第七話

 白っぽく濁った水面から湯気が立ち上っている。ゆっくりと揺らぐ水面は受け取った光をあちこちへ打ち返す。揺らめく光に惑わされながら水面に焦点を合わせる。白く濁った水面だけが見えることを確認してから視線を上げると、それほど広くない天井に排気用のスリットが入っている。スリットの奥に設置された回転翼は息をひそめて静かに出番を待っている。咲坂実裕は一坪の浴室でバスタブに寝そべっていた。湯は入浴剤で白濁していてそこに沈んでいるはずの体はまったく見えなかった。実裕は手探りで尻をまさぐり、指先で穴を探り当てた。それはおそらくあるべき状態であるべき場所にあるようだった。どういうわけか尻の穴が大変なことになったという記憶が残っていたので実裕は手探りの結果にいくらか安堵した。指先で穴周辺を撫でまわしていると、触れるまで感じていなかった痒みが湧きあがった。痒みの基点を探すべく穴の外周をなぞるように指先で反時計回りに円を描く。次第にその半径を小さくしながら穴の中心を目指して螺旋状に指を進める。ぼんやりとした痒みがサインカーブのように波打ちながら近づいてくる指先を待ちかまえる。一足飛びに痒みの基点に飛び込まないことで焦らしながら快楽を先延ばしにする。実裕は目を閉じて指先と尻の穴に集中する。同時に双方に集中することができるが、コントロールできるのは指先だけで、穴にできるのはただ待つことだけだった。指先の反時計回り円運動が穴の入り口に到達し、痒みの起点がそこにはないことを発見する。そのまま穴の入り口で円運動をしていた指を少し立て、わずかに穴の中へ挿入する。その瞬間、穴と指の邂逅は舞台を脳へと移し、痒みの基点を刺激されたことで穴は強い快楽を得た。指先は位置を固定したまま回転を続け、快楽を提供し続ける。回転運動と指の片面にだけ生えている爪によって周期的な波動となった快楽が脳と尻の間で脊髄を往復し、全身に恍惚をもたらした。股間が沸騰した。実裕は目を閉じたまま後頭部を浴槽の端に預け、指先以外の筋肉を弛緩させて快楽に身を任せた。すると突如浴槽の底が抜け、実裕は周囲の湯と共に傾いた床へと落下した。落下の衝撃で指が第二関節まで穴に突入し、実裕は思わず声を漏らした。実裕は尻の穴に指を突っ込んだ状態のまま床を滑り降り、そのままウォータースライダ的チューブに吸い込まれて猛スピードで運ばれていった。滑りながら次第に指が穴に埋まっていく。唐突にチューブが終わり、実裕は空中に打ち出されて一時浮遊した。その隙に穴に突っ込まれていた指を引き抜く。落下しながら放屁するとわずかに落下速度が緩まり、実裕は悠然と着地した。背後から絶え間ない轟音が実裕を包み込んでいた。。振り返ると少し離れたところに見覚えのある滝があった。名前は思い出せなかった。あの卒業アルバムに載っていた、小学校の修学旅行で見に行った滝だ。実裕は今その滝を見る観瀑台に立っていた。設置されている双眼鏡を覗いている子どもが一人いるだけで、他に人の気配はなかった。実裕はその子に声をかけようかと思ったが、自分が全裸であることを思い出して踏みとどまった。すると子どものほうが双眼鏡を覗いたまま言った。

「一人ですか」

 実裕は驚いて声が出ず、黙って子どもの姿を眺めた。

「一人でしょ」と言って子どもが実裕の方を向いた。見覚えのある顔だった。

「きみも一人かい」

 実裕は相手の質問には答えずに質問を返した。自分が全裸で小学生と対面していることにはいろいろ問題があると思ったが他に誰もいないのでとりあえず気にしないことにした。

「一人じゃなかったんだよ。でも今は一人なんだ」

「みんなはどうしたの」

「いつのまにかいなくなっちゃった。検索しても出てこないよ」

「そうか。きみはさきさかみひろだね」

「そう。あなたは咲坂実裕でしょ」

「そうだよ」

 実裕は目の前の子どもが卒業アルバムの中の自分だと確信したが、それが過去の自分なのかという点については自信が無かった。

「きみはわたしなのかい」

「ちがうよ。わたしもあなたもさきさかみひろだけど、同じじゃないし繋がってない」

「きみはずっとここにいたのかい」

「ううん、今来たところ。来て双眼鏡を覗いたら、あなたが落っこちてきた」

「きみはどこから来たの」

「穴」

 実裕は思わず尻に手をやった。

「穴。どこの穴から来たの」

「どこにでもある穴だよ。そこら中に穴はあるんだけど気づいてる人はほとんどいないよね。わたしは知ってたよ。小学校に上がったころからね。あなたは忘れちゃってたのかもね。穴に落ちると時間が変わるんだよ。普通は前に進む。寝て起きたら朝になってる。その間に穴に落ちてることもある。みんな気づかないけどね。よくよく思い出すと記憶がジャンプしてるところがあって、それをおかしいと思って深堀りしていくと穴の存在に気づく。そうすると我に返るたびに穴の存在を感じるようになる。そのうち穴はどんどん開きやすくなって、しょっちゅう落ちてるうちに今がいつなのかわからなくなるんだよ」

「それが今のわたしってこと」

「そう」

「きみは、それを教えるためにここへ来たの」

「そうとも言える。あなたが自分で気づいているのに理解できていないことを説明する役割なのかもしれない。わたしはあなたによってこの姿を与えられたもう少し先のあなた自身かもしれない」

「なんだか、よくわからないよ。きみはアルバムにあるわたし自身の過去の姿のように見える」

「でもあなたはあのアルバムの写真をそんなに詳しく覚えていないでしょ。この顔がアルバムの写真と同じだと断言できる」

 みひろに聞かれて実裕はたじろいだ。思えばこれまでもいつもそうだった。記憶にある顔と目の前に現れた顔を比較して相手を特定したとき、細部を見れば見るほど自信が無くなっていくのだ。実裕はみひろの顔を眺めた。これが小学生の自分だと言われてもピンと来ない。むしろ違うと言われた方が納得しやすいような気もした。

「あなたは閉鎖された関係性の中で同一性に混乱を来してきっと発達段階を逆行していったのでしょ。あなたは名前という曖昧なものを唯一の統合の足掛かりとしながら危うい状態で過ごしていた。昨日咲坂実裕だったものが今日も咲坂実裕だから昨日とおなじわたし。それはけっこう危うい判断だと思うでしょう。そして名前以外はどんどん曖昧になり、やがて性別を見失い、性器が曖昧になってしまったことでフロイト的肛門期まで遡っていった。さらに穴を呼び寄せるトリガが肛門にリンクしてしまい、あなたは肛門的リビドーを満たすたびに穴から穴へと落っこち続けることになってしまったわけ」

 実裕には思い当たることだらけだった。たしかに性的な興奮が記憶の断絶を呼んでいるような気はしていた。穴に落ちているという実感はなかったが、世界を移動しているような感覚はあった。

「ね、わたしは元のところへ戻れるかな」

「元のところってどこ」

「わからない。たとえば卒業アルバムを開いて検索していたあの部屋とか」

「どうだろう。戻れるかもしれないけど、またすぐに別の穴に落ちるかも」

「ここからも穴に落ちたら移動できるということだよね」

 実裕が聞くとみひろはしばらく間をおいてから「あまりお勧めはしないけどね」と答えた。

「わたしは修学旅行でもここへ来た。クラスメートも一緒にここへきた。あの向こうの駐車場にバスが停まっていて、みんなそこにいる。あなたが卒業アルバムで探した子も」

「なるほど」

 実裕はあの日ネットで検索し、卒業アルバムの中に姿を求めた子の名前と写真を想像した。股間が過熱した。実裕は踝を返してみひろに背を向けた。

「お勧めはしないよ。あなたは素っ裸だし、相手は小学生。修学旅行の小学生の団体に全裸の大人が突入していくのは、あなたが男でも女でもけっこう問題あると思うよ」

 みひろが背後から忠告したが、実裕は振り返らないまま手を振った。


 人気のない駐車場には観光バスが一台停まっていた。あそこに好きだった子がいる。そう思うと腰回りが全体的に脈打つのを感じた。検索しても見つからなかった子がいる。足から脳天に向けて波打つように熱が移動する。あの子。肩で息をする。会いたい。一歩ずつ近づいていく。股間が脈動する。バスに近づく。窓から中に座っている子どもたちが見える。顔を見たい。脳に鳥肌が立つ。顔以外も見たい。辺りに満ちているマイナスイオン的なにかが会陰辺りに集中するのを感じた。実裕は口の中で名前を唱えながらバスの乗降口に足をかける。


 股間がうずいた。


《了》

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