志筑しづき鈴音が父の家に引き取られ武菱鈴音になってからまだそれほど経たない頃、父に連れられて行った父の友人の家――そこに彼はいた。


 背が高くて優しいお兄ちゃん、というのが第一印象だった。


 彼は、彼の妹と一緒になって遊んでくれた。たちまちに仲良くなった。

 元々一人っ子だったところに、できた腹違いのきょうだいは歳の離れた姉が三人。通う幼稚園の先生はみんな女性。父以外の歳上の男性というのは、鈴音にとってとても新鮮な存在だった。


 しばらくして、鈴音は父の知り合いがこぢんまりと開いている護身柔術の道場に行くようになった。母が「鈴音は女の子だし可愛いですからね」とすすめたのである。姉たちも以前から習っていたので、一緒に通った。


 そこにも、彼はいた。彼の妹もいた。


 稽古けいこの時間以外、バスや電車、親の迎えを待つ間などは、道場内で自由にしていても怒られなかったので、そういったときにも遊んでもらった。毎週火曜日と金曜日、高校生の彼と幼稚園児の鈴音が交流できる貴重な場であった。


 道場に通い始めてしばらく経った頃、彼は北海道土産でよく知られる木彫りの熊がモチーフのキーホルダーを鈴音にくれた。修学旅行のお土産だという。

 元々の木彫りの熊の無骨ぶこつさはなく、子ども受けがよさそうにキャラクター化されたものだった。しかもカラフルな木のビーズがあしらわれた可愛らしいデザインだったので、幼い鈴音はとても気に入った。幼子なりに、大事に大事に扱った。


 しかし、形あるものはいつか壊れるものだ。

 それは古くなったからとか、扱いが悪かったからとか、そういった因果とは全く関係なく、無情にも急に〝そのとき〟が訪れることがある。というより、こういうことは意外と多い。


 道着入れのバッグにぶら下げていたそれは、ある日の稽古が終わった直後に、突然バラバラになってしまった。


 最初はとにかくびっくりした。慌ててパーツを拾い集めた。

 集め終えてのひらに乗せたそれを呆然と見ていると、次に「どうして」という気持ちになった。もらってからまだ一ヶ月と少ししか経っていない。「どうして」。「何で」。考えているうちに、とても悲しい気持ちになって泣いてしまった。何しろお気に入りだったのだ。


 鈴音は実母の葬儀の際に泣かなかった。悲しくなかったわけではない。大人たちが目まぐるしく動いていて、その間に姉たちが相手をしてくれて、同時に、鈴音が武菱家の養子になる手続きも進んでいた。とにかくせわしなかった。全てが終わった頃に、ようやく「おかあさんはもういなくて、もうあえない」と何となく理解して、一回だけ泣いた。


 それ以来の涙であった。


 そんなだから、稽古を終え共に帰り支度をしていた三番目の姉が驚いたのは当然である。鈴音がそのキーホルダーを大切にしていたのを知っていたので、直せる道具がないか訊いてくるからと言い聞かせて急いでその場を離れた。一人になった鈴音は止まらない涙をぽろぽろ零しながら、さほど大きくはない道場のすみに小さくなって座っていた。


 そこへやってきたのが下校途中に道場に立ち寄った彼である。


 何という最悪のタイミングか。壊れてしまったのは彼にもらったキーホルダー、知られたら何を言われるだろう。

 隅に縮こまって泣いているのを気にしてか、彼は声を掛けてきた。鈴音は「なんでもない」と必死に隠そうとしたが、ビーズが一粒零れ落ち、それを拾おうとしてうっかり手を開いてしまった。パーツが全部落下し散らばった。絶望した。もうおしまいだ。


 ところが彼は、怒るどころか、


「あれまぁ」


 と困ったように一言発し、それ以上は何も言わず、表情も特に変えずに散乱しているキーホルダーのパーツを一つ残らず回収すると、着ていた学校指定のスポーツウェアの上着のポケットにそれらを突っ込んでから、代わりにとでもいうように自身の道着入れの袋にぶら下げていたものをはずして差し出した。



「壊れるようなのあげちゃってごめん。同じもんじゃないし新しくないけど、これと交換してもらっていいかな」



 鈴音の小さな手の上に置かれたのは、同じく木彫りの熊がモチーフの、チェーン付きの可愛らしいぬいぐるみだった。

 キーホルダーの樹脂製の熊も可愛かったが、丸みを帯びやわらかい素材のぬいぐるみに勝る愛らしさはない。どん底にあった鈴音の気持ちは一気に舞い上がった。


 後日、彼の妹が鈴音のバッグについているそのぬいぐるみを見ると、「おそろいになったね」と笑って、自分のバッグに付いている同じものを見せてきた。

 鈴音は幼いながらにも気付いた――本当は、兄妹でお揃いだったのだ。


 そんな大切なものを、自分にくれた。


 申し訳ない気持ちになった。

 が、それ以上に、嬉しくて、仕方がなかった。



     ◇     ◇     ◇



「今もまだ大事にとっておいてあります」

「えっ、捨てなよ何年前のだよ、別に処分したって怒ったりしないよ」

「捨てるわけないじゃないですか、私が死んだらおかんに入れてもらうって決めてるんです。定期的にチェーンはずして中性洗剤で丁寧ていねいに揉み洗いしてたので状態は良好です」

「愛、おも……成程なるほど、成程ねぇ」

 それまで向き合って聞いていた篤久は、また仰向けになった。

「でも、それ、五歳ぐらいのちっちゃい子相手じゃフツーじゃね?」

「五歳ぐらいのちっちゃい子にしてみれば恋に落ちるには充分すぎる出来事できごとですよ。初恋なんてそんなものでしょう」

「そうかなァ」

「世利子さんのこと好きになったのも、そういう小さなことじゃないですか?」

「いや、俺初恋ってヨリちゃん……じゃ…………あれ?」



 静止。

 まばたきすらせず、虚空を見つめる。



「ヨリちゃん……ちがう、よりこじゃない、だれ? ……とうさん、と、いた……おんなの、ひと……」


 小さく小さく、言葉を連ねて、漂う情報を集めて、固めていくような。


 鈴音は察した。



 彼は今、彼の記憶の欠けた部分を鮮明化している。



「篤久さん? 大丈夫ですか?」

 起き上がって声を掛けるが、うつろな目のままぶつぶつと呟き続ける。

「誰だっけ……女の人……父さんの……父さんの何だ……」

「篤久さん」

「あっ!」

 何かに気付いたように、篤久も起き上がった。

「若葉ちゃんだ」

「え?」

「俺の、母親代わりだった人……父さんの、彼女」


 ペットボトルに残っていた水を一気に飲み干した篤久は、大変不満そうな表情をした。

「くそッ、これだけは一生隠し通そうと思ってたのに! 世利子め今度会ったら…………ダメだ、勝てる気がしねえ」

「世利子さんが話してくれてなかったとしても、通院してるんだしタイミング次第ではすぐバレてたと思いますよ。普段、さっきみたいなの起こってたらどうしてたんですか?」

「寝不足による頭痛とか立ちくらみって誤魔化してた」

「……それって、もう謠子ちゃんも知ってるんじゃ」

「叩き付けないで見ようとしなかった現実!」

 彼には昔の記憶の一部がないらしいが、この言い方。鈴音には意外に思えた。もっとも、本人が〝その状況〟をある程度受け入れているというから、こんなものなのかもしれない。

「……でも何でだろな、いつもは出てきたと思ったら、スッ、て消えちゃうのに。父さんじゃなくて、若葉ちゃんのこと……?」

「ちょっと書き出してみましょうか」

 鈴音は立ち上がり、バッグからメモ帳とボールペンを出してきてローテーブルの前のスツールに座ると、簡単な質問をしていった。


 思い出した女性の名前、容姿、どんな人だったか。

 元々記憶力がいい篤久は、それまで忘れて思い出せなくなっていたというのが嘘であるかのように、すらすらと答えた。さほど大きくはないサイズの紙面に要点だけまとめていったが、あっという間に二ページ、三ページと埋まっていく。


 ひと段落ついたところで、鈴音は再度立ち上がり、ベッドの縁に腰掛けている篤久にメモ帳を見せた。

「これで合ってますか? 貴方の、大好きだった人」

「うん」

 確認するように、頭の中に埋め込むように、鈴音の持つメモ帳の字を指でなぞる。

「うん。もう、忘れない。と、思う」

「帰ったら、書いたページ切って渡しますね。何度か見たら安定するかもしれないし」

「うん」

 少しぼんやりしている。突然思い出して、それを整理して――疲労しているのだろう。

「……もう寝ましょう。体も頭も休ませなきゃ」

 

 歯磨きをして、ベッドに入り、照明を落とす。


 同じベッドで寝るのなら密着しないようにはしに寄らなければとお互いに考えていたはずだが、不思議なことに普通に並んで横になっても、二人は落ち着いていた。

 すぐ隣に、自分以外の体温を感じる。


「……鈴音ちゃんは、さ」


 けてなくなってしまいそうな声。


「はい」

「産んでくれたお母さんのこと、覚えてる?」


 鈴音が実母を亡くしたのは五歳になる少し前のことだ。確かに、葬儀のときはてんてこ舞いだったからよく覚えているというふうなことを話した覚えはあるが。

「正直、あんまり。どんな人だったかなんてのもほとんど覚えてません。顔もおぼろげ。父が清海小父様に頼んで調べてもらったら、母は身内がいなかったんだそうです。だから、写真も遺影しか残ってなくて」

「思い出せないの、嫌じゃ、ない?」

「全然覚えてないわけじゃないですよ。公園で遊んで一緒に笑った、悪戯いたずらをして叱られたこともあった、週に一度、土曜日に、オムライスかカレーを選ばせてくれて、お夕飯に作ってくれた。覚えてるのは大体そのくらい。でも、それで充分じゃないかなって思ってます。私は貴方と違って、ちゃんと母とお別れできたからかもしれませんけど」

「そっか。…………俺さ、喜久きくちゃんと、旦那様と奥様のことは、ちゃんと覚えてるんだよな。同じように、いきなりいなくなっちゃったのに。……何で、父さんと若葉ちゃんのことは忘れちゃったのかな。何で、喜久ちゃんと旦那様と奥様のことは覚えてるのかな。どっちも、しんどかったはずなのに」


 普段は気さくだったり、冷静だったり、不敵だったり――いろいろな顔をする彼が、こんな姿を見せるなんて。


 「姿勢を崩さないように」と世利子が言っていたのを鈴音は思い出した。

 きっと本当は、自分にも見せるつもりはなかったはずだろうに。

 いつもと違う環境、いつもと違う状況が、そうさせているのか。


 何と返そうか、考えていると、静かに笑う声が聞こえた。

「なんつってー、ね。めんどくせえよなァ。自分でもそう思うもん」

 自身も世利子に言われた何かしらの言葉を思い出したのかもしれない。そんなことを言うものだから、鈴音は少し悔しくなって、

「篤久さん。ちょっとこっち向いてくれませんか」

 呼び掛ける。その声が怒っているように聞こえたか、

「え、何、怖い、優しくして?」

 恐る恐る寝返りをうった、その頭部を、


「えい」


 抱き締めた。悲鳴と共に篤久の体が激しくびくついた。

「ひぎゃっ⁉ ちょっ、なっ⁉」

「その程度で諦めろって話なら聞きませんよ、言ったじゃないですか私貴方のこと一生好きって。貴方は三十年もそれを背負ってきたんでしょうけど、私だって二十年近く好きって気持ちを背負ってきたんです、二十年も三十年もたいして変わりません」

「おわァーッやめてこれはちょっとダメ、ダメだって‼」

「忘れてしまっても、覚えていても、いいじゃないですか」

 髪の中に指を入れて、流すように撫でる。


「幼くて、現実を受け止めきれなくて忘れてしまった。成長して、受け止めて、覚えている。どっちがいいとか悪いとか、そういうことはない。どっちも、貴方の悲しみの形でしょう」


 腕の中の強張こわばっていた体から、力が抜けていくのを感じた。


「そう、かな」

「そんなことで怒るような人たちでしたか? 少なくとも小母様と喜久子さんは『いつまでも何をうじうじ』って言いそうですけど」

「……はは、そうかも。…………明日になったら、忘れてないかな……ちゃんと、覚えてると、いいな」

 だんだん小さくなっていく声。眠りに入っていったようだ。今日は特にいろいろあったし、疲れているのは明らかだったのだから、さもあろう。


 鈴音は、篤久の顔を見た。


 十二も歳上なのに、妙に幼く見える。もう一人の母のことを思い出して安心したのだろうか。


「大丈夫、覚えてますよ」


 苦しくならない程度に、またそっと、抱き締めた。




「あれ?」

 鈴音が目を覚ますと、篤久は既に身支度を整えていた。昨日着ていた服ではない、真っ白なワイシャツに黒いベスト、黒いスラックス。ネクタイも靴下も真っ黒。

「おゥ、お目覚めかい」


 いつもの彼だ。


 鈴音は伸びをしてベッドから降りた。

「その格好」

「予備の着替えいつも車に入れてあんの、俺は謠子様の完璧で忠実な犬だからな! あ、朝飯のビュッフェもう開いてるけど、まだ時間あるから風呂行きたいなら行ってきていいよ、滅茶苦茶天気いいから露天ちょー気持ちいいぜ」

「じゃあ、軽くあったまってきます」

「はーい、いてらー」

 着替えと化粧ポーチを持って部屋を出る。


 彼は本当にいつもの彼のようだった。

 昨夜ゆうべのことは覚えているのだろうか。


 覚えているに決まっている。酒など一滴も飲まなかったのだから。


(何も、なかった、けど!)


 かなり大胆なことをしてしまったような気がして、何となく気恥ずかしくなりながら、鈴音は顔半分まで湯船に沈む。


(……でも、)


 ほんの少しでも、思い出すことができてよかった。


 心の底から、そう思った。



     ◇     ◇     ◇



 前日の大雨が嘘であったかのように、まぶしい程に晴れ渡っていた。通行止めも夜間のうちに解除されて、渋滞もなくスムーズに進んだ。

 途中、高速道路のサービスエリアに立ち寄って、来客時のお茶け用にといくつも土産物の菓子を買い込む篤久は、すっかりいつも通りだった。



 浄円寺邸に到着したのは正午を少し回ったところだった。

 エンジンの切られた車から降りないまま、気になった鈴音は訊いてみる。

「あの。若葉さん、のこと、覚えてますか?」

「うん、忘れてない。大丈夫みたい」

 嬉しそうだ。鈴音も何だか嬉しくなった。

「よかった」

「ありがとね」

「私は別に何も」

「多分、いろいろ、きっかけになったんだと思うよ。……若葉ちゃん、ちょっと鈴音ちゃんに似てたんだよね」

「え」


 どきりとした。

 初恋だったと言っていた、そんな人に――?


「父さんも俺と同じギフト持っててさ。自分と一緒にいてもロクなことねえよって言われてたのに、そんな父さんに対して離れる気はないとか結婚しようとか、滅っ茶苦茶押しが強かったんだわ、若葉ちゃん」

「えぇ⁉」


 似ているというより全く同じではないか。


 まさかの内容に衝撃を受けると、篤久は吹き出した。

「なるべくしてなったこと、なんだろな。……ちょっと手ェ貸して」

「え、あ、はい」

 何かくれるのだろうかとシートベルトを外してから左手を差し出す。


 すると上に向けていた掌がくるりとひっくり返され、


「御礼にちょっとだけいい思いを、ね」


 手の甲に、一瞬だけ、キスをされた。


「ぐぉあ⁉」


 想定外の事態に一体何が起きたのか頭で処理できずにいると、離れた手が固まる肩を叩く。

「ほれ、はよ中行くぞ。お嬢のお迎えまでちょっと時間あるから、洗濯して飯食って仕事しなきゃ」

 にや、と笑う彼は、こうなることをわかっていてやったのだ。


 熱い顔のまま、鈴音は唇をみながら車を降りて玄関に向かう彼に続く。


(あぁ、)


 もうこれは、ずっと焦がれているしかない。


 でも、こんなことをするということは、つまり――


(……まさか。まさかまさかまさか!)


 思ったようには振り向いてくれない、なのに彼はときどきとても、甘くて優しくて。



「とんでもない呪いかけないで下さいよぉ……」

 溜め息をつきながら呟く。まだ顔が熱い。

「は? 何て?」

「あんなのされたら、私ほんとにずっと好きでいちゃうじゃないですか!」

「別にいいけど?」

「へっ?」

「それは鈴音ちゃんの自由だもん、俺がどーこー言うこっちゃねえ」

 玄関の鍵を開けた篤久は、鈴音に先に入るように促す。鈴音は篤久の前に立ち、高い位置にある顔を見上げた。

「え、え、じゃあ、」

「まぁ結婚はしませんけどね?」

 その一言に、鈴音の頬がふくらんだ。

「もう!」

「鈴音ちゃん。初恋とははかなく散るのがセオリーなのよ」

「そんな説クソくらえです! 私絶対絶対、諦めませんからね!」

 いきどおりながら靴を脱いで揃える鈴音に、篤久は苦笑した。

「お手柔らかにねェ」




     了




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Sweet curse 半井幸矢 @nakyukya

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