第5話 愛妻弁当(四日目)

 火曜日の朝——。上空を見上げると、青天井。天気予報によると、一点の曇りもない晴れらしい。

 今日の時間割は最悪だ。朝一発目にキャリア形成の講義が入っている。この講義はグループワークが基本で、頭をフル回転させないといけない。自分のコミュ力は中の上ぐらいだと自負しているが、眠気がある状態だと話は別だ。朝は全く言葉出てこない。

 重い体を引きずって、バスに乗車。乗客はまだ少なく、後席がガラ空きだった。

 「——ハァ」

 深いため息とともに、力なく腰を下ろす。カバンから講義で必要になるプリント数枚を取り出し、目を通す。

 前回は『目的』と『目標』の違いを考えたうえで、自分のコミュニケーション力を向上させるには何が必要なのかグループワークで話し合った。

 ハッキリ言ってクソどうでもいい。そもそも、今の俺には『目的』も『目標』もない。そんなものは高校時代に捨ててきた。『目的』も『目標』もない生ける屍にとって将来を見据えた講義は本当に退屈だ。吐き気がする。

 「おはよう、優クン」

 「ああ、おはよう。モネさん」

 心底つまらなそうにプリントと睨めっこしていると、視界の端にモネさんの顔が映る。相変わらず、笑顔が可愛い。ホント、癒される。

 「それって、キャリア形成の講義プリントだよね」

 俺の隣に座り、興味津々でプリントを覗く。モネさんが動く度に柔軟剤とシャンプーのいい匂いが交互に鼻孔をくすぐる。香りが完全に俺好みで脳が溶けそう。

 「モネさんも今、この講義受けてるの?」

 「ううん。私は去年の前期に受けた。この講義ホント面倒くさいよねぇ。なんか、周りの人が意識高い系ばっかで途中から行かなくなっちゃったなぁ~」

 「自分もそうしたいけど、単位が足りなくなる……」

 「ドンマイ!」

 元気よく背中をポンポン叩かれた。てか、貴方もどこかのタイミングで再履修しないといけないのでは?

 「でも、講義前に予習とか偉いね。ケッコー真面目さん?」

 「いや、全然。この講義は単位が落ちやすいから勉強してるだけ。だいたい真面目さんなら、3回生にもなって単位が足りないとか言わないだろ?」

 「うふふ。そうだね」

 モネさんと会話していると殺伐とした心が和む。グループワークでこういうほわほわした子が一人でもいると、気が楽になるのだが。

 「私がいなくてガッカリした?」

 「え?」

 「そんな顔してるよ」

 「私にはなんでもお見通しだよ」と俺の頬を優しく突き、少しからかうように笑う。

 胸のキュンキュンが止まらない。もう、惚れてもいいよね?

 『——××大学行き、××大学行き~。まもなく、発車します。揺れにご注意ください』

 乗客が異常に少ない。前席に2、3人いる程度。みんな、どうした? サボり?

 「今日は人少ないね」

 「うん」

 「エッチなことする? なんちゃっ——」

 「しない」

 「即答!しかも食い気味!!全く動揺してない⁉」

 「さすがにその冗談は通用しない」

 「ありゃりゃ……」

 ふと、窓の外に視線を移す。辺りは薄紅色に染まる満開の桜。桜の木の下には、若者のカップルがチラホラ。みんな、楽しくお花見かな。ブルーシートを敷いて、その上に弁当らしきものを並べている。ウィンナーやトマト、おにぎりなど色んなおかずが詰められていて、食欲がそそる。

 「いいな、楽しそう。私も混ぜて欲しい」

 「あそこはカップルの聖域。後日、自分の彼氏と行けば?」

 「ええ~、どうせなら優クンと2人でお花見したいよぉ」

 「そんなこと言ったら、彼氏さんが悲しむぞ」

 モネさんはカップルたちの幸せそうな姿に目を輝かせる。

 「——私もあんな風に楽しみたいな……」

 ボソッとそう呟いたのを俺は聞き逃さなかった。窓の外を見て微笑むモネさんの姿は、どことなく悲壮感を感じる。

 「ねぇ、ねぇ?」

 「うん?」

 モネさんが突然、こちらを振り向く。

 「私、料理するのがメッチャ得意なんだ」

 「で?」

 ゴソゴソと自分のカバンの中を漁り始める。

 関係ない話だが、彼女のカバンについてるキーホルダーがとても可愛い。さっきから目がまん丸な茶色いクマさんと目が合う。高校時代、今は亡き彼女にプレゼントしたキーホルダーとよく酷似している。

 「ここに今、お弁当があります」

 「ハイ」

 バッグの中から出てきたものは可憐に彩られた花柄の弁当箱。蓋をパカっと半開きにして、こちらに見せてくる。中身は暗くて全く見えない。

 まさか、ブルーシートの上に置かれていたあの弁当に感化されたのか。

 「これ全部手作り」

 「うん」

 「試食してみない?」

 「ここで?」

 「イエス」

 「いや、車内はダメだろ」

 「ノーは言わせないよ。アーン♡」

 「うぐっ⁉」

 「うふふ……」

 ニヒルに笑うモネさんは素早く箸を取り出し、弁当箱に詰められたおかずをつまむ。そして、目に見えない速さで俺の口の中にそのおかずをねじ込んできた。おかずの正体は不明。取り敢えず、咀嚼することに。

 「——」

 「味はどう?」

 「——」

 「美味しいでしょ?」

 「——」

 「どんどん食べていいから」

 「——」

 「もしかしてマズかった?」

 「——」

 「なんか反応して!」

 モネさんが焦り始めるが、完全に無視。一言も発さず、ゆっくり咀嚼する。咀嚼回数は郷ひ○みと同じ計30回。じわじわとレモン特有の酸味と鶏肉の旨味が口の中で広がる。

 「——これって、レモン汁のから揚げ」

 「ピンポンピンポン! 大正解‼ やっと反応してくれた‼」

 俺が昔、大好物だった料理。元カノによく作ってもらった思い出の料理。味があの時とほとんど同じだ。懐かしさのあまり眉尻に涙を浮かべる。

 「美味しい——。めちゃくちゃ美味しい‼」

 「ホント?」

 「もっと食べたい」

 「どうぞ、どんどん召し上がれ」

 路線バスでの飲食が禁止なのは重々承知だが、今は関係ない。口の中に次々とから揚げが運ばれる。

 「ついでに玉子焼きも食べる?」

 俺は反射的に首を縦に振る。エサを貰う魚のごとく口を開ける。

 「玉子焼きも旨っ⁉」

 「ふふん。長年、花嫁修行した甲斐があった」

 上手にふっくらと焼きあがっていて食感が最高。ふんわりと砂糖の風味があってとても美味しい。

 エッヘン、とモネさんは自慢げに胸を張る。

 これは人に自慢してもいいレベル。もし、彼女が自分の飲食店を開業するならその店の常連客となるだろう。

 「もっと食べて、食べて♪」

 「おう!」

 とっくに試食の域を超えている。びっしり詰められていたはずのおかず達は瞬く間に空っぽになる。とうとう、モネさんの分の昼ご飯がなくなってしまった。

 「あら、口元にご飯粒ついてるよ」

 「え、どこ?」

 「ここ♡」

 モネさんは俺の唇を人差し指でソフトタッチ。彼女は人差し指についたご飯粒をそのまま、ぺろり。なんの躊躇もなく、胃の中に入れてしまった。

 俺の心臓はキュンを超えてバクバクだ。真っ赤になった顔をごまかすため、慌てて彼女から視線を逸らす。

「ゴメン、全部食べちゃって」

「気にしないで。食堂でなんか買うから」

 完食されたくせにモネさんは妙に嬉しそうだ。鼻歌を口ずさみながら、空になった弁当箱を仕舞う。

 『——次は××大学、××大学~。終点です』

 お腹が膨れて、睡魔が襲う。一限目の講義がもうすぐだというのに。

 自分の顔を両手で叩き、気合いを入れ直す。

 「ねぇ、ねぇ?」

 「ん?」

 ちょんちょんと肩を叩かれた。横を見ると、上目遣いでこちらを見詰めるモネさんが視界に入る。

 「また、お弁当食べてくれる?」

 顔の距離が近い、近い‼ モネさんの息遣いが間近で聞こえる。潤んだ瞳が何かを訴えかける。

 「——いいけど、できれば今度はバスじゃない違う場所で食べたいな」

 「うん‼」

 俺の言葉を聞くなり、パッと明るい笑顔が戻る。感情が表に出やすく、まるで純粋無垢な子どものようだ。

 「またね、優クン!」

 「あ、ちょっ……」

 モネさんと一緒にバスを降りようとしたが、間に合わず。大学に着くや否や、彼女は早々に席を離れ、足早に車内から立ち去ってしまった。

 何故かモネさんはいつも、俺と一緒にバスを降りたがらない。確実に仲が深まっているのに、これだけが謎だ——。

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