干しっぱなしの洗濯物

タニオカ

干しっぱなしの洗濯物

 まだ少し明るい夏の夜。もう夏休みも半分終わってしまったという焦燥感が漂う夏期講習真っ只中の塾の教室に私たち高校2年生達がいた。カツカツとチョークが黒板とぶつかる音を響かせながら、中年男性の講師が先日行われた模擬試験の解法のポイントを説明している。窓際の1番後ろの席に陣取った私も、皆に倣い、赤ペンやら緑ペンを駆使してノートへ黒板を写していく。書き損じないように、懸命に視線を黒板とノート間で往復させていると、視界の端にひらひらと揺れる物が写った。ふと手を止め、窓の外に目を向け、風でたなびくそれを見遣る。


 ——また、だ。


 視線の先には、塾と隣り合って建てられているアパート。2階の教室にいる私から見ると、同じ2階と言ってもアパートの方が少し低く、こちらからはちょっと見下ろす感じになる。

 アパートの部屋のほとんどは、外からの視線を避けるために、カーテンが引かれ、窓はそれぞれカラフルに淡く光を透かしていた。明かりがないのは全8部屋のうちの2部屋だけだった。その明かりの付いていない部屋の片方のベランダで洗濯物が風に揺れていた。

 それ自体は別に珍しくもなんともない。

 Tシャツ、くるぶし丈のソックス、スキニージーンズ、Vネックの半袖肌着、トランクスとバスタオル。黒色で統一された洗濯物達は、暮れていく日に混じり合って、もうじき見えなくなるだろう。


 ——また、干しっぱなし。


 そう、干しっぱなしなのだ。

 私は普段、塾には通ってはいない。

 ここの夏期講習を友人が受けるという話を、うっかり親にしたら『せっかくだからあんたも受けておきなさい。来年から受験生なんだから』と完全なるヤブヘビをしてしまい、今ここにいる。

 あの洗濯物に気がついたのは、さほど行きたくもないのに何故だか、やたらと早く到着してしまった夏期講習の初日のことだ。慣れない教室で友人の到着を今か今かと待ち焦がれて、キョロキョロと辺りを見渡した時に、私は初めてそれを視界に捉えた。


 ——うわぁ……全部、真っ黒だ。


 夏の日差しの中、アパートの他の部屋に干された洗濯物達は、白やら青やら緑やら、いろいろな色が混在しているにもかかわらず、くだんの部屋の洗濯物は全て黒色だった。それ故に目を引いたのだが、友人に名前を呼ばれたので、その日は色に関する感想を持っただけだった。

 夏期講習、2日目。

 この日は電車の時間を合わせることに成功し、友人と共に程よい時間に到着することができた。退屈な授業を受け終わり、窓の外を見て伸びをすると、また黒の一団が見えたのだ。その日は洗濯物はそれほど気にしなかったように思う。

 しかし、3日目、4日目とその黒い洗濯物達はずっとそこにいた。5日目になると洗濯物の順番にも変化がないことに気がついた。ここまでくると、普段鈍いと評される私も流石に気になり始めた。その日から意識的に洗濯物の様子を確認するようになり、気がつけばもう2週間。

 黒い布達が干されたままになっている理由をあれこれ想像しながら、洗濯物が風と戯れる様をぼんやりと眺めていると、黒板消しクリーナーのモーター音が突然耳に届いた。慌てて黒板を見ると、書き取るべき文字達はすでに消されてしまっていた。



 ▽▽▽



「ふーん、謎の洗濯物ねー」

「そうなの。毎日おんなじ洗濯物が干してあるんだよ。絶対、取り込んでないと思う」

 塾の授業が終わり、帰りの電車が来るまでの間、友人とカフェで駄弁るのが最近の流れなので、今日も例に漏れずに、そのルーティンをこなす。

「どうだかねー。私たちが塾にいない間に取り込んでるんじゃないの?てか、そんなことに気ぃ取られてノート取り損ねるとか……」

 そう私は今、友人のノートを写している真っ最中だった。

「そこは、マヌケだったと思うけど……でも、気にならない?」

「ならない!」

「えぇー、だって、昼間の授業の時も、夜の授業の時も、同じ洗濯物が同じ順番で、毎日同じように干してあるんだよ!雨の日も、風の日も!」

 熱弁する私を冷めた目で見つめる友人。流石にちょっと力説し過ぎたかもしれない。若干引かれている。

「干してる人が几帳面なミニマリストなんじゃないの? それなら毎日同じ服着てても変じゃないし、干す順番も決めてたりするんじゃない? 雨の日に干してるのはナンセンスだけど、屋根があるなら、まぁ、ありなんじゃないの? 部屋干ししたがらない人もいるし、古そうなアパートだから浴室乾燥の機能とかも無さそうだし?」

 疑問符だらけながらも、一応は筋が通る彼女の推理。

「なるほどねー。流石、我が校の首席!」

「変なこと言ってないで、さっさと写して!電車きちゃうよ!」

 少し頬を赤らめた彼女は、慌てて残ったフラッペチーノを吸い込んでむせていた。

 私はというと、洗濯物のことは頭の隅に追いやって、慌ててノートを写す作業に没頭した。だから、呼吸を整え終えた彼女がもう一つ推理を披露したのに気がつかなかった。


「もしかしたら部屋の住人が亡くなってたりしてね……」



 ▽▽▽



 ——また、干してある……。


 次の日。今日は午後から夕方までの授業の日だ。

 私はこの夏期講習が始まってからというもの、毎日この洗濯物を見ている。洗濯物が毎日干してあるというのは、当たり前の事にも関わらず、なぜここまで気になるのだろうか。

 講師が『ここがポイントですよ!』と赤く引いた二重線の部分をノートに赤ペンで書き写し、黄色の蛍光ペンでなぞる。インクの乾きが悪かったのか、黄色の中に赤がぼんやりと滲んで気味の悪いオレンジ色になっていた。見やすいノートを作るのに躍起になっていた私は、その汚点がどうにも許せずに授業に対するやる気をなくし、ため息をつきながらペンを置いた。

 頬杖をついて、また洗濯物の観察に戻る。真夏の暑い日差しに、黒い洗濯物が燦々さんさんと照らされている。初めて見た時よりも少し色あせたように感じるのは、気のせいだろうか。本当に干しっぱなしだとすれば、ずっと日に当たっているせいで、紫外線による劣化が進んだのではないだろうか。干しっぱなしにしている理由は……。

 そのとき、突然アパートのベランダに人が現れた。部屋の掃き出し窓から洗濯物が干されているベランダへ1人の女性が出てきたのだ。その女性は、腰の辺りまである長い黒髪を揺らしながら、黒い洗濯物達を手際良くハンガーから外し、カゴへたたみながら取り込んでいくと、すぐにベランダから部屋へと戻っていった。


 呆気なかった。

 私のここ2週間ほどの疑問はものの数分で、見ず知らずの女性に連れて行かれてしまった。

 つまりは昨日の友人の推理が当たっていたわけだ。

 私が干したままになっていると思っていた洗濯物は、きっと今までも私が見ていない間に洗濯物の持ち主となんらかの関係がある、あの女性によってか、持ち主本人に取り込まれていたのだ。


 ——なぁーんだ。つまんないの……。


 だったら、どうだったら面白かったのだろうかと自問自答して、何も答えが出なかった。

 現実なんてこんなものだろう。突然、身近で事件が起きたり、不思議なことに遭遇するなんて一生のうちに片手で数えられるくらいなのだろう。

 気を取り直して黒板に向かうと、またもや書き取るべき文字達は、消し去られていた。



 ▽▽▽



「ほら、やっぱりね!」

「さすが、主席様の頭脳はすごいですなぁ」

 性懲りもなくノートを写させてもらっているので、彼女の事を懸命によいしょしながら、今日見た事を話すと、友人は推理が的中したため鼻高々だった。

 彼女は褒められて悪い気はしないようで、上機嫌でクッキーをサクサクかじっていた。

「なんか事件の匂いがした気がしたのになー」

「そんなこと滅多にないでしょ」

「そうかもだけど……」

 退屈な夏期講習の最中に現れた不思議な光景が、ただの日常の一部に成り下がったことが惜しくて、なんとなく食い下がってしまうが、きっとあれはなんでもなかったのだ。

 私はさっさとノートを写し終え、アイスティーを飲み干した。

「さてさて、そろそろ帰りますかー」

「はいよー。明日からもう洗濯物のことなんか忘れてちゃんと授業受けるんだよ!」

「ハイハイ、わかりましたよー」

 私たちはトレイを片付け、カフェを後にする。扉を通り抜けた瞬間に、エアコンの涼しい風で冷やされた身体に夏のジメジメとした熱気が一気にまとわりついてくる。

まだ沈まない太陽の日差しを手で遮りながら

駅へ向かう。途中、横断歩道で信号待ちを強いられ、暑さに文句を言い合っている私たちの後ろのビルの壁面に設置された巨大なモニターの中で、ニュースキャスターがとある事件を伝えていた。


『本日、都内のアパートの一室で成人男性が亡くなっているのが発見されました。遺体は男性の部屋のスーツケースの中から発見され、死後2週間ほど経過しているとのことです。男性の身体には複数の刺し傷があり大量失血によるショックで亡くなったとの事です。警察の捜査によると、交際相手だった女が容疑者としてすでに身柄を拘束されているとのことです。女は男性を殺害後も男性が生存しているように見せかけるために、新聞を回収するなど、さまざまな工作をしていたようです。警察は引き続き、殺害理由や凶器の行方など捜査を続けていくとのことです。では、次のニュースです……』


 私たちはそんなことには全く気が付かず、日常の退屈さを抱えながら、ただただ目の前のLEDの色が変わるのを今か今かと待っていた。


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