第43話

 早朝、階下ではすでに人の動く気配がしていた。まだ眠っているフウカを起こさないように身支度を終えると、部屋の扉が叩かれる。



「私。もう起きとる?」



 アカネさんの声だった。起きてます、と返事をすれば、白衣に身を包んだアカネさんが入ってくる。俺以外の人の気配に気が付いたのか、背後でフウカも体を起こした。



「実働部隊がそろそろ出るから、ミクニもとりあえず出れるようにはしといて。フウカもね」



 アカネさんは俺の背後でこちらを伺っているフウカにも視線を向ける。そして大規模な作戦前とは思えないほど朗らかな笑顔のまま、部屋を出て行った。研究職というのはどうも、得体のしれないものを前にするとわくわくするのかもしれない。



 あれから窓は開けていない。あの黒災がさらに大きくなっていて、もっとくっきり見えたらどうしようと思うと恐ろしかったからだ。眠そうに目を擦っているフウカの隣に腰かける。古いベッドがギィときしんだ。



「頭は痛くないか」



「うん、大丈夫」



 こちらに来てから、フウカが母親の声に苦しんでいる様子は見られなかった。自分の呼ぶ声に応えてここに来たから、もうかける言葉はないということなのだろうか。


 数十分ほど部屋で待っていると、黒い制服を着た隊員に声をかけられた。下に下りると人が随分減っていて、俺らと同じ後方支援の人間だけが残っている。


 その中に、おぼろげだが見覚えのある顔を見つけた。



「……ミオ?」



 どこかシグレと似た影がある横顔をハッと上げ、ミオはこちらに振り向いた。それからサッと敬礼する。



「おはようございます、ミクニ隊長」



「隊長はやめてくれ。それに、今はお前が隊長なんだろう?」



 俺は苦笑しながらそう言ったが、ミオは大真面目な顔をして腕を下ろした。



「いえ、いつまでも私の中で隊長と言えば、ミクニ隊長ですから」



 ミオは、俺の部隊の新人だった。一緒にいたのは1年にも満たなかったはずなのに、そんな風に覚えてくれていること自体は嬉しい。だが俺よりも出世した彼女にそんな扱いを受けるのはなんだかむず痒かった。



「そうか。……まあ、今回はお前の方が大役だな」



 そう言うと、ミオは眉を下げて口元にだけ笑みを浮かべる。なんだか戸惑っているような、そんな表情だった。



「ええ、まさか自分が司令塔を任されると思わずに驚きました。てっきりシノ代表が指揮を務めるものだと思っていましたから」



 その言葉に俺も頷く。シノ代表は一体どこにいるのか、ここに来てから出会っていない。



「そういえば、シグレがお前によろしく伝えてくれと言ってた。もう随分会ってないんだろう?」



 そう聞くと、ミオは複雑そうな顔をして目を伏せた。シグレもあまり家族の話をしたがらないから何かあるのだろうとは思っていたが、それ以上は何も聞けずに押し黙る。



「……その子が、あの、例の……ですか?」



 沈黙に耐えかねてか、ミオはフウカへと目を向けた。つまらなさそうに俺の横に立っていたフウカは突然自分が話題に上がって驚いたような顔をしている。



「ああ、そうだ」



「ほんと、普通の女の子に見えますね……」



 ミオのフウカを見る目つきは、シグレのそれとそっくりだった。ミオはまだ何か言いたそうにしていたが、隊員に呼ばれてそちらの方に駆けていく。


 曇りガラスの向こう側は、随分明るくなっていた。俺らも出る時間になり、他の隊員から少し離れて、その後ろをついていく。


 目標の黒災は、すぐに目に飛び込んできた。何メートルあるかわからないそれが、広大な北海道の大地にそびえたっている。先に着いていた実働部隊のところまで近づくと、目の前に迫った黒災に背中を何か冷たいものが走る。


 他の隊員たちも表立って口には出さないが、困惑しているのが伝わってきた。


 そんな中、フウカだけがまっすぐに、どこか悲しそうな目で黒災を見つめている。彼女が今何を考えているのか聞くことはできずに、ただぎゅっと小さな手を握った。


 そして、作戦開始の合図が鳴った。

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