第20話 それぞれの殻

 人形達が住まう屋敷の地下で、僕は泥のような感情に沈みながらも、生きていた。そう、僕はまだ生きていた。アルの亡骸を残して秘密基地を後にしてから、一週間が経っていた。


 僕を保護した室米の屋敷は、アルが語った通りのミステリー小説に出てきそうな洋館で、満月の光の中で佇むその姿を美しいと感じたのを覚えている。

 屋敷の室内もアルが語った通り――つまり、人形だらけ——だった。呆然として辺りを見回すウィリーの横で、僕は一体の人形と目が合った。叩きのめされた精神が、ガラスの瞳に吸いつけられた。あの時ウィリーが僕の手を引いてくれなければ、僕はどうなっていたのだろう。室米はもしかすると昔、そうやってそのまま吸い込まれた人の一人なのかもしれない、なんて思った。

 生身の姿で出迎えた室米は、まるで洋館に備わった付属品のように、同じような怪しさと品の良さを備えた老紳士だった。

「私は今年で99歳になる。実は君と生まれた年は一緒なんだよ。浦幌御影君。」

 人形を抱えた老紳士は僕にそんな事を言った。室米はイルカの喋らない世界を知る、今となっては数少ない世代の一人という。とても、親近感なんて抱けなかったけれど。

 僕とウィリーは地下の部屋に保護された。保護された、と言っても監視付きで、屋敷はもちろん、地下の部屋からも自由に出ることは出来なかった。こういうのを軟禁状態というのだろう。

 保護された翌日から、僕は検査と称した様々な実験――椅子に座ららされ、色々な機械を接続されて、脳波やら心拍数やら、唾液の成分やらを測られながら、ORCAシステムの様々な操作をする実験――に協力させられた。僕は黙々とその実験に協力した。生きたまま調べてくれることに感謝すらしていた。

 実験は室米の仲間らしい研究者数人が行っていたが、毎回、そこにユリネが立ち会っていた。ユリネは屋敷内に並ぶ人形と同じような、ひらひらの付いた綺麗で落ち着いた配色のドレスを着て、現れた。時折、研究者達は僕から出力される様々な結果について、小さな少女のユリネに意見を求め、そのたびに短い言葉でユリネが答えていた。実験中、ユリネは僕と意図的に目を合わせないようにしているようだった。

 実験から解放されると、僕は地下の部屋に戻された。そのたびに、ウィリーは僕の体が無事な事に安堵し、研究者に、いつ終わるのか、と早期解放を訴えるのだった。

 終わりとはなんだろう?インテルフィン教団の目的であるインテルフィンの復活、そのための超特異点AIとのコンタクトが果たされることだろうか?なら、とっとと終わらせたい。だが、実験を繰り返しても、僕はその超特異点AIとのコンタクトはおろか、ORCAシステムのレイヤー2より深い権限の力を使うことができず、ユリネ達を悩ませていた。仮想世界で相手のアバターの当たり判定を上書きオーバーライドする実験や、それを活用した攻撃をする実験には成功した。これは、レイヤー4の機能である。公共アバターが無制限なのはレイヤー3。だがその先の、仮想世界の設定を司るレイヤー2や、ID、位置情報に干渉できるレイヤー1といった機能は、どうやっても使えなかった。


 今日の「検査」も大きな収穫は無かった。僕はいつものように地下の部屋に戻され、食事が運ばれてくるのを、椅子に座って、ただ待っていた。地下の部屋には僕とウィリーの二人だけだ。ウィリーはずっと公共アバターの姿でいたが、その美しい少女の顔にも、徐々に隠せない疲労が反映されていた。

「もう一週間。私たち、ここから出られるのかな。」

 ポツリと呟いたウィリーの言葉は、僕へ向けたものとも、独り言とも取れるものだったので、僕は無言だった。ウィリーが立ち上がる。

「インテルフィンの秘密も知っちゃったし、このままおとなしく協力しても、最後には殺されるに決まってます。先輩、逃げましょう!」

「無理だよ。」

 僕は反射的にそう言った。

「私はイルカですから、上手く見つからずに脱出出来るかも知れません。」

 ウィリーはアルが用意したジャンクのポッドではなく、室米から与えられた新品のポッドを使っていた。もう背中から伸びるケーブルに邪魔される事はない。室米達がウィリーを自由に動けるようにしておくのは、それでも問題ないという余裕なのだろう。

「相手もイルカじゃないか。しかも軍用のポッドなんだろ?」

「そうですけど、このままじゃ!」

 僕は椅子に座ったまま、ウィリーを見上げた。

「僕はもう、自分のせいで誰かが死ぬのは嫌なんだよ。僕がおとなしく従えば良かったんだ。アルが死んだのは、僕の責任だ。僕が黙ってシロキさんに会いに行こうとしなければ、あんなことにならなかった!アルは死ぬことは無かったんだ。」

「先輩……そんな、先輩のせいじゃないです。シロキさんに会いに行ったのには、理由があったんでしょ?」 

「理由……いや、言い訳だよ。」

「紗由さんでしたっけ?聞かせてください。」

 僕は、シロキさんに会いに行った理由については詳しい説明をしていなかった。自分の過去に他人を受け入れる余裕はなかった。

「ウィリーには関係ない。」

「そう……ですか……私がイルカだからですか?」

 ウィリーの悲しそうな表情を初めて見た気がして、僕は言葉に詰まる。

「そ、そういうわけじゃ……なんでそうなるんだ?」

 沈黙が部屋に流れた。数秒後、その気まずい沈黙を、食事を運んできたユリネが破った。

「ええと、食事。ディナータイム、です。」

 僕らの雰囲気を感じとったのか少し緊張した様子で入ってきたユリネは、いつものように部屋の中央の小さなテーブルにトレイに載った夕食を置いた。この一週間、食事を運んでくるのはユリネの役割だった。いつものように出ていこうとするユリネを、今日はウィリーが呼び止めた。

「ユリネちゃん。私たちはいつここから出られるの?」

 扉の前でユリネが固まる。

「超特異点AIにアクセス出来れば……」

「それは、いつ?その後、無事に返してくれる保証はあるの?ねぇ!」

 いつになく厳しい口調のウィリーに僕はたじろいでしまい、口を挟めないままユリネの答えを待った。

「それは……」

 振り向いたユリネは、ウィリーの予想を裏付けるような困った顔をしていた。

「ユリネちゃん。一緒に逃げよう。こんな所にいたらダメだよ。」

「そういう訳にはいかない。」

「なんで?ユリネちゃんも、被検体?なんでしょ?あの変なおじいさんに無理やり従わされてるんじゃないの?」

 僕はアルの秘密基地での最後のやり取りを思い出していた。

「被検体10号……ユリネ、君は何者?人間中心主義者のスパイなのか?」

 沈黙が三人を包む。口を開いたのはユリネだった。

「私は、スパイじゃない。私は、確かに被検体10号……人間中心主義者達に、作られた。でも、その後、お父様に引き取られた。」

 僕とウィリーは顔を見合わせた。

「どういうこと?ユリネちゃんは人間じゃないの?」

「私は人間、だけど、親はいない。太平洋事変前に保存されていた生殖細胞から作られた。鹿追親子に。」

 シロキさんの顔を思い出して、僕の心臓が乱れた。

「作ったって……でもなんでそんなことを?」

「あなたと一緒。」

 ユリネが僕の方を見る。

「彼らは、『インテルフィン配列』を組み込んでも、コードVが有効にならない原因を調べようとした。太平洋事変の時に、インテルフィンがウィルスをばらまいて遺伝子に細工をしたという説があったから、その影響を受けてない被検体を探した。」

「細工って、全人類とイルカに?そんなこと出来るの?」

「わからない、間違っているかも。でも、もしそうなら、太平洋事変前に保存されていた細胞や人なら、コードが有効になるかも知れなかった。」

「保存されていた人――冷凍睡眠か。」

「そう、だからあなたも、選ばれた。」

 なぜ僕が、コードVの実験に選ばれたのか。てっきり、血の繋がった親族がいないから実験台にしやすかった、くらいに考えていたが、理由があったのだ。

「でも、ユリネちゃんのコードVは失敗したんでしょ?その説は間違ってたってことじゃ……なんで先輩だけ?」

「それも今、調べてるけど、わからない。」

 申し訳なさそうな顔をするユリネを見ながら、その生まれた目的自体が実験という事実に、僕はめまいがした。

「で、でも、だったらどういう経緯でインテルフィン教団の室米が、『お父様』になっているんだ?」

 僕の問いは、救いを求めていたのだろう。「非人道的な扱いに憤った正義の紳士が、幼いユリネを救い出したのだ」と、そういう答えを求めていた。だが、ユリネの答えには、救いはなかった。

「5年前に私のいた研究所がインテルフィン教団に襲撃されて、私はその時に保護された。あなたと同じ、貴重なサンプルだったから。でも色々実験してもコードVは有効にならない。それで、お父様が引き取って使うことになった。私は、作られる時に知能を強化されて、ORCAシステムの知識も特別に教育されたから。それに……」

「それに?」

「見た目が人形みたいだったから、気に入られた、みたい。」

 僕とウィリーは顔を見合わせた。屋敷を埋める大量の人形達と並んで、けなげに佇む、まだ小さいユリネの姿を想像し、美しさとおぞましさにぞっとした。

「そんな、ひどすぎる……!」

 憤るウィリーに対し、ユリネは小さく笑って言った。

「でも、あのままだと失敗作の私は処分されていた。正規のIDもないから、外では暮らせない。5年も使ってくれたから、感謝してる。」

「……」

 僕達は何も言えなかった。コードVを巡る悪夢。僕の周りで起こっていることなんて、ほんの一部。

「だから、逃げる訳には行かない。逃げても行く場所は無いし――」

 その時、ハッと何かに気が付いたユリネは、ポケットから取り出した端末を見て言った。

「お父様が呼んでいる。私は行くから、ご飯食べて。」

 食事を置いて、ユリネはふわりとスカートをなびかせながら去っていった。

 沈黙が訪れ、僕とウィリーは無言で食事を取った。


                 ◆ ◆


 価値ある骨董品が並ぶ廊下を歩きながら、ユリネは屋敷の2階にある室米の部屋へと向かう。廊下の曲がり角には、小学生と同じくらいの大きさの人形が椅子に座った格好で飾ってあった。この屋敷に来たときは、ちょうどこのくらいの大きさだったなと、ユリネは思った。

 研究所がインテルフィン教団に襲撃されたのは、「インテルフィン配列」のデータを求めてのことだった。結局、鹿追親子は逃げおおせ、目的の物も手に入らなかったが、そのおかげで失敗作だったユリネは生き延びた。だが、自由だとか、人生だとか、生きる目的だとかとは無関係だった「被検体10号」にとって、それは所有者が変わっただけの出来事だった。実際、室米にしてみれば新しい人形を手に入れた、くらいのことだった。

 特殊な装置で詰め込まれたORCAシステムの知識と生来の適正によってハッカーとして優秀な才能を見せたユリネは、室米の仕事を手伝うことになった。しかし、それよりも室米は自分をコレクションの一つとして見ている事は知っていた。だけどやっぱり、自由だとか、人生だとか、生きる目的とは無関係だったユリネにとっては、どうでも良いことだった。成長しきる前に、はく製にでもされるのだろうかと思ったこともあったが、それでも良いかとすら思っていた。

 そんなユリネが、イルカのウィムアルゼムィンスェ――アルと初めて出会ったのは半年前のことだ。ある冬の寒い日に、彼は屋敷にやってきた。ユリネはいつものように人形と一緒に座っていた。人形らしくしていた方が室米の機嫌が良かったから。挨拶しなさい、と言われて前に出た時の、ポッドの中のイルカが見せた驚きの顔を覚えている。その日からユリネは助手として貸し出され、アルと暮らすことになった。実際は、アルの監視と、室米への連絡係だったが――


「本当におとなしい助手だな……ユリネは何が好きなんだ?」

 アルと地下の秘密基地で活動を始めて、一週間が経った頃だ。室米に提供された秘密基地の環境を整える作業も一段落し、アルは希望に満ちていた。

「無い。」

「いや、何かあるだろ?好きな食べ物とか、映画とか、本とかさ。」

 アルは自分の遺伝子から生成される公共アバターやイルカの姿よりも、すらっとした男性のホビーアバターが好きなようで、秘密基地の中ではその姿だった。ユリネはといえば、室米に着せられていた人形のような服をそのまま着ていた。

「食べ物は食べれれば良い。映画は見たことない。本は、技術書しか読んだことない。」

「そうなのか?じゃあ、今から見つければ良いさ。俺のおすすめを教えてやろう。」

「おすすめ?」

「よし、まず手始めに俺がさっき読み終えた本を貸してやるよ。『世界の都市伝説』だ。

データを送るそ。」

「……」

 その日ユリネは、初めて技術書以外の本を読んだ。正直あまり気は進まなかったが、この時のユリネは断ることを知らなかった。本の内容は荒唐無稽なものだったが、なぜだか一気に読んでしまった。

「本、読んだ。」

「早いな、どうだった?」

「信憑性が無いものばかり。」

「そういうもんだよ。でも、事実から生まれたうわさもあるかも知れないぞ。それに楽しいだろう。ウィスキュイゥ大帝が実は生きているとか、世界を裏で操る知性クジラがいるとか、ORCAシステムは実は宇宙人の技術で、実は誰も仕組みを知らないとか、な。」

「正しくない。」

「でも楽しかったから、最後まで読んだんだろ?」

「……そうなのかも。」

「じゃあ、都市伝説が好きってことだな。」

「そう、なのかも?」

 ――強引さに押し切られてそういうことにしてしまったのか、本当にそうだったのか、ユリネには分からなかった。こんな感じでアルはユリネの好きなものを作っていった。


「イワシ味はどうだ?」

「これは、ちょっと。こっちのが良い。」

「チョコレート味が好きなのか。」

 ――チョコレート味のバランス栄養食品が好きな物になった。イワシ味は大量に余った。


「ユリネ、ポッドを直すのを手伝ってくれ。」

「これは、綺麗。」

「おお、このパシフィス共和国製高級アクチュエータの美しさが分かるのか!このコーティングのきめ細やかさ、研磨の丁寧さ、アルマイトの発色、まさに芸術だろう?」

 ――イルカ用ポッドの部品を見るのが好きになった。部品屋に連れて行ってもらって3時間部品を眺めて、店主に嫌な顔をされた。


「仮想世界のファッション?」

「せっかくホビーアバターは自由なんだから、好きな格好をしたらいいだろ。」

「そういうのは分からない。」

「まあ、俺も最新のファッションは知らないんだがな。俺が好きなのはこの『古のOTAKU文化』に出てくるファッションだ。女子向けのは……日本刀にセーラー服、全身タイツみたいなパイロットスーツとか、だそうだぞ。ちなみに俺はボロボロのマントを羽織って腕組みをするスタイルをやってみたいんだが、今のホビーアバターには合わないんだ。どう思う?」

「カッコいい。組み合わせてアレンジする。」

 ――こうして仮想世界でのホビーアバターが決まった。セーラー服を取り寄せて現実世界で着るようになった。


 ユリネは初めていろんな事を知って、いつの間にか好きなものが増えていった。


 その間も、アルとユリネは室米の指示を受けながら、ORCAシステムの研究を続けていた。室米にとってその研究自体には大して期待していなかった。室米の本当の目的は、次に行われる鹿追親子の実験結果の監視だったから。コードVに下手に手を出すのは共存派に察知される危険性が高い。だが、実験が成功してしまい、鹿追親子がコードV発現条件を解明してしまうのを黙ってみている訳には行かない。実験の状況を見張るため、怪しまれずに浦幌御影に近づける存在として、周到にアルを利用したのだ。

 もちろん、ユリネもそのことは知っていた。コードVの実験はどうせまた失敗するはずだった。そうしたら、理由をつけて何事もなかったかのようにアルへの支援は打ち切られ、それで終了、のはずだった。だが予想に反し、御影のコードVは不完全とはいえ有効になり。事態は急速に動き、ユリネとアルの時間は唐突に終わりを告げたのだった。


                 ◆ ◆


 濃い茶色の木製のドアには、輝くドアノブが光っている。何度も来た室米の執務室だ。ユリネは頭の中を切り替え、扉をノックした。入れ、という言葉の後、扉を開けると、ウォールナットのデスクで何かの書類を見ていた室米がチラリと顔を上げた。その傍らには、ユリネと同じような髪型と服装の人形が座っていた。

「実験の状況がかんばしくないようだね。」

「すみません、お父様。」

 室米は、ユリネを一瞥すると再び机の上の書類に目線を戻した。

「レイヤー2以下が使えないのは、システムのユーザーインターフェースのせい、です。」

「ふむ。」

 目線を書類に落としたままの室米に、ユリネは報告を続ける。

「インターフェースが一般人用、なので、上位権限があっても使えない、のです。」

「つまり、機能はあるのに、押すスイッチが無いということだね。」

「はい。」

 ユーザーインターフェースは、ORCAシステムのインプラントに使用者の脳波からの命令を伝える役割を持っている。御影は本来の管理者権限保持者ではないため、インプラントに最初から登録されているユーザーインターフェースが一般タイプだった。それがコードVの能力を不完全にしか使えない要因と推測された。御影がアバターの自動生成が使えないのも、権限とユーザーインターフェースタイプの不適合による異常と考えられた。

 ユリネの報告を書類を眺めながら聞いた室米は、首を傾げ、こめかみの辺りを指で押さえて言った。

「これ以上は、『ハルポクラテス委員会』から情報を得るしかない。彼らならユーザーインターフェースも管理者タイプだろう。取りかかりなさい。」

 ユリネは返答に躊躇してしまう。それは、今までに無かったことだった。

「どうしたんだい?百合音。」

「『ハルポクラテス委員会』は危険、です。」

「……なんだって?」

「危険、です。こっちから手を出すと、この場所が見つかるかも。」

 その時、バキッと音がして、室米の手から黒いインクが机に滴った。室米が手に持っていた万年筆のペン先が折れていた。

「百合音、私に意見するのか?」

「す、すみません。」

 突然向けられた怒りに、ユリネはびくっと身をこわばらせた。室米に怒られたのは初めてだった。

「涙目になっているのか?随分と人間らしくなってしまった……残念だ。」

「……すみません、すぐに『ハルポクラテス委員会』を調べます。」

「そうしなさい。今現在、浦幌御影が一番目的に近づいているのだ。きちんとやってもらわないと困るよ。」

 室米は鋭い目でユリネを見つめながら続けた。

「まァ、成果が出ないようならやむを得ない。その時は浦幌御影は処分。一緒にいるイルカもだ。知りすぎているからね。」

「そんな!」

 思わず出てしまった言葉に、はっと口を押さえた時には遅かった。

「いい加減にしなさい。お前に、何か意見を持つことを許可した覚えはないよ。少し見ないうちに大きくなって……」

 本来なら、優しい表情と共にかけられるはずの、成長を喜ぶ言葉。だが室米の顔に浮かんでいたのは、憎悪と怒り、そして悲しみだった。その表情に射貫かれたユリネは一瞬息が出来なくなった。

「あ、……す、すみま、せん。」

「あんな変なイルカの所に行かせたのは失敗だったようだ。まァ、勝手に死んだのは手間が省けて楽だった。」

「……!」

 その時のユリネの表情を見た室米は、もう完全に興味を失ったように机に飛び散ったインクをハンカチで掃除しながら言った。

「君がこの家に居たければ、役に立ちなさい。」

「……はい。」

 部屋の外に出たユリネは、強く握りしめた手に爪の跡が残っていることに気がついた。ユリネと取って初めての感情が胸を満たしていた。

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