第二章

第21話 橙の家、蒼の雨

幼い頃の記憶は普通薄れていくものなのかもしれない。


忘れて、それよりもっと幸せな日々を心に刻んでいくものなのかもしれない。


でも私は幼い頃のことをこと細かに覚えてしまっている。

この時より幸せな記憶はないから。



私は静岡の静かな川辺の街で生まれた。

はっきり言って田舎で、本当にバスは1時間に1本あるだけの所だった。


私の記憶は2歳後半からある。

ヨボヨボ歩きの私の手を、顔より大きな父親の手に握られながら河川敷をよく歩いた。


「いつか俺の仕事を手伝ってくれると嬉しいんだけどな。」


父はそんなことをよく言った。

そう言われるときまって私は覚えたばかりの言葉で、


「しゃちょー!!」


と言った。


家に帰ると母親が「遅かったね。」といつも言った。いつも遅いならわざわざ言う必要ないと思うが、多分それが母親の口癖となっていたのだろう。


歩き疲れてから食べる夜ご飯はめちゃくちゃ美味しかった。

歩きたくない!と片意地を張っていた姉妹の片割れは、私より全然よく食べた。

4人家族の幸せがそこにはあった。


「恭子も、清香もよく食べるね。」


この言葉を言う時のえくぼが忘れられなくて、この後私たち姉妹は苦しむことになった。もう消えてしまったこのえくぼを。


私が3歳になった日、2月10日。

ケーキをたいらげた2匹のチビが布団に潜ったことを確認すると、父は母に熱弁をしだした。

今でもこの話を遮らなかったことに後悔をしている。悔しくて、悔しくて仕方ない。


私たちはニヤニヤして盗み聞きをした。間には襖1枚、よく話が聞こえた。


「苗子、こんな日に言うことじゃないかもしれないけど今日しかないと思うんだ。」


「何がよ。」

少し笑ったような声がした。


「会社を大きくしたいんだ。」


「反対はしないわよ。」


「本当か。でも、100万いるんだ。」


「100万くらい出していいよ。」


「ひゃくまん?」

急に耳元で声がしたからびっくりして声が出てしまった。


「なーに?2人とも起きてるの?」


母が襖を開けてきた。


「だってきょうこがはなしてきて」


「ちがうでしょ、きよかでしょ?」


「ちがうよ!!」


「どっちでもいいから寝なさい。」


そのまま二人は母親の魔術で眠ってしまった。


次の月くらいに父は雑誌を家に持ってきた。


「苗子、俺期待の社長として雑誌に載ってたんだよ!」


3歳だったからよく読めなかったけど、その記事を見て母はものすごく喜んだ。

夜がステーキになってしまうくらいに。


あとから聞けばこの時に500万円の資金が必要と言い、母は笑顔で許したそうだ。

「うちにそんなお金はないから借りたら。」

そう言ったらしい。


次の月も、次の月も、父親は会社の功績やら、雑誌の特集やら、テレビ取材の依頼が来ただとかでどんどんお金を借りていった。

いつだって母は嫌な顔をせずに許し、全ての借金の保証人になった。


そして、父は突然姿を消した。


「きょうちゃんのほうがおおきい!」


「わたしのほうがおおきいよ!!」


「そんなわけないじゃん!!! 」


次の日の昼。外は激しく雨が降っていた。

父はたまに帰ってこない日があったので、私はあまり気にしてなかった。外は雨で遊べないから、二人は家の柱で身長を測りあっていた。

はしゃぐ二人のもとに青ざめた母が近寄ってきた。


「からだ、わるい?」


「ううん。大丈夫よ。」


「でも2人に話があるの。2人ともよく聞いてね。」


うるさいガキ二人は何故かそのときだけ静かに人の話を聞いた。


「お父さんはね、ちょっと遠くに出かけちゃったみたいだから、わたしたち、もう、この家に住めないの。だから。だから、ひっこさなきゃいけないの。」


なんであんなに素直に頷けたかは分からない。でももう生きていくためにそうしなきゃいけないと、幼心にもわかった。

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