第7話 Jeanne d'Arc

パリを挟んで、オルレアンから正反対の位置にある、ルーアン。

裏切りと絶望の地。

―あの人の、最期の場所。


1430年5月。

ブルゴーニュ公国の手に落ちたあの人は、祖国からの―フランス王シャルル7世からの身代金が支払われることがなく、一向にその身を解放されることはなかった。

やがてあの人の身代金をブルゴーニュ公国に支払ったのは―祖国ではなく、敵国であったイギリス。そうしてイギリスびいきの司祭ピエール・コーションによって、イギリス側に有利になるように―すべてがあの人の不利に働くように、異端審問が始められ―あの人は、運命を操られていった。


―あの人は、フランス王からも―敵国からも、そして教会からも裏切られた。



近づくにつれ、言葉が少なくなっていく私たち。


「…杏奈、平気?」

「うん…大丈夫。オルレアンで…勇気をもらったから」

「―そうね。彼らのあの人への―ジャンヌへの想いが…今のオルレアンを作ってるのよね」


これから、私たちは

あの人の最期を、直視しなければならない。


それは―きっと、とても辛いこと。


でも―私の中の、遠い遠い記憶が呼びかけてくる。


『あの場所に連れて行って』と

『あの人の最期の場所に連れて行って』と


そう呼びかけてくるようだった。


だから、どんな事が起きても


たとえ、前に教室で起きたように、気を失うようなことになっても



ずっとずっと昔から、『私』が望んでいたことだとしたら―


『今の私』が、そこから逃げてはいけない。


そう思ったのだ。




車を降りた私たちが最初に訪れたのは、まっすぐに立つ、大きな古い塔。


「―ここは、『ジャンヌ・ダルクの塔』と呼ばれております。」


壁の表面の黒ずみや汚れが、歴史を物語る。

言葉をつづけた私の後を、セドリックさんが引きついだ。


「―ここが…」

「はい。ジャンヌ・ダルクが…幽閉・監禁されていた場所です。」


―この場所が…ブルゴーニュ公国軍からイギリス側に身柄を移された彼女の異端審問が行われた場所。

当時のイギリスの占領統治府であった、ルーアン城跡。



杏奈を顔を見合わせる。


「…行こうか、杏奈」

「うん…マリーがいるから、平気」


もう、ここまで来たら、恐れない。

自然と手を伸ばして、杏奈の手を取る。


私たちは、逃げない。


こうして、塔の内部への進んだ。



中はジャンヌに関する様々な展示があった。

それらを、ガイドさんの説明とセドリックさんの補足を聞きながら見ていく。


彼女が捕えられ、どのように裁判が行われていったのか

そして、どのような最期を迎えたのか


それを、必死に涙を堪えて聞いていた。


激しい怒りがこみあげてくる。

どうしてなのだろう。

どうして、イギリスの政略の犠牲にならなければならなかったのだろう。


―どうして、私は―


再び、靄(もや)がかかった想いが、現れる。


怒りと、絶望と、悲しみと―

あらゆる負の感情を、『私』は―何よりも、自分に抱いていた。


―どうして、助けられなかったのだろう―


そう。

私は―助けられなかった。

大切な、あの人を―


涙を拭いて、それでも溢れてくる後悔の涙。

それを、私は隠すことなく―杏奈と一緒に、塔を上っていく。


彼女の顔は、青白く弱り切っている。

繋いだ手が、彼女の体の―心の悲鳴を感じ取ってるかのように思える。


きっと―ううん、絶対に彼女も、闘っている。

自分の中の、思いと。


その彼女の姿が―杏奈の姿が、『夢の中の私』の記憶と重なる。


―今の私にできることをしなければ―


重なった思いが、私を突き動かす。

まだ、終わりではない。


そう。

あの時―私はあの人を守ることができなかった。


でも今は、まだできることがある。

この子を―杏奈を、守る。


その思いを、杏奈が感じ取ったのか

弱り切った顔を上げて私を見た彼女の表情は


どこか、嬉しそうに見えた。



自分の世界と闘っている私に、セドリックさんも何も言わずに見守ってくれていた。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


塔の内部を見終わった私たちは、一旦休憩することも兼ねて駅前の大通り―ここでもジャンヌ・ダルク通りと言われていた―に出て、昼食を摂った。


ワイワイとにぎわっている大通り。

この場所でかつて、あんなことがあったなんて想像もできない。


セドリックさんが、私たちを見て言った。


「マリーお嬢さま。アンナさま。お2人が、どのような思いでこの地を訪れたのか―今なら、分かる気がします。お2人は単に観光で来られたわけでも―熱狂的なジャンヌ信者であるわけでもない。何かもっと―深い結びつきがあるのでは、と…私には思えてなりません。」

「―セドリックさん…」

「どうかお嬢さま、アンナさま。聖女ジャンヌが歩まれたその道を―最後まで、目を逸らさずにいてくださいませ。それが、フランスを救った少女に対して今の私たちができる、償いである気がするのです」

「「…はい」」


この国に住む人たちにとっての、彼女への想い。

それは、彼女への愛と感謝なのだと


セドリックさんの言葉を聞いて、改めて思った。



ジャンヌ・ダルク通りを抜けていくと、すぐに大きな広場に出た。

そこにあるのは―大きな近代的な教会と、高くそびえる、木でできた十字架。


ここが、彼女の最期の場所。


セドリックさんが説明してくれる。


「この広場はヴィエ・マルシェ広場と言います。あの教会は―後世になり建てられた、聖女ジャンヌを祀る教会であり―」


そして、彼が指すのは、その教会の隣にそびえる木製の十字架。


「そしてあの十字架が―異端の罪を受け、火刑に処されたジャンヌが磔にされた柱です」


高く、高くそびえる十字架。

それを、私と杏奈は下から見上げている。


こみ上げてくる感情を堪えながら―震える杏奈の手を取り、じっと耐えながら、十字架を見上げる。

セドリックさんの説明が静かに続く。


「当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に再び異端の罪を犯したときだけでした。聖女ジャンヌは裁判を通し、やげて改悛の誓願を立てます。そしてその時に、それまでの男装をやめることにも同意しました。」


―私は何もできなかった


―あの人がここで囚われているのに、何も―


夢の中の―遠い昔の私の想いが、溢れてくる。


―当時の光景が、思い浮かんでくる。


大きなルーアン城にそびえる塔。

城壁の外からその塔を見上げる、その光景が。


―私は塔の外で、ただ祈ることしかできなかった―

そう。彼女の無事を、祈ることしか―


「…そうして、女性の装いに戻ったジャンヌでしたが、数日後にイギリス人により性的暴行を受けそうになります。そのようなことから身を守るためと、ドレスが盗まれて他に着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになります。」


―卑劣なやり方。すべて、ジャンヌを陥れるための策略。

それを後で知った私は―


隣にいる杏奈の手を握りしめ、思考を現実に戻す。


大丈夫。私は―知らなければならない。


私と同じように―過去の杏奈自身の想いを聞いている彼女が、ここにいるのだから。


私も、杏奈も―私たち自身を知る覚悟がある。


彼女の―杏奈の手が、私の手を握り返したことに、勇気が出る。


「しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、彼女を庇う証言もありましたが―ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告されてしまいます。異端の罪を再び犯したとして、死刑判決を受けたのです…」


―ジャンヌ…ジャンヌ!!


見上げる火刑台に、当時の―600年前の様子が重なるかのように見えてくる―



火刑台に磔にされた、私の大切な人。


泣き叫ぶ私の声は、おびただしい数の群衆とイギリス兵、そして修道士によって阻まれ、届かない。


2人の修道士に、あの人が何かを言い―それを受けて、あの人の前に掲げられた、十字架。



あぁ―神様。


あの人を―あなたの声に従い、フランスを導いた彼女に、救いを―


ずっとずっと逢いたかった、大切な人。

塔の外で、あなたの無事を祈ることしかできなかった私。


あなたに約束したのに―あなたを守ると約束したのに―



無念の涙が、私を濡らす。


高く掲げられた十字架に、瞳を閉じてじっと耐えるあの人の姿が私の瞳に映り―

もう、私にできることは無いのだと悟る。


―ジャンヌ!!ジャンヌ!!!大切なジャンヌ!!!


そして―執行人により薪に火がくべられ―業火に身を包まれる。


業火が彼女を包み、苦しみの声を上げても―私は、最後まで目を逸らさなかった。



―そう。まだできることはある。

ただ、神の御許に、静かに行くことができるように、祈ること。


それが、私に―あの人の友達の私に、できることだから。


そして―その最期の瞬間が、決して寂しくないように


せめて私だけは、彼女の最期の姿を目にしておかなければと思った。


彼女が、最期の瞬間に―こう言ったように思えた。


―マリー、ありがとう―


ジャンヌが私を見て、そう微笑んだ気がした。


―ジャンヌ!!!ジャンヌ!!!私のジャンヌ!!!


そのまま―業火は天に届くかのように見えた。

絶望と、悲しみと、無力感と―

しかし、最期の瞬間に、彼女を苦しみから解放して送ることができた、そのわずかな自己満足を、私の中に残して―





「―お嬢さま!アンナさま!大丈夫ですか!?」


セドリックさんの声に、再び思考が現実に戻された。

我に返ると私は火刑台の下で杏奈と抱き合って、2人で静かに涙を流していた。


堪え切れず、声に出てしまう。


「―ジャンヌ…私の、大切な人―」

「―っ!」


その呟きを聞いていたのか、杏奈が私の胸の中でわずかに身じろぎをする。

それを気にせず、私は杏奈の体に自身を預けるように、彼女を―あの人の最期の瞬間に想いを馳せる。


「ここに来て―よかった。嘘かもしれない。私の、幻覚かもしれない。それでも―」


私は、誰ともなく―ううん、きっと、目の前で、私が抱きしめている彼女にこそ、言いたかったのかもしれない―。

彼女の体温を―胸に染みる、彼女の涙を感じながら続ける。


「―私は…ず、ずっとずっと昔…た、確かにジャンヌの、友達で―私にとって、と、とても…大切な、大切な、人だったと分かったから。」


再び感情が溢れ、嗚咽を漏らしながら、私は彼女に伝える。

ここにいる私が、この地で―きっとずっと前の私が感じたことを。


そう伝えると、抱きしめている杏奈が、その瞬間に私を強く抱きしめ返してきた。


「そして―大切なジャンヌが…さ、最期の瞬間に…わ、私の方を―マ…『マリー』と呼んで、微笑んだ気がしたから。だから―ジャンヌは、きっと…苦しまずに―」


嗚咽がこらえきれず、ところどころ詰まりながらも、この旅で私が感じたことを―

私が、ずっとずっと昔、あの人と同じ村に生まれた、あの人の友達『マリー』として行動を共にしていて

そして、彼女のことをずっとずっと大切に思っていたことを伝えた。


そして―ずっと後悔していたし、彼女の最期を知った今でもそれは消えないけど、

最期の瞬間は、きっと救われたのではないか、と思えた気がすることを。


大昔の誰かの生まれ変わりなんて、そんな発想はきっと誰に言っても笑われるだろう。

でも―杏奈は別だ。

杏奈には、すべてを話さなければならない。

私には、杏奈に対してだけはその義務があると感じた。


それをじっと聞いてくれていた杏奈と―セドリックさん。


セドリックさんも、きっと何かを感じ取っているかもしれない。


「―セドリックさん。ありがとうございました。これで―私は、知らなければならないことを知ることができました。」

「―いいえ、私の方こそ…何か、貴重で、とても大切な体験を共にすることができたと感じております」

「…セドリックさん…」


無理を言ってこの旅に同行してもらった彼に、おばあさまの家に帰ったらちゃんとお礼を言おうと感じていると、ふいに私を抱きしめていた杏奈が顔を上げた。


―その顔は、いつも見慣れていたはずのその顔は―


凛々しい瞳にはすべてのものを導いていった、あの人と同じ光りが宿っていて

太陽の光を受けて反射した彼女の髪の色は、部分的に透けたような光の色を帯びていて―


それは、まるであの人のように感じられた。



―まさか―



私の胸が、ある可能性に切なく締め付けられる。


杏奈が―夢の中のあの人と同じ声で言った。


「私も―思い出したの。ずっとずっと昔、ドンレミに生まれて…とても大切な一人の友達と一緒に、いろんな場所に行って戦ったことを。オルレアンも…ランスも。」


―まさか、そんなことがあるのだろうか


杏奈の声が…嗚咽で揺れる。


「そ、そして…ぶ、ブルゴーニュ公国軍に捕えられ…イギリス軍に不当な扱いを受けた時も…その子は、ずっと…ずっと、私のことを祈ってくれていた。私がルーアンで…ここで、ひ、火あぶりに、なる、その瞬間も、わ、私のことを…み、見守ってくれていたって、分かった…!」


その瞳が―私を捉えた。

夢の中のあの時と同じく―彼女の瞳の中に、私が映っていた。


「その人は―私の、一番の友達で…一番大切な人だった。」


震える手で…私は、そっと彼女の頬を撫でた。


「…まさか…杏奈だったの…?杏奈が私の…」


その言葉に、杏奈が―私のあの人が、私の手を取り微笑む。


「うん…私は…ジャンヌだった…!マリー…私は、今も昔も…あなたに守られていた…!!」


私のあの人が―ジャンヌが、昔と今を結びつけた。


「マリー…大切なマリー…」

「…ジャンヌ…杏奈…」


再び抱きしめ合った私たち。

私の胸で泣きじゃくる私の幼馴染は


600年前、確かにこの場所にいた、わずか19歳で殉教した一人の少女で

私がいつしか恋していたのだと、失ってから気付いた


たった一人の、愛しい人の生まれ変わりだった。

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