第15話

「心配はいらない。目的を果たしたあと、もとの世界に帰すと約束をした。それを違えるつもりはない」

 ジェイドは優衣を片手に抱えたまま、いっそ優しささえ感じる口調でそう言う。

「ほ、本当に?」

「ああ」

 もう怒っていないなら、離してもらえないだろうか。そう思いながら何気なく離れようとしてみたが、ジェイドの腕は少しも緩まない。

「帰りたくないのか?」

「帰りたいよ。でもこの国は本当に大丈夫?」

「優衣」

 ふとジェイドは、名前を呼んだ。

 その声に宿る優しさに、思わず目を見開く。それは先ほどの胡散臭いものとはまったく違っていた。

「な、何でしょう?」

「お前は俺に召喚されて、この国に来ただけだ。帰ったあとのことなど、何も考えなくてもいい。この国がどうなったとしても、お前には何の責任もない」

 気遣ってくれるような口調だったが、優衣はおそるおそる彼を見上げる。

 こんなに優しいのはジェイドではない。ありえない。

「……何か企んでいる、よね?」

 思わずそう尋ねると、あっさりと頷いた。

「ああ、そうだな」

「ですよね……」

 初対面からこんな優しい態度だったら、騙されていたかもしれない。でも、さんざん見てきたあとだ。いまさら騙されない。

「俺は、この国ではなく自分の目的のために、お前をこの世界に呼び出した。だからお前も俺に従ってもらう」

 いっそ清々しいくらい、ジェイドは傍若無人だった。

「わたしに選択の余地なんて、最初からなかったのね」

「よくわかっているな。その通りだ。もとの世界に帰りたかったら、さっさと守護者を見つけることだ」

「うう……。わかったから、とにかく離してください」

 とにかくジェイドから離れようと、彼の腕の中で暴れる。

 だが優衣の願いとは裏腹に、ジェイドは優衣の顔を覗き込もうとして、ますます密着してくる。

(ちょっ、近いってば! 美形も過ぎると毒だよ!)

「何をそんなに動揺している?」

「はい?」

 あまりにも優衣が慌てすぎて、まだ何か隠しているのではないかと疑っているようだ。

「ど、ど、動揺なんて……」

「してないとでも言うつもりか? まさか、この状況で?」

「……恥ずかしいだけだから。わたし、あまり男性と接したことなくて」

 ここまで来たら、もう隠しても仕方がない。正直にそう言ったのに、ジェイドはまだ疑っているようだ。

「見え透いた嘘を言うな」

「もう、本当なんだから! 自慢じゃないけど、男の人とちゃんと付き合ったことなんて一度もない!」

 思わず叫ぶようにそう言ってしまい、慌てて口もとを押さえる。

 忘れていたが、ここは図書館だ。

 ちらりとジェイドを見上げると、彼は唖然としていた。

 人選を間違えたか、と呟いた声が聞こえて、腹立たしくなった優衣はその腕から無理矢理抜け出す。

「とにかく、そういうことなの」

 相手が人間でも大変そうなのに、いくら自分の見た目が魔族の好みだからと言って、あんなに恐ろしい彼らを誘惑することなんてできるのか。

 本当は怖くて、不安なのだ。

 感情を爆発させたことによって、その恐怖まで自覚してしまい、優衣は思わず涙ぐむ。

「本当は、怖くて嫌よ。それでも帰りたいから、頑張ろうとしているのに!」

 初日から引っ張り回され、面倒だと放置されたことも一度ではない。それを思い出して涙目で睨むと、ジェイドは狼狽えたように視線を泳がせる。

 まさか彼がそんな顔をするとは思わなくて、優衣の怒りは一瞬で消えていた。

「ええと……。だから、その。頑張るけど、初心者なので。少しくらいは、大目に見てください」

 動揺していたのだろう。

 自分でも何を言っているのだろうと思うが、気が付いたらそう言ってしまっていた。

 だが返ってきた答えを聞いて、優衣は心の底から驚くことになる。

「わかった。お前が目的を達するために努力すると言うのなら、俺も協力しよう」

 あのジェイドが。

 こちらを振り回すだけ振り回して、こちらの要求には面倒だと溜息をついていたジェイドが、協力すると言ってくれたのだ。

 やはり言われるまま動くだけでは駄目だったのだと、優衣も反省する。これで少しはやりやすくなるだろう。

(……ん? でも協力って?)

 何だか嫌な予感がするのは、気のせいだろうか。

 ただ彼は、すべてが終わったら優衣をもとの世界に帰してくれるという約束を破るつもりはないようだ。

 それが聞けただけでも、よかったと思う。


(でも、まさかこんな展開になるなんて)

 優衣は目の前にいるジェイドを見上げて、思わず溜息をついていた。

 あんなことがあってから、彼は見違えるくらい優しくなった。

 それは喜ばしいことなのかもしれないが、あまりにも過剰すぎて、はっきり言って不気味なほどだ。

 まず翌朝のこと。

 天気の良い、さわやかな朝だった。

 少し開いた窓からは、心地よい風が入ってくる。

 自然に目が覚めた優衣は、手足を伸ばして思い切り背伸びをしたところで、固まった。

 何となく人の気配がして横を向くと、隣にはジェイドの姿があった。

 目を閉じているせいで、どこか人形めいた印象を受ける容貌。

 相変わらず、腹が立つくらい美形だった。

 隣に寝ていたのは、まだ良い。

 本当は良くないが、二度目だったから何とか叫ばずにすんだ。それでも悲鳴を押し殺して息を呑むと、気配を感じたのか、ジェイドが目を覚ました。

 どうやら昨日と違って、目覚めは良いようだ。

 彼はベッドの上に座ったまま硬直している優衣を見ると、ふと表情を緩ませる。

 かなり機嫌が良さそうだ。いつも、こんなにも美形なのにいつも不機嫌そうな顔をしていてもったいないと思っていた。

 でも、今はそれを訂正したい。

(綺麗な顔で微笑まれるのって、破壊力が凄すぎる……。もう、ちょっと限界です……)

 それなのに、彼はさらに攻撃を仕掛けてきた。もちろん、優衣の精神にだ。

「おはよう、優衣」

 そう言うと、優衣の艶やかな髪を優しく撫で、さらに額に唇を軽く押し当てる。

「ひっ」

 思わずそんな呻き声を上げて、後退る。

(デコチューとか、そんな殺傷力の高い攻撃を初心者に仕掛けるとは……。鬼か!)

 ジェイドのほうは、青ざめる優衣を見て眉をひそめる。

 不機嫌さを隠そうともしない。これがいつもの彼の姿だ。

「これくらいでも駄目か。先は長そうだな」

「へ?」

「協力すると言ったはずだ」

 あのときの嫌な予感は、どうやら当たっていたようだ。

 ジェイドは本当に、優衣が男性に慣れることができるように手助けしてくれるつもりらしい。

「いや、ムリムリ……」

 思わず首を振ってそう言っていた。

 たしかに、いきなり男を誘惑してこいと放り出されるよりは、親切なのかもしれない。

 でも相手が悪すぎる。

 離れたところで見ているだけで息が止まってしまいそうな美形が相手だなんて、素人がプロに戦いを挑むようなものだ。

「無理でもやってもらう。お前だって早く帰りたいだろう」

「それは、そうだけど」

「とにかくこのままだと、とうてい無理だということはわかった。今はこの世界の勉強よりも、こちらが優先だ」

「とうてい無理とか、ひどい」

 さすがにそこまで言われると、女として傷つく。だが、ジェイドはあっさりと告げる。

「事実だ」

「……」

 反論できなかった。

 とにかくこのままでは家に帰れない。とうてい無理だと言われたままなのも、少し悔しい。

 優衣は覚悟を決めて、ジェイドを見上げた。

「わかった。頑張る」

 そう言うと、彼の表情が柔らかくなる。

 それを見ただけで胸がどきりとするのだから、我ながら異性に対する耐性が皆無だなと悲しくなる。

 でもこのジェイドが大丈夫になれば、大抵の男性は平気になるに違いない。

(そう思っていた時期が、わたしにもありました……)

 

 それから、数日間。

 ジェイドはたしかに前とは比べものにならないくらい優しかったし、とても協力的だった。

 景色の良い場所に連れていってくれた。

たまに、町にある高級そうな店で食事をしたこともある。

髪を撫でたり肩に触れたりといった、こちらが身構えない程度のスキンシップで優衣の緊張を和らげようとしてくれた。

 それなのに慣れるどころかますます緊張してしまう優衣に、ジェイドもとうとう呆れた様子で言った。

「慣れるどころか悪化しているのは、どういうことだ……」

「だ、だって……」

 最初の頃はあまり意識していなかったから、普通に話もしたし、何気なく触れ合ったりもできた。

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