第9話 血と涙と私と君と

 恋人と付き合いはじめて、もう一年が過ぎました。こんなに長く一緒にいることになるとは思いもよりませんでした。私はあの名も知らぬ女子大生を殺してからも、また一人を殺めました。けれど何故か昔ほど殺しで得られる快楽や、絵を描き上げた時の高揚感は得られなくなってしまいました。それ以来、私は長い間人を殺していません。

 

 ただその欲自体がなくなったわけではないので悶々とした気持ちをずっと抱えながら生活しています。そのせいか調子が出ないというか、絵ももちろんですが、何だか全てのことが雲をつかむように手応えなくて、自分が地面の上に立っているのか浮いているのかよくわからないような感じがずっと続いていました。そろそろいろんなことが潮時なのかもしれません。


 またなんとなくですが、警察が私を見つけ出しそうな予感もあります。テレビで私のことを報道する機会が最近になって減ってきたように感じます。そのことが逆に私の尻尾を捕まえているからなのだという気がしてなりません。いや私の事件に対する世間の関心が薄れただけかも知れませんが。


 恋人宅のテレビは大きくて、どれくらいかって私よりもずっと大きくて、ニュースやクイズ番組とか、お笑い芸人なんかもとにかく大きくて、必要以上に大迫力で、その癖殺人事件の原稿を読み上げる巨大なキャスターのトーンはやけに落ち着いていて、その大きな口から放たれるものにしては迫力に欠けました。恋人と二人でニュースをぼんやりと眺めて得られる情報だけでも、毎日のように人は人を殺し、時には一人でたくさんの人を殺し、私はそうしたたくさんの殺人犯のうちの一人でした。


 そのような報道を目にするたびに私の恋人はなぜこのようなことが起きてしまうのか、胸を痛めていました。その恐ろしい考えに至ること、それを実行に移してしまえること、痛み苦しむ人に追い打ちを加え死に至らしめること、どれもどう理解しようとしてもわからないのだと嘆いていました。恋人は人を痛みやら苦しみやらから助けるために医師になったのだといつも言っていました。そのために我慢して人を切ったり開いたり結んだりしているのだと打ち明けました。


 今日のニュースではまだ若い男の子が同じように若い男の子を殺していました。ニュースの中の殺人犯がなぜ人を殺しているのか、私にはわかりそうで、わかりません。それだけでなく、私自身がなぜ人を殺したいと欲するのかも実のところよくわかりません。

 

 ただ一つ言えることは気づいた時には殺したいと思っていたということだけです。夏の日に走り出したくなるように、月曜日に仕事をさぼりたくなるように、縁石の上を歩きたくなるように、少なくとも私にとってはそんな日常に転がる一粒一粒の欲望と出所は一緒なものでした。こんなに若いのにとか、あんなに若いのにとか、そんなことはあまり関係ないように思います。


 ただ、殺したいと思ったから殺していて、普通の人ではなくなった私のような人間は若かろうが老いていようが、男とでも女でも、そんな細かいことは関係なく人を殺すことができてしまうのだろうと思います。それは何故かなんて考えるだけ時間の無駄です。


 だから私は恋人にわかろうなんて思ってはいけないと伝えて、テレビを消しました。さっきまでアナウンサーの毛穴やファンデーションの粉まで色鮮やかにくっきりと写し出していた画面は突然巨大な真っ黒な壁となり黙って静かになりました。


「そういうものって諦めろってこと?」


「うん、どうやってもわからないものってあると思う。結局は他人なんだし」


「わたしとあなただって他人なんだよ」


 恋人はそう言って、しばらく真っ黒になって黙ったテレビ画面と向き合ったまま、何かを考え込んでいる様子でした。その視線は画面をじっと見つめていて、それを写し出した黒目が舐め欠けの黒飴のようにてかてか黒く光って見えました。


 私が何か音楽でも聴こうかと言ってオーディオに手をかけると恋人はそれを制止しました。


「そういえばさ、最近絵は描いてる?」


「描いてはいるけど、あんまり上手くはいってないかな」


「そうなんだ。今は誰のことを描いてるの、どんな絵なの、今まで描いた絵でも何でもいいから、そろそろ見てみたい」


「そんなに上手くないし、ここまで持ってくるの大変だから」


「上手いか下手かとか、そんなこと別にきにしないって前にも言ったでしょ。どんなものを描いてるか知りたいだけ。大変なら家に行くからさ」


「いつも言ってるでしょう、人を家にあげるのには抵抗があるんだよ」


 普段なら少しごまかせば済むことなのに、今日の恋人はやけに食い下がって諦めようとしませんでした。


「だったら、家に行くのが無理なら。今ここで、私のことを描いてよ」


「それは絶対に嫌だっていつも言ってるでしょ!」


 私が反射的にそうはっきりと否定すると、恋人は少し驚いた様子で、それっきり黙りこんでしまいました。


 普通の恋人同士なら、一年も付き合っていれば家に招くことくらいは当たり前でしょうし、趣味が絵だと知っているなら見たいと思うのも当然で、それ以外にも私は必要最低限のことしか恋人に伝えずに多くのことを秘密にしていました。その不満というか、当然の疑問がたまっていたのでしょう。ただやはり私に答えられることはありませんでした。片方が不良品ならばどう頑張っても普通の恋人同士になることはできません。どんなに待っても普通の幸せは手に入らないし、私達が本当にわかり合うことなどあり得ません。私達は似ても似つかないほど違う生き物なのです。


 もうじき私は捕まって、そして名前も知らぬ人々に多数決で裁かれ、死刑台の向こう側にいるボタンを押した何処かの誰かに、間接的に、ランダムに、殺されるのでしょう。


 その日が来る前に、私もずっと気になっていたことを恋人に尋ねてみたいと思いました。恋人は医師でお金があり、部屋には大きなテレビと5人掛けの巨大なソファーもあるし、見た目だって平均以上に整っていて、私のような人間にこだわる必要なんてなさそうなのに、だからと言って浮気をしている様子もありませんでした。


 不釣り合い。


 という言葉が客観的にみて適切に思えました。どうしてこのような得体の知れない人とわざわざ長く付き合っているのでしょうか。私には私がそこまで価値のある人間だとは思えないのです。


「そういえばさ、どうして私なんかと付き合っているの」

 私みたいな人殺しなんかと、とは言えませんでした。

 

 恋人は突然の質問にまた驚いた様子でしたが、自分の中から一つ一つ言葉を探し出して、丁寧に並べるように答えてくれました。


 「どうしてだろう。でもきっと、何を考えているのかわからないからかもしれない。本当に全然わからない。もう付き合って一年以上経つのに、いまだにあなたの家がどこにあるのかもわからないし、描いている絵だって見せてもらえない。でもね、だからこそ、自分は君と一緒にいたい、どうしようもなくね。それに、ほんの端くれだけど、わかったこともある。あなたは優しい人。それだけでも十分」


 あ、涙。と気づいた時にはもう目から頬を伝っていて、恋人の頬には無色なのにはっきりとそれが通った跡が残っていました。血の赤みたいなわかりやすい色ではないのに、涙の描いた曲線が私にはっきりと見えました。


「なんで、どうして。泣くの」


 そして、また涙。それは次々に目からこぼれ落ちていき、同じところを通っていくのに、上書きするのではなく、また同じ濃さで無色の線を新しく描いていきました。


「なんでかな。なんか君が自分のことを知りたいと少しでも思ってくれていることが嬉しくて。でもね、やっぱり君のことをもっとちゃんと知りたいって思ったら、自分でもよくわからないけど、涙が止まらない」


 こんな時になのか、こんな時だからか、また久しぶりに私の中でふつふつとあれが湧き上がってくるのがわかります。私は溢れ出しそうなそれを、唇を噛んで抑えてなんとか飲み込むことができました。さすがにこんな時に殺しをするのは違うだろうと思ったのです。飲み込んだそれは私の心臓に熱をもたらし、私の全身に血をじんわりじんわりと痺れるように巡らせているのを感じます。鬱血していた指先に感覚が戻っていきます。


「あっ鼻血が」


そう指摘されると同時に私の鼻から血が垂れて床に落ちてしまいました。恋人はすぐに箱からティッシュを何枚か抜き取り私に手渡してくれました。そしてどちらからともなく笑いが起こりました。


「ねえ知ってる?涙って血液から作られるんだよ。ざっくり言うとね、血液と涙はほとんど同じ成分なんだけど、血液を赤くしている赤血球が取り除かれて、涙は作られるの。血と涙って、色も見た目も流れる理由も全然違うはずのに、私たちなんだかシンクロしてるみたいだね」


 そう言いながら恋人は涙を拭い、私は血を拭き取っていました。


「そうなんだ、知らなかった。だから私は」


「どうしたの」


「うんうん、何でもない」


 私が警察に捕まって、大勢のひとを殺したことを知ったら、恋人はどう思うでしょうか。私が何を考えているのかわからないのは、私が人殺しだからだとわかったら、その時は、その時にも涙を流すのでしょうか。その涙の色はどんな色をしているでしょうか。


 私は涙を拭う恋人をみてなぜだか、まだ捕まるわけにはいかない、殺人者だと知られてはならないなと思いました。

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