第18話 バスサイド

憲介は弥咲と会ってからしばらく仕事が出来なかった。

誰も信用出来なくなったことや、姉に危害が加わるかもしれないとゆう恐怖からだ。


毎日姉の元へ行くようになった。

居なくなってしまうんじゃないかと、怖くてたまらなかった。

姉の顔はまだ綺麗だけど、あの時のような光はない。憲介は毎回そっと寝ている姉の手を取り、何も言わずに時を過ごすのだった。


仕事・・が出来ないのだから、もちろん、水森恭子と関わっていられない。出張で数日の間は会えなくなると伝えた。

そう伝えても彼女は乾いた「頑張ってね」を言うだけだった。


仕事に関わりたくなかったので事務所にも行かなかった。携帯も、パソコンも駅前のロッカーに入れて見ないようにした。


さらに、金は西畑の金を使うのが嫌だったので10万を借金して過ごした。

意外にも初めての借金だった。


ビジネスホテルで寝て、朝昼晩コンビニ飯を食べて、テレビを見て、また寝る。

そんな日々だけが憲介を落ち着かせた。



そして1週間が経った。



水森恭子に嘘をついてることや、所持金の関係でそろそろ現実逃避をするのはやめなくちゃいけなくなった。


憲介はその日に戻ることを決めていたが、体が怠けて動かず、決心が着いたのは夕暮れだった。

駅前のロッカーに向かい、1週間ぶりに携帯に対面する。

電池がほとんど無くなっていて、電源をつけたらすぐにシャットダウンしてしまったので、近くのハンバーガー店で充電させてもらうことにした。


店まで歩いていると、ポツポツと季節相応の天気が顔を見せてきた。


急いでハンバーガー店に入ると、意外にも学生が多く、店内は青い声とハンバーガーの匂いで埋め尽くされていた。


アイスコーヒーを頼んだくらいで店内の席を1つ使ってしまうのも申し訳なかったが、食えないものに無駄金を使いたくなかったので、店員の嫌な顔を振り切って席に着く。


罪悪感からか、憲介は窓際の席に座った。

気づけば雨は店内の青い声を灰色に染めるまでに激しくなっていた。

窓の外の駅前のターミナルでは、突然の大雨に急いで傘を指す人や、迎えに来てもらうのを待つ人、走って帰る定時退社のサラリーマンマンが見えた。


憲介は充電プラグを携帯に突っ込んでから数分待ち、それから携帯の電源を入れた。

久々に元電源から切れたので、「こんなに時間かかったっけな」と思いながら、コーヒーを1口啜すすった。


電源が入るとメールとメッセージアプリの通知が大量に溜まっていた。

いや、正しくはメッセージアプリの通知が異常に溜まっていた。


憲介はメールを先に見た。

メールは仕事に使っているとゆう理由と、メッセージアプリを見るのがやけに怖く感じたからだ。


メールは3件だった。

1件目:猫探しの依頼

2件目:浮気調査の依頼

3件目:契約解除の申し入れ


依頼のメールは日付が古いからどうせ他に頼んでいるだろうと思い、憲介は異色を放つ一番最後のメールだけ開いた。


*From:清水久子

件名:契約解除の申し入れ

本文:調査用のコミュニティや、お電話をおかけしたりしましたが、反応がないのでメールをさせていただきます。

一身上の都合のため、円谷憲介様と1年契約していた『便利屋契約』を解除させていただきたいです。

もちろん、契約通り解約金はお支払い致します。

突然の事ですみません。

後でまたご連絡ください。

To:円谷憲介様*


憲介は顔をしかめた。

驚きと残念感と疑問で頭が痛くなりそうだったので、コーヒーを今度は半分くらいまですすった。


「なぜ今なんだ。もしかして。いや、まさか。」


憲介が小声で言った言葉は雨にかき消されたが、心に畏怖の疑念は残り続けた。


もはやメッセージアプリの異常な通知は嫌な予感しかしなくなって、見たくなくなった。



もしこの時、憲介が嫌々ながらにもメッセージアプリを開いていなかったら.........



メッセージアプリを見た後の憲介は畏怖の疑念が畏怖の真実へと変わり果てたことに体を震わせ、半分残ったコーヒーとパソコンを置いたまま店を出ていった。

さっきまで静かだった男が狂人となって店を出ていく姿に、周りの学生衆は全員話をやめた。

そんな店内も数秒で元に戻った。

狂人は行き交う人の傘や肩と何度もぶつけながら、走った。走って、走って、走って。

バシャン

大人になって初めて転んだ。派手に転んだ。今度は周りの大人たちからの視線はない。膝が水たまりに入ったらしく、みてきて気持ちが悪い。それも直ぐに濡れた体と同化して気にならなくなる。また走って、走って、走って。

信号に止められて。

こんな時でも信号に止まっている自分が嫌で嫌で仕方がなかった。そして長すぎてる信号の色が変わって、走って、走って、走って。

ようやく事務所に着いた。

ビルの横にある階段を駆け上がり、事務所の入口の扉を勢いよく開けた。


「みさき!!」


誰もいないのか、よく声が響いた。


「本当に申し訳ないことをしたよ。」

息は荒れ、膝に手を付きながら、半分自分に言い聞かせるように言った。

すると憲介の眼下に弥咲のピンクの肩掛けカバンが転がっているのが見えた。


「ここにいるのか?」


しかし、小さな事務所なのに見当たらない。

落ち着かなくなった心と反比例に呼吸が落ち着き、辺りに完全に雑音が無くなった時。

微かに水の音がした。


トイレか?いや、違う。

長い間使っていない風呂からだった。

この事務所に何故か最初から付いていた、1度も入ったことの無い風呂。

憲介は胸から飛び出そうなほど激しい心臓の拍動と体から抜け落ちそうなほどに重い心を抱えて風呂場までの短い距離を駆けた。

風呂場は再び沈黙だった。

しかし、曇りガラスの向こうには確かに人影がある。

「みさきか?そこにいるのは。」

憲介はおもむろに扉を開けた。

人影はあったが電気がなくてよく見えない。

何故かそいつは反応しない。

このとき憲介は恐怖を抱かなかった。

何故かそいつが敵ではないと思えていた。

憲介は手探りで風呂場の外にあるスイッチを押した。

暖色の光が影を人にした。


風呂場にいたのは弥咲だった。

いや、弥咲にして弥咲ではなかった。

女は服を着ていなかった。

裸体の女は浴槽に体を半分投げ出すような形でそこにおり、半分まで入れられた水に溺れんかと思うほどの距離に頭があった。

髪は水面に揺らぎ、皮肉に広がっていた。

一番男の心を震撼させたのは女の様子ではない。

水に浸された女の手首からぐわんぐわんと溢れ出る深紅の煙だった。

その光景は男に衝撃と奇妙な美しさを感じさせた。

その美は男の心をエグり、動きを止めた。

男の理性が動き出したのはそれから数秒後の事だった。女々しい声ならぬ声を漏らしながら倒れ込むように女の横に付いた。


女は微動していた。

男はそれに気づいた瞬間にやっと我に返った。

憲介は急いで弥咲を風呂場から運び、着ていた服で彼女の腕を強く縛った。

弥咲の手首の傷を見ると憲介の心は痛んだ。

何故か涙も出てきた。

救急車を呼ぼうと電話をかけたが声が震えすぎて何度も聞き返された。

目前の強風にさらされる健気な灯火を守るように、憲介は弥咲をぎゅっと抱きしめた。


気づけば憲介も意識を失っていた。






西畑敏三はこの日に死んだ。

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