「これから話すことは、絶対秘密にしてね。多分今は篤久と私と、病院の先生しか知らない。謠子ちゃんは……知ってるかもしれないし、知らないかもしれない」

 世利子は慣れた手付きで梳きバサミを動かしていく。鈴音は頷こうとしてしまったが何とかとどまり、はい、と小さく返事をする。


 病院――何かの病気なのだろうか。

 篤久が生まれてすぐに田舎の親戚に預けられていたという話は、随分ずいぶんと前に聞いてはいる。そのあたりの事情で戸籍は浄円寺のまま、名乗りが平田になっているということも。


「生まれてから何年か、預けられてたのは知ってるよね。何で預けられてたかは――」

「ほんとに病弱だったんですか?」

「あ、いや、全然ちがくて。あいつ昔から体は超健康だからそこは安心して。風邪引いてるの見たことない」

「いいですね、超健康。実に理想的です」

「鈴音ちゃんほんとあっちゃん好きねー。……それはともかく、だ。……えっと、その、だね。うーん」

 手を止めて、言いにくそうに目線を下に向けている。鈴音は察した。

「ギフトの、こと?」

「あっ、聞いてたんだ」

「去年本人に聞きました。いつバレて施設に入ることになるかわからないからやめとけって」

「何だぁ結構込み入ったことまで話してんじゃん。鈴音ちゃん、これは脈あるよイケるよ!」

「そうです、かね」


 やはり世利子は昔から知っているのか。

 親同士がキャプターという同業で、本人たちも幼馴染みだというから当たり前といえばそうなのだろうが――


 初めて少し、ほんの少しだけ、妬けた。


 それが表情に出ていたのか、世利子は苦笑いした。しかしそれについては触れずに、続ける。

「でね、話戻すけど。ギフト、生まれたときから出ちゃってたんだって。でも浄円寺の小父様も小母おば様も、何か事情があってエリュシオンに入れたくなかったらしくてね、病弱だから空気のいいところで育てるとか言って、目が届きにくい田舎の親戚の平田さんちに預けられたの。でもその平田さんがね、交通事故で亡くなっちゃって……そのショックで、記憶がないんだ」

「え」


 初耳だった。

 

「っていっても、浄円寺の家に戻ってくる前――年齢一桁ひとけたの子どもの頃のことだからさ、人によっちゃ覚えてないことも多いもんだけどね。自分が平田さんの家で生活してたってことと、育てのお父さんにギフトの使い方教わってたことぐらいしか覚えてない、それ以外は全然思い出せないんだってさ。育てのお父さんお母さんのことも、当時住んでた家とご近所のことも、一緒に遊んでた子たちのことも。……私もさ、父親に連れられてたまに遊びに行ってたんだけど、私のことまで忘れちゃってたんだよ? ひどくね?」


 衝撃的な内容ではあるが、混乱はしない。世利子が何を語っているのか理解できるし、ちゃんと頭に入ってくる。自分でも驚くぐらいに、意外と冷静だ。


 しかし、何と言葉を返していいのかはわからない。


 世利子は構わず続ける。

「記憶が飛んじゃったのが六歳、小学校上がってからなんだけど、しばらく混乱しちゃっててね。ようやく落ち着いたのは小二に上がる頃だったかな。それまでは何ヶ月か、ずっと学校は休んでて。その後小父様と小母様が、何か少しでも思い出せるようにって、何とか覚えてた平田って名前使わせて、病院に通い始めたんだ」


 鈴音は気付いた。

 ということは、もしかして。


「……病院、って」

「うん、その記憶障害っていうか……正確には乖離性健忘かいりせいけんぼう? 脳に何かあるんじゃなくて、精神的なもので忘れちゃうとそう言うんだってね。……その関係で、清海小父様の同級生に心療内科の先生がいるから、子どもの頃からずっと診てもらってんのさ。今はもう小父様も小母様も亡くなっちゃったし、平田さんちに預けられてたときの友達なんか完全に疎遠そえんになっちゃってるしね、ほぼ唯一昔のあいつのこと知ってる私が診察に付き合ってるんだけど…………そこは、その、しょうがないとはいえ……何か、ごめんね?」

「謝るところじゃないでしょう、大事なことなんだし」

「だってさぁ~、気になったりするんじゃないそういうとこ~」

 わざわざ言うなんて律儀りちぎだなぁ、と、口には出さないが、思う。


 世利子も以前から、鈴音が幼い頃から、鈴音の恋を応援してくれている。

 それは嬉しいといえば嬉しいのだが、その頃彼女は、彼のことが好きだったのではないか。そこがどうしても引っ掛かる。


「そういうのもあって、あいつほんとはものすごく不安定なんだよね。まぁ、ああいう性格だからカッコつけて表に出さないけど。……面白いね、そういうとこ、記憶なくなっちゃう前とぜーんぜん変わんないの。でも虚勢ってのともちょっと違うんだよね。大抵のことはそんなに苦労しないでこなせちゃうしさ、喜久ちゃんほどじゃないけど頭もいい方だし運動神経も悪くない。実の両親あんな感じだったから元々そういう出来スペックなんだろうけど、その姿勢を崩さないように踏ん張ってるってのはあると思うのよ。多分、これからもずーっと」


 世利子は本当に理解している。彼のことを。

 それならば、何故?


「……でも、私は……そんな篤久に寄り掛かられるのが、ちょっと苦痛だったんだなー」


 意外な言葉。

 鈴音は静止するが、世利子の手と口は止まらない。


「結局のところ、私もんだろうね。ちっちゃいとき、たった何年かの間とはいえ、自分がどんな人間だったのかも、育ててくれて大好きだったはずの人のことも、全然わからない。頭の片隅に、何でか埋められない空白がある、それがものすごく不安。わからなくはないよ? 支えてほしいよね。……だけどさ、たまに頼られるくらいならいいんだけど、一緒になったら、別れるかどっちか死ぬかするまで、それがずっと続くわけじゃない? そう気付いたら、『それは嫌だな』って思っちゃったの。そしたら私は、ときどきでも、全然頼れなくなっちゃうな、とかね。そんなの流石にさ、いくら好きだってしんどいよ。…………ま、私はあいつを支えられる器じゃなかったってことさ」


 鈴音は世利子に憧れていた。

 彼女を見習って、大好きなあのひとに振り向いてほしくて、努力した。


(…………あぁ、そっか)


 世利子も人間なのだ。

 全部の時間で強くいられるわけではない。



 どんなに好きでも、ダメなものはダメなのだ。



「ということを本人に伝えて、それが約八年続いたあっちゃん告白チャレンジの最後となりました。めでたしめでたし!」

「全然めでたくないじゃないですか!」

 思わず笑ってしまう。きっと世利子は、湿っぽくならないように、鈴音が不安にならないように、気をつかいながら言葉を選んでいただろう。そういうところも、かなわないと思う。


 彼女は確かに、彼が好きだったひとなのだ。



 鈴音が最後の客だったので、後片付けを少しだけ手伝い、閉めた店から二人で帰路へついた。

 別れ際に世利子は笑った。


「鈴音ちゃんなら、大丈夫だよ」


 それは、「自分ではダメだった」彼女の願いなのかもしれない。

 鈴音に託すというよりも、彼の幸せを祈りたいという彼女自身の勝手な言い分。世利子のことだから、それもわかっているのだろう。

 しかし腹は立たなかった。


 彼女にできなかったことならば、自分がやってやればいい。

 今の自分なら、できるはず。


 

    ◇     ◇     ◇



 鏡を見た篤久は、顔をしかめた。

「これはちょいと……爽やかすぎやしませんかね?」

「似合ってますよ」

「うそォ」

 明るいベージュのスリットネックのカットソーにカーキグレーのジャケット、細身の黒いパンツ。実際のところ爽やかという程ではないが、それでも長身であることも相俟あいまってかきれいにまとまっている。普段はスリーピースのブラックスーツ、しかも全く染めていない髪も少し長めなので、そんな重厚黒ずくめフォーマル姿と比べれば、随分とカジュアルだ。

「いつも真っ黒だから見慣れないだけですよ。大丈夫、三歳は若く見えます」

「それでも三十過ぎか、たっけぇな二十代へのハードルは」

「若く見られたいんですか?」

「割とそうでもない」

「ふふ、何それ」

 彼のこれまでの人生を考えれば、三年程度では長期間というのでもないのだが、それでも本人が言うようにほぼずっと休みなしで黒スーツでは印象が強くなるのも無理はない。

「さっきの花柄のシャツとか可愛かったんだけどなぁ」

「いや……そういうのはちょっと……」

「って言うからなるべくシンプルなのでそろえたんでしょ! 全部私が選んでいいって言ったの篤久さんなんだからつべこべ言わないで下さい、今日はそれ! いいですね!」

「……はぁい」

 複雑そうな顔で溜め息をつきながら、試着室から出る。が、本気で嫌がっているふうでもない。慣れない格好をしているので何となく気恥ずかしいだけのようだ。

「髪、切らないんですか?」

 そうすれば、もう少しすっきりして見えるのだが。あぁ、と篤久はこたえた。

「切れたらいいんだけどねぇ。夏とか暑ィし」

「何でですか?」

「ここ」

 首の後ろを、とんとん、と叩く。

「隠しとかねえと、紋章出ちゃうんだわ」

「あ」


 そういえば、能力を隠して施設外で生きる〝放浪者ワンダラー〟なのだった。


 ふと、以前見せてもらった能力を思い出す。

 使い捨てライターから舞い出た炎の蝶は、失礼かもしれないが、彼が作り出したとは思えないほど幻想的で、美しかった。


 きっと世利子も、篤久のギフトのことを知っているのなら、能力を使うときに現れるという紋章の位置も把握しているのだろうが――それは関係性からすれば当然で、だからこそ、もしかしたら、あんなにきれいな見せ方はされていないかもしれない。交際していた女性たちなんて、彼の身の上から考えてみれば、能力のことすら知らなかったはずだ。


 だとすれば、自分はとても、特殊な、特別な、立ち位置なのではないだろうか?


 都合のいい考え方といえばそうなのだろうが、そんな可能性を考えると、少し浮かれてしまいそうだ。


「ふっふ」

「……何ニヤニヤしてんの」

 顔に出ていたらしい。しかしその感情を、隠そうとは思わない。

「何でもないですよ~。……あ、お会計」

「『選んで』とは言ったけど『買って』なんて言ってなーいよ」

 着ていた黒スーツ一式を腕に引っ掛けて、レジカウンターへ向かう。

「ほれさっさと行くぞ、あと靴!」

「はいっ」



 あっという間に三時間近くが経過し、流石にくたびれてコーヒーショップで一休みしてから店の外に出ると、篤久はリーフレットを開いて他の店の配置図を確認した。

「こういうとこ初めてなんだけど、何か……いろいろあるんだな。ちょっと楽しくなっちゃった」

「えっ、来たことなかったんですかアウトレットモール」

「買い物大体デパートかネットだからねぇ、謠子があんまり遠出できねえし……鈴音ちゃん、見たいとこある?」

「え、えぇ、っと、」

 かたむけてくれるマップをのぞき込む。


 距離が近くなる。


「長々付き合ってもらっちゃったし、おじさんが何か買ってあげよう。遠慮なく言うがいいぞお嬢ちゃん」


 心地よい低さの声。

 朝つけたらしい香水の、かすかに残る匂いが鼻をかすめ、きゅう、と胸を締め付ける。あの部屋と、ベッドと同じ香り。


 思わず両手で、腕を抱き込んだ。


「これがほしい、です」

「なにっ、すん」


 一瞬、振り払おうとした――が、止まる。


 そのまま、少しボリュームを落として。


「……残念、非売品です」


 するりと腕を抜いた。公衆の面前で騒ぎ立てるのを避けたらしい。

 恐らく鈴音を傷付けまいとする気遣いも含まれているその行為に嬉しくなって、りずに篤久の指先を、握る。


「今日はサービスしてくれるんじゃないんですか」

「こういうんじゃないのっ」

 やはり引き抜かれる。ちらり、うかがうと、呆れた顔をしていた。それでも本気で嫌がっていない、怒っていない。それがまた、鈴音には嬉しかった。

「つれない人ですね」

「絶対つれねえっつってんだろ。……で、何か、ないの」

 篤久の持っている店舗配置のマップを再度広げて、指先を落とす。

「チョコレート、買って下さい」

「え、そんなんでいいの?」

「じゃあ指輪」

「それはダメ」

「冗談ですよぉ」

 リーフレットをまみ上げ、バッグの中にしまう。


「靴とかバッグなんて、そんな高価なものねだれるわけないじゃないですか、佐鄕さごうさんじゃないんだから」


 篤久の表情が、固まった。

 そのまま、次に出てくる言葉を待つ。


「…………鈴音ちゃん。何で、それ」


 ようやく出た実に気まずそうな苦笑いに、


「佐鄕瑠里花るりかさん。私、同じ大学だったんですよ」


 鈴音は、にこり、笑って返した。


「うそォ⁉」




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