何でも上手くいきそうな日

第5話 初めての仮想世界

 僕はその日の夜、夢を見た。

 夢の中で僕はどういうわけかイルカになっていた。夢にはありがちだが、特に脈絡は無かった。

 これでウィリーと同じだ!と思ってウィリーに会いに行く。

 するとウィリーは、「先輩、私人間になったんですよ。」と美少女の姿で笑った。

「イルカと人間は一緒には暮らせませんねぇ、さようなら。」

 そう言ってウィリーは歩み去っていく。イルカの僕が水槽の中から小さくなる背中を見つめていると、横に突然一頭のイルカが現れ、「久しぶり。御影君。」と言った。次の瞬間、そのイルカは高校生の頃の紗由の姿に変わって言った。

「人間?それともイルカ?君はどちらを選ぶの?」


 僕は目を覚ました。まだカーテンを付けていない窓から朝日が差し込み、どこからか小鳥の声が聞こえる。春の朝だと言うのに、僕は寝汗でびっしょりだった。


「おはようございます、先輩。良く寝られました?」

 まだ着替える服を持っていなくてそのまま階段を降りた僕を、ウィリーの声が出迎える。

 イルカは嗅覚が退化しており、実は匂いをほとんど感じない。それは知性イルカも同様だったが、見た目が女子のウィリーの前で汗で濡れた服をずっと着ているのはやっぱり気になる。早く着替えを買わなければ。

 見るとウィリーはエプロンを付けて朝ごはんを作ってくれていた。匂いからすると卵焼きを焼いているようだ。柔らかな朝の光の中で振り返った笑顔に、夢の光景を思い出す。

 あの夢のように、イルカと人間のどちらかの選択を迫られたら、僕はどうするのだろう。

「ああ……おはよう。うーん、あまり熟睡は出来なかったかな。なんか変な夢も見たし。」

「え、どんな夢ですか?もしかして、私が出てきたりしたんですか?」

「……どんな夢だったかは忘れたよ。」

 まだ汗で湿るシャツの胸元をパタパタと仰ぎながら、僕は嘘をついた。

「ま、夢ってそんなものですよね。あ、知性イルカも夢を見るんですよ。人間と同じですね。」

 人間と同じ、というところに心が少し、引っかかる。

「ウィリーは今日は夢を見たの?」

「それは、女子の秘密です!」

 なんだよ、それ、と笑いながら僕ははぐらかされたような気分になった。


 だが、僕はどんな答えを期待したのだろう?

 人と同じような夢を見れば、安心したのか?

 それとも、人が絶対見ないような夢を見ていたら、やっぱり違うと納得したのだろうか?


「さ、今日は買い物と病院ですね。新しい服を買わないと、洗濯も出来ませんからね。」


 数分後、出来上がった料理が並べられた食卓にウィリーと向かい合って座った。

 卵焼きに、味噌汁、白米、焼き魚、と絵にかいたような日本の朝食だった。ウィリーの前には魚しかなく、他の料理は僕のためだけに作ってくれたようだ。はたから見れば、うらやましいことこの上ないシチュエーションだろう。余計なことは考えないで、この幸せをもっと堪能すべきなんじゃないかとも思ってきた。ウィリーの作った料理は少し塩味が強めな以外は普通に美味しかった。嗅覚は退化しているし、味覚も人と違うだろうに、きちんと人間の料理を作れるのは不思議だ。

 家の中を改めて見回す。テレビの類は見当たらない。ORCAオルカシステムのおかげで空間に表示して動画を見られるので、映像を映す専用の機械は既に特殊な存在だ。ウィリーは食事中にニュースなどを見る習慣は無いみたいで、たまに僕に話しかけながら箸で魚を美味しそうに食べている、ように僕の視覚に上書きされている。

 カウンターキッチンの向こうには水道に繋がった四角い機械があった。これは海水を作る機械で、ポッドの中を満たす海水を補充するそうだ。

 知性イルカはどうやって寝るのか訊いた。大きな水槽が寝室に置いてあって、そこで泳ぎながら寝るのだと言われた。イルカは寝ている時も脳の半分は起きていて、泳ぎ続けながら寝るものらしい。少し見てみたい気がしたが、女の子の寝室を勝手に覗かないでくださいね!と釘を刺されてしまった。

「そういえば、買い物は仮想世界で出来ないの?」

「もちろん出来ますよ。というか今はそっちのほうが一般的です。今日は病院にも用事がありますし、先輩に早くこの街を覚えてもらわないといけないので、あえて実店舗に行きましょう。仮想世界はまた今度案内しますから。」

 確かに僕はこの街の地理を全然分かっていなかった。ORCAシステムで地図をAR拡張現実で表示する機能は普通に動いたし、現在位置もわかるから道に迷う心配は無いのだが、覚えるに越したことはない。ウィリーは明日まで休みを取っているという。つまり、明後日以降は僕は一人ということだった。

「じゃあ、今日、明日で色々教えてもらわないとだね。」

「まかせてください。先輩が独り立ち出来るように頑張ります!」

 ウィリーはちょっとおどけた感じでそう言いながら、両手でガッツポーズを取っている。そんなウィリーを見ていると、何でも上手くいきそうな予感がしてきた。

 昨日は色々あったが、気を取り直して新しい人生だ。


「鹿追先生ですか?それが、今朝から連絡が取れなくて……」

 買い物を終え昼食を食べた後、僕らは昨日退院したばかりの病院に来ていたのだが、僕の根拠のない「何でも上手くいきそうな予感」は、早くも崩れかけていた。

 シロキさんに調整してもらった公共パブリックアバターのおかげで道中では昨日のようにジロジロ見られることは無くなった。病院内ではORCAシステムのアバターは無条件で無効になるため、今は僕もウィリーも本来の姿だ。アバターだと患者の顔色や目の状態が正確に分からないなど医療行為上の不都合があるし、医者が本当に人間なのか不安になる患者もいるから、というのがアバターが病院内で使えない理由だった。

 僕の主治医の鹿追という医者にコードVのことを訊こうと思ってやってきたのだが、受付のイルカが言うにはどうやら連絡が取れないらしい。

「今日はお休みってことですか?」

「本当は出勤なんですけどね……どうかされましたか、御影さん?」

 体に不具合があるならすぐに診てもらうべきだろうが、幸い今のところ問題はない。わざわざ急いで他の医者に診てもらうのも申し訳ないと思い、なんでもない、と答えた。

「鹿追先生に何か伝言があればお伝えしますよ。」

「そうですか……じゃあ、コードVというのが出ている、何か知ってたら教えて欲しい、とお伝えください。」

「コード?」

 話が聞こえていたのか、後ろにいた別のイルカが反応した。

「ん?新人さん、あなた何か知ってるの?」

「ああ、いえ、知らないです。」

 何やら話している2匹の知性イルカを交互に見る。冷凍睡眠から覚めたころはイルカはみんな同じに見えたが、ひれの形や顔の作りなどそれぞれ個性があるものだ。

 ちらっと隣のウィリーを横目で見る。ウィリーは自宅でも気を使ってか人間の姿でいてくれるので、イルカの姿を見るのは昨日の最初の帰宅時以来だ。ウィリーは確かにイルカの姿でも全体の形が整っていて美しい。遺伝子が美少女というだけはある。

「最近は受付で困られることが多いですねぇ。」

 僕の視線に気が付いたのか、こちらを見たウィリーが笑いながら言った。

「確かに。昨日のORCAシステム管理局でもこんな感じだったね。」

 なんとも、スムーズに行かないものである。

「私たちもよくわからないので、鹿追先生に伝えておきますね。何か体に異常があったらすぐに連絡してください。」

 申し訳なさそうな顔の受付のイルカにお礼を言いながら、僕たちは病院を後にする。相手がイルカの姿でも表情がわかるようになってきた。

 病院の受付を後にし正面の出入口をくぐると、昨日と同じように外に出たタイミングでウィリーの公共アバターが表示された。

「午後が丸々空いちゃいましたね。うーん、どうしましょうねぇ?」

 人間の姿で腕を組んで首をかしげるウィリーを見ながら、やっぱりこっちのほうが良いな、なんて思ってしまう。

「あれ、先輩は自動でアバターがONにならないんですね。」

「ん?やっぱりどこか壊れてるのかな?院内に入った時も自動でOFFにならなかったし。」

 病院の入口でアバター無しでいるせいなのか、なんだか視線を感じた。面倒な気持ちでORCAシステムのウィンドウを開き、公共アバター表示をONにする。

「うーん、シロキさんのおかげでだいぶマシになりましたけど、やっぱり公共アバターとしてはちょっと違和感がありますね。」

「今日はシロキさん仕事があるって言ってたからな。もう少しこれで我慢だよ。」

「あ、そうだ。私の友達で、ORCAシステムに詳しいイルカから久しぶりに連絡が来ていたんです。仮想世界の案内も兼ねて紹介しますよ。その人なら何か知っているかも知れません。」


 そんなわけで、午後はウィリーが仮想世界を案内してくれることになった。

 この時代では仮想世界が第2の現実と呼べるほど発達している。僕の時代の、文字、画像、動画などで構成されたインターネットはすべて仮想世界に吸収、統合された。ウィンドウを開いてそこに表示される情報を見ていく昔ながらの方法も外出時の簡易的な手法として残されてはいるが、一人称視点でホビーアバターを纏って3DCGの空間に入り込んで使うのが普通だ。

 仮想世界に入り込む場合は拡張デバイスと呼ばれる機器で通信能力と演算能力の補助が必要なため、基本的に自宅で使う。VR仮想現実のゲームみたいなイメージで自分が丸ごと3DCGの空間に入り込んだ感じになる。

「SFの世界だね。でもその間の実際の体はどうなるの?動かせないのか?」

 病院を後にしてウィリーの自宅に帰ってきた後、二階の僕の部屋のベッドの上で僕はウィリーの説明を聞いていた。拡張デバイスを手に取って眺める。ゴーグルのような形をしており、頭につけて目と耳を覆うようになっている。ただし、目のところにレンズやディスプレイがあるわけではないので、ヘッドマウントディスプレイではないようだ。

「え、動かそうと思えば普通に動かせますよ。じゃないと危険では?」

 そりゃそうだけど……少し意外な答えだった。映画やアニメで見るような未来のフルダイブ型VRは神経接続とかで脳を仮想世界に繋ぐという物で、接続している間は実際の体は無防備、というのがお約束だった。

「あれ、そうなの?じゃあ、コントローラーとかでアバターを操作するのか?なんか普通だね。」

「普通は脳波コントロールですね。まあ、どうしても慣れない人はコントローラーも使いますけど。」

「どういうこと?」

「実際の体はここに横になったまま、脳内でもう一人の自分を動かすんです。」

「もう一人の……って。なんか難しそうだな。」

「まあ、いくらやっても上手く動かせない人はいますね。どうしても本当の体の方も動いちゃう、って人。そんな人は仕方なく物理的なコントローラーを使うんです。」

 体にセンサーをつけて実際の動きを取り込む方法もあるそうだが、広い場所が必要になるので使うのは一部の特殊な用途に限られているそうだ。

「習うより慣れよ、ですよ、先輩。やってみましょ。」

 拡張デバイスを頭に取り付ける。目と耳を覆うのは、こうしたほうが心理的に仮想世界の操作に集中しやすいからだそうだ。ARでORCAシステムのウィンドウを開き、目を閉じる。闇に包まれた視界の中、ウィンドウだけが浮いている。

「じゃあ、『仮想世界へのログイン』、を選んでください。」

 ウィリーが僕の画面をミラーリングしながら横で指示を出す。拡張デバイスで耳は覆われているが、今は外音取り込みモードに切り替えているからウィリーの声が聞こえる。

 ORCAシステムのID情報機能を使った認証のおかげでパスワードの入力などが無いのは楽だ。僕は仮想世界で使うホビーアバターはまだ持っていなかったが、公共アバターからホビーアバターへ変換する機能があった。ちょっと不安だったが、この機能はちゃんと動いて安心した。昨日シロキさんが調整してくれてだいぶマシになった「人間のようなもの」アバターを仮想世界での自分の姿として設定する。

 仮想世界への初ログインに、僕は大いに期待し、胸が高鳴るのを感じていた。現実世界のようなルールに縛られない、80年後の技術をもっと見たかったのだ。

「ログイン、を押せば良いんだね。」

 一瞬の間をおいて、闇に覆われていた視界がパッと明るくなる。データをロードするような時間は一切なく、次の瞬間まさに僕は美しい海岸に瞬間移動していた。

「おおっ!海だ。海にいる!」

「あ、懐かしい、この海。初期設定は皆ここなんですよ。」

 海に来たのはいつぶりだろう。打ち寄せる波の音と海鳥の声。青い空に青い海、白い砂浜、照りつける太陽!

 太陽の熱が肌を焦がし、さわやかな海風が通り抜けて……いかなかった。

 海の香りがする……ような気がしたが、もともとウィリーの家は少し海水のにおいがしていたことを思い出す。

 どうやら再現されるのは視覚と聴覚だけらしい。

「なんかちょっと想像と違う……触覚とか嗅覚は無いの?」

「技術的には出来るらしいですけどね。実際の体の感覚と混ざって気持ち悪いことになるからやらないそうです。脳だけ取り出せば五感の再現された仮想世界へ行けると言われていますよ。」

「なんかさらっと怖いこと言うなよ……」

 僕は勝手に高めた期待に裏切られ、勝手にがっかりした。

 だがそれでも、数秒その世界にいるだけで僕の時代より確かに進んでいることを感じた。視覚、聴覚に伝わってくる感覚のリアルさは作り物という感じがまったくしない。通信はゼロ時間、感覚伝達は脳にダイレクトだから、視界と動きのズレによる違和感や不快感もない。

 たとえば振り向いてもタイムラグ無く、ちゃんと頭に合わせて視界が……ザザッ!

 ベットで寝ている本当の頭の方も動かしてしまい、拡張デバイスがずれて視界が乱れた。思わず頭に手を伸ばすと仮想世界の手も動いた。動いているのが本当の体なのか、仮想世界のアバターなのかわからなくなって、しばらくベットの上でじたばたしてしまった。

「おわっ!?」

「あはは、最初はみんなそうなります。頭の中でスイッチを切り替えるような感じで、まずは本当の身体から力を抜いてください。」

 ウィリーのアドバイスに従い、いったん本当の身体をリラックスした状態にし、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。ゆっくりと脳内の自分だけを動かすイメージで、アバターの頭だけを動かしてみる。仮想世界内の僕の頭が動き、視界が合わせて変化した。

「おっ、先輩、筋が良いのでは?」

「あ、ありがとう……」

 実際の身体の首が動かないよう、脳内の「もう一人の自分」に集中し、慎重にアバターの首だけを動かす。僕の「人間のようなもの」アバターの首がゆっくりと動き、僕の視界が動きに合わせて変化する。次は手を上げてみよう。ぴくぴくと動きそうになる本当の手を必死に気持ちで抑えながら、頭の中でだけ、手を動かす。ゆっくりとアバターの左手が上がった。

 よしいける。次はもう少し早く右手を動かしてみよう……

「いてっ!」「きゃ!」

 油断した現実の僕の右手が勢いよく動き、ウィリーにぶつかってしまった。

「ちょっと、先輩、どこ触ってるんですか?わざとじゃないですよね。」

 どうやら青年男子としてはラッキーな場所に当たったようなのだが、僕には硬い金属に手をぶつけたようにしか感じなかった。痛い。

「練習します……」

「うふふ、脳だけ取り出せば、きっと身体は動かないですよ。」

 ガン!

 頭を搔こうとして、今度は壁に手をぶつけた。

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