046 月虹と風と交錯する
「!?」
佳穂は肩越しに見た。
鶏禽の女だ。コンテナの上に立ち、諦めることなく佳穂を狙っている。
「これで! 終わりだ!」
瞬きする間もなく、女が叫ぶ。
「
次の瞬間、女の姿が消えた。
――見失った!?
佳穂は腕を強く振るった。
来る! これまで以上の覚悟とパワーで、
「……━━……━━━!」
佳穂は出せる最大限の声を発した。全神経を研ぎ澄ませ、コウモリの耳でエコーを待つ。
――――いた! 真下だ。まっすぐこちらへと向かう軌跡が見える。
ゴオ!
轟音と共に視界に火球が奔った。炎が尾を引き、火の粉が舞い散る。
引き伸ばされた時間の中、持てる感覚すべてを翼に集中し、炎の軌跡を撫でるように、翼を運ぶ。熱い。火傷しそうなくらいだ。
そして――火球の中から伸びる腕。
身を捩って翻った佳穂の脇腹を、紙一重ほどの隙間で掠めていく。
――躱せた!
熱い。ジンジンする感覚が翼を焼く。
圧倒的な熱量だ。翻らなければ、間違いなく捉えられていただろう。
しかし、躱せた!
痺れるような感覚が、心を騒つかせる。
佳穂は掠めたものの行く先を見た。
帳の降りた夜空を背景に、それは佳穂の目に飛び込んできた。
眩い光を放つ火球。大きく弧を描きながら、再びこちらへ向かって来る。
「ちぃいいいくしょおおおおおおおおお!!」
鶏の翼を広げ、額から伸びる焔の尾を曳き、猛烈な推力でこちらへ向かって来る。追手の女だ。
「う、嘘──!?」
飛べない──と、コルボの少年は言っていた。
だが、その道理を超えて、女は飛んでいる。
「────っ!」
佳穂は身を翻し羽撃いた。だが、あっという間もなく背後から襲われる。
ゴオ!
すんでのところで翼を閃かす。
「っ────!」
振るう翼の先に痛みが走る。火傷の痛みだ。さきほど掠めた女の炎でやられたのだ。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
女は再び旋回して、こちらに向かってやって来る。
「――――!?」
慌てて身を翻すも、ものの数回羽撃いただけで追いつかれる。圧倒的なスピード差。まるでプロペラ機きとジェット機だ。
ゴオ!
今度は鼻の先を炎が掠めていく。
この速さ、勝てるわけがない。佳穂は思った。
しかし――――
ゴオ!
そう思ったのは、最初の二撃ほどだけだった。
翼を翻し、避ける。ニワトリの腕が空を切る。
佳穂は翼を閃かすと女の方へ向き直った。避ける度に少しづつだが余裕ができている。見える音の中で、佳穂はニワトリの動きをハッキリと感じ取ることができていた。
ゴオ!
再びやり過ごす。
やっぱりだ。
ニワトリの動き、速度こそ圧倒的だが致命的に小回りが効いていない。
ゴオ!
熱量を感じる前に翼を閃かす。
直線的なニワトリの飛び方なら、充分引きつけてから躱すだけでいい。相手がどんなに早くとも、捕まらなければ負ける事はない。
そう──。勝つ必要はないのだ。
(このまま時間切れまで、避けつつければ……)
そう思った時だった。
ゴオ!
再び大熱量の火球が、翼の先を掠めていく。
だが――――。
「!?」
翼を幡めかせながら、佳穂は見た。鶏の女の表情が苦悶に歪んでいるのを。
それだけではない。
膝まであったニワトリの髪が、明らかに短くなっている。背中が完全に見えるほどに。
考えられる事はひとつしかない。ニワトリは、自分の髪の毛を代償にし、燃やしながら飛んでいるのだ。
「どうして……?」
佳穂は思わず声に出した。
自分の飛び方では、コウモリを捕まえるのが難しいことは、当の本人が一番よく知っているはずだ。
それでも、女は諦めない。
「ク、ソっ、たれええええええ――っ!」
焔が勢いを増しているのが、ハッキリと感じられる。
どうして、こんなに必死なのだろう?
いや、そもそもこの追いかけっこは一体なんなのだ?
だが、しかし――――
だとしても負けるわけにはいかない。
例えニワトリにどんな事情があろうとも、佳穂にだって理由はある。
捕まるわけにはいかないのだ。
だったら──
だったら、早く決着をつけなければ。絶対に、絶対に逃げ切らなければ。
佳穂は翼を翻し、女に背を向けて羽撃いた。
正直、怖い。恐ろしい。
それでも、羽撃く。
向かうは、氷川丸の照明煌めく海面だ。一直線に急降下する。
「チキンレースってか!? バカにするなあああっ!」
叫び声はすぐ背後に吠え、海は壁のように目の前に迫ってくる。
まだだ、まだ、まだ!
もたげてくる恐怖心を抑えつけ、落ちるように飛翔する。
視界が海面で覆い尽くされる。背後のニワトリも諦めない。
今、ここで決着をつける。
気持ちを奮い立たせ、集中する。できるかどうかもわからない。それでもやるしかない。
喉の奥にエネルギーが
「━━━━━━━━ッ!!!」
佳穂は歌うように叫び声をあげた。
真鍮色の光が喉を通って迸る。無窮の声が波頭を切り裂き、海を大きく抉っていく。
「なっ!?」
佳穂を海へ叩き落とそうとしていたニワトリが叫んだ。突然掘り下がった海面に、大きく体勢が崩れている。
海が作り出すハーフパイプの中、佳穂は羽撃いた。
撒き散らされた水滴が、ニワトリの焔に降りかかり、激しく蒸気を上げている。
「ちいいいいいいくしょおおおおおおおおおおっ!」
炎の緋色が消し消えていく。
叫び声と共に、失速したニワトリは海へと落下した。
ジリリリリリリリリ――――!
同時に、ポケットの懐中時計が鳴りだした。
逃げ切れた!
だが、安堵も束の間。
「────…………‥ ‥ ・ 」
(声が、出ない!?)
無窮の声が急激に減衰する。ガス欠のように力が入らない。
たちまち、ハーフパイプが崩れてくる。
「きゃああ――!」
普通の悲鳴なら出るが、それでは全く意味はない。迫る海面を目近にし、たまらず翼で頭を覆う。
これで、明日のニュースは『怪奇! コウモリ女、山下公園に浮く』だ。
その時だ────
埠頭を駆け抜ける風が吹いた。
「コウモリ──────!」
草の緑が煌めいた。見知った感覚だ。
真っ直ぐにこちらに向かって来る。
来る。
来る。
宙に居ながら、佳穂は思わずその姿を探した。
だが――――
先に佳穂の目に飛び込んできたものは、緑の風の主ではなかった。
その影は真上から突然、現れた。
本当に突然に、だ。
未だ登っていない蒼白の月。その側にぼんやりと光る虹が――――無音の翼を広げ、一条の光のように佳穂へと向かって来る。
来る。
来る。
「てええええなんだ────!?」
「うわわわわっわああ────っ!」
「きゃあああああああ────!?」
草原を渡る草の緑。
午前一時の月の蒼白。
金管楽器の真鍮。
空中で3つの輝きが交錯する。
続いて、埠頭に1つの落下音。
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