038 船溜まりに旋風が吹く

「───きゃああああ!」

 振り回された佳穂は、衝撃と共に係留されていたヨットのマストにひっかかった。

 罠だったのだ。そんなに調子よく行ける筈が無かった。

 後悔しても遅い。

 逆さになったベイブリッジの灯火が瞬いている。

 無様にぶら下げられた、逆さコウモリ。

 それが今の佳穂だ。

 前髪が重力に従い、垂れ下がる。

「ひっ!」

 佳穂は揺れに耐えながら、前髪を抑えた。


「あーあ、引っかかちまいやがんの。ドジな女だな」

 事の起こっている船溜まりを遠目に見ながら、便利屋はため息をついた。

「………………」

 濡れそぼった傘を握りしめ、唇を噛む。

 ほんの一秒ほどの間の後。

「ヤメだ! ヤメ! なんでこれ以上、鉄床雲かなとこぐもに突っ込むような真似しなきゃなんねぇんだよ!」

 便利屋は踵を返した。

 その頬を、宵闇の微風が撫でる。

「────ん? 風か?」


「ハハッ! そのまんまじゃねえか! 逆さコウモリ!」

 緋色に輝く翼を閃めかせ、追手の女が八艘飛びで近づいてくる。

 佳穂は、足に絡まったネットをほどこうと必死に藻搔いていた。

 だが、片手ではうまく解けない。

 もう一方の手は前髪を押さえるので精一杯だ。

「終わりだな! 飛べることが絶対有利ってわけじゃねえ! 証明してやったぞ!」

 女はあと一跳びで、佳穂の船に跳び移れるだろう。

 万事休す――――だ。

 結局、自分には無理だったのだ。

 この期に及んで前髪を押さえてしまう自分が情けない。どうして自分は、この手を離すことができないのだろう。

 悔しさにベイブリッジの灯火が滲んでいく。


 その時だ。

 びょう。

 船溜まりに突然、風が吹いた。

 風は、輝く。草原くさはらをざわつかせる緑色に。

 風は、係留された船の間を吹き抜け、そして……佳穂に迫る緋色の女に激突した。

「な、何!?」

 鶏禽の女が叫んだ。

 船溜まりに衝撃が走った。それは光となって、衝撃に揺れる船をまばゆく照らしだし消えていく。

「くっ!」

 弾き飛ばされた緋色の女はかろうじてヨットに着地した。


「やっと見つけた!」

 風は、草のざわめきを纏いながら一点に集中し、佳穂がぶら下げられているマストの前に降り立った。

 風は――――。

 風は、少年の姿をしていた。


 背を向けたその少年の後ろ姿に、佳穂は息を飲んだ。

 その頭とお尻に、獣の耳としっぽがあったからだ。

(もしかして、二人目の!?)


「何!? アンタ、横取りするつもり?」

 緋色の女が突進する。勢いそのまま、回し蹴りを風の少年に叩き込む。

「しねえよ! そんなこと!」

 少年が腕を振るい、緋色の女の蹴りは弾かれた。

「ホラ! やっぱり、邪魔するんじゃねえか!?」

「蹴りくれといて、邪魔もへったくれもないだろ! そのまま、喰らえってのか?」

「うるさい! 関係ないなら引っ込んでろ!」

 女は間髪入れずに二撃目を叩き込む。

「断る! 横取りはしないが、用事はある」

 少年は応じながら、背中越しに佳穂に声を掛けてきた。

「よう! あんたがコウモリか?」

「は……はい」

 その声に佳穂の心はざわついた。否定したいはずなのに、返事をしてしまった。だが、佳穂の心がざわついたのには、他に理由わけがあった。

(この声……どこかで!?)

 思いを巡らす佳穂に、少年が声を掛ける。

「そうか。コウモリが女だとは思わなかったな……。ま、いいか!」

 言うなり、少年は緋色の女を弾き飛ばし、地面を蹴って跳び上がった。

 そのまま真っ直ぐ佳穂へと近づいてくる。

(えっ――――!?)

 捕まる! 佳穂は思わず身構えた。暖簾のような前髪がハラリと垂れる。

「網、切ってやる! 落ちるなよ────!」

 少年は大きく振りかぶって叫んだ。

 佳穂の視線と、少年の視線が交差する。

 だが――。

「─────!?」

「ブッ─――─!!」

 声にならない叫び声を上げたのは佳穂。

 派手に吹き出したのは少年だ。

 少年は振りかぶった姿勢のまま勢い削がれ、地面へと落下した。

 佳穂はというと、諸手で身構えたまま固まっている。


「──なんて恰好してるんだよ! コウモリ!」

 少年が声を上げた。

「え? ─────ええっ?」

 言われるままに、佳穂は自分の置かれている状態を確かめた。

(は?)

 コスチュームのミニスカートが、重力に従ってひっくり返っている。

「きゃっ!?」

 慌ててスカートを手で押さえる。

 だが、佳穂のパニックはそれでは終わらない。

 空中での交錯。目が合った少年。

(も、も、も、もしかして───)

 事を確かめるべく、恐る恐る見下ろした佳穂と、振り返った少年の視線が再び交差する。

(い、い、い、い、犬上──くん?)

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