047 恐い顔をする

「………………痛った────!」

 

 数秒の静寂の後、戻ってきたのは打撲の痛みだった。着地(?)の衝撃で、佳穂は盛大に尻餅をついていた。

 山下埠頭に浮かぶコウモリ女のニュースだけは回避ができた。だけど、何が起こったのかは理解の範囲外だ。

 右腕が重くて動けない。もしかして折れたりしなのだろうか?

 目を瞑りながらぼんやりしていると、すぐ近くから声が聞こえてきた。

「テェ……。生きてっか? コウモリ」

 耳から入って来る音が、草原を吹き抜ける風に見える。

「悪ぃ、手こずっちまった。遅れてすまねぇ……」

(ああ、犬上くんだ……………………………)

 疲れ切って、のろのろする思考の中、辛うじて動く首を声のした方へと向ける。

「よぉ」

 そこに、同級生の黒い瞳があった。

 近い。

 近い。

 近い。

 体温を感じるほど近い。

 おまけに重い。

 疲れ切っているせいだと思っていたがどうやら違う。

 物理的に重い。

「悪ぃ、全然動けねぇ。あいつら結構、強くってさ…………」

 近いはずだ、力無く笑っている同級生は佳穂の腕を枕にしてひっくり返っていた。

「ちょ………い……オオカミ…さん!」

 顔が赤くなってくるのが自分でもはっきりとわかる。

 大噴火だ。

 慌てて身じろぎするが、犬上の頭があって身を起こせない。

「ぃてててて…………!」

「ごめんなさ──わわあわっ!」

 唸る犬上の額に、つつ──と垂れるものを見て、佳穂は思わず叫び声をあげた。

「血────!?」

「ああ、平気平気。こんなのしょっ中だ。舐めときゃ治る」

 喋るのが億劫な体で犬上が返す。

「それより、なんか食うもの────持ってるわけねえよな。腹減って動けねえんだ。回復するまで、もうちょっとこのままでいいか?」


「……………………………………

 ……………………………………

 ……………………………………

 ……………………………………」


 返事なんか出来るはずもない。同級生の頭を腕枕にしたまま、佳穂は完全に固まってしまった。


 海風が吹く中、ビミョーな時間が30秒ほど過ぎ去っていく。

 顔はこの上なく赤くなっている。

 ヤカンを乗せたら簡単に沸騰してしまう勢いだ。


「コホン。

 あの。そろそろ、いいですか?」


 月虹の蒼白が煌めいた。

 それは先ほど、海に落ちそうになった佳穂の元に、天から差してきた光と同じ色をしていた。

 ゴオ!

 それをかき消すように、颯が吹いた。

 気がつけば佳穂は緑の風に包まれていた。それが、同級生の腕であることに気がついて。佳穂は再び噴火した。

 起き上がった犬上は佳穂を抱えたまま、怖い顔をして誰かを見据えている。

 視線の先には、1人の男が身を起こしていた。


「ひどい目に遭いました――――。いきなり飛び込んでくるなんて……」

 月が照らす虹のように優しく光る声。佳穂にはその声に聞き覚えがあった。

 犬上に釣られて視線をその光に向ける。

(シュ、シュナイダー先生……!?)

 佳穂は、漏れそうになる声をてのひらで無理やり押し込めた。

 この衝撃、犬上に続いて本日2回目だ。

 間違うはずもない。

 今日、学校で、佳穂の担任だ、と名乗った教師がそこにいた。

「なんだ、あんたか……」

 よろめいた犬上が膝をつく。だが、声には少し安堵が感じられた。

「だ、大丈夫?」

 佳穂は思わず声をかけた。

「大丈夫だ、コウモリ」

 頭を振り、佳穂に笑いかける。

「余力を残しておかないからです。それじゃあ誰かを守るなんてできませんよ」

「――――余計なお世話だ」

 犬上は、拗ねたような顔でそっぽを向いた。

「さて――――。

 お初にお目にかかります。が、コウモリですか。

 

 立ち上がって佳穂の方に向き直ると、シュナイダー先生は涼やかに会釈をした。

 昼間見たスーツとは違う衣装。

 丈の長いコート、立ち襟にスカーフ、ベスト。前世紀、いやもう少し前の時代だろうか? これぞまさに紳士の出立ちだ。

 よくはわからないが異人さんと山下埠頭、ベストマッチなのか?

 そして――――。

 その背中には当たり前のように翼があった。大きくて四角い、いかにも飛べそうな縞模様の翼。

(この人もなの――――!?)

 佳穂は、半分呆れモードだ。昨日から今日、この密度は一体なんなのだろうか。

 いや、それよりも。問題は先生のこの表情だ。

 笑ってはいるが、これは顔だ。

 佳穂は笑顔を引き攣らせながら会釈を返した。

 シュナイダー先生はおそらくコウモリの正体に気がついているのだ。


 では、犬上は?


 ドギマギしながら、犬上と先生を交互に見てしまう。

「日本語おかしいぞ……。よくそれで古文担当だな」

 犬上は怪訝な顔を浮かべながら言った。

「それに、昼間は聞けなかったけど、トリの執政官がなんで先生になってんだよ?」

「執政官の任は解かれました。今月から私は地上勤務、そして8日目から私も参戦です」

「ふーん、そうか。が相手ならやりがいがあるだろう。

 だけど、今日のゲームは終わっている。終了直後とはいえ、まだ参戦していないクオリア使いがいきなり割って入るってのは、どういうつもりだ? さっきの三人組といい、それがトリの流儀なら覚えとくぞ」

 犬上が低い声で言った。

「すみません――――つい」

「つい、なんだよ」

「いえ、そこの方が海に落ちそうだったから、つい」

「はあ? 助けたようとしたってのか?!」

「まあ、責任ありますからね。コウモリさんには」

「なんだ? 知り合いか? 初見なのに?」

 犬上は怪訝な顔を浮かべて佳穂の方を見つめた。

「ええ、まあね。

 すみません。いきなりぶつかってしまって。失礼をお許しください。コウモリさん」

「なんだよ。俺にはナシかよ……」

「ええ、、ですからね」

「ふん。渡さねえぞ、コイツは」

 会話に取り残された佳穂は、顔が引き攣れたまま黙って見ているしかなかった。

 それにしても、シュナイダー先生は『責任がある』と言った――――きっと担任だから、と言いたいのだろう。


 では、犬上は?


『大丈夫だ、コウモリ』

 先ほどの言葉を思い出す。犬上は佳穂の事をずっとそう呼んでいた。


 そして、これは――――顔だ。

 さっきもあんなに近くで顔を合わせたのに、だ。


「な、なんだよ恐い顔をして!? なんか余計なこと言ったか? 俺?」

 犬上が訝しむ。

「嫌だって言っても、明日も来るからな!

 さっきも言ったように、オレ、もっと強くならなきゃいけないんだ。

 だから、明日はもっと近くにいる。そうしなきゃ、ちゃんとお前を守れない!」

 犬上は言い捨てるとそのまま踵を返し、駆け出した。

「待ちなさい、犬上くん。明日、どうやってコウモリさんの場所を知るんですか!?」

 シュナイダー先生が声をかける。

「匂いでわかるんだよ! 匂いで!」

 立ち止まり、振り返った犬上が鼻を指差した。

 そして――――緑の風は山下埠頭を吹き抜けて行った。

「ああ、そうでしたね」

 涼やかな顔でシュナイダー先生はそれを見送った。


 後に残された佳穂は困惑していた。

 これから帰らなくてはいけない。

 家で会ったら、どんな顔したらいいのだろうか。


「さて、私もこれで帰ります。

 終わったからと言って何が起こるかわかりません。気をつけて帰ってくださいね。。家に帰るまでが祭礼ゲームですから」

 先生は教師らしい(?)物言いで翼をひらめかせた。

 異人の紳士が舞い上がる。その羽音は優しく輝く月虹そのもののようだった。


「ま、待ってください! どうして、どうしてわかったんですか!?」

 佳穂が声を掛ける。

「秘密です!

 また、会いましょう!」

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