第1話(先発:菅部享天楽)

 午前七時二十三分、金得場駅かなうばえきから快速列車に乗り込む。午前七時四十二分、大座駅おおざえきに到着。まだシャッターを下ろして眠りに就いている大座商店街を通り、午前七時五十三分、高崎たかざきビルⅡ五階の化粧品メーカー『マーシュマロウ』のオフィスのドアを開ける。パソコンを立ち上げ、メールの返信、各店舗から上がってくる報告を確認し、新卒採用二次選考の学生たちの履歴書に目を通す。昼食をとり、新規商品の企画について話し合い、左座丘さざおか店々長と面談をしにオフィスを発つ。十九時三十七分にオフィスに戻る。

 『マーシュマロウ』は七年前に設立された若い会社である。大分県に三店舗あり、急成長を遂げている(と思う)。それ程若い会社であるから、私のような二十八歳の若者でも管理職に就くことができている。

「では、私はこれで。お疲れ様です」

「おおう、三本野さんぼんのさん、お疲れ」

 上司の植木 隆二さんに挨拶をしてオフィスを後にする。外はすっかり暗くなっていた。最近、帰るのはおおよそこのくらいの時間帯である。管理職なので残業代は出ない。まあ、代わりに色んな手当てがついているから給与は良いけれど。それに仕事がとても楽しい。

それにしても寒暖差が激しい。日中は春の気温だったけれど、夜になると肌寒い。さっと上着を着て歩を早める。

「あれ?」

 真っ暗な商店街に明かりの灯っている店が二軒ある。魚屋の「奥野商店」とその向かいにある食虫植物専門店の「ローウィー」である。奥野商店の扉には「営業中」と書かれたかまぼこ板くらいの大きさの看板が掛かっている。そっと中を開けてみる。カランとドアベルが鳴った。店内はよくある魚屋の風景である。冷蔵の陳列棚が並び中に商品がちらほら置かれている。

「おや、やぁ子先輩じゃないですか。お疲れ様です。今仕事終わったんですか?」

店の奥から狐目の男が現れた。青のパーカーにワインレッドのジーンズの上から前掛け巻いた格好、白い長髪を後ろで束ねている。

「まあ、そういったところ。奥野君はまだ仕事?」

 彼は奥野おくの 細道ほそみちという。大座大学のボードゲーム同好会の後輩である。なんなら学部も同じ生命科学部で、度々授業で一緒になることがあった。他の学生とは違い、当時は熱心な学生で、履修していない授業でも、興味を持ったものは受講しに行っていた。そのため特に印象に残っている。

そういった経緯があり、彼の事はよく知っている。それにしても不思議である。あれだけたくさん勉学に励んだというのに、現在は小さな魚屋を営んでいる。しかも全く就職活動をしていないというのである。誤解がないように述べておくが魚屋が悪いというわけではない。ただ、奥野君なら大手企業にも就職できたのではないかと思うのである。

「営業中って看板あったでしょう?」

「いや、まあそうだけど」

「でも、もうそろそろ閉めるんですけどね」

「そうなのね。邪魔したわね」

「いえいえ、それより一局、やりませんか?」

「ええ、今から?」

「ええ、今から」

 奥野君は奥から折り畳み式のテーブルを持って来てカウンターの前に置く。次にカウンターからリバーシを取り出して、扉の看板を裏に返した。

「まだやるとは言ってないけど?」

「もう準備してしまいました」

「全く……」

 私はテーブルを挟んで奥野君と向かい合うように立った。

「ようし、今日こそやぁ子先輩に勝つぞ」

「いや、いつも勝ってんじゃない」

 そう言って私は駒を置いてひっくり返した。

「まあ、そうですね」

 奥野君も駒を並べる。

 黙々と駒を裏返し合っていたが、ふと奥野君が顔を上げた。

「最近帰りが遅いですね」

「え? 何でそう思うの?」

「それは、毎日帰りはここの前を通るでしょう? 意識しなくても窓から見えますよ」

「そっか、そりゃそうか」

 私は納得して手を打った。

「で、忙しいんですか?」

「まあね。採用の面接もあるし、新商品の開発とかもあるし」

「へえ、新商品ですか。面白そうですね。どういうのを作ってるんですか?」

「それはねえ、って言えるわけないでしょう」

「それは残念」

 奥野君は盤面を見ながらそう言って笑う。中々置くところが決まらないようでコンッ、コンッ、コンッと駒でテーブルを叩いていた。

「その新商品の開発、あまりお勧めしませんねえ」

 無言でテーブルを叩いていた奥野君が急にそう呟いた。それも先程までの笑みとは違い真剣な表情で。

「それは……何でそう思うの?」

 私は恐る恐る聞いてみた。もしかしてマーシュマロウが商品開発をしているのを知っていた? まさか、情報漏洩!? そんな馬鹿な!

 私が身構えていると、奥野君は一呼吸おいて重々しく口を開いた。

「それはですね……やぁ子先輩は不幸体質だからですよ」

奥野君は駒を置いて人差し指を立てた。要は何となく、らしい。とりあえず情報漏洩とかではなくて良かった。私は安堵して全身の力を抜いた。

「先輩は不幸ホイホイですから。面倒事とか苦労が寄って集ってやって来ますよ」

「誰が不幸ホイホイよ」

「忘れたんですか? ヤスさんが太田ちゃんに浮気して高瀬先輩がキレてた話。やぁ子先輩に相談しに来てたじゃないですか、三人とも」

「あれは意味が分からなかった」

「他にもカタン持ち逃げ事件とか旅行の一件とか、全部巻き込まれてますよね?」

「会長に何とかしてほしかったわ」

確かにそう言われると不幸体質なのかもしれない。あまり気に留めていなかったが、思い返すとそういう気がしてきた。

「とは言ったものの、会社でやると決まってしまっているのなら仕方のないことですがね」

 その夜、奥野君にリバーシで惨敗した。まあ、当然の結果ではあるけれど。



※ ※ ※



やぁ子先輩が帰った後、リバーシ等を片付けて電気を消す。店の奥の暖簾のれんを潜り、部屋の電気をつける。

 ここは魚の解体、パック詰めを行なう場所である。中央に流し台があり、端には幅が三メートル以上もある生け簀、パソコンが置かれたデスク、三段の配膳ワゴン等がある。俺はデスクの上にある瓶を一つ取って生け簀に近づく。ラベルには『マグロ革命』と書かれている。中身はザリガニの餌のようなものが入っている。俺はそれを一摘まみ生け簀に放り込む。二匹の稚魚が餌に食らいつく。何の稚魚かよく分からない。だが、そんなことはどうでもいい。


さてと、ネットサーフィンでもしますか。


不自然に生け簀を泳ぎ回る稚魚を横目に俺はパソコンを立ち上げた。

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