019 元委員長に会う
「────!?」
驚いて振り帰った佳穂は、今度は振り返りもせず走り出した。
(え? ………ええっ?!)
走りながら考えるが、理解ができない。
そこにいたのは、意外な人物だったからだ。
「ちょっと待てって!」
背後から追いかけてくる足音がする。
(そうだ、この人、俊足だった!)
もっと早く走らなきゃ────追いつかれる!
そう思った時だった。
突然、体が軽くなった。いや、違う。軽くなったのは脚だ。
力が入らない。
逃げ出したい────その意思とは裏腹に足が言うことを聞かない。
スピードダウンと共に、佳穂はその場にへたり込んでしまった。
「…………ぉ、おはよう、ございます」
佳穂は小さな声で言った。
「────お、おう。おはよう! って、そんな場合じゃ無いだろ! 大丈夫かよ!?」
そこには面食らった顔をしている、中学校の元同級生が立っていた。
背丈は高校一年生としては少しだけ背が高い。
目深に被った帽子からは、短く刈り込まれた山鳩色の髪の毛がわずかに覗いている。
ウインドブレーカーにトレパン。ランニングでもしてきたのであろうか?
「い、
会うのは中学校の卒業式の時以来。もちろん、制服以外の服装の印象はない。
「ああ。
月澄、無事……なのかよ?」
ちょっと怒ったような声に続いて、安堵。
そう聞こえた。
しかし、その口調も雲間の月のようにかき消える。
いや、違う。
今は、そんなことが問題なのではない。
今の問題は、その元同級生がなぜここにいるのか、だ。
佳穂は立ちあがろうと足に力を込めた。
「大丈夫か? 手貸すぞ」
犬上が心配そうに声を掛けてきた。
佳穂は首を横に振りながら、身を起こそうとした。
しかし────
「…………っ!?」
よろよろと体を持ち上げようとしたところで、膝の留め金が外れたかのように力が抜けた。
「────あぶない!」
お尻が地面に激突する寸前、犬上が佳穂の腕を掴んだ。
「やめとけよ」
犬上は優しく腕を掴み直し、佳穂がしゃがみ込むのを手伝った。
「ご、ごめんなさい」
「なんで月澄があやまんだよ…………」
犬上が呆れたような顔をしている。
「ごめんなさい」
「……ったく。それより月澄。どこ行ってた? 家がこんなことになっているのに」
「え、あ、 あの……その……そのあたりを、うろうろしてた。」
本当のことなど言えるわけもない。
いや、違う。そうではない。
そもそも、なんで答えなくてはいけないのか。
佳穂は暖簾の下で眉間に皺を寄せた。
「ホントかよ? っかしいな……」
佳穂の困惑をよそに、犬上は鼻を宙に向けながらつぶやいた。
さっぱり意味がわからない。
「ま、大変だったな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。……ありがとう」
気遣う言葉。佳穂は驚かずにいられなかった。
卒業式は先月終わったはずだ。もう同級生でもなんでもない。
だから、全然印象に残っていないであろう元・クラスメイトのことなど心配する責任などあるはずもない。
いや、思い当たる節はなくはない。
それは、犬上がクラスの元委員長だということくらい。
佳穂は、この元委員長が少しだけ苦手だった。
ただ、同じクラスの人間というだけなら恐れる必要はない。
佳穂は目立つわけでも、人気者なわけでもない。黙っていれば誰もが佳穂の望む通りに無視をしてくれる。
だがしかし――――
彼は、朝に出会うと必ず挨拶をしてきたのだ。
理由は不明。
思い当たるのはそれこそ、犬上がクラスの委員長だということくらい。
人気取りでは絶対ない。
そもそも、委員長といっても犬上本人が立候補をしたわけではない。「立候補者なし」に業をにやした担任教師の強制指名だからだ。
となると、よほど任務に忠実なのだろう。
問題は挨拶されたら、返事を返さなくてはなくてはいけない事だ。
聞こえないフリができるほど佳穂の神経は図太くない。かといって、明るく返事を返せるほど表情筋に自由は効かない。
避けれるものなら避けるのが佳穂にとっての最適解。
だから、佳穂はこの委員長が少しだけ苦手だった。
「お、おう……」
犬上は頭を掻きながらそっぽを向いた。
「ん、じゃあ行くぞ!」
「え? あの、ど、どこへ?」
「俺の家だ」
(俺の……家?)
佳穂はポカンと開けた口で、言葉を反芻した。
だが、飲み込めない。
「え?………ええっ!?」
聞き間違いだ。聞き間違いに違いない。佳穂は心の中で全力で否定した。
「だから──俺のウチだって!」
佳穂の表情を読み取ったのか、犬上が声を荒げて繰り返す。
どうやら、聞き間違ってはいなかったようだ。
「ど、どうして!? 私が犬上くんの家に……?」
思わず佳穂は聞き返した。
「知るかよ! 俺が決めたわけじゃない。姉貴の命令だ。部屋、貸してやれだとさ。」
「え、部屋!?」
「そうだ。姉貴の部屋。お前の父親と知り合いだから、とか言ってた」
「え……? 父と?」
全くもって意外な返答。
佳穂の頭の中は疑問符で埋め尽くされ、完全にホワイトアウトした。
「昔、世話してやったから、今度も世話してやれってさ」
犬上は変わらずそっぽを向きながらブツブツつぶやいた。
宇宙語だ。犬上は宇宙語を喋っているに違いない。
一言一句、何も、全く、佳穂には意味がわからない。
「とにかく、家に来てくれ! でないと、今度会った時、姉貴に首を絞められる!」
むちゃくちゃだ。
あまりにも急で、あまりにも意外な提案だ。
「────」
佳穂は言葉を失った。
たしかに、祭礼を逃げきるためには、身体を休める場所の確保は死活問題だ。
更に意外なことに、彼の姉が父の知り合いだということ。
興味がないといえばウソになる。
かと言って、いきなり元クラスメイトの家に転がり込む、なんて真似、佳穂にはできるはずもない。
「ゎ、私、大丈夫です!」
佳穂はもう一度立ち上がろうとした。
だが────。
「!?」
立ち上がろうとして再び力が抜けた。
手をついてなんとか堪えるも、しゃがんだ体勢すらままならず、その場にへたりこんでしまった。
「月澄────」
犬上が神妙な顔つきで言った。
「お前、昨日から何も食ってないだろ?」
「え……?」
不意打ちの質問だ。
「血糖値が極端に下がっている。」
犬上が、鼻をひくつかせながら言った。
「え?」
「胃の中も空っぽだろ?
要はガス欠、限界だ。筋肉にも相当乳酸溜まっているし……。お前一晩中、走り回ってでもいたのか?」
「…………」
佳穂は言葉を失った。
言われてみれば、鬼ごっこへの強制参加で昨日のお昼から何も食べてはいない。
加えてあれだけ逃げ回ったのも、生まれて初めてだ。
気持ちが張り詰めていたのか、今まで全然気が付かなかった。
だが、足が動かなくなったのは、空腹のせいだと知れた。
それならば話は早い。
コンビニまで這ってでも行って、なにかしら元気の出そうなものを、口に入れればいい。
財布なら――――
佳穂は制服のポケットに手を入れた。
「…………」
財布がない。スマホも何もかもがない。
すっかり忘れていた。全部、鞄の中だ。
鞄は……。
昨日の記憶を手繰り寄せる。
(思い出した! 便利屋の車の中だ!)
「まさかお前、何も持ってないのか!?」
もぞもそやっている佳穂の仕草を察したのか犬上が声を上げた。
「…………はい」
佳穂は小さな声でうなずいた。
「ったく…………」
犬上は呆れたような声を上げ、天を仰いだ。
「仕方ねえな……。
月澄────
家に来いって言ったのは、姉貴が勝手に決めたことだ。だから、月澄も勝手に選ぶ権利がある。だけどな。腹が減ったら、判断は鈍る。選ぶなら、飯を喰ってからでもいいだろ?」
「…………」
たしかに、腹が減っては戦はできない。そう、文字通り「戦」だ。
祭礼は今日もきっとある。だが、佳穂は現在、無一文だ。
食事をするには、鞄を持っているはずの便利屋を探さなくてはいけない。しかし、今のお腹の減り具合はそれを許してくれそうにはない。
「俺は、元クラスメイトが腹へって困っているのを見捨てられない。
だから、ウチに飯食いに来いよ」
「…………」
「ウチのメシ、美味いんだ! だから、食ってけ! 今朝は、きっと焼き魚だぞ」
――――焼き魚。
よそを向いていた意識が一気にお腹に集中する。
その途端──。
グ〜〜〜〜。
タイミングを見計らったのか腹の虫が鳴いた。
「はははは!」
犬上が笑った。
もう断れない。佳穂は観念した。
「……ぅ、ん」
恥ずかしさに声がどんどん小さくなる。
「よし!」
朝日が照らす顔が綻んだ。
「…………
……あ、ありがとう」
佳穂は小さく頷いて、礼を言った。
犬上が背後に停まっていた車のドアを開けた。
「出してくれ」
二人が乗り込むと、車は静かに動き出した。
「──ありがとう」
佳穂は、もう一度お礼を言った。
今は、それ位しかできない。
いつもの佳穂ならなにが何でも固辞しただろう。
元クラスメイトとはいえ、その誘いに乗る────自分自身でも意外だった。
笑顔に丸め込まれてしまったのだろうか。
「このお礼は必ず……」
「…………おう」
犬上は短く返事をし、流れていく景色を見送った。
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