名探偵の誕生

如月姫蝶

名探偵の誕生

 夜空に雷鳴が轟いた。

 女医は、愛車を駆って、快適とは言い難い山中の道のりをひた走る。

 彼女の母は、一族が所有する広大な山荘で療養中だった。ところが、容態が急変したとの報せがもたらされたのだ。

 女医は、米国留学から帰国したばかりだ。母との再会がこんな形になるなんて。もしかしたら、言葉を交わすような再会は、もはや叶わないかもしれないだなんて……

「ああ、お母様……」

 彼女の不安や焦燥が天に投影されたかのように、またもや雷鳴が轟いた。


 英理子えりこが山荘に到着すると、黒衣の男に出迎えられた。彼は、年老いた執事……などではない。長身で厳めしい壮年の男性だ。そして、犬に例えるなら、地獄の番犬ケルベロスくらいのステータスを期待できそうだった。

「お待ちしておりましたよ、名医殿」

 彼は、少々おどけて敬礼して見せた。

「あら、光栄だわ、秀征ひでゆき兄さん」

 英理子は、彼の表情に安堵の色を見て取った。刑事である兄よりも、医師である妹が待望される状況だということだろう。

「伯父ちゃま、こんにちは。タバコのポイ捨てからは卒業されたんですね?」

 その声は、秀征がまさに携帯灰皿に吸い殻を捩じ込んだ瞬間に発せられた。

 見れば、ツインテールの女児が、英理子の背後から歩み出た。キュロットから覗く膝小僧に絆創膏が一つ貼られているのが、いわゆる体育会系の秀征にしてみれば、健康的で好ましかった。

理々乃りりのちゃん!こんにちは、大きくなったねえ」

 思えば、秀征は、理々乃に会うたび、同じような言葉を投げ掛けている。

 秀征は、数年前、親族の集まりで、ついイライラしてタバコをポイ捨てしたところを、この姪っ子に目撃され、きっちり注意されたことがある。子供の教育上よろしくなかったことは認めざるを得まい。

 当時、英理子の臍の辺りまでの背丈だった理々乃が、今ではバストの辺りまで背を伸ばしていた。

「伯父さんは、今では、分煙派の穏健派だ。山荘の中でタバコを吸ったりはしないから、許しておくれ」

 秀征が屋外に出ていたのは、妹の出迎え以前にちょっと一服という目的もあったのだろう。

 兄妹は、理々乃の頭越しに目配せして、いよいよ山荘へと足を踏み入れた。


 山荘の女主人である蓉子ようこは、座椅子で目を閉じていた。リクライニング式であるその背もたれを倒して、死んだように横たわっていた。

「ああ、母さん、頼れる執事だけじゃなく、御典医もやって来たよ」

 蓉子のそばに付いていた芳伸よしのぶは、そそくさとその持ち場を兄と姉に譲った。

「おい、俺は身軽な独り身だから、お袋の運転手やら警備員ならやらせてもらうが、さすがに執事というのは……」

「兄さん、そこは、そもそも真に受けなくていいとこだと思う。執事が嫌なら、いっそケルベ……いや、なんでもないわ」

 秀征は、警察官という職業柄ゆえか、親族の間でも符牒を使うことを好む。しかし、執事呼ばわりは、どうにもお気に召さないらしい。

 御典医と呼ばれた英理子は、鞄から聴診器をはじめとする仕事道具を取り出した。

「こんにちは、芳伸叔父ちゃま。今日はお一人なんですか?」

「そうなんだよ。うちの腕白坊主たちは、今日はお留守番してるんだ。なにしろ前回、母さんの大事な宝物を破壊してしまったからね。この素晴らしき大豪邸に出入りさせるのは気が引けるんだ」

 もしも普段から双子の五歳児と同居していれば、かけがえのない染付の陶器を卓上に飾ろうだなんて、そもそも思いもしないだろう。しかし蓉子は独居だ。独居になってしまったのだ。

「うちは、夫が当直中だから、連れて来るしかなかったのよ」

 理々乃の声を聞いて薄目を開けた蓉子へと、英理子は肉迫した。夫婦揃って勤務医であるだけに、週末の休みも夫婦揃って取れるとは限らないようである。

 それにしても、利発で愛想の良い八歳児は、双子の五歳児とは傍目にも大違いである。

「お母さん、腹痛が続いているのよね?でも、色々な可能性を考えなきゃいけないから」

 孫娘を観察していた蓉子の薄目に、英理子は両手の親指を掛けて、をさせたのだった。


 実母とはいえ、女性がこれから衣服をはだけて、医師の診察を受けるのだ。

 男二人はそっぽを向いて、情報を共有することにした。

「おい、芳伸。おまえ、俺が席を立っている間に、お袋の気に障るようなことをしただろう」

 秀征は、眉根を寄せて、元からの厳めしさを三割は増強した。

「ばれちゃあしょうがねえ……って、べつに、ちょっとはっきりと言わせてもらっただけだよ。淋しいから会いたいなら、そう言ってくれればいい。本当に腹が痛いだけなら、医者である姉さんに相談するだけで良かったんじゃないかってな」

 蓉子の三人の子供たちは、幸いにして、山荘の近隣に居住している。しかし——

『三日前から腹痛が続いてるの。原因は思い当たらない。芳伸の差し入れを食べたわけでもない。市販薬を飲んで様子を見てるけど、腹部全体に鈍痛があって、少しずつ酷くなってきて、今朝からは胃が熱いようにも感じる。今日に限ってかかりつけ医はお休み。救急車を呼ぶのは大袈裟だと思うの。どうしたらいい?』

 こんなメッセージを三人ともに送り付けられても、有意義な返信ができそうなのは、英理子くらいのものである。そもそも、蓉子だって看護師の資格を持っているのだ。秀征は警察官だし、芳伸は観光畑の公務員なのだから、率直に言って、訊かれても困るのである。

 例えば、蓉子がこの山荘で一人暮らしを開始した際、秀征は、通話の内容が全て録音されるような、「詐欺に強い」固定電話を誂えた。得意分野であれば協力は惜しまないつもりなのだが。

「お袋も淋しいってことだろう」

 結局、その認識は、兄弟間で一致しているのだった。


 蓉子は、病気がちの夫を支えながら、彼ら三人の子供たちを育て上げてくれた。看護師の仕事に誇りを持っており、定年退職する時点で、大学病院の病棟を一つ預かる師長の地位に就いていたのだ。

 母の退職後、子供たちは、両親に海外旅行をプレゼントした。蓉子自身には、年齢相応の老眼はともかく、特に持病も無く、日々の表面は穏やかに凪いでいた。しかし、ついに半年ほど前、父は他界してしまったのである。

 蓉子は、子供たちを驚かせた。夫婦で相談して決めていたことだからと、それまで暮らしていた家を売却して、小ぢんまりとしたこのアパート——山田荘やまだそうへと移り住み、独居を開始したのである。子供たちに経済的な負担を掛けたくないという蓉子の決意は、ひしひしと伝わってきた。

 因みに、「山荘」とは、「山田荘」をもじった符牒なのである。


「芳伸、おまえと菜美なみさんが、しょっちゅうお袋の様子を見てくれていることには、俺も感謝してるよ。だがなあ……」

 菜美は、芳伸の妻である。

 先日、芳伸は、趣味の釣りの帰りに、この山荘を訪れた。母に釣果を献上したのだが、なんとクーラーボックスのトラブルで、魚の鮮度が落ちてしまっていたのだ。

 蓉子は、一考した後、せっかくだからと、よく火を通してからその魚を食べたのである。

 結局のところ、幸運の女神は微笑まなかった。

 蓉子は、蕁麻疹と腹痛を発症したのだ。その日はかかりつけ医を受診することができ、鮮度の落ちた魚肉で生成されたヒスタミンという物質が原因だろうと、あっさりと診断されたのである。このヒスタミンは、煮ても焼いても抹殺することなどできないのだ。

「元師長の私としたことが!」——と、蓉子は、腹痛以上に慚愧の念にのたうち回ることになった。

「兄さん、言っとくが、母さんの腹痛の原因になったのは、僕一人だけじゃないぞ。僕たちは三人とも、母さんがお腹を痛めて産んでくれた子じゃないか!」

「……上手いこと言ってどうする気だ?」

 秀征は、弟にデコピンをお見舞いした。

 芳伸は、結果的に母に毒を盛ってしまったという失点を挽回すべく、差し入れは自粛して、孫の顔を見せるという作戦に切り替えた。双子だけにまさに二人力だろうと踏んだのである。しかし、彼らの運動エネルギーは二乗以上であったらしく、蓉子が海外旅行先で入手した、亡夫との思い出の品である染付の陶器が、呆気無く不燃ごみと化してしまったのだった。

「今日のメッセージで、僕のこと、食中毒の原因菌みたいに名指ししてさ……母さん、怒ってるよね?」

「客観的な経緯を書き記しただけかもしれんが……まだ怒ってるんだろうな」

 やはり、その認識は、兄弟間で一致していた。


 英理子は、蓉子にあかんべえさせることから始めたが、貧血や黄疸の所見は無かった。

 発熱は無く、皮膚の極端な乾燥も見られず、高齢者に多い脱水症状も否定的。

 時として心臓の不調を胃の不調だと勘違いする患者もいるから、胸部の聴診も入念に行ったが、病的な雑音や不整脈は無かった。

 腹部の聴診では、腸の動きが少々亢進していることが聞き取れたが、腸閉塞といった緊急性の高い所見は無し。

 触診に移るタイミングで、英理子は、理々乃を蓉子の枕元に座らせた。

 理々乃は、近頃サッカークラブで頑張っている話や、マザーグースの世界では、兎が月で餅をつくのではなく、牛が月を飛び越えるのだといった話を、表情豊かに祖母に聞かせたのだ。

 対する蓉子が相好を崩したことからして、彼女の気分が極端に鬱々として腹痛を生み出したというわけでもなさそうだった。

 理々乃は、充分に役目を果たしてくれていた。腹部の触診を行う際には結構な力を込めるため、患者の緊張を和らげ適度に気を逸らす工夫が必要なのだが、理々乃はまさに適任だった。

 英理子は、虫垂や腎臓の異常まで疑って、母の腹にぐっと手を押し込んだのだが、蓉子は、「全体的な鈍痛」以外には、何も申告しなかった。


「お母さん、今から慌てて病院に駆け込む必要は無いと思う。けれど、市販薬を飲みながら様子を見ていいのは、一般的に四〜五日で……」

「このお薬の説明書には、一回三錠、一日三回、五〜六日までって書いてあるわ」

 蓉子は、英理子の言葉を遮り、愛用している市販薬の小瓶を、由緒正しき印籠のごとくに掲げた。

 それは、下痢や腹痛の薬として、実に百年以上のロングセラーである有名な市販薬だった。味も臭いも強烈なのだが、それ相応の効果を誇るということだろう。

「お薬はそれしか飲んでないのよね?」

「そうよ。もう残り少なくなってきたから、また買い足しておかないとね」

 看護師として長年勤め上げた人物が、厚い信頼を寄せている市販薬なのである。

「まさか、使用期限が切れたりしてないでしょうね?」

 英理子は、母の手から薬の小瓶を受け取る。

 使用期限までにはまだ余裕があったが、英理子は、ちょっとした違和感を覚えた。

「お母さん、『残り少ない』とか言わなかった?このお薬、ぱっと見、まだ三分の二以上は残ってるんだけど……」

 英理子の隣で、理々乃が大きく目を見開いた。続いて、彼女が室内を見回すと、ツインテールの髪も揺れた。


「ねえ、こっちの瓶のお薬は、理々乃が生まれる前に、使用期限が切れちゃってるよ!」

 理々乃のそんな告発が、大人たちの後頭部を、鈍器のごとくに痛打した。

 女児が母に手渡したその薬瓶は、蓉子が手にしていたものと銘柄も大きさも同じだが、確かに薬の残量は僅かで、何より……十年近く前に使用期限が切れていた。

「どこで見つけたんだ?」

 秀征が、刑事の顔で尋ねる。

 理々乃は、台所を指差した。

「あのポットが乗ってるワゴン、お婆ちゃまは、前のお家でも使ってたわ。ワゴンの引き出しから、絆創膏や虫刺されのお薬を出してくれたことがあったから、覚えてたの。

 もしも、同じお薬の別の瓶があるなら、あの引き出しじゃないかなって思ったの!」

 そして、八歳児の推理は的中したのだった。

 

 使用期限が切れて十年が経とうとしている薬——それは、ほぼほぼ毒物である。

 そやつは、蓉子の老眼に乗じて廃棄を免れ、あまつさえ、彼女のお気に入りのワゴンに収納されていたことから、転居という危機をも乗り越えて、しぶとく残存していたのである。

 そして、くどいようだが老眼ゆえに、蓉子は、頻度は不明ながら、同じ引き出しの新しい薬瓶だけではなく、ほぼほぼ毒物と化した古い瓶の中身をも摂取していたということだろう。元より味も臭いも強烈な薬だけに、経年劣化を露呈しにくかった模様である。

 蓉子の腹痛のきっかけは未だ不明だ。しかし、この毒物がついに摘発され廃棄された以上、その症状は改善へと向かうはずである。


「なあ、お袋。警察は時々、高齢者向けの防犯教室を開くんだ。うっかり老眼に毒殺されかけただなんて、いかにもウケそうなネタだ。良ければ当事者として語り部に……」

「いーやあーっ!」

「いっそ、この山荘を史跡に指定してもらって、観光バスツアーに組み込もう。全国の高齢者への見せしめ……いやいや、戒めにさ!」

「あーれえーっ!」

「おい、この山荘の前の道は、観光バスなんて通れんだろう」

「兄さん、そこは、そもそも真に受けなくていいとこだと思う」

 徹底的な家宅捜索は、蓉子によって拒絶された。そこで、三きょうだいは、薬入れの引き出しを引っこ抜き、その中身のプチ断捨離を決行したのである。

 羞恥のあまり発熱しそうな蓉子を、理々乃はよしよしと慰めながら、使用期限が切れるまであと一ヶ月の風邪薬を発見するという手柄を立てたのだった。


「ねえ、お義母さんはどうだった?差し当たり、凄腕の女医の登場シーンだけ書いて、待ってたんだけど」

 芳伸が帰宅すると、双子は奇跡的に昼寝していた。そしてその傍らで、菜美が目を輝かせていたのである。

 彼女は、物書きを目指しており、小説の投稿サイトに自作を上げているのだ。義母たちとの付き合いも、小説へと昇華する気満々であるらしい。

『夜空に雷鳴が轟いた』

 菜美が見せてくれた冒頭の一文は、ドラマチックな急展開を予想させた。

「そうだな、ドラマチックに行きたいなら、この女医の車を、崖から転落させて終わりにすればいいと思うよ」

「えええ!?」

 芳伸は、山荘もとい山田荘での顛末を、妻に話して聞かせたのだった。

「ただまあ、理々乃ちゃんの目敏さや記憶力には、舌を巻いたね」

 菜美は、暫し親指の爪を噛んだ。

「……ねえ、女子小学生が名探偵って、面白そうだと思わない?」

 やがて、菜美は構想を語り始めた。彼女が紡がんとする物語の中で、稀代の名探偵が誕生しようとしていた。


 

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