第42話 朱夏佳人
カウンターに肘を突いて、ちょいちょいと手招き。
ついでポケットから取り出したお馴染みの銘柄のタバコをヒラヒラさせる。
私は餌を待つ犬猫じゃないっつーの!!!!
盛大に噛みつきたい気持ちを持て余しながら、佳織は自社ビルの裏手へと続く狭い通路の砂利をヒールの爪先で蹴りつける。
そんな妻の苛立った様子にも顔色一つ変えずに、美味しそうにタバコをふかしながら紘平がにやりと笑った。
「息抜きになっただろ?」
お前の好きなコーヒーも買ってやったし。とついでのように付け加えられて、佳織は眉を吊り上げた。
「コーヒーは自席で飲めるから!」
「そう喚くなって。眉間のしーわ」
風下に立ったままタバコを持ち替えた紘平が、無造作に手を伸ばす。
行き着く先は斜め前髪で隠れた佳織の眉間だ。
親指でぐりぐりと揉みほぐす。
「・・・・っふんっ」
定時は回っているし、休憩は業務に支障のない限りいつどこで取っても自由だ。
それでも、どうして毎回こう絶妙過ぎるタイミングでやってくるのかこの男は・・・
回されて来た書類との格闘が終わらなくてイライラがそろそろ限界に差し掛かる所だったのだ。
金曜だし、若い後輩たちはいつもよりもお洒落に気を配ってそわそわしながら定時を待ち構えていた。
他部署との合コンがある事は、亜季から回って来た情報で知っている。
プライベートも仕事も両立してね、とは言いながらも、やっぱりプライベートのイザコザとくに恋愛事で鬱屈してしまう女の子の気持ちも理解できる。
ましてや気になる相手が来る合コンとなれば猶更だ。
それなりに甘い恋も苦い恋も経験して来て、今の自分がいる。
手鏡で化粧直しした顔を確認する女子たちを見て、若いなぁ、とどこか遠い気持ちになったりもする。
熱くて苦しくて不安と安心が交互にやってくる片思い特有の感情の波線に振り回されていた頃とは比べ物にならない程、穏やかで安定した日々。
の筈なのに・・・未だに紘平に負けたような気持ちになる事が多々ある。
結婚したにも関わらず、だ。
誰かの掌で踊らされるなんて、一生あるわけがないと思っていたのに。
認めたくないけれど、こういう不意打ちをされるとそう思わずにはいられない。
狭いビルの隙間は日が当たらないので真夏の盛りでも涼しい。
定時を過ぎて6時を回る頃には、爽やかなビル風が吹き抜ける。
よく冷えたミルクコーヒーの甘さに浸っているとじわじわと自分の心の蟠りが解けていくのが分かった。
紘平の吐きだす紫煙の行方をぼんやりと眺めていると、紘平の指先が手首を掴んだ。
労わるように手の甲を撫でて、首を僅かに傾けて佳織の表情を確かめる。
けれど、何も口にしない。
砂利に食い込むヒールのせいで、足元が危ういから、と自分の中で言い訳をひとつして、その指先をそっと握り返す。
爪の先を撫でた乾いた指の腹が薬指をなぞった。
結婚指輪の嵌められた左手だ。
何度も指輪の淵を辿った指先に力が込められた。
指先を絡めながら軽く引かれる。
見ると、反対の手にあったタバコは灰皿に押し付けられていた。
空になった手が背中に回されると同時に、タバコの匂いの残るスーツが目の前に迫った。
紺のスーツだ。
甘えたい気持ちが勝ってそのまま頬を預けようとしたが、思いとどまった。
「待って・・・化粧が付く・・」
午後の仕事前に軽く叩いたブレストパウダーの色が移ると困る。
紘平はこの後、営業部の飲み会に参加する予定になっていた。
胸に手を突いた佳織を腕に囲い込んで、紘平がああ、と思い出したように言った。
それから、背中に回していた手を離して、ひとつだけ留めていたスーツのボタンを外す。
胸元を広げると、もう一度佳織を見下ろした。
「ほら、来いよ。上着脱がねぇから」
「・・・」
いつもの佳織なら、でも、と言い募ったところだが、程ほどに溜まった疲れとストレスが、振り切る強がりを勝った。
おずおずとワイシャツの肩に頬を押し当てる。
耳元で紘平がくすりと笑った。
再び背中に腕が回されて、そこで漸く大きく息を吐く事が出来た。
「結構・・参ってた・・の、かも・・」
ぽつりと漏らした弱音と本音に、紘平が額にキスを落とす。
「んー・・まあ、金曜だしな」
ぽんぽんと背中を叩かれて、どんどん身体の力が抜けていくのを感じた。
とことん佳織の甘やかしどころを分かっている男だ。
「今日は最後まで抜けれそうにない。先に寝とけよ。んで、明日は俺が起きるまでベッドに居る事な」
「・・後のは余計な注文だと思うけど?」
「いたって一般的な妻への注文だろうが」
肩を竦めた紘平が、軽く佳織に触れた。
僅かにタバコの香りの残る、いつもの優しいキスだ。
あくまで息抜きの、節度を保ったキスの後、紘平の腕を抜け出した佳織は、火照った頬をどうにか収めようと狭い通りを歩き始めた。
いつも裏口から出入りするので、ここからエントランスへ向かう事はまずない。
社員入口は裏手にあるが、駅に面したエントランスを通る社員が殆どなので、紘平と一緒の所に出くわすと、色々と面倒くさいからだ。
少し温くなったミルクコーヒーのストローを咥えながら、何気なくエントランスに視線を向けて、佳織は悲鳴を上げた。
「ひっ!?」
「なんだ?虫でもいたか?」
佳織の悲鳴に紘平が後ろからやって来る。
「あ、ああ亜季がお、男の人に抱き着いてる!」
「っは?旦那だろ?」
「違うわよ!」
「ほんとだ・・何やってんだあいつ」
紘平の声が険しくなる。
本社のエントランス前でしかも帰宅ラッシュの時間帯。
あの亜季がこんな暴挙に出るなんて思えない。
「あの男誰だ?兄弟か?」
「そんな訳ないでしょ!私の知る限り元彼でもないわよ!」
「え・・待てよじゃあ」
「あるわけないでしょ!亜季が不倫とか死んだってあり得ない!」
噛みつくように言い返した佳織に、紘平がわかってるわかってると降参ポーズで訴える。
それにしたって何がどうなっているのか全く分からない。
身を乗り出す二人の前で、亜季がイケメンのサングラスを手ずから外した。
現れた涼し気な切れ長の目元が印象的な美人に、佳織が思わず息を飲む。
「やだ!すっごいイケメン!!」
「馬鹿、よく見ろ女だよ、あれ。タッパもあるけど胸もある」
紘平の言葉に、改めて亜季と向かい合う細身の人物を見つめると、白いシャツの胸元が確かに綺麗に膨らんでいるのが見えた。
というか、そこに目が行く紘平に苛立ちを覚えた。
胸なんて脂肪の塊なんだから!あっても重たいだけなんだから!
と胸の中で念仏のように唱えてみる。
「え・・・あーほんとだ・・なんだー宝塚ばりのイケメン女子かー。っていうか、胸ねー。はいはい、私は胸は無いですよー。必死に寄せて上げてますよー。悪かったわね!」
ふんっと顔を背けた佳織を後ろから抱きしめて、紘平が頬を寄せる。
佳織が逃げられない絶妙な力加減なのがまた腹立たしい。
「待てよ、勝手に拗ねて怒るなよ。俺はお前の胸に関しては何も言ってねぇだろ。俺はお前で満足してる」
耳たぶを甘噛みされてびくりと肩が震えた。
「ば、ばっかじゃないの!?そんな事言い切られたって知らないわよ!」
「何なら今からデカくなるか試してみるか?」
「本気で殴るわよ!?」
凄みを聞かせて言い返した佳織の冷やかな目線にも悪びれずに、ひょいと肩を竦めた紘平が、エントランス前に視線を戻して声を上げた。
「おい、旦那が乱入したぞ」
「へ!?丹羽さん!?うそ・・・やだ!ほんとにいる!えええなにこの修羅場もどき!」
「いや、相手は女なんだから誤解が解けたら修羅場になんかなんねーだろ」
「そんなの分かんないわよ?あれだけの美人だもの、そういう嗜好の人も・・ほら、いるとかいうじゃない?
そもそも亜季を馬鹿みたいに溺愛してる丹羽さんが、黙って見過ごすとは思えないし。
だって見てよ、道行く人がみんな振り返ってる・・・あんなカッコイイ人いるのねー。
生まれて来た性別間違えちゃったのかしらね・・・」
亜季に向かって笑いかける表情なんて、もう完璧に王子様そのものだ。
後でどういう知り合いか問い詰めてやろうと心に決めた佳織の背後で、紘平が不穏な声を上げた。
肩に回されていた腕が腹に回ってぐいと後ろに引かれる。
「へー・・・なに、お前ああいう中性的な顔が好みなのか?」
体重をかけて佳織を抱きしめる腕に力を込めた紘平が下したままの髪を鼻先で避けるようにして首筋を探り当てた。
「そ、そんな話してないし!だれがどう見たってイケメンだって・・ひゃ・・っなにすんの!」
器用に唇で髪を退かせた項に吸い付かれて、佳織が悲鳴を上げる。
けれど抱きしめる紘平の力は一向に緩まない。
おまけとばかりにぞろりと首筋を舐め上げた。
「こ、紘平っ!」
「なんだよ・・声、上擦ってるけど?」
「~~っ!!さっさと飲み会でもなんでも行きなさいよ!」
「おっまえ・・この状況でそういう事言うのか?」
呆れた声に続いて、耳たぶに歯が軽く立てられた。
「きゃっ」
肩を押さえる手で髪を肩がわに寄せると、紘平が白い肌に頬を寄せた。
「さっきので我慢してやろうと思ったのに・・」
呟きが耳に届いた次の瞬間、耳たぶの真下に唇が押し付けられた。
続いてちゅうっという艶めかしいリップ音が響く。
間違いなく痕を残すためのキスだ。
身動ぎする佳織を腕に収めて、紘平は遠慮なく柔肌にキスマークを残した。
ビター・スイーツ 宇月朋花 @tomokauduki
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