二十五話 らしいこと
ピンポーン!
「……だれ」
寝起きの定まらない意識の中、ベッドから下り玄関へ向かう。ドアスコープから外の様子の伺うと心成しかムッとした様子の木皿儀が立っていた。
「っ……!」
その瞬間、眠気は全て吹っ飛び背中に嫌な汗が流れ始める。慌てた足取りで部屋に戻り時間を確認すると時刻は七時半。始業のベルは八時半に鳴るので後一時間ほど余裕がある。
一先ずは遅刻の心配がなくなったことに安堵していると今一度インタホーンが鳴らされる。木皿儀の表情を思い出しながら玄関に戻り扉を開ける。
「遅い」
開口一番、これでもかと言うほどに不満を含んだ声で攻撃される。組んだ腕に八の字に曲がっている眉。あまりに典型的な怒りの表し方に申し訳なさと多少の可笑しさを覚える。
「ははっ」
「何がそんなにおかしいのかしら?」
一段階重くなった声音に慌てて口を閉じる。それでも一度損ねた木皿儀の機嫌はそう簡単に回帰せず、絵になるほどに綺麗な笑顔が逆に怖い。
「……悪い」
「それは何に対しての謝罪かしら?私を待たせたこと?それとも笑ったことに対してかしら?」
額に薄く青筋を浮かべながら地面を何度も叩く木皿儀。そのあまりの威圧感に上手く目を合わせられず、逃げるように斜め下を見る。
「人と話すときは相手の目を見てって習わなかったの?」
視線を下ろした瞬間、頬を両手でガッと掴まれ強制的に目を合わせられる。昔から人の目を見ることが苦手な俺は、木皿儀のその行動に体中の血が沸き、異常なくらいの熱に侵された。手を振り解こうにもことごとく失敗に終わり、その間も木皿儀は俺の答えを待っている。
「……一旦手を放してくれないか?」
「どうして?」
「お願いします……」
自分でも情けなくなるほど弱腰でのお願いに木皿儀は小さく息をつき、渋々と言った様子でパッと手を放す。
やっとの思いで自由を手に入れた瞬間、俺は洗面所に駆け込み、これでもかと言うほど顔に冷水をぶつけ続けた。
しばらくの後、ある程度の冷静さを取り戻し顔を上げるとギシッと床を踏む音が聞こえた。
「へぇ、意外と綺麗なのね」
この短時間で何回慌てなきゃいけないんだと思いながらも部屋に行くと、どこか感心した様子で室内を見渡す木皿儀がいた。
「そんな驚くことでもないだろ?」
男の一人暮らし。余程欲のある人物以外、そうそう部屋が汚くなるなんてことはないはずだ。俺自身、掃除に関しても特に不得意ということもないし。
「あら、戻ったのね。……同居人の姿が見えないけれど、先に行ったのかしら?」
「いや、同居人はいないよ。ずっと一人暮らし」
「そう」
自分から聞いて来たのに心底興味がないという風に返された。もしかして答え方間違えたか?
「ところで朝食は食べたかしら?」
急に話題が変わる。もちろん、起きたてほやほやなので朝食なんて食べていない。と言うよりかは、いつも朝食は抜いているのでそもそも食べること自体が習慣化していない。
「あー、俺朝食食べないんだ」
「……」
そう返すと何故か睨まれる。さっきよりも攻撃的じゃないにしろ、目を逸らしたくなるほどには怖い。
「……もう一度聞くわ。朝食食べるわよね?」
もう一度とは……。ほぼ断定的な聞き方に俺は首を横には振れなかった。その刃物のように鋭い目付きを受けて同じ言葉を羅列出来る猛者は世界広しと言えど余程の命知らず以外にいないだろう。
「あ、はい……」
昨日といい今といい、どうも木皿儀の手のひらの上で踊らされている気がしてならない。不服ではないが、どうにも納得は出来ない。けど、逆らったらどうなるか分かったもんじゃないので、手の打ちようがないのも事実だ。
「キッチン借りるわね」
そう言うとバックからエプロンを取り出し身に付ける。まるでここに来るのが前提だったみたいな準備の良さだ。
「後ろ姿を眺めている暇があるなら着替えたら?」
制服エプロン姿の木皿儀の背中をぼっーと眺めていると横目越しに小言を言われる。自室のキッチンに制服エプロン姿の木皿儀が立っているという奇妙にも見える光景に見惚れ、見惚れてしまうのはしょうがないことだと思う。
「そうする」
見惚れるのはしょうがないにしろ、ずっと見られて気分のいい人はいないだろう。木皿儀の言葉に従い、着替えに入る。
その間にもちらりと視線を向けると料理の邪魔なのか長い黒髪をポニーテールに束ねていた。微かに見えたシミ一つない色白の肌が目に毒だった。
「はい、冷蔵庫に食材がなかったから簡単なものだけど」
それから十五分ほどが経ち、机の上には木皿儀お手製の料理の数々が並んだ。湯気を立てている艶のある白米にほのかにあまじょっぱい匂いの味噌汁。彩り豊かな野菜炒め。どれも美味しそうで、普段は鳴らないお腹が無意識に大きく鳴った。
「ふふっ、冷めないうちに食べていいわよ」
木皿儀から箸を受け取り手を合わせる。
「いただきます」
結論から言うと料理は想像以上に美味しかった。いつもと同じはずのご飯はいつも以上に甘みを強く感じ、味噌汁もちょうどいいしょっぱさで飽きずに飲めるし、野菜炒めは味、匂い、感触、どれをとっても最高だった。
「ん?木皿儀は食べないのか?」
視線を感じ顔を上げると、頬杖を突きながらこちらを眺めている木皿儀と目が合った。その表情はどこか優し気で、無邪気な子供を見る母親のような暖かい目をしていた。
「私は食べて来たからいいの。気にしないで」
気にしないでと言われたのでその通りにする。
「ごちそうさま」
箸を持ってから全てを平らげるまでそう時間はかからなかった。正直、途中から完食するのが惜しい気持ちに駆られたが、せっかく作ってくれたので残す方が失礼だと思い、名残惜しくも食べ進めることにした。
「お粗末様。どうだったかしら私の料理は?」
「美味しかったよ。上手く言えないけど、毎日食べたいと思う味だった、かな?」
「そう。それは良かったわ」
満足そうに目を細めると食器片手に立ち上がる。
「あ、片付けなら俺が」
「これくらいなら私一人でも出来るわ。少なくともあなたよりは綺麗にね」
からかっているのか罵倒されているのか木皿儀は短く笑うと慣れた手つきで片付けを進めていく。
「見てるのは自由だけど、準備は完璧なのかしら?」
木皿儀……母親みたい。
「教科書とかは向こうに置いてあるし、筆箱は滅多にバックから出さないから完璧っちゃ完璧かな」
「はぁ……」
何なけなしにそう返すと呆れたようにため息を落とされた。返答を何か間違えたのか?
「なら、いいわ……。もう少しで終わるから待ってなさい」
「?」
何で呆れられたの俺?
「戸締りはしっかりね」
片付けが終わり時刻は八時を少し過ぎた頃、言われた通り二回、三回と確認し寮を後に学園までの道を歩く。
「ちょっと待ちなさい」
歩き出してすぐ木皿儀に止められる。何事かと振り返るといつの間に距離を詰めていたのか眼下には木皿儀の顔があった。
「っ……!」
「ネクタイが緩んでいるわよ。直してあげるから動かないで」
動きたくても体が嫌に硬直して動かない。慣れた手つき&目にも止まらぬ早業でネクタイを正していく木皿儀に俺は声が出なかった。もちろん、二つの意味で。
「……これくらい満足に出来るようにしておいて」
ポンっとネクタイを叩き木皿儀は俺の横を通り過ぎていく。崩さないように結び目に手を添えると「もう緩くさせない」と言う意思を強く感じさせるほどに固く結ばれていた。
「何をしているの?早く行きましょう」
その場から一向に動く気配を見せない俺を不審に思ったのか背中にそんな声がかかる。
「……悪い」
木皿儀の方に振り向き足早に隣に向かう。そのまま足並みを揃え、横目に散り間際の桜を見ながら並木道を歩いて行く。
「……手とか繋いだ方がいいかしら?」
しばらく歩いているとハッとしたように目を見開いて木皿儀がそう言った。心底真面目な顔で何を言ってんだと思った。
「急にどうした?」
「仮にでも恋人らしいことしておかないと計画が破綻するかと思って」
主席候補の一人に数えられている頭脳を持つ木皿儀の作戦は何も考えずに聞けば、名案に他ならないだろう。しかし、一旦冷静になってよくよく考えてみると穴がある気がしてならない。
そう木皿儀の作戦には穴がある。穴があるのだ。それは所詮その場しのぎであるということ以外の何物でもなく、もし仮に作戦が成功したとして、その後は?この偽の恋人関係が終わったその後日談は?
きっと独り身になったと誤解した奴らによって下手すれば今よりももっと面倒臭いことになるだろう。止まらないラブレターの嵐に上辺だけの言葉たち。少なくとも今よりもいい方向に転がる可能性は極めて少ない気がする。少なからず俺はそう思っている。俺でこうなら木皿儀はどうなのだろうか。
一体どこまで先を見据えているのだろう。気にはなるものの人の思考、引いては天才の思考なんて凡人にはその一片も読み取ることは出来ないだろう。
同じ土俵に立てれば話は少し違ってくるのかもしれないが。もしそこまで考えてなかったら……。
「じゃあ、繋ぐか?」
実は木皿儀ポンコツなんじゃないか説を脳内で立てながら手を伸ばす。恥ずかしくないのか?そう聞かれれば恥ずかしいことこの上ないが、これも互いの為と割り切ることにした。
「……え」
予想していた反応と違う。木皿儀は呆気に取られた様子でポカンと口を開け、俺の顔と差し出した手の間に何度も視線を通わせる。
「何だよその顔は。繋ぐんだろ?」
「え、ええ……」
恐る恐ると言った動きで腕を伸ばす木皿儀の手を努めて優しく握る。
「きゃっ」
急に握られたことに驚いたのか木皿儀はそんな女の子らしい声を漏らす。いや、まあ、女の子なんだけどね。
「……」
雪のように白く、小枝のように細い肌と指は、少し力を入れただけで崩れ落ちそうなほどに脆く見え、どれくらいの力で握ったらいいものか力加減が難しい。
その苦悩と同等に手汗大丈夫かなと言う心配もある。
「……痛くないか」
「ええ、大丈夫よ……」
握り返して来るその指が冷たくて心地良いが、一度抱いた熱を冷ますには役不足もいいところで、逆に熱量は増していくばかり。
「……手汗は大丈夫かしら?」
「俺は大丈夫。そっちはどうだ……?」
「私も大丈夫……」
それを最後に会話らしい会話が終わる。数センチの間に流れる例えようのない空気。気まずくはないが、少々居心地の悪さを感じてしまう。
恥ずかしい……。と言う面で。
「……」
「……」
互いが互いの顔をまともに見ることが出来ず、二人揃って明後日の方角に視線を流し続けている。僅かに瞳を落とし木皿儀の方を見ると表情こそ題された変化はないものの、黒髪の間から覗く耳が一目でも分かるくらい真っ赤に染め上げられていた。
恥ずかしいのはお互い様か。
「……止めるか?」
そう聞くと木皿儀は短く首を横に振る。
「せめて昇降口まで……」
尻すぼみするくらいなら無理しなくてもいいのに。と思ったが、木皿儀の目に迷いの色は見えなかった。
「分かった」
正門から昇降口までがこんなにも遠く感じたのは後にも先にもこの数分だけだろう。
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