第8話 逃亡

 ウィリーを背負ったまま、僕は数メートルの距離で男と対峙した。

 ぼさぼさの髪の毛に無精ひげ、よれよれのスーツという恰好の男は、とても警察官や消防隊員には見えなかった。

「逃がさんぞ。」

 そして無精ひげの男は「逃がさない」と言った。「助けに来たぞ」でも、「大丈夫か?」でも、「ごきげんよう」でもなく。燃え盛る火災現場から逃がさない意思とは、それはつまり殺意。

 殺される。何とかしないと、殺される。

 だがウィリーのポッドは壊れており、さっきまでのように華麗な蹴りは望めない。そして僕のひ弱な体で同じような真似はできない。

 残された手段は、逃げること。三十六計逃げるに如かず。

 でも、僕はもともと走るのは速くないし、最近まで入院していたし、重いウィリーのポッドを背負っているし、つまり無精ひげの男は確実に僕より早く走れるということで……

 アドレナリンのせいで思考が妙に加速する。しかし、それは絶望的な状況をより正確に僕に認識させただけだった。

 まずい。やられる。逃げられない。逃げられない?

 絶望に発狂しそうになったとき、


 ――未来で幸せになって


 紗由の声が聞こえた気がした。

 そうだ、幸せな普通の人生を取り戻すはずなのに、なんで僕はこんな目に会わないといけないんだ?

 絶望が静かな怒りに転じた。

 その時、男が笑みを浮かべ、ゆっくりと僕らのほうに向けて踏み出した。

「来ないで……」

 背中でウィリーの弱気な声が聞こえた。

 そうだ、こっちに来るな!こんな所で、終わらされてたまるか。僕は男の目を睨みつけた。


 そこのお前、足を止めろ。そう、無精ひげのお前だ。

 右足を上げるな、左足を上げるな、ひざも曲げるな、体重移動をするな。

 緯度も、経度も、東西南北どちらにも、X方向にも、Y方向にも、一ミリだって、一インチだって、一寸だって――動くんじゃない!


 突然男の足が止まった。

「あ、ああ!?痛ぇ!頭が!なんだァ??うぅ……あぁ!」

 男は頭を押さえ、苦しそうにその場に膝をついた。

 何が起こったのかは分からない。だが、分かる必要はない。チャンスだ。今はまず、逃げる。

 僕は大きく息を吸って止めてから、ウィリーを背中に背負い直し、後ろを向いて走り出した。この隙にあの男から出来るだけ距離を取る。表へ行くには男の横を通る必要があったので、自分の背後にあった裏口から外に出る。アルの送ってくれたルートに沿って、隣の家との間の細い道を走った。このあたりは区画整理から取り残された古い住宅街で、表の通りから離れて裏に入るとそこは複雑に入り組んだ細い道と廃屋が作り出す迷路のようだった。人から逃げるには都合が良かったのだが、いかんせんポッドに入ったウィリーを抱えた僕の走るスピードはせいぜい歩いているより少し早い程度だった。

「先輩、もう少し早く走らないと、このままじゃ二人とも……」

 僕は返事をしなかったが、頭の中ではウィリーの言う通りだということは分かっていた。このままだと、間違いなく追いつかれる。無精ひげの男がいつまでも謎の頭痛でうずくまっていてくれると考えるのは楽観的過ぎる。頭の中でアルの声がしているが、返事をする余裕は無かった。

 さっきから口は酸素を求め開きっぱなし、脇腹は痛みを訴え、足は一歩ごとに重さを増す。ウィリーのポッドが少しづつ背中からずり落ちているが、それを背負い直す余力は無かった。

 結局、絶望を少しだけ先送りしただけだったのか――

 この状況の明快な解決策を、もう一人の自分がささやくのが聞こえた気がした。

 背中のを降せば、もっと早く走れる。 

 つまりウィリーを置いていくということ。

 知り合って一週間も経っていない。しかも人間でも無いじゃないか。

 自分の命とどちらが大事か?

 そんなこと、分かっているはずだろう?

 生き延びて幸せになるんじゃないのか?

 紗由に会いに行くんじゃないのか?

 僕は足を止めた。肩で息をしながら、周りを見回す。まだ無精ひげの男には追いつかれてはいないが、時間の問題だろう。塀の向こうに見える煙はまだすぐ近くにあり、ウィリーの家からは全然離れていない。アルの送ってきたルートは裏の道を通るものだったので、周りに人の気配は無かった。無理にでも表に逃げて人に助けを求めるべきだったか。でも、もう遅い。

 その時、目の前の金網に隙間があることに気が付いた。住宅街を流れる細い川沿いに張り巡らされた金網だ。視界に浮かぶ地図を確認する。隙間を通り、川を飛び越えれば大きくショートカットが出来そうだ。川は僕でも何とか超えられそうな細さだが、金網の隙間は人一人が通るのが限界の大きさで、ポッドと一緒に通り抜けるのはまず無理だ。つまり――僕は背負っているウィリーをついにその場に降ろした。

「先輩?どうしたんですか?」

「……」

「先輩、まさか?」


 無精ひげの襲撃者の男、旭若太あさひわかたは迷路のような住宅街の隙間を進んでいた。

 なぜこんなことになっている?簡単なミッションのはずだったのに。

 家に忍び込んで、ガキとイルカを始末するだけ。

 家の防犯システムの通報も消させたし、周囲の通信トラフィック解析によれば標的達は仮想世界にログイン中のはずだった。まさか反撃されるとは。自ら現場には行くなと言われていたが、自分が来ていて正解だった。部下達だけだったら情けなく全滅していたところだ。

「ちっ、まだ少し頭が痛てぇ。俺ももう歳だってのか?」

 こめかみを押さえる。謎の頭痛はすぐに収まり体も動くようになったが、その隙に標的の逃走を許してしまった。だが、標的が壊れたイルカのポッドを担いでのろのろと逃げたのはラッキーだった。

 ポッドから漏れたオイルが地面に作ったシミがはっきり見えていた。

「運良く生き延びられたかも知れないのに、最後にヒーロー気取りで選択を間違えたなぁ。」

 哀れな標的の行先を知らせるオイルの間隔はだんだん狭くなっている。逃げるスピードが落ちているのだ。もうすぐ、きっとあの角を曲がった所にいるだろう。迅速な行動のために、シミュレーションをしておこう。


 パターン1、イルカだけがいたら?

 電磁警棒でポッドを完全に破壊してから、水槽に電磁警棒を突っ込む。感電死だ。


 パターン2、ガキも一緒にいたら?

 先にそいつだ。ナイフだと後の掃除が面倒だ。電磁警棒を心臓に押し当てる。


 標的の若さを考えると、少し気の毒と思わない事もない。だが、しょうがない。

 何しろ正義のため、社会のためなのだ。

 無意識に口元に笑みが浮かぶ。角を曲がると、そこには金網に寄りかかるポッドがあった。周りに人影は無い。どうやらパターン1のようだ。

「ふん、やっぱりイルカだけ見捨てて逃げたか。」

 しかし、何かがおかしいことに気が付く。

「ん、が無い?」


 僕はウィリーを抱えて走っていた。そう、を抱えて逃げたのだ。

 ポッドの中身、つまりウィリーのイルカの体だけならせいぜい30kg程度だったので、僕でも抱えて走ることが出来た。

『ミカゲ、夏じゃないからまだマシだが、あまり長時間になると乾いて体温が上がりすぎる。急げ。』

「ハァ、ハァ、わかってる、よ!」

 

 金網の前でウィリーを降ろした僕が、一瞬自分だけ逃げようと考えたのは事実だった。

 だが、そうして逃げ伸びても決して幸せにはなれない。

 紗由に会わす顔がないじゃないか。

 会ったばかりのイルカとはいえ、人間じゃないからって……

 そこで思い出したのだ。ウィリーは人間じゃない。金属製のロボットでもない。

 今の目的は、僕とウィリーで男から逃げること。その手段はポッドを運ぶ事じゃない。僕は間違えていた。

「アル、教えてくれ。知性イルカは水から出しても大丈夫なのか?」


 そうして僕はポッドから取り出したウィリーを抱えて金網の隙間を通り抜け、細い川を飛び越えた。

 イルカは肺呼吸であるため、水中から出ても呼吸は問題無い。知性イルカは遺伝子改造で身体が小さくなっているので、体重で内臓が押しつぶされることもない。

 両手で抱えたウィリーの方をちらっと見ると、僕の方を見てひれを少し動かした。大丈夫、という意思表示のように思えた。ポッドに付いているスピーカーが無ければ、イルカたちは人間の言葉をしゃべることは出来ない。僕に色々なことを教えてくれて、さっきは襲撃者を蹴り飛ばして僕を守ってくれた。でも実際は僕が抱えられる小さな生き物なのだ。

『こんなこともあろうかと、ラボに予備のポッドを用意しておいて良かったぜ。そこの角を曲がったら、入口だ。』

 アルの声が頭の中でナビをしてくれる。金網の隙間はウィリーのポッドで塞いできたので、同じ方法で無精ひげの男がショートカットしようにもポッドを動かす時間が稼げるだろう。かなり複雑に曲がったり戻ったりをしたので、僕も完全にどちらの方角に逃げているのかわからなくなっていた。

 最後の角を曲がるとそこは行き止まりだった。つんのめって転びそうになりながら立ち止まる。危うくウィリーを落としてしまうところだった。

「うへっ?おい、どうなってるんだ!?」

『落ち着けって。今周辺をセンサーで確認してる。よし、追いつかれてないな。』

 すると、カタカタと音がして目の前の壁に割れ目ができ、ゆっくりと開いて入口が出現した。

「まるで秘密基地だな……」

 ウィリーも何か言いたそうに身体を動かしている。

『ははは、かっこ良いだろう!さ、早く入るんだ!』

 僕はウィリーを抱え、アルの自慢の秘密基地に飛び込んだ。

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