第40話 涙

「あっ」

 そして、そこが連れて来られた奴隷たちの押し込められている部屋だと知る。ドアからさらに向こうに鉄格子があり、そこに襤褸を纏った男女がいた。全部で三十人はいるだろうか。

 毎月のように王朝が支給しているわけだが、意外と多くが残っていたようだ。しかし、その人々の顔は暗く、明日とも知れぬ運命を待つ囚人のそれでしかなかった。

「おっ、来たぞ」

「あの女、見た目は小娘だが吸血鬼とあって馬鹿力だよなあ」

「ああ、もう、次は俺でいいぞ」

 喋っているのは主に男たちだ。女たちは怯えた顔をして隅にいる。そんな状況を見つめていると、一人の男が呟いたようにドアが開いた。ランプを手に持ったマリーだ。喋っていた男たちも一斉に黙り、すすり泣く声だけが部屋の中に響く。

 マリーは淡々と牢屋のドアを開け、近くにいた男をひっつかんだ。それも、まるでパンを掴むかのような気軽さで。ラグランスはその様子を食い入るように見つめることしか出来ない。

「ひっ」

 どこかで上がる悲鳴。しかし、誰も助けない。マリーも表情を変えない。その異様な状況に、ラグランスは飲まれてしまう。

 マリーは何か言うこともなく、片手で牢屋を閉めると鍵をしっかりと掛け、捕まえた男の腹に蹴りを入れる。その流れるような動作は優雅ですらあった。男はうっと短い悲鳴だけを上げてぐったりと倒れる。吸血鬼の怪力で蹴られては、意識を失うのも早いだろう。

「まさか」

 これはマクスウェルが食事をするまでの一連の流れなのか。それを、どういうわけかラグランスは見物しているのか。マリーが動き出すと、ラグランスの身体は引っ張られるように動き出す。嫌だと思っても、マクスウェルが待つだろう場所へと引っ張られてしまう。

「これも、神の仕業か」

 必死にマクスウェルを倒すために特訓するラグランスに、吸血鬼としての所業を見せようとしているに違いない。しかし、ラグランスはもう二度と、あんな凄惨な現場を見たくなかった。

 人が殺されるだけでも不快感があるというのに、その血を啜り肉を食すのだ。そのおぞましさは、一度経験すれば骨の髄まで染み込んでいる。

「い、嫌だ」

 まるで自分が食べられてしまうかのように呟いてしまう。しかし、淡々と生け贄を運ぶマリーは止まらない。

 やがてじめじめとした地下を抜け、優美な居住空間へと入った。この空間の差もまた、嫌悪感を増長してしまう。とはいえ、ここは元々は別の貴族のものだったわけで、あの地下もマクスウェルが作った訳ではない。

「っつ」

 なんとか落ち着こうとしてそう考えたものの、気持ち悪さは変わらない。かつてあそこが何だったか知るよしもないが、これほどマクスウェルにお誂え向きな城があっていいのか。そんな気分になる。

「マクスウェル」

 友の名を呼んでみても、どうしようもない。やがて、マリーは食堂へと入っていった。続いてラグランスも入る。

「なっ」

 そこは普通の食堂とは違う、異様な空間だった。まず、テーブルがあるのは普通だが、そのテーブルには何も置かれていない。しかも、素材が大理石だった。そんな大きな大理石のテーブルが、食堂のど真ん中にでんっと中央に据えられている。まるで台所か実験室のようだなとラグランスは思う。

 さらに、そのテーブルには椅子が一脚もなかった。さらには食堂には他の調度品もない。床も大理石で、寒々とした印象を与えてくる。だから余計に、台所か実験室のように思ってしまうのだろう。入り口こそ食堂だったというのに、別の場所に紛れ込んでしまったかのようだ。

 マリーはそんな奇妙な空間に慣れた様子で男を運び込み、テーブルの上に無造作に男を置いた。これで準備は完了らしい。やがて、よろよろとした足取りでマクスウェルが食堂に入ってくる。

「マクスウェル」

 マクスウェルは五日前より明らかに窶れた印象があった。しかし、その窶れた印象は精神的なものから来るものであって、実際はますますその美しさに磨きが掛っているように見える。蠱惑的という言葉がぴったり似合う、そんな顔と雰囲気になっていた。

 魅入られそうになる。

 かつてゴルドンがそう言っていたが、なるほど、あの姿は魅入られるのも頷ける。ラグランスもこの異常な状況でなければ、その美しい顔に見惚れていたことだろう。そのまま抱きつき、キスをしていたかもしれない。まるで悪魔だ。そう、堕天して吸血鬼という存在になった彼は、ある意味で悪魔なのだ。

 やがてマクスウェルの目が金色に輝き、ぬっと口から牙が覗く。確かな足取りで男に近づくと、髪を掴んで柔らかな首筋を露わにさせる。

「うっ」

 ラグランスが呻いたと同時にマクスウェルは男に齧りついた。そしてじゅるじゅると音を立てて血を啜る。さらには続いて肉を食う音が続いた。じゅるじゅるくちゃくちゃ、その音が耳にこびり付く。

「ううっ」

 もし実体があったら吐いていたことだろう。しかし、夢の中なのか幽体離脱の結果なのか解らない今の状態では胃から逆流するものはない。だが、気持ち悪さは襲ってくる。

 食事の時間は十五分ほどだっただろうか。マクスウェルは男の身体を貪り食い、ほぼ骨が残るだけにしてしまった。

「マクスウェル」

 これが何度も繰り返される食事の風景。ラグランスの中に嫌悪感が一気に増大する。しかし、血塗れの顔を上げたマクスウェルが泣いていることに気づき、その嫌悪感は急速に萎んだ。やはり何度食べても、彼は人間を殺した罪悪感を背負っている。そしてまた繰り返してしまったと悔やんでいる。

「俺は」

「必要なことです」

 マクスウェルを慰めるのはマリーだ。ラグランスではない。そこまでを見届けて、ラグランスの意識は城から自らの身体へと舞い戻っていた。

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