第8話 新しい絵

 それはいつも自分でも予想がつかない突然のことで、何が引き金かもわかりません。ある日、それは久しぶりに湧いてきました。私はその日、鏡の前に立って寝癖をつかみ、へたった歯ブラシに出したばっかりの歯みがき粉を奥歯で潰した時、もうそろそろ人を殺そうかなと思いました。一度その考えがよぎるとやり遂げるまで、寝ても覚めてもそのことしか考えられなくなってしまいます。私は口をゆすぎ終えると、髪をドライヤーで整え、お気に入りの靴下を履き、部屋の電気と空調の電源が消えていることを確認して、財布とキーケースとナイフを鞄に放り込んで家を後にしました。


 さて問題はここから、誰を殺すか。

 

 それは私に恋人ができてから初めてやってきた衝動でした。私は決して力が強くありませんので、あまり強そうな人を相手にすると返り討ちにあう可能性があるし、人通りの少ない深夜の時間帯に都合よく弱そうな人が現れるとも限りません。


 私にもっとも近しく警戒心のない恋人を手にかければ、無用な危険をおかさずに、ことを運ぶことができるでしょう。しかし、近しい人間はいの一番に警察に疑われる可能性も高くなります。もちろん恋人には私との関係は誰にも口外しないよう釘をさしてはいますけれど。


 それに恋人はよく似ているからなのか、なんなのか、気が進みませんでした。


 何れにせよ誰を相手にするにしても抵抗されると厄介なので、気づかれないように、できる限り近くまで近づいて、そして後ろから躊躇いなく喉元にナイフを通すことが肝心です。ここまで上手くいけば相手がどんな大男であろうとも、こちらの思うままです。恐怖は人の身体を簡単に支配します。


 深夜零時をまわって世田谷区の住宅街にも人通りはだいぶ疎らになってまいりました。夕方頃にはもう朝から疼いていた衝動が我慢ならないほど沸き立って吹きこぼれていて、いっそ手当たり次第にそこら中の人を切り刻んでやりたくなりましたが、今は峠を超えて少し落ちつきました。ここまで落ち着いてしまえば別にもうやめたって構わないといえば構わないのですが、いつまでも空腹を満たさないままでいると身体にもよくありませんし、ほら今ちょうど手頃そうな女子大生が現れたところです。


 駅前商店街は夜中になっても煌々とあかりが灯っていて、はしゃぎたがりの小学生のような大学生や、折り畳まれてコンパクトになった会社員が点点と徘徊しているのに、ひとたびメインストリートを抜けてしまうと人は消えていなくなり、飛石に配置された電灯の下以外はみな暗がりでした。背の低い文化住宅、背の低い高級住宅、背だけが高い集合住宅が規則性もなく連なっているけれど、鮨詰めに配置されていてもどこか綺麗で、この積み木の入れ物みたいな住宅街に無数に交差する道路の曲がり角に私はいくらだって身を隠すことができました。熱帯夜の空気はじっとりとぬるく身体にまとわりついて長い間待ち続けている間に腕を伝うもぎたての汗が出てきては蒸発して、この夜をよりいっそうぬるく湿らせていくようでした。


 標的にした女子大生はスマートフォンに照らされて、顔だけが暗闇の中にぼんやりと浮かんで見えました。こちらに気づいている様子もなく、彼女は一歩一歩自らの足で死に向かって近づいていることを知る由もありません。


 もうすぐひとをころすことができる、もうすぐひとをころすことができる、もうすぐひとをころすことができる、もうすぐひとをころすことができる、もうすぐひとをころすことができる。


 私は沸き立つ興奮で音をたてる鼻息と緊張で音を立てる心拍を抑えるのに必死でした。音が聞こえて私が隠れていることが知れてしまうのではないかと心配でしたが、よくよく耳をすませてみても聞こえるのは蝉の鳴き声だけでした。


 彼女が私の身を隠す自動販売機わきの曲がり角を通り過ぎた瞬間、私は足音を殺し、息を殺し、声を殺し、気配を殺して後ろから近づきました。私がナイフをゆっくりと喉元に突き立てると、彼女は一瞬にして状況を理解した様子で、恐怖で身体が動かなくなりました。静かにね、と私は耳元で囁き、羽交い締めにしたまま、自動販売機の裏まで誘導し、喉にナイフを通して彼女を殺しました。


 私はそのまま彼女をすぐ側にある昔ながらの橙色の団地に隣接した公園の物置の影まで引きずっていき、喉からとめどなく流れでる血液を用意していた密閉瓶に採取していました。


 すると、彼女はまだかろうじて息があったのか、息を吹き返したのか、声が出なくなった口を必死でパクつかせていました。「え、何、聞こえないんだけど」と聞き返してももちろん返事が返ってくることはありません。いえ、むしろ彼女はもう完全に私のことなど無視していて眼中にない様子でした。もう、自分が死ぬことも全て受け入れた上で彼女は口をパクパクさせているようでした。私はぼんやりとなんだか金魚みたいだなぁと思いながら、口の動きを注意深く読みとってみると、彼女は誰かの名前を繰り返し、繰り返し、涙を流しながら必死で呼び続けているようでした。


男の名前。


「男なんてみんなろくなもんじゃないのに。どうして?」


  そう尋ねてみても、彼女はこちらを一瞥すらしませんでした。彼女は死んでしまうまでずっとぱくぱくさせて続けていて、その声にならない声と蝉の音のどっちが本物の音か私にはわからなくなって、頭の中にずっと五月蝿く響いていました。


 彼女にとってその名前の男は最後にすがるほど大事なものだったのでしょうか。その男にとって彼女もまた何よりも大事なものだったのでしょうか。


ねぇ大事なものってなに?


教えてよ


 彼女の声にならない声はしだいに静かになっていき、ぱくぱくしながらゆっくりと目をあけたまま息を引き取りました。開いたままの目からはしばらくの間涙が垂れ流されていました。


 家に帰ってから私は早速キャンバスに向かい、いつも通り筆に血を染み込ませ、血の雫でつくった瞳から肖像画を描きはじめました。私はいつも以上に彼女の死ぬ間際に見せた表情が脳裏に焼き付いて離れませんでした。それゆえ彼女の表情をこれまでにないほど精巧に再現できたはずなのです。それなのに、その瞳から流れる涙をどう描いていいかわからず、どうしようもなく私の筆は止まってしまうのでした。そして最後まで私はその肖像画を書き上げることはかないませんでした。

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