016 キリンの背中で目が覚める
目が覚めた。
「やっと起きましたね。
すぐ近くで声がした。
碧い波紋が広がっていく。
────湖だ。
佳穂は思った。
誰だろう? ……眠り姫なんて。馬鹿馬鹿しい。
…………
………
……
…
ぼんやりした頭が次第にはっきりしてくる。
…
……
………
…………へ?!
目の前に人がいた。
横になっていた佳穂を、一人の青年が覗き込んでいる。
「ひ!?」
佳穂は身を起こした。青年から身を引き、あたりを見回す。
(ここは?)
何かの作業室だろうか? かなり狭い場所だ。計器やレバーのある台に椅子がひとつ。その先に大きな窓がある。
「無事でよかった────。全く、あのトリときたら、野蛮な事をする。せっかくのお召し物がススだらけじゃないですか」
青年は、呆れたような顔をしながら言った。
澄んだ水を思わせる瞳。彫像のように整った貌。ふわふわした白い髪。
まるでおとぎ話の登場人物のようだ。
「す、すみません。あなたは?」
「名乗り遅れました。ウリアル・ラルセンと申します。お久しぶりです。
ウリアルと名乗った青年は膝をたて、まるで忠誠を誓う騎士のようにお辞儀をした。
────お久しぶりです。
ウリアルは確かにそう言った。つまり自分とこの青年は面識があると言うことだ。だが、記憶にある限り、こんな妖精のような人間の知り合いはいない。
「ご、ごめんなさい。人違いでは?」
佳穂は否定した。
「?」
ウリアルは怪訝そうな顔をし、それから思い当たったかのようなキラキラした顔でこう言った。
「ああ、そうか! 今、そんな格好をしているから、僕が勘違いしていると思ったんですね。コウモリの姫君」
言われて佳穂は、ハッとした。
腕を見る。そこにはあの漆黒の花弁、コウモリの翼が未だあった。
「こ、これは…………あの、その……」
佳穂は
「大丈夫。ここは安全です」
ウリアルは、優しく言った。少し苦笑が含まれているのは気のせいだろうか。
「…………」
佳穂は諦めて大人しくなった。こんな場所では、隠しようも隠れようもない。
ウリアルは続ける。
「間違いなく、あなたですよ。まだ寒い、2月の夕べ、僕の命を助けてくれたのは」
ウリアルは
青年の声はどこまでも澄んでいて、その音が放つ碧い輝きは狭い室内を照らし減衰していく。
やはり人違いだ────。
佳穂は思った。人助けなど、した覚えがない。
それでも、ウリアルの持つ輝きには何か引っかかるものがあった。
2月。佳穂は記憶を辿った。
碧い瞳が、佳穂を見つめている。
「……あ」
佳穂は、その瞳の放つ輝きを思い出した。
§ §
その出来事は、海外へと旅立つ祖母を送り出した日に起こった。
「……どうしよう」
祖母からの宿題『おしゃれな姿の写真』を言い渡され、佳穂は憂鬱になりながら横浜へと戻ってきた。
トボトボと歩き、気がつけば公園の入り口に立っていた。この公園はフランス山とも呼ばれている場所だ。
ここを登れば、山手にある家まではすぐだ。夕暮れはすでに宵闇に変わりかけ
ている。灯り始めた街灯が綺麗だ。
青銅色のアーチを潜ると、上に続く階段の前をぐるっと回り込んで茂みの前に立った。
公園の中、人の姿はあるものの、誰一人佳穂に注意を向けるものはいない。
(大丈夫……)
足音立てぬよう、草擦れを立てぬよう、そして誰にも気付かれぬよう、注意を払って茂みに滑り込む。獣道ですらない、茂みの間を足音の一つも立てないように登っていく。
なぜ、こんな事をするのか?
これが佳穂のお気に入りの帰宅ルートだからだ。
怖くないのか?
怖いはずもない。こちら側には誰もいないのだから。
だから、山手の下からはいつもこのルートを通って家に帰るのが常だ。
「はー」
やっと一人になれた。
慣れない電車、慣れない空港、慣れない人混み。
今日一日、くたびれてしまった。
隔絶された暗闇の木立を歩くのは不思議と心が落ち着くものだ。
それなのに────。
それなのに、この日は何かが違っていた。
誰か、何か、いる。
そう感じた瞬間。
ゴッ!と言う風を巻き起こし、それは木々の切れ間、はるか上空から降ってきた。
「きゃあ!?」
風が
バランスを崩し、倒れそうになった佳穂をそれは優しく受け止めた。
風をはらんで舞い落ちたその塊。
巴巻く風の中、暖簾のような前髪が乱れ、目と目が合った。
青い水面だ。
波の一つもない、完全な鏡のような湖面。
それを思い起こさせる双眸。それがこちらを見ている。
(人形?)
佳穂は思った。だが、そんなはずはない。背中からは暖かいものが伝わってくる。
ほっそりと長い腕が抱き抱えるように佳穂を支えている。
目が合った。
短くカットされた
青年だ。
年齢は佳穂より5、6歳年上だろうか。どうみても日本人ではない。
目が合った。
つと────鏡のような水面に、一滴の雫が落ちた。
いや、そのような気がした。
青い湖面に波紋が広がり、何かが揺り動かされている。そう佳穂には思えた。
人形のように無表情であったその
その青年は、佳穂を見続けていた。
目が合った。
衝撃で停止していた思考が少しづつ戻ってくる。
目が合った。合ってしまった。
目を――――。目を、見られてしまった。
何故だろう、言い知れぬ罪悪感が佳穂を襲う。
佳穂は咄嗟に目を瞑って、支えられていた腕を振り解いた。パニックで言葉も出ず、その場にうずくまる。
「右だ! そちらを探せ!」
その時、遠くから怒号が聞こえた。
「人払いはしている! 怪我をさせてでもいい、とにかく止めろ!」
何が起こっているのだろう、あまりの情報量に何一つ理解することができない。
「しばらくそうしていてください、姫君。動いちゃ、ダメですよ」
そんな佳穂の心を見透かすかのように、耳元で声が囁いた。
そばにいた青年だ。佳穂は顔を上げて、彼を見た。
いや、違う。
別人という意味ではない、さっき見た印象と雰囲気がまるで違っていたのだ。
月を背後に立つ姿。
人形を思わせる無機質さは消え失せ、生き物としての圧倒的な存在感がそこにあった。
「僕を起こしてくれてありがとう……。この御恩、この世が果てるまで忘れません」
一瞬、湖面が輝いた。
「また、会いましょう」
キラキラと月あかりをはね返し、佳穂へと向けて微笑みが
トッ!
地面を強く蹴る音と共に、その青年は佳穂の目の前から消え失せた。
「いたぞ! 捕まえろ」
遠くの藪から怒号が上がる。
佳穂はへたり込んだまま、一人、そこに残された。
§ §
「そうです。あの日、僕を起こしてくれてありがとう……。コウモリの姫君」
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