍内のいろいろな部署にに異動させる。そうやって、指揮命令系統に縛られない独自のネットワークを構築しているそうだ」

「それで校長先生か。でも、それ、いいのかよ。下手すりゃ、集団決起の火種になりかねないだろ」

「そういった火種を消すための組織らしいぞ。歴代の総理を蔭で支えてきたという噂もある。それに、軍関係者の話では、取り締まろうにも強過ぎて手が出せんらしい。実際、彼が指揮する情報局直属の特務部隊には腕の立つ軍人が集められているそうで、中でも偵察隊は、選抜された凄腕のエリート兵士で揃えられているそうだ」

 眉をひそめた神作真哉は、その背広姿の男を見ながら上野に尋ねた。

「そいつが何で、ここに居るんだ」

「分からんが、たぶん、永山の護衛を指揮するためじゃないか。きっと、辛島総理からの直接命令だろう。国防軍の最高指揮権者は内閣総理大臣だからな」

「ふーん……」

 神作真哉は分厚い窓越しに増田を暫らく見ていた。すると、神作の方に体の向きを変えた上野秀則が言った。

「それより、お前。ちょっと大事な話がある」

「あ? なんだ」

 顔を向けた神作に、上野秀則は鼻の頭を掻きながら言った。

「おまえ、ハルハルとは、どういう……」

 彼がそう言い掛けた時、山野紀子が現れた。上野秀則は口を噤む。

 山野紀子は周りを見回しながら言った。

「あれ? 祥子さんを見なかった?」

 神作真哉が山野に言った。

「あ? おまえ、VIP用のラウンジで一緒じゃなかたったのか」

「お手洗いに行って戻ってきたら、居ないのよ」

 上野秀則が腕時計を覗きながら言う。

「おいおい。永山はもうすぐ現われるぞ」

 高い視点から周りを見回していた長身の神作真哉は、山野に尋ねた。

「由紀ちゃんは」

 振り返った山野紀子は、ロビーの中を見回しながら言った。

「ハルハルと朝美が一緒にいるはずだけど……あ、ハルハル、由紀ちゃんは?」

 山野たちの所に歩いてきていた春木陽香が、後ろを向いて売店コーナーの方を指差しながら言った。

「ええと。朝美ちゃんと向うに……」

 春木が指した先には、高級洋菓子店のショーケースに張り付いている朝美がいた。

 山野紀子は大きな声で朝美に言った。

「朝美い。由紀ちゃんはあ?」

 朝美は耳の横に手を立てて声を聞き取る素振りをする。

 山野紀子は口の横に手を立てると、もう一度大きな声で言った。

「ゆーきーちゃーん。何処行ったあ?」

 朝美は口を大きく開けて、耳の後ろに立てた掌を山野に向けた。

「あのクソガキ……」

 そう言った山野紀子は、スタスタと朝美の方に歩いて行く。

 山野朝美はショーケースの前で目を大きく輝かし、舌舐めずりをしていた。朝美の背後に立った山野紀子は、彼女の肩を掴んで自分の方に向けると、軽く往復ビンタをしてから怒鳴った。

「聞こえてるでしょ。由紀ちゃんは!」

 朝美は目をクルクルと回しながら「おおう……効いた……」と言って、三つ編みのお下げ髪と共に頭を数回左右に振った。目をパチクリとさせて、広い通路の奥を指差す。

「さっき祥子小母おばさんと一緒に、背広の人たちと向うに行ったよ。何か、手続きがあるんだって」

「手続き?」

 山野紀子は眉をひそめた顔で通路の奥を覗いた。

 到着ゲートの表示板が音を鳴らして変化したのに気づいた上野秀則が、到着出口のガラス製の自動ドアから中を覗いた。奥に向かって延びる絨毯張りの廊下の先に、こちらに向かって一人で歩いて来る見慣れた男の姿を見つけた。

 上野秀則はニヤニヤしながら言う。

「お、永山だ。なんだ、随分と日焼けしやがって」

 上野と神作を見つけた永山哲也が、通路の奥からこちらに向けて手を振った。山野と朝美、そして春木も自動ドアの前に集まり、皆で手を振って、帰国した永山を出迎える。すると、自動ドアのガラスの向こうで、背広姿の男たちが現れて永山を取り囲んだ。

 廊下の奥で起きた事態に驚いた神作真哉が言う。

「なんだ、どうなってるんだ」

 目の前の自動ドアが開き、中から数名の背広姿の男たちが出てきて、神作たちの前に立ち塞がった。彼らは耳にイヤホンマイクを装着している。

 上野秀則が背伸びをしながら男たちをにらみ付けて言った。

「なんだ、おまえら」

 男たちの後ろから、割れた大きな顎の男が指先で眼鏡を上げながら前に出てきた。

 春木陽香はその男を見て、思わず口を開ける。男をにらみながら神作真哉が言った。

「津田! なんで、おまえが……」

 津田幹雄は割れた顎を突き出して言った。

「ここから先は、関係者以外は入れないのでね。ご遠慮願おう」

 背伸びをしたまま津田に胸を突き出して、上野秀則が言う。

「どういうことだ、これは!」

 山野紀子も津田に言った。

「あんたら、哲ちゃんや祥子さんたちに何かするつもりじゃないでしょうね!」

 津田幹雄は山野の方に顔を向け、落ち着いた口調で言い返した。

「国防大臣や外務大臣に頼み込んで、おたくらの同僚の永山さんを安全に帰国させるべく手配したのは、我々ですよ。疑われる言われはない。むしろ感謝してもらいたいですな」

 上野秀則が険しい顔で言った。

「外務省にも手を回したのか!」

 津田幹雄は腰の後ろで手を組んだまま、淡々と答えた。

「国民の一人が外国領内で危険に晒されていたのですよ。外務省、法務省、国防省、そして我が司時空庁が連携して、彼の安全を確保しようと努力しただけです」

 神作真哉は津田をにらみ付けながら言った。

「何が安全だ! これが狙いだろ。国内で永山を拘束することが!」

 津田幹雄は笑みを浮かべながら神作に言った。

「拘束とは、人聞きの悪い。保護しているんですよ。それに、タイムマシンの所管庁である我々の事情聴取にも、ご協力いただかなければなりませんからな」

 上野秀則が反論した。

「何が保護だよ。俺たちも拘束しただろうが!」

 津田幹雄は惚けて言う。

「さあ。何の話だか。あなた方、ウチの施設に不法侵入でもされたのですかな。それなら改めて被害届と刑事告訴をさせていただくだけですがね。ウチも先日、不法侵入者に業務妨害されて被害に遭っていますからな。ああ、そうだ。たしか警察も、犯人を見つけられないまま捜査を打ち切ったとか。今更その犯人が見つかったとなれば、大事ですな。まして、警察が新聞社に温情をかけたとなれば、癒着を疑われる。今後は誰も、その新聞の書くことは信用しないでしょうねえ」

「この野郎……」

 拳を握り締めた神作真哉が一歩前に出た。津田の背後から前に出てきた背広姿の男が神作を押し返し、前に立ち塞がる。その男は鋭い目つきで神作をにらみつけた。

 春木陽香はガラスの向こうの様子に目を向けた。永山哲也がこちらを何度も顧みながら、背広姿の男たちに両腕を捕まれて連行されていく。春木陽香は声を上げた。

「永山先輩が!」

「くそっ」

 さらに前に出ようとした神作を、背広姿の男たちが今度は二人がかりで押し返し、自動ドアに近づけないようにした。

 肩を掴んでいた男の手を激しく払い除けた神作真哉は、津田の方に顔を向けて言った。

「永山を何処に連れて行くつもりだ」

 津田幹雄は後ろで手を組んだまま下を向き、笑みを浮かべながら答えた。

「大丈夫ですよ。ウチのビルで少しお話しを伺った後は、ちゃんとご自宅までお送りします。一人でお帰りになるのは危険ですし、マスコミの取材攻撃も大変でしょうからな。ご夫人も、娘さんも、今、ウチの職員がご自宅までお送りしているところです。心配なら、会いに行かれればいい。そんな時間が有ればの話ですが」

 上野秀則が目を剥いて言った。

「心配に決まっているだろ。お前ら、何をするか知れんじゃないか! この前も……」

 その時、上野のイヴフォンが彼に着信を伝えた。上野秀則はそこから少し離れる。

 津田幹雄は神作の方に顔を向けて言った。

「何もしませんよ。永山さんのご自宅には、我が司時空庁のSTS部隊が万全の警備態勢を布かせてもらいました。これで誰も近づけない。マスコミもね。永山さんとそのご家族には安心して生活していただけると思いますがね」

 山野紀子が厳しい視線を津田に向けながら言う。

「自宅に軟禁するつもりね。国の機関が国民にそんなことをしてもいいと思っているの」

 津田幹雄は堂々とした態度で答えた。

「タイムマシンに関する情報の保護は我々の正式な権限でしてね。彼は重要な情報源ですからな。我々の職務として彼を保護する必要がある。それだけです」

 神作真哉が強く言い放つ。

「どうせ隠蔽の準備作業だろうが!」

 津田幹雄は笑みを見せて首を何度か横に振ると、呆れたような顔で言った。

「想像力が豊かな人だ。まあ、何とでも言えばいい。それより、こんな所で立ち話などしていて、よろしいのかな。会社の方も色々と大変なのでは」

 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。 

 津田幹雄は言う。

「ま、わざわざのお出迎え、ご苦労様でした。そういう訳ですので、永山さんは我々が責任をもってご自宅までお送りします。ご心配なく。では」

 背中を見せた津田幹雄は、開いた自動ドアの間を通って中へと入っていった。数人の背広姿の男たちが後に続く。その横では、白い高級スーツに身を包んだ佐藤雪子が、朝美の前で身を屈めて紙袋を差し出していた。

「お嬢ちゃん、お下げが可愛いわね。これ、お土産よ」

 山野朝美はすぼめた唇を精一杯に突き出した顔を横に向けて言った。

「フン。何がお土産じゃ。中学生だと思って馬鹿にして。武士は食わねど蛸ジョージ……おお! 空港エクレア二〇三八バージョン! イチゴ味にメロンサワー味まで……あイタあ」

 朝美の三つ編みを掴み上げた山野紀子は、朝美が手に持って覗き込んでいた紙袋を取り上げて言った。

よ。――これ、お返しします」

 山野から紙袋を突き返された佐藤雪子は微笑みながら言った。

「あら、お気になさらないで。私のポケットマネーで買ったものですから」

 朝美が紙袋に手を伸ばす。

「それなら、問題な……痛たた」

 朝美の三つ編みを更に高く引き上げた山野紀子は、毅然とした態度で佐藤に言った。

「いえ。結構です」

 佐藤雪子は不機嫌そうに紙袋を受け取ると、挨拶もせず振り返り、自動ドアの向こうにヒールを鳴らして歩いていった。彼女に続いて、残りの背広姿の男たちも自動ドアを通って向こうに入っていく。最後の一人が中に入った後、神作も中に入ろうとしたが、閉まった自動ドアは開かなかった。最後尾を歩いていた背広姿の男が少し振り返り、必死にドアをこじ開けようとしている神作を見て、鼻で笑った。

「くそ。なんだよ、この自動ドア。なんであいつらだけ通れるんだ」

 自動ドアを強く蹴った神作に、後ろから上野秀則が早口で言った。

「神作、社に裁判所から証拠保全命令が出たそうだ。あいつらの申し立てらしい」

「証拠保全命令だと? 本案の請求趣旨は」

「詳しいことは戻ってみないと分からん。とにかく永峰の話じゃ、今ウチのフロアは大混乱だそうだ。」

「畜生……。津田の奴、ついに法的手続きまで駆使してきやがったか……」

 神作真哉は悔しそうな顔で拳を握った。

 春木陽香が神作の顔を見上げて、大きな声を上げた。

「ああ! 土曜日に送ってきた永山先輩の追加レポート、結合させたデータが、まだ神作キャップのパソコンの中ですよね。永山先輩が帰国してから、復元処理したものを確認してもらうって、そのままにしてあるんじゃなかったでしたっけ」

「くそっ。それが狙いか。うえにょ、急いで戻るぞ!」

「朝美ちゃんはどうするんだ」

「紀子、朝美を連れて一旦自宅に帰れ。ハルハル、お前は俺たちと一緒に来い」

 上野秀則は戸惑ったような顔で、山野と春木の顔を交互にキョロキョロと見ている。

 駆け出していった神作真哉は、振り返って叫んだ。

「うえにょ、ハルハル、早くしろ。行くぞ」

「こんな時に何だか、俺は上だ! 二回も間違えやがって。緊急事態だからって聞き逃さんからな。待て、コラ!」

 上野秀則は神作を追いかけていった。山野の方を向いた春木陽香は慌てながら言った。

「あ、じゃあ、私、とにかく行ってきます」

「うん。頼んだわよ」

 そう言った山野に頷いて返した春木陽香は、神作と上野を追いかけて走っていった。

 春木の背中を見送っている山野の後ろで、朝美は自動ドアに張り付いていた。

「空港エクレア二〇三八バージョンがあ……」

 彼女は目に涙を溜めてガラスの向こう側の小さな人影を見つめている。

 山野紀子は駆けていく春木の背中をずっと見つめていた。



                  3

 新日ネット新聞ビルの社会部フロアには、数人の背広を着た人間と十数人の白衣を着た人間が入っていた。記者たちは全員、ゲートの外のエレベーターホールに出されている。白衣姿の技師たちは、記者たちの机の上のパソコンや窓際の棚の上のドライブ・ボックスの前で、持ち込んだ機械から伸びた配線を接続したり、機械の蓋を開けて中を覗いたりしていた。

 エレベーターが開き、神作真哉と上野秀則が中から駆け出してきた。二人は犇いている他の記者たちを押し退けるようにして進み、ゲートの前まで走っていく。ゲートを通ろうとすると、その前に立っていた背広姿の男に止められた。神作真哉が男を退かしてフロアの中に入ろうとしたが、それを上野が止めた。男の横にいた濃紺のスーツ姿の裁判所書記官が、証拠保全のための仮処分命令書を広げて見せていたからだ。

 戸惑う神作のところに重成直人が近寄ってきた。

 神作真哉は重成の姿を見ると、彼に困惑した顔で言った。

「ああ、シゲさん。何ですか、これは」

 フロアの中で作業する技師たちの様子に目を向けながら、重成直人は言った。

「裁判所と司時空庁の職員だ。司時空庁が、ウチのサーバーと端末に、証拠保全手続による仮処分を申し立てた。司時空庁は司時空庁で、行政庁として独自に行政強制の実施だとさ。あの白衣姿の連中が、そうだ。サーバーをロックして中のデータを回収するんだと。端末も該当データがあるものは司時空庁が全て押収。中の該当データを物理的に消去するためだってよ」

 上野秀則は、部屋の中でパソコンにコードを繋いで手元の機械のスイッチを押している白衣姿の人間を見ながら言った。

「ちくしょう。SSDに高電圧をかけてやがる。中の情報を揮発消去させるつもりかよ……」

 横に現れた永峰千佳が窓際の棚の方を指差して上野に言った。

「他にも、レーザーメスか何かでハード・ボールの該当箇所を削り取るみたいですよ。念が入ってます」

 上野と神作が棚の方に目を遣ると、背広を着た男の横で目の上に偏光バイザーを付けた白衣姿の男が、蓋を開けたドライブ・ボックスの中を覗いている。彼はドライブ・ボックスの中に細長い棒を差し込んでいた。箱の中からは不規則に強い光が放たれている。

 神作真哉はフロアの中を見たまま、隣の重成に尋ねた。

「法的根拠は」

 重成直人が答えた。

「例の特定国家機密指定法さ。タイムマシンに関する情報は特定国家機密に指定されている。情報保護措置として行政処分を発令したらしい。裁判所の方は、タイムマシン事業停止による国家の『事業者としての損害』の発生を理由に、賠償請求訴訟提起前の証拠保全として、サーバー内のデータそのものを回収するんだと。処置が終わるまで、サーバーは使用できないそうだ」

 重成直人は下を指差しながらそう言った。

 上野秀則が唖然として呟いた。

「そんな……夕刊はどうするんだよ。休刊にしろっていうのか」

 重成直人が裁判所書記官に聞こえるように言った。

「そんなことは御構い無しですよ。どうせ、たぶん、それが狙いでしょうから。担当の判事も、よくまあ、易々と発令したもんだ。そっちの方に驚きますね」

 神作真哉は苛立って言った。

「ウチの顧問弁護士は何をしてるんだ。杉野副社長は連絡してないんですか」

 重成直人が鼻に皺を寄せて言った。

「さっき飯田弁護士がやってきたが、書類を確認して、すぐ上に行っちまった。今、社長や杉野副社長と対応を協議しているんだろ」

 神作真哉はフロアの奥を覗きながら上野の肩を叩いた。

「うえにょ、下も見てきてくれないか。どのくらいやられて……ああ、くそっ。俺のパソコンを……」

 思わずフロアの中に入ろうとゲートに踏み出した神作に、ゲートの横に立っていた裁判所書記官が言った。

「そこの人、ゲートに近づかないで。公務執行妨害で逮捕されますよ」

 重成直人が神作の腕を掴んで、首を横に振った。

 神作真哉は歯軋りをしながら吐き捨てた。

「ふざけやがって……」

 ゲートの前に並んでいる記者たちの目の前で、社会部フロアの資料回収と消去の作業は淡々と進められていった。



                  4

 新日風潮社の編集室では、三名の司時空庁職員が中で作業をしていた。一人が春木の机の上の立体パソコンを操作し、他の一人が引き出しの中を調べている。もう一人はその横に立ち、手に持った薄型端末に何かを記録していた。春木陽香と別府博は廊下の入り口の横の壁際に立っている。他の記者たちは自分の机に座り、春木の机を気にしながらも、知らぬふりをして仕事に取り組んでいた。

 狭い廊下から編集室に入ってきた上野秀則は、春木を見つけると、深刻な顔で言った。

「ハルハル、こっちもか」

「あ、うえにょデスク。やっぱり、上もですか」

「上野だがな。上はこんな物じゃない。徹底的って感じだ」

「そうですか。こっちは、編集長と別府先輩のパソコンを触られたみたいで、今、私のパソコンを調べてます。データの書き出し記録なんかを見ているみたいです」

 春木の机で彼女の立体パソコンを操作していた背広姿の男が、こちらを向いて尋ねた。

「このパソコンの使用者は」

 春木陽香が手を挙げた。

「はい。私です」

 その男は春木のパソコンを指差しながら言った。

「これ、MBCに数回、中のデータを落としていますよね。そのMBCは何処ですか」

「あ、その右の引き出しに入ってます」

 上野秀則は小声で春木に言った。

「正直に答えなくてもいいんだよ。自分たちで探させれば」

「だって……」

 春木陽香は口を尖らせた。

 男が引き出しから取り出したMBCを春木に見せて尋ねる。

「これですか」

「はい、それです。黄色い方がバックアップ用です」

「だからさ……」

 丁寧に答える春木に上野秀則が呆れ顔を向けた。

 引き出しの中を調べていた男が、立ち上がりながら横の男に指示した。

「他にデータをコピーしていないか調べろ」

 上野秀則は小声で春木に言った。

「バックアップは別の場所に保管しとけよ。横に置いてたら、意味無いじゃないか」

「だって面倒だし……」

 薄型端末を覗いていた男が部屋の中を見回しながら言った。

「もう一人いるはずだが、ええと……勇一松頼斗。彼の机はどれですか」

 背伸びをした春木陽香は、会議室との境の壁の方を指差して言った。

「向こうの壁際の列の、一番端です。――そう、それ」

「パソコンは」

 男の問いに、近くに居た別府博が答えた。

「その人、契約が切れてウチを辞めたんですよ。パソコンは私物でしたから、持って帰ってます。でも、ただのカメラマンですから、取材データは持ってないですよ。彼が撮影した写真のネガデータは、全部僕のパソコンに入っていたでしょ」

 薄型端末を操作していた男は別府の話を聴きながら、内容を端末に記録した。

 上野秀則が春木に尋ねた。

「そういえば、あのカメラマンは見つかったのか」

 春木陽香は小声で答えた。

「今朝、写真が届きました。生きてるみたいです」

 上野秀則も小声で再び尋ねた。

「今、どこに居るんだ」

「さあ。なんか、すごい広い平原の写真でしたから、もしかしたら、モンゴルとか、オーストラリアとか……」

「ついに国外に出たか」

「題名は『根源の大地』だそうです」

「だんだん、悟りの境地に近づいているな」

 眉間に皺を寄せた上野秀則は、そのまま顔を春木の耳元に近づけて、更に小声で言った。

「それより、お前、神作とは……」

 その時、勇一松の机を調べていた男が体を立て、声を張った。

「よし。こっちは終わりだ。撤収するぞ」

 三人の男たちは機材を片付けて編集室から出ていった。廊下の奥のドアが閉まると、春木陽香は額の汗を拭いながら「ふう……」と息を吐いた。

 上野秀則が呆れ顔で言う。

「何が、ふう、だよ。取材データを持ってかれちまったんだぞ。今週の発刊、どうするんだよ。例の写真を載せる予定だったんだろ。何だったっけ、何とかガールズ」

LustGirlsラストガールズ。――大丈夫です。ここに有ります。じゃん」

 春木陽香は握っていた手を開いて見せた。

「あ、おまえ、それ……」

 春木の掌の上で輝いている金色のMBCを指差しながら驚いた顔をしている上野に、春木陽香が得意気な顔をして言った。

「ライトさんが、自分のパソコンでコピーして、編集長に渡した物です。だから、私のパソコンやMBCを調べても、コピーした記録は出で来ないので、追跡されません」

 上野秀則は細めた目で春木を見て言った。

「おまえ……意外とやるなあ」

 編集室内にどよめきと、静かな拍手が上がった。





 二〇三八年七月三十日 金曜日


                  1

 司時空庁ビルの長官室には、二人の男と一人の女がいた。津田幹雄は普段どおり椅子に座り、普段どおり苛立った顔をしている。その横に普段どおり佐藤雪子が立ち、執務机の向こうには松田千春が立っていた。

 津田幹雄は松田に言った。

「どうだ。まだ、マスコミからの問い合わせは止まらんか」

 松田千春は眉を寄せて答えた。

「はい。一向に止む気配がありません」

 津田幹雄は眉間に皺を寄せて言う。

「どうして。新日から押収した田爪健三のインタビュー部分は、ウチからも公開したのだろう。修正がバレたのかね」

「いいえ、その惧れはないかと。修正は完璧です。後半部分を削除したものを上手く加工しておりますし、公開した会話録についての質問もありません。それに、ご指示通り、新日の記事は過剰な演出であるとの情報も、他紙の記者たちには伝えてあります」

「それなのに、どうして……」

「内部から情報が漏れた惧れも。あるいは新日が他紙をつついているか。とにかく、例の永山の追加レポートについて、各社とも、存在の有無を尋ねて来ています」

 津田幹雄は松田の顔に向けて人差し指を振りながら言った。

「答えられんと言っておけ。出せる訳ないだろう、そんなもの。あの永山とか言う記者は、ドライブの中に田爪博士が書いたタイムマシンやプラントの設計図が入っていると明言しているんだぞ。あの馬鹿……」

 佐藤雪子が横から言った。

「せっかく田爪博士がオフレコで話した内容を、自分で音声記録に残してしまっていますからね。困ったものですわね」

 津田幹雄は佐藤を見ずに言った。

「困っているのはこっちだ。松田君、STS部隊の配備の方に抜かりは無いな」

「はい。地下の保管庫の方に集中配備しています。前回のようなことは無いかと」

「当たり前だ。あんなことが再び起きてもらっては困る。あの時は、たった一人にやられたんだぞ。だからその後は国防軍から猛者たちを借り入れるようにしたんじゃないか。とにかく、こういう事だと分かった以上、あれは何としても隠し通さねばならん。絶対に誰も近づけるな」

 佐藤雪子が口を挿んだ。

「官邸の方は、いかが対処されますの。事態の報告を求めてきていますわよ」

 津田幹雄は溜め息を吐くと、机に両肘を乗せて少しだけ横を向き、言った。

「これまで官邸には知らせずに来たんだ。今更、言えるか」

「ですが、これを辛島総理がご覧になれば、きっと尋ねてこられますわよ」

 そう言った佐藤雪子は、津田の机の上に一冊の雑誌を広げて置いた。「週刊新日風潮」だった。佐藤が広げた頁には、LustGirlsラスト・ガールズの水着写真が掲載されている。紙面の女たちは、英字新聞を繋ぎ合わせたような、ごちゃごちゃとした景色を背景にして、体の凹凸を強調するようにポーズをとっていた。艶やかな曲線を描く彼女たちの体の要所は、山野編集長がデザインした紙製の水着で覆われている。

 津田幹雄は雑誌を横にずらして言った。

「なんだ、こんな時に。総理とタレントの水着と、何の関係がある」

 佐藤雪子は雑誌を津田の前に戻して言った。

「この子たちの水着。それに彼女たちの背後で施設内の国防設備を隠している大きな幕。よくご覧になって」

 グラビア写真を覗き込んだ津田幹雄は、眼鏡を指先で支えながら更に顔を近づけた。

 彼は声を上げた。

「こ、これは、例の論文じゃないか。田爪瑠香がウチに送り続けていた」

 佐藤雪子は深刻な顔をして言う。

「マスコミの何社が気付くか分かりませんけど、総理の耳に入れば、必ず中身を精査して長官に突きつけてきますわね」

 顔を上げた津田幹雄は額に手を当てて、椅子の背もたれに身を投げた。

「くっそお。データは全部回収したんじゃなかったのか。この画像データは何処に在ったんだ。なぜ押収しなかった!」

「プロダクション側に残っていたのかもしれませんわ。もし新日に在ったとしても、裁判所も、さすがに水着の画像データまでは押収してはくれませんわよね」

 津田幹雄は椅子の肘掛を強く叩きながら怒鳴った。

「ウチの職員は何をしていたんだ。馬鹿共が!」

 机の上の雑誌を自分の方に向けてグラビア写真を確認しながら、松田千春が言った。

「とにかく、一刻も早く手を打たねばなりませんな。裁判所の保全処分も、新日側の申立てで取消しとなりましたし、ウチも、いつまでも行政強制措置を維持しておく訳には参りません。法的には多分に問題があるかと……」

「分かっている」

 そう荒っぽく答えた津田幹雄は、松田に尋ねた。

「永山の方の聞き取りは、どこまで進んでいる。あれと一致すると確認が取れたか」

 松田千春は首を横に振る。

「いいえ。とにかく、映像資料がありませんので、同一体かどうか、確認がとれません」

 津田幹雄は椅子の背もたれから身を起こし、松田の顔を覗きこんで言った。

「資料が無い? 永山が現地で撮影して送った現物の画像は。押収したんじゃないのか」

 松田千春は口を濁した。

「それが……既に消去されたようで……」

 津田幹雄が顔をしかめる。

「何だって? 消去だと? どういうことだ。新日の連中が我々の押収を避けるために、画像データを消去したとでも言うのか」

「いいえ。奴らは画像を新聞に掲載しようとしていた訳ですから、そんな事は……」

「ならば、誰がそんな事を。外部の人間の仕業か……そうだ、新日の連中が外部の業者や大学に送った画像はどうした。それなら残っているだろう。送信先から押収できたのか」

「それも全て消去されています。送信の履歴らしきものは何点か見つかっていますが、その他は何者かに綺麗に消されていて……」

「送信先からもか。何だ、それは。いったい、どうなっている! ――ちょっと待て。何者かに消されていると言ったな。まさか、例の奴らの仕業か」

 松田千春は深刻な顔で答えた。

「分かりません。外部からの侵入の形跡は見られないと報告が上がってきています。ウチの技術者たちも、揃って首を傾げている次第で」

 津田幹雄は松田に怒鳴った。

「画像が無いなら、外観の絵でも永山に描かせればいいだろう!」

 松田千春は津田から目線を逸らすと、口籠りながら答えた。

「ええ……一応、描いてもらってはいるのですが、とにかく、その……小学生の落書き以下の出来栄えでして……」

 津田幹雄は机を強く叩いて更に怒鳴る。

「特徴か何か分からんのか!」

 下を向いた松田千春は、目線だけを津田に向け、困惑した表情で答えた。

「あれの存在を知られないようにするためには、こちらから積極的に確認する訳にも参りませんし、なにぶん、あれ自体も半壊した状態でしたので、原型がはっきりしていない訳でして……」

 津田幹雄は、再び椅子の背もたれに身を投げた。

「くそ。残りの鉄板だけで、どうすればいいんだ。くそ、くそ、くそお!」

 津田幹雄は左右の肘掛を何度も叩く。それが終わると、佐藤雪子が言った。

「長官。それから、例の田爪瑠香の自宅とラボに火を点けた男。正体が判明しましたわ」

 津田幹雄はしかめた顔を佐藤に向けた。

「なに? 本当か」

「はい。この男、どうやら、五月七日に搭乗者待機施設を襲撃した一団を仕切っていたようですわよ。一階ロビーの兵士の遺体の上に置かれていたこれ、その男が置いていった物に違いありませんわ」

 佐藤雪子は津田に、ビニール袋に入った一輪の青い花を渡した。それを見た津田幹雄は目を丸くして言った。

「これは……花じゃないか……花! あいつか、六年前にウチに侵入した例の男、あいつなのか!」

 佐藤雪子は大きく首を縦に振った。

「ええ。あの時に現場に残されていた花と、この花、そして、先日、田爪瑠香のラボの焼け跡から発見された花の植物DNAが系統的に一致したそうですわ。すべて、同じ種類の花だそうですわよ」

 津田幹雄は左右の肘掛を強く握りながら、怒りに満ちた表情で言った。

「――ということは、やはり奴らか。待機施設の襲撃も、田爪瑠香の家やラボを焼いたのも、すべて奴らの仕業だというのか!」

 佐藤雪子は淡々と答える。

「かもしれませんわね。証拠はありませんけど。この花以外は何も痕跡を残さない男のようですから。ですが、もしこの男が関わっているのなら、ネット上から画像データを消去したのも奴らですわね、きっと」

 津田幹雄は椅子に腰掛けたまま床を踏み鳴らした。

「くっ……くそ……」

 松田千春が慌てた様子で言う。

「STSに、直ちに増員の指令を出します。このビルの警戒レベルも引き上げましょう。あと、NNC社とNNJ社は、どう致しましょう。ニーナ・ラングトンと西郷に監視員を付けるべきでは」

 津田幹雄は床に視線を落としたまま、松田の方に人差し指を振って言った。

「そうだな。マークしろ。徹底的にだ」

 松田千春は頷いてから更に尋ねた。

「永山記者の自宅は、どうしましょうか」

 険しい顔で暫らく思案していた津田幹雄は、その顔を松田に向けた。

「このまま警護措置を続けろ。ただし、配置しているSTS隊員はこちらの警備要員に回すんだ。向こうは監視局の人員だけで十分だろう。だが、誰も永山に近づけてはならんし誰も外に出してはならん。二十四時間態勢で抜かりなく『警備』するんだ。いいな」

「は。承知しました」

 頭を垂れた松田から横に視線を移した津田幹雄は言った。

「佐藤君、記者会見を開くぞ。まずはマスコミを押さえることが先だ」

「かしこまりました。新日は除外しますの?」

「いや、彼らも参加させよう。あくまで公平な記者会見を演出するんだ。我々の業務の正当性をアピールしたら、私の政界進出への布石のコメントを挿む。よく考えてみれば、今がそのチャンスかもしれん」

 佐藤雪子が口角を上げて津田に言った。

「官邸は南米の協働部隊に派兵している国防軍の部隊を早期に帰還させるための準備に掛かっているようですわ。例の深紅の旅団レッド・ブリッグとか言う極秘部隊も、早々に帰還させているようですし。南米戦争から手を引くつもりでしょうね。そうなれば、早い時期に総選挙となるかもしれませんわね。長官の総理就任も早まるかもしれないのかしら」

 津田幹雄はニヤリと片笑むと、佐藤を軽く指差しながら言った。

「それは少し気が早いだろう。だが、国政的にも大事な局面だ。皆が外交と戦争終結のプロセスに集中している。こういう時に隙ができるからな。私はそこを狙う。記者会見は私の政界入りの意欲をアピールする絶好のチャンスだ。きっと視聴率も高いはずだからな。この機会を利用しない手は無い。とにかく穏便に会見が終了するよう手を打ってくれ。急いで頼む」

「分かりましたわ。ウチと親交のある記者をピックアップして、質問事項を渡しておきますわ。全体の流れをリードしてもらうようにも頼んでおきます」

「そうしてくれ」

 佐藤雪子は足早に秘書室へと向かった。

 津田幹雄が佐藤の背中に手を振る。

「ああ、佐藤君。新日への連絡は当日でいい。なるべくなら、来て欲しくないからな。だが、連絡はちゃんとしておいてくれ。今回はあくまで、司時空庁の正当性をアピールするのが第一の目的だ。彼らへの対処はその後にしよう」

 佐藤雪子は微笑んで答えた。

「はい。しかと心得ましたわ」

 そして再び背を向けて秘書室へと続くドアを開けた。

 椅子を回して前を向いた津田幹雄が言う。

「松田君。新日の記者たちからも目を離すな。監視体制を強化するんだ。絶対に永山とは接触させるな。少なくとも記者会見が終わるまでは、誰とも連絡をとらせるんじゃない。いいな」

「分かりました。監視の人員については増員を調整いたします。自宅周辺の人員も追加のチームを送ります」

「うん、そうしてくれたまえ」

 頷いた津田幹雄は、強く拳を握り、気色ばんだ顔を窓に向けた。

「よし、記者会見で一気に形勢を逆転するぞ。先手必勝だ。総理も私に手出し出来ない状況を作り上げるんだ。そうすれば、私の勝ちだ。はははは」

 司時空庁長官室に津田の笑い声が響いた。


 

                 2

 新日風潮社の編集室に神作真哉が入ってきた。編集室の中では電話の呼び出し音が鳴り響いている。

 神作真哉は、部屋の中で電話の対応に追われている記者たちを見回しながら、山野の席の前まで歩いてきた。彼は山野に尋ねた。

「どうだ、各社の反応は」

 山野紀子は椅子の背もたれに身を倒して答えた。

「見ての通り、すっごい数の問い合わせよ。あの数式は何だとか、あの後ろのグラフや画像は何だとか」

 神作真哉は腕組みをしながら言った。

「そうか。みんな『袋とじ』を開いてるんだな」

 山野紀子は首をすくめて笑った。

 別府博は、今週号の週刊新日風潮に掲載されたLustGirlsラスト・ガールズのグラビア写真についての問い合わせの電話に応じていた。彼は面倒くさそうに対応している。

「――ですから、司時空庁に尋ねて下さいよ。僕らは、あそこから入手した素材を使っただけですから」

 同じく春木陽香も電話に応じていた。

「――はい。そうなんです。あれ、司時空庁に保管されている論文だと思うんですけど、よく分からないので、司時空庁さんに問い合わせていただけますか。お願いします」

 神作真哉は二人の様子を見て、頷きながら言った。

「よし。二人とも、いいぞ」

 山野紀子が神作に言った。

「これで、司時空庁は田爪瑠香からの論文の受け取りを隠し通す訳にはいかなくなったわね。止めにかかってくるかしら」

「著作権を主張して、今日中に販売停止の仮処分を掛けてくる手も考えられるが、そうすると、自分たちで論文データを保管している事実を認めるようなものだからな。自分で自分の首を絞めることになる。何も手が出せんさ」

「でも、何か、あと一押しが必要ね。何か……」

 腕組みをして考えている山野に神作真哉が言った。

「それに、永山の追加のレポート。最後の部分。あれは何としても公開させないと。水曜日に司時空庁が公開した押収データは、ウチが新聞に掲載した部分だけだ。しかも、田爪瑠香の死に関する部分は削除されている。その部分について、他紙はウチの記事が捏造だとか、売り上げ目的の追加的演出だと口を揃えているが、たぶん司時空庁からの指示だろう。司時空庁は六月五日の一件を何としても隠したいに違いない。ということは、あいつら、そのことを言っている永山の追加レポートは絶対に外に出さないはずだ」

「でも、ウチは哲ちゃんのレポートの存在を知っているのよ。哲ちゃん自身も帰国しているし。彼や家族を一生外に出さないなんてことは出来ないことくらい、司時空庁だって分かっているでしょ。いつかバレた時のために、何か手を打ってくるんじゃないかしら」

「かもな。だが、妙だよな。奴らはあの追加レポートの内容を、押収して初めて知ったはずだ。まだ聞いてもいないのに、なぜあんな大掛かりなことをして押収したんだ?」

 山野紀子が鋭い目つきで言った。

「他に何か重要な秘密があるってことね」

「ああ。この一件、タイムトラベル事業の問題の他にも何か裏があるぞ。司時空庁は、保全処分の申立ての他に行政処分まで執行して永山の追加レポートを回収しようとした。しかも、保全処分は取消しになったのに、行政処分を盾に取って、まだ永山のレポートデータを返そうとしない。あの中、いや、あの新型タイムマシンに何か秘密がある、きっとそういうことだろう」

「哲ちゃんを自宅に軟禁しているのも、彼から何かを聞きだそうとしているからかしら」

「たぶんな。だから、永山が司時空庁から何を訊かれたかが分かれば、それも察しが付くかもしれん」

「何とかして、哲ちゃんとコンタクトを取る必要があるわね」

 向かいの机から、受話器を耳から離した春木陽香が山野に言った。

「あの、編集長。永山先輩が飛ばしたタイムマシンは、何処に言ったのか教えてくれって問い合わせが……」

 山野紀子は顔の前で手を振りながら答えた。

「知らないわよ、そんなこと。司時空庁に訊けって言いなさいな。全部あっちに尋ねろって答えとけばいいわよ」

 神作真哉は腕組みをしたまま山野の顔を見て言った。

「でも、確かにそうだよな。何処に行ったんだ、あのマシン。まだ見つかってないよな」

 椅子に座ったまま、山野紀子が神作を見上げて応える。

「そうだけど……哲ちゃんなら、分かるのかしら」

「どうだかなあ。あいつ自身も、どうも田爪に一杯食わされたって感じだもんな」

 山野紀子は「トゲトゲ湯飲み」のお茶を一口啜ると、改めて神作に尋ねた。

「ところで、南米の状況はどうなの。このまま戦争継続?」

「分からん。だが、ゲリラ軍側は一気に総崩れ状態のようだ。ゲリラ軍の兵士たちが使っていた『謎の光線銃』、あれの使用期限がどんどん切れているんだろう。それで、協働部隊側が一斉に反撃を開始しているとのことだ」

「それって、例の『量子銃』のことよね。田爪健三が自分専用の量子銃のほかに大量生産してゲリラ兵たちに使わせていた、簡易型のもの。やっぱり使用期間が限られてたんだ。じゃあ、哲ちゃんのインタビューで田爪健三が言っていたことは本当だったのね」

「ああ。どうも量産型の量子銃の方は、田爪がタイムマシンの搭乗者たちに使っていたオリジナルのものと違って、通常の超電導バッテリーを経由する構造になっていたみたいだな。その電力が底をついたってことだろう。だが、いくらオリジナルをコピーした簡易型の銃だと言っても、協働部隊にあそこまで苦戦を強いる原因となっていたモノだ。非人道的な兵器だという意味でも、早々に使えなくなって良かったかもな」

「田爪健三は、日本から転送されてくるタイムマシンを解体して、その資材や部品をゲリラ軍側の戦車とかヘリの装甲部材に転用したり戦闘ロボットの高性能化に使っていたんでしょ。今回の一件でそれがもう届かないとなったら、ゲリラ側は一気に戦力ダウンよね。しかも、このニュースは既に世界中に流れているから、たぶん南米のゲリラ兵たちも事態を知ったでしょうし、そしたら戦意も喪失かあ……」

「その代わり、日本の国防兵士たちも一斉帰還だと。まあ、知らなかったとはいえ、敵軍に定期的に最先端科学の塊を渡してしまっていた訳だ。日本政府としては、これ以上、自国の軍隊を協働部隊に参加させ続ける訳にはいかんだろうし、現場の兵士たちも他国の兵士と一緒に作戦を実行しづらいわな」

 両肩を上げた神作から視線を落として、山野紀子は憂えた。

「戦争が早く終わるといいけど……」

 神作真哉は深く頷く。

「そうだな。だが、この戦争が長引いた原因が、日本からのタイムマシンの転送と、その技術の悪用で、しかも、タイムマシン事業に絡む莫大な利権のためにこの戦争が推し進められてきたのだとすれば、戦争終結後の国際舞台で日本は世界各国から袋叩きに遭うぞ。戦後処理の主導権争いどころじゃないかもな」

「そうよね。きっかけは、南米ゲリラからの日本への核テロ攻撃だったとしても、この戦争で十年もの間、南米大陸は戦禍に巻き込まれた訳ですものね。あれだけ多くの難民も出ているし、日本に対する何らかの責任追及の話が出てくるかもね」

「俺たちが当初考えていた以上に、深刻な事態になってきたな」

「……」

 神作の言葉に山野紀子は黙り込んだ。二人は視線を合わせないまま考え込む。

 春木陽香が再び受話器を耳から離して山野に言った。

「あの、編集長。お電話です」

「もう。タイムトラベルのことなら司時空庁だって。あっちに……」

 春木陽香が受話器の通話口を押さえながら言った。

「いえ、サントウ・リカコって方です。新志楼しんしろう中学の。何か、朝美ちゃんのことみたいですけど……」

「は? 朝美の担任の山東先生? 何かしら」

 山野紀子は少し慌てて、自分の机の上の電話機に手を伸ばした。神作真哉は逃げるようにコソコソと廊下の方に向かう。山野紀子は電話機のボタンを押して耳に当てた。

「はい、お電話替わりました。山野です。――あ、リカコ先生、いつもウチの馬鹿娘がお世話になってます。何か――はあ……。ええ! 本当ですか。あの子ったら……。分かりました。すぐに提出させます。どうも、すみませんでした。――はい……。そうですね、分かりまた。――はい。では、失礼します」

 電話を切った山野紀子は、眉を八の字に垂らして小さく溜め息を漏らす。

「もう、ホントに。なにしてんのよ、あの子……」

 そして、顔を上げて言った。

「ちょっと、真ちゃんも一緒に朝美に……。あら? どこ行ったのよ、あいつ」

 春木陽香が廊下の方を指差して答えた。

「走って逃げていきました。全力で」

 山野紀子は廊下の方をにらみ付けて言う。

「父親だろうが、あの野郎……」

 山野紀子は鼻を膨らませて、今度は大きく息を吐いた。




 二〇三八年八月一日 日曜日


                   1

 晴天の午前。住宅街の中をTシャツにジーンズ姿の春木陽香が一人で歩いている。彼女はお菓子や果物が入った大きなレジ袋を提げていた。

 新首都の北東部に広がる華世かよ区には幾つもの住宅街がある。その中の一つで、永山哲也の持ち家がある北園町は、区の西部の端に位置している。そこは、若者向けの小振りな家が新しい屋根を並べている高台の街で、そこからは、そう遠くない所に、隣の有多区の有多東町に建ち並んでいる高層マンションのビル群が望める。

 区境で都営バスを降り、途中のスーパーで買物をした春木陽香は、その静かな住宅街の中を見回しながら歩いた。近所の通行人に道を尋ね、言われた通りに角を曲がると、その先の路上に白いバンが停められていた。さらに奥の路肩にも、同じ型の白いバンが停められている。

 バンの横を通り過ぎた春木陽香は、その家の門の前で立ち止まった。門の向こうには左に小さな形ばかりの庭があり、そのすぐ奥に二階建ての小振りな家が建っている。春木陽香は目の前の門柱に目を向けた。肩の高さの小さな門柱には「永山」と記された表札が掛けられていて、その表札の下に数字キー・ボタンが付いた機械が取り付けられていた。左右の門柱には内側に金属製の棒状の機械が縦に取り付けられていて、その間に赤い光線が何本も横に走り、横縞を描いて間を塞いでいる。門柱から左右に伸びる低い安普請の塀の内側には、四メートル程の高さの棒が等間隔で立てられていて、その棒の先端のカメラの下から塀の高さまでの範囲で、各棒と棒の間に赤い光線が何本も走っていた。

 春木陽香は背伸びをして、その赤い光線を視線で辿った。

 その設備は永山の家の塀に沿って隣家との境にも施されていて、敷地の裏手まで続いている。おそらく、北側の裏手の塀の上にも在るのだろう。周囲の塀に沿って永山の家の狭い敷地を完全に取り囲んでいるに違いなかった。

 春木陽香は恐る恐る手を伸ばし、門柱の間を塞いでいる赤い光線に触れようとした。すると、背後から声がした。

「火傷しますよ」

 反射的に手を引っ込めた春木陽香が振り向くと、中年の背広姿の男が立っていた。その後ろの白いバンから少し若い二人の背広姿の男たちが降りてきて、中年の男と共に春木を取り囲んで立つと、それぞれ厳しい表情をして言う。

「高電圧放電と熱線レーザーの二段構えだ。指を失いたくなければ、馬鹿なことは考えない方がいい」

「外部との面会は謝絶です。お引き取り下さい」

 春木陽香は三方の男たちの顔をキョロキョロと見回して尋ねた。

「司時空庁の方ですか」

 最初に声を掛けた仲野が首を縦に振る。

「そうです。新日の春木さんですな。何か御用で?」

 春木陽香は戸惑いながら答えた。

「その……用と言うか……今日は休みなので、ちょっと気になって。永山先輩からお土産も届きましたし、お礼を言おうかなと思ったので。――でも、やっぱり中には入れないんですよね」

 仲野は即答する。

「ええ。ご遠慮下さい」

 困った顔で春木陽香は言った。

「はあ……」

 そして、隣の仲島や仲町の顔を見ながらまた尋ねた。

「あの、買物はどうされているんですか。食べ物とか衣料品とか、いろいろ……」

 中堅の仲島が答えた。

「我々の方で、ご要望をお聞きして、お渡ししています。不自由はしていませんよ」

 春木陽香は周囲を見回た後、左右の道に停めてある白いバンを交互に見ながら言った。

「あのお、女性の職員の方は……」

 一番若手の仲町が答える。

「いえ。我々男性職員だけです。それが何か」

「そうなんですか……」

 少し下を向いて黙った春木陽香は、顔を上げて仲野に言った。

「中にはご夫人もいらっしゃいますし、由紀ちゃんも年頃の女の子ですから、女性の職員の方も配置していただいた方が……」

 仲野は淡々とした口調で答えた。

「永山氏とそのご家族の護衛が我々の任務ですからね。危険な任務である以上、男性職員ばかりになるのは仕方ないですな」

「いや……でも……」

 口籠もっている春木に仲島がはっきりとした口調で言った。

「用がそれだけなら、お引き取りいただけますか。我々も暇じゃないので」

「はあ……」

 春木陽香は、心配そうな顔で永山の家の玄関を見つめた。

 仲町が少し強い口調で言う。

「強制的に排除してもいいんですよ。そういう命令を受けていますから」

 春木陽香は溜め息を吐いて言った。

「分かりました。帰ります。――あの、すみません、これを渡してもらえませんか」

 春木が差し出したレジ袋を受け取った仲島が言った。

「中を確認させていただいて、お届けできるものは、お届けします」

「じゃあ、お願いします。失礼します」

 司時空庁の職員たちに一礼した春木陽香は、トボトボと背中を丸めて帰っていった。



                  2

 永山宅の前に立つ司時空庁職員たちに背中を向けて歩く春木陽香は、手に持った小さな人形を見つめて呟いた。

「せっかく、お礼を言おうと思ったのになあ……」

 その人形をジーンズのポケットに仕舞った彼女は、元来た道を歩いていった。

 白いバンの横を通って角を曲がった春木陽香が下を向いて歩いていると、通り過ぎようとしていた横道の先から声がした。

「お姉ちゃん。虹パンのお姉ちゃん」

 聞き覚えのあるガラガラ声だった。横を向いた春木陽香は、その横道の方を見回した。角から一軒先の家の生垣の中から、細く小さな手が出ていて、パタパタと手首を振って呼び寄せている。春木陽香は周囲を見回して、手の方に歩いていった。

 近くまでくると、再び生垣の中から声がした。

「こっち、こっち。早く。見つかっちゃうよ」

 その手は、小さく手招きを続けた。

 左右を見て人が居ないことを確認した春木陽香は、その手の前まで移動し、生垣に顔を近づけて中を覗いた。葉と枝の奥から迷彩服を着た御下げ髪の少女が顔を向けている。

 春木陽香は驚いた顔で言った。

「朝美ちゃん。何やってんの、こんな所で……」

「シー。声が大きい」

 口の前に人差し指を立てた山野朝美は、横を指差しながら声を潜めて言った。

「そこの横の所が開いてるから、そこから入って。お姉ちゃんなら、通れると思う」

 朝美に言われるままに生垣に沿って移動した春木陽香は、足下に枝葉が小さな隙間を空けているのを見つけた。彼女がしゃがみ込んで覗くと、植木の根元の幹と幹の間に中型犬がやっと通れる位の大きさの空間が空いている。その向こうに姿を現した迷彩服姿の朝美は、しきりに春木に手招きした。

 しゃがんだままの春木陽香は困惑した顔で言った。

「ここ、他人の家でしょ。勝手に入ったら……」

 隙間の中から手を出した朝美は、春木の腕を掴むと、中に引き入れた。春木陽香は枝を払いよけながら、狭い隙間に身を入れた。四つん這いのまま生垣の隙間を通り抜けた春木陽香は、しゃがんだまま上身を起こし、膝の土を払いながら朝美に小声で言った。

「ちょっと、何やってるの。ママに叱られるよ」

「いいから、いいから。こっち、こっち」

 そう言った朝美は、前屈姿勢のまま小走りでその家の端の角まで進んだ。春木も腰を曲げて後を追う。角から隣家との間の狭い通りを覗いている朝美に、春木陽香は困惑した顔で言った。

「どこ行くの? ていうか、その恰好……」

 少しブカブカの迷彩服を着た山野朝美は、黒いコンバット・ブーツを履き、背中には緑色のリュックサックを背負っていた。そのリュックサックのチャックの端からは、漆塗りの棒が突き出している。

 しゃがんだまま後ろを向いた山野朝美は、声を押し殺して春木に言った。

「この家の庭の向うが、丁度、由紀んちの裏手になるの。そっちなら、見つからない」

「見つからないって……、あ、ちょっ……」

 春木には耳を貸さずに角から飛び出した山野朝美は、また前屈姿勢のまま小走りで隣家との間の塀に沿って進んでいった。

 春木陽香は仕方なく、前屈姿勢で朝美を追いかけた。

 二人は、その家の敷地の南側に出てきた。小さな庭が広がっている。南の方に木製の板を立てて並べた高い木塀が立っていて、そのすぐ向こうに、永山の二階建ての家が建っていた。

 朝美は小走りで庭の中を通り、木塀の方に向かう。

 後を追った春木陽香は朝美に言った。

「他人の家でしょ。駄目だよ、勝手に入っちゃ」

 木塀の横でしゃがみ込み、リュックサックを下ろしながら、山野朝美が春木の横を指差す。

「そこ、盆栽が並べられてるからさ、気をつけてね」

 横を向いた春木陽香が、棚の上の鉢を見て言った。

「ボンサイって、これ? 小さ。初めて見た」

「もう。お姉ちゃん、記者でしょ。しっかりしてよ」

「はあ……」

 リュックサックを地面の上に置いた朝美は、木塀に背中を当てると、背後の上の方を指差しながら言った。

「ほら、あそこと、あそこにカメラが付けられてる。あっちにも」

 さっき春木が永山の家の門の前で見た機械と同じものだ。やはり、レーザー光線の柵が永山宅の敷地を取り囲んでいた。光線を中継している棒の先端にはカメラが取り付けられていて、そのレンズを永山宅の敷地内に向けている。

 しゃがんだまま膝を抱えていた春木陽香は、それらを見上げて言った。

「レーザーも張ってあるし、危ないよ。センサーだって設置してあるはずだから」

「だーいじょーぶ、だーいじょーぶ」

 何度も大きく頷きながらリュックサックに手を突っ込んでいた山野朝美は、中から丸く薄い小箱を取り出した。表面には美しく光る綺麗な装飾が施されている。

 春木陽香は朝美が蓋を開けているそれを覗き込んで尋ねた。

「なに、それ」

「ママのコンパクト」

「編集長の? それで、どうするの?」

 永山の家の二階の窓を見上げている山野朝美は、手に持ったコンパクトの角度を変えながら言った。

「この鏡に光を反射させて……由紀の部屋の窓を……」

 二階の磨りガラスの窓に丸い光が当たる。朝美がコンパクトの角度を変えて窓に当たった太陽光を左右に動かすと、磨りガラスの向こうに人影が映った。窓か開き、永山の娘の由紀が一瞬だけ顔を覗かせて、引っ込める。窓枠の下から手が出て、親指と人差し指で輪を作って見せた。それを見た朝美はコンパクトを地面の上に放り置いて言った。

「準備オーケー。朝美軍曹、作戦の第一段階を終了しました」

 山野朝美は春木に敬礼をして見せた。

 春木陽香もつられて敬礼する。

「ご、ご苦労……。――で、次は何するの? 司時空庁の人たちに見つかったら、拘束されちゃうよ」

 山野朝美は顔の前で大きく手を振りながら、しかめて言った。

「見つかりゃしないって。大人は、これだから……」

 そして、山野朝美は再びリュックサックの中に手を入れた。

「今度は、なに」

 春木が尋ねると、朝美は手に握った漆塗りの棒を春木の顔の前に突き出して言った。

「パパの釣竿。一本釣り用……さかなしん……何とか作だって」

 その棒の表面に刻まれた文字を見てそう言った朝美に、棒を覗き込んで文字を読んだ春木が言った。

魚信あたりあきら。現代の名工じゃない。有名な人だよ。その人が作った釣竿なら、これ、高いはずだよ。ものすごく」

「知らんわい、そんなこと。ん?……さんよろはん? これ、何て読むの」

「ええと、たぶん三尋半みつひろはん。一尋が(ひとひろ)このくらいだから、たぶん四メートル半か、五メートルちょっとってところかな」

「よし。ちょうどいい」

 山野朝美はしゃがんだまま、その棒の中に格納されている一回り細い棒を順に引き出していき、釣竿の形に組み立てていく。釣竿が完成すると、朝美はそれを垂直に立てた。その漆塗りの高級釣竿は、レーザー光線の柵を中継している棒よりも少し上の方まで伸びていた。

 釣竿の先端を見上げながら、春木陽香は言った。

「カメラに映っちゃうよ。もう少し後ろじゃないと」

「この辺かな。ほら、お姉ちゃん、鏡でピカピカして」

 春木陽香は地面に置かれたコンパクトを拾い、表面から土を払うと、開けられた由紀の部屋の窓から部屋の中の天井に太陽光を反射させて照らした。

 春木陽香は周囲に注意して光の信号を送りながら、隣の朝美に尋ねた。

「何する気なの」

 地面に立てた竿を握って由紀の部屋を覗きながら、山野朝美は答えた。

「由紀は工作が得意だから、今、向こうで何か考えて、作ってるはず。とりあえず、これくらいの高さがあれば、あの先に何か……」

 その時、その庭の家のサッシが勢いよく開き、老人が声を放った。

「んん! 誰か居るのか」

 春木陽香と山野朝美は慌てて盆栽の棚の陰に身を隠した。釣竿は垂直に立てられたままである。サッシの向こうでは、縁側の上で、ステテコに腹巻姿の老人が怖い顔をして立っていた。老人は庭を見回す。棚の後ろで膝を抱えながら、春木陽香が朝美の手に握られている釣竿を指差した。朝美は天に向かって高く真っ直ぐに立っている釣竿を見上げて、驚いたような顔をした。春木陽香はガックリと項垂れる。

 老人の声がした。

「おかしいの。気のせいかの。――エアコンの室外機の音か……」

 首を傾げながらサッシを閉めた老人は、縁側の向こうの和室に戻り、障子を閉めた。

 春木陽香が胸を撫で下ろす。そして、真顔で朝美に尋ねた。

「ねえ、朝美ちゃん。もしかして、ノープランなの?」

 目を剥いた山野朝美は、迷彩服の胸元を摘まんで引っ張りながら答える。

「ちゃんと付けてるわい! 中学生だと思って馬鹿にするな!」

「――それは『ノーブラ』でしょ。私か言ったのは、『ノープラン』。計画は立ててないの?」

 山野朝美は両眉を寄せて言った。

「なせばなる。なさねばならぬ、何事も。うん」

「うん、じゃなくて。それにこれ、ちゃんとママやパパの承諾とって借りてきたの? 思い出したけど、もしかして、その釣竿、私が前に新聞社の方に勤めていた頃に神作キャップが買った物でしょ。すごい自慢してたよ。たぶん、ものすごく大切なもの……」

「シッ。声が大きいよ、お姉ちゃん」

「……」

「今は緊急事態だからね。背と腹に蛙と犬よ」

 春木陽香は首を傾げる。

「背と腹に……?」

「追い詰められて、ピンチだから仕方ないってこと」

「追い詰められ……ああ、『背に腹はかえられぬ』かな」

「そう、それ。さすが虹パン」

 朝美が向けた人差し指を掴んで降ろした春木陽香は、朝美に言った。

「電話すればいいじゃない」

「携帯は、電波を拾われて盗聴されてる。ママが言ってた」

「そっか」

「由紀んちは、固定電話も無いし。ま、今時、どこの家も無いけどね。ウチはマンションだから、緊急用の有線設備が付いてるけど、由紀んちは一戸建だから、たぶん有線設備も無い」

「だから、これ?」

 春木陽香は朝美が立てている釣竿を指差して、そう言った。

 山野朝美は頷いた。

「そ。何としても由紀と連絡取らないと、ウチもヤバイ」

「どうして?」

「今はウチら夏休みじゃん。夏休みは毎日、電子版『夏休みの友』をネットで提出しないといけない訳よ。分かる?」

「ああ。『夏休みの友』って、一日分ずつ宿題が載ってる冊子でしょ。今はあれも電子版なんだ」

「そ。MBCに格納されて、個人識別用の暗号コード付で渡される。まとめて解けないようになってて、毎日、全科目三ページずつ解いて、毎日、ネットでその日の分の宿題を学校に提出しないといけない。全然、『友』じゃない。むしろ『夏休みの敵』。中学生もいろいろと忙しくて大変なのに、まったく分かってない」

 春木陽香は膝を抱えたまま空を見上げて言った。

「んー、まあ、私も朝美ちゃんや由紀ちゃんくらいの歳の頃は、忙しかったもんなあ、いろいろと。部活の合宿とかで大変だったなあ。宿題も多かったし」

「でしょ。その宿題の提出が、由紀が家に閉じ込められてから、完全に停止したってわけよ」

「でも、どうして、由紀ちゃんが閉じ込められてたら、朝美ちゃんの宿題の提出が止まるの?」

「夏休み前は、いつも由紀がやってきた宿題を写して、提出してたから」

「写してって、朝美ちゃんたちの世代は、電子タブレットから赤外線送信で提出でしょ。私も高校生の頃は、そうだったけど、あれって、それこそ個別の暗号コードが付いてて、他人の宿題とか上書き出来ないよね」

 山野朝美は呆れ顔を横に振って言った。

「かあー、青いねえ。今は、ってのが在るのじゃよ。それを使って、まんまコピーして出してた。だから、由紀がいないと、わたくし山野朝美は、授業で出される問題も、宿題の内容も、さっぱり分かりませーん。当然、『夏休みの友』も解けないし。一頁も。これ、緊急事態あるね」

「いやいや、ちゃんと自分でやろうよ。自分のためだよ」

「頑張ってみたけど、中三の夏では、『時すでに遅し』ですな。マジで一問も解けん。このままでは、夏休みの宿題の提出が止まったまま、レッドゾーンに突入することは間違いないわ。うん」

 一人で頷いている山野朝美に、怪訝な顔で春木陽香が尋ねた。

「レッドゾーン?」

 山野朝美は人差し指を立て、講義するような口調で言う。

「一定以上、未提出の宿題が溜まると、ウチの学校では、『反省授業』に行かされてしまうのじゃ」

「はんせいじゅぎょう……なにそれ」

「精神と性根を鍛え直すための授業だって。すごい遠い所に送られちゃう。まあ、強制送致みたいなもんですな」

「どこに送られるの?」

「樺太か、択捉あたり。たぶん、この時期だと、化石の発掘作業とかさせられる。何日間か、ぶっ続けで。だから、月曜日には、これまで溜まった未提出の宿題をまとめて出してしまわないと、最北端の地で穴掘りをさせられるか、リカコ先生に鉄拳パンチを食らうかの、どちらかってわけ。なので、今のウチは、『ガッチプッチ』なのよ。何が何でも由紀と連絡を……お、来た」

 釣竿を両手で握って構えた朝美の横で、少し考えていた春木陽香が呟いた。

「ガッチプッチ……ああ、『崖っぷち』ね。――なんか、分かる気がする……」

 隣の永山宅の二階の窓から永山由紀がチラリと顔を覗かせる。そして、朝美が握って立てている釣竿の先端を指差して頷いた。それを見た山野朝美も頷く。春木陽香は首を傾げていた。

 春木が再び二階の窓に視線を戻すと、部屋の中で由紀が紐状の何かをクルクルと頭の上で回している。彼女はそれを投げた。

「よっ」

 投げ縄のように飛んできた紐の先端に朝美が釣竿の先を引っ掛けて受け取る。朝美は釣竿を立てたまま後ろに振って、二階の由紀の部屋と竿の先にピンと紐を張った。

 春木陽香は熱線レーザー柵の上に張られた紐を眺めながら言った。

「ママやパパは知ってるの」

「宿題のこと? ――ううん。知らない。バレたら絶対に殺される。お姉ちゃん、絶対にママやパパに言っちゃ駄目だからね。女同士の約束だよ」

「う、うん。分かった。バレたら私も叱られそうだから。朝美ちゃんのママ、恐いしね」

 春木の発言には答えずに黙って由紀の部屋の窓を見上げていた朝美は、言った。

「で、次は何だろう」

 塀の上のレーザー光線と垂直に交差する角度で張られた紐の上を、紐を中に通したトイレットペーパーの芯が竿の先端を目掛けて滑ってきた。芯には下に小さな玉が取り付けてある。二階の部屋の中では、由紀が椅子か何かの上に立って、両手を高く上げて紐の端を上げ、竿との間に渡された紐に傾斜をつけている。

 紐を渡りきった芯は竿の先に当たった。その下の玉が真ん中から二つに割れて、中から小さな垂れ幕と、何かカラフルな星形の物がクルクルと回転しながら落ちてきた。垂れ幕にはマジックで「大成功」と書いてある。その無駄な工作を、春木陽香は口を開けて唖然と見上げた。

 釣竿を支えたままの朝美が、足下に落ちた星形の物を視線で示して、春木に言った。

「お姉ちゃん、拾って。拾って」

 春木陽香はそれを拾って観察した。折り紙で作られている。それを見ながら春木陽香が戸惑い顔で言う。

「手裏剣……だよ」

 首を傾げている春木に朝美が言った。

「鈍いなあ。中に何か書いてあるの。開いて、早く読んでよ」

「う、うん……ていうか、手裏剣なら、投げればいいのに……」

 春木陽香は折り紙を折って組み合わせて作られたその「手裏剣」を分解して、二枚の折り紙を広げた。赤と黄色の折り紙には、それぞれ番号が打ってあった。

 春木陽香はそれを番号の順に重ねて、上の黄色い紙の裏の文章を読み上げる。

「ええと、こっちからね。一、任務ご苦労。……」

 釣竿を支えたまま、何度も頷く朝美。そのまま止まると、すぐに顔を上げて春木に言った。

「――それだけ?」

 春木陽香は赤い紙を持ち上げて言った。

「うん。まあ、もう一枚あるから」

 春木陽香は軽く咳払いをした。

「ゴホン。――二、ネットの接続が切られて、チョー不更……不便ね。ニンベンが……」

「いいから、次、次」

 朝美は竿を支えて紐を張りながら、春木に朗読を急かした。

 春木陽香は次の文章を読み上げる。

「ハイバリが出来ない。ムカツク。――ハイバリって?」

「ネットで流行ってる宇宙兵士ゲーム。正しくは『ヒバリノン』。由紀が読み方を間違えてるんだよ」

 口を尖らせてそう言った朝美は、更に朗読を急かした。

「それで、次は」

「チョコバナナ・アイス食べたい。おっさんたちは、小豆味ばかり買ってくる。――だって」

「それから?」

「それだけ」

「なんじゃそりゃ。親友が決死の作戦を実行してるっていうのに、ゲームとアイスか! 宿題は、宿題!」

 焦ってそう言った朝美の前で、春木陽香は二枚の折り紙を裏返したり、光に透かしたりしながら言った。

「それについては、何も書いてないけど……」

 朝美が眉間に皺を寄せて言う。

「――うぬー。ちょっと、この竿、持ってて。紐が途中で垂れてレーザーに引っ掛からないようにしてよ。よく見てて」

「う、うん……」

 春木陽香は朝美から釣竿を受け取り、紐の張りを確認しながら支えた。

 朝美は声を押し殺しながら、必死に二階の窓の向こうの由紀に叫んだ。

「宿題はー。夏休みの友お」

 二階の由紀が手を片方の耳に添えて口を開ける。

 朝美は喉を絞って小声で叫んだ。

「しーくーだーいー」

 由紀は乗っていた物から下りて窓に近づき、耳をこちらに向けた。紐が垂れる。慌てて春木陽香が釣竿を斜めにして紐を張った。

 朝美は、机の上でパソコンのキーを叩いている様子と、書類を誰かに提出している様子をジェスチャーして見せる。二階の由紀は首を傾げた。

 今度は、朝美は両手を使って大きくアルファベットの形を作り全身で伝えようとした。彼女は頭の上に手を載せたり、脇の横に腕で輪を作ったり、片脇で両手を上下に広げながら、声を潜めて叫ぶ。

「エムう、ビイー、シー!」

 二階の部屋の中の由紀が、片方の手でパンチを打って見せた。

 朝美が言う。

「それはYMCAじゃ。古い。古いぞ。お婆ちゃんか!」

 見かねた春木陽香が言った。

「そのコンパクトの鏡で、由紀ちゃんの机の立体パソコンでも照らしてみたら。気付くかもよ」

「おお。さっすが大人。あったまいいー」

 朝美は、リュックサックの上に置かれていたコンパクトを再び手に取り、その鏡に太陽光を反射させて由紀の部屋の中を照らした。

「その……机の本棚に立ててある、それ。教材のパソコン。そう、それ。その中の、MBC。それが必要……もうちょっと、こっちかな……」

 由紀の部屋の中に顔を向けながら背伸びをして腕を伸ばしている山野朝美は、コンパクトを少し動かして、反射する太陽光の角度を変えようとした。

 咄嗟に春木陽香が叫んだ。

「朝美ちゃん! レーザー!」

 鏡を付けたコンパクトの蓋の部分が、塀の上に何本も横に走る赤い光線の一番下の光線に触れた。鏡に反射したレーザーは、角度を変えて上に飛び、釣竿の先の紐を切断して隣の家の庭木に当たった。焦った朝美が鏡を動かすと、赤いレーザー光線は、その木の小枝をストンと切り落として下がり、目の前の木製の垣根を半円形に切り取った。

 すぐに手を引いた朝美は、冷や汗を垂らしながら言った。

「あっぶね、これ、マジじゃん」

 春木陽香が慌てて尋ねる。

「大丈夫? 怪我しなかった?」

「うん。一、二、三、四、五。ちゃんと指も五本ついて……わっ! やべっ! ママのコンパクトが黒焦げに……」

 コンパクトの蓋からは煙が上がっていた。

 永山の家の正面の方から仲島の声がした。

「おい、なんだ。警報システムが作動してるぞ。仲町、見て来い」

 朝美が焦る。

「やばい、バレた」

 釣竿を立てていた春木陽香は、急いで竿の下端で足下の土の上に大きく「MBC」と書いた。それを見た由紀が慌てて部屋の奥に戻る。春木陽香はすぐに靴底で土の上の文字を消した。

 仲野の声がする。

「くそ。どっちだ。門のレーザーを早く切れ。中に入れんだろうが」

 焦った仲町の声も聞こえる。

「はい、すぐやります。ええと、どうするんだ、これ……」

 春木陽香は急いで釣竿を横に倒し、朝美に言った。

「朝美ちゃん、これを早く仕舞って」

 釣竿を朝美に渡した春木陽香は、立ち上がって由紀の部屋の窓を見た。そして、少し背伸びをして、切り取られた木塀の穴から向こうの永山宅の敷地を覗く。まだ誰も回ってきていない。春木陽香は横でかがんでいる朝美に顔を向けた。山野朝美は慌てて釣竿の繋ぎ目の部分を回し、短く畳もうとしている。春木陽香は再び木塀の向こうの二階の窓に顔を向けた。

 由紀の部屋の中からクシャクシャに丸められた紙玉がフワリと飛んできた。その紙玉はレーザーすれすれの所を越えて木塀のこちら落ちてくる。春木陽香が背伸びをしてキャッチした。急いで紙を広げると、中にMBCが一枚入っていた。

 春木陽香は、その紙に書いてあった走り書きを早口で読み上げた。

「あさみの分をコピーしておいた、だって。よかったね」

「よっしゃあ。やっぱ持つべきものは、友だよねえ」

 ガッツポーズをした朝美は、一番下の一節を外しただけの畳みかけの釣竿を肩に担げて、得意気な顔で胸を張った。

「朝美ちゃん、竿、竿!」

 春木の指摘に慌てた朝美が振り向こうとすると、彼女の肩の上から斜めに延びた釣竿がレーザー光線に触れて四等分に切断された。

「はひゃ、しまったあ!」

 地面に屈んで、バラバラになった竿を必死に拾い集める朝美に、春木が言う。

「そんなのいいから、行くわよ!」

 春木陽香は身を屈めて朝美のリュックサックを持ち、反対の手で朝美の腕を掴んだ。

 顔を上げた朝美が表情を強張らせて、春木に言った。

「お……お姉ちゃん……」

「なに?」

「動いちゃ駄目だよ」

「え? どうして」

 前屈のままピタリと動きを止めた春木に朝美が言う。

「背と腹が蛙みたいな犬が……」

 春木陽香は体を起こして言った。

「だから、それは『背に腹はかえられぬ』だよ。これくらいの諺はちゃんと覚えないと、社会に出てから周りから馬鹿にされたり、舐められたり、こうやってペロペロと、舐められて……」

 春木の指先を何かが舐めている。彼女がゆっくりと振り向くと、そこに肥えた犬が座っていた。その中型犬は、眠そうな顔で鼻先を春木の指先に近づけている。

「わあ! い、犬! 太った犬!」

 春木陽香は手を引くと同時に、後ろに尻餅をついて倒れた。春木の視線が眠そうな犬の目と合う。春木陽香は生唾を飲んだ。

「わふっ」

 犬の一吠えに慌てて立ち上がった春木陽香は、朝美の手を引いて走って逃げた。

 その家のサッシが再び激しく開き、老人が叫ぶ。

「こりゃあ! 誰じゃあ! 他人の家の庭で遊んどるのはあ!」

 老人は目線を塀に向けた。

「ああ! 塀が、塀が切り取られとるぞ!」

 家の表の生垣の方から、春木の大きな声が聞こえた。

「す、すみませんでしたあ」

 老人はステテコ姿のまま縁側から飛び下り、塀の方に走っていった。すると、半円形に切り取られた木塀の向こうから仲島が上半身を出した。彼は後ろを向いて言った。

「おい、仲町、こっちだ。北側の方だ。まだ近くにいる、追いかけるぞ」

 すかさず塀の中に手を入れた老人が仲島のネクタイを掴む。

「ちょっと待て。なんじゃこれは。お宅らの変な装置のせいで、ウチと永山さん所の間の塀が切り取られとるじゃないか。どうしてくれるんじゃ」

 中島は逃げていった春木たちの方を見ながら、必死に抵抗した。

「おい、放せ。今はそれどころじゃない。こっちは忙しいんだ」

 やってきた仲町が老人の腕を掴み、中島のネクタイから離そうとした。老人は力む。仲町は老人を離すことをあきらめ、表の方に向かおうとした。

「待たんか、コラっ!」

 塀の穴に反対の腕を入れた老人は、駆けていこうとした仲町の襟も掴んた。

「なんか、若造。逃げるんか。そうはいかんぞ。しっかり弁償してもらうからの!」

 老人に掴まれて動けない仲島と仲町に肥えた犬が激しく吠える。

 その家の生垣から表の通りへと飛び出した春木陽香と山野朝美は、住宅街の奥に向かって全速力で走って逃げていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る