第5話

 暗い暗い闇の中、遠くに小さな子供の背中が見える。子供は母親を呼んでいて、その声がくぐもったように聞こえた。


 子供が走り去っていく。その背中を追いかけたいのに体が動かない。深い水の中へ沈められていくようだった。


 息が苦しい。口の端から空気が漏れて、気泡が視界の隅に消えていく。


 手を伸ばした。自分の手が見えなかった。



「ママ」



 耳元で声がして、思わず体がはねた。その衝撃でどこかから転げ落ち、世界が反転する。


 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。目の前がちかちかする。軽く頭を振ると、そこは応接室で、目の前ではバケツ頭が俺の顔を覗き込んでいた。



「うわっ」



 驚いて後ずさる。そいつはまだじっとこちらを見ていた。


 そうだ、昨日ここに残って、ソファに座ったらそのまま眠ってしまったんだ。窓からは朝日が差し込んでいる。夕飯も食べずに随分眠り込んでしまったらしい。



「ママ……」



 目の前のそいつは、また寂し気にそうつぶやいた。異形のくせに、ただ親と離れて悲しむ子供のようにしか見えない。



「俺はママじゃない」



 うっかり芽生えてしまいそうな情を胸の奥に押し込み、応接室を出る。鍵はかけなくてもいいだろう。頭をかきながら事務所へと入れば、すでにシグレがパソコンの前に座っていた。



「……シグレ、はやいな」



 よほど集中していたのか、俺が声をかけるとシグレは驚いて椅子から飛びあがった。ちらりと視線を向けた時計は8時前をさしている。



「お、おはようございます、隊長」



「おはようシグレ、お前何時からここにいるんだ?」



「いや、でも、その、さっき来たばっかりです」



 シグレは椅子に座りなおし、怒られた子供のようにしゅんとしている。始末書やらあいつのことが気になって居てもたってもいられなかったことは想像に容易かったから、それ以上は何も言わないことにした。



「始末書、出来たら見せな」



「あ……はい!」



 俺も報告書を進めなければ。黒災の発生経緯までは記せたが、あのバケツ頭のことをどう書けばいいか悩み、キーボードの上で手が止まる。


 もうアカネさんに確認してもらって、ダメだったら書き直せばいい。そう思い、簡潔にあいつのことをしたためていると、シグレからできました、と声がかかった。


 隣の彼女のパソコンを覗き込み、一通りチェックする。問題ない、と頷けば、シグレは安心したように笑った。


 すっと彼女の席から離れると、事務所の扉が開く音が聞こえた。ゴウかナオヤだろうと反射的に振り向けば、そこにいたのはバケツ頭だった。



「お前、なんで」



 俺が立ち上がるよりも前に、シグレがそいつへと駆け寄る。まるで子供をあやすように、どうしたの、なんて声をかけていた。



「この子、応接室に連れて行った方がいいですか?」



「……ああ、そうしてくれ。あと、鍵かけといてくれ。出てこないと思ってた、俺が甘かったよ」



 シグレは頷くと、バケツ頭の手を引いて廊下へ出て行く。数分後戻ってきたシグレに、なあ、と声をかけた。



「お前は、あいつのこと怖くないのか?」



 シグレは一瞬きょとんとして、微かに首を横に振る。



「最初は、びっくりしましたけど……。でも、可哀想じゃないですか」



 そう言う彼女の目は真剣だった。あまり感情移入するなとも言いづらく、どうしたもんかと頬をかく。頭には、彼女とは正反対な態度をとるナオヤの姿が浮かんでいた。


 こいつらを足して2で割れればいいのに。そう思っていると、事務所の扉から今度はナオヤが入ってきた。



「……おはようございます」



 あきらかにむすっとしていて、不機嫌さが全身から滲み出していた。シグレは視線を一瞬俺に向けて、なんだか申し訳なさそうな顔をする。


 空気が重くて、俺は逃げるように窓を開けた。外からは残酷なほど爽やかな風が吹き込んでくる。机に置きっぱなしだった書類がパタパタとはためくのが聞こえた。


 10数分待っているとゴウも事務所に入ってきて、始業を告げるチャイムが鳴った。たった4人しかいない事務所で、今日も朝礼が始まる。

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