ハッピー⭐︎ポップ⭐︎マンデー;或いはH氏の受難と救済について
コノハナ ヨル
⭐︎⭐︎⭐︎
この物語を、H氏とその歯に捧ぐ。
—————
それは月曜日の朝であったから不快と不安、それに焦燥が入り混じったものであることは予め約束されたものであった。だが現実とは酷なるもので、実際にH氏が目覚めてみると事態はそれに輪をかけて深刻なものであった。とういうのも、口腔内の右下奥方面に穏やかどころではない違和感、より率直に言えば、突き刺さるような痛みがハードでロックなビートを刻んでいたからである。
ときに、皆様はご存じであろうか。我が国における歯科医院の数は、末期的飽和状態にあるということを。親愛なる厚生労働省の統計によれば、西暦2021年における国内の歯科医院数は実に68,500。名に便利さを冠するあのコンビニエンスストアすら後塵を拝す
日本は税金が高すぎるだとか、同調圧力ばかりで皆個性がないだとか、普段はSNSでどこぞの評論家よろしく好き勝手言ってるが、H氏は本来は自由と平和を愛する真の
——なあに尋常じゃなく歯が痛むからといって、こちらが
であれば善は急げ、と素早くパジャマを脱ぎすて、玄関から煌めく陽光のごとく外へ身を躍らせる。しかしまあ、なんとご都合主——…… 幸運なるかな。時間にしてわずか数秒。物理的移動として数歩足らず。瞬く間に、これはと思う歯科医院を見つけるに至った。
奴の視線と此方の視線がカチリと合い、熱情の火花が散る。最も、さらなる正確な物言いに立脚すると、H氏の眼が歯科医院の看板を捉えただけなのではあるが、ともあれ運命の出会いであるのは間違いない。
当初の目論見どおり、強引に押し通そうとするものの敵もさるもの。手を伸ばせば、あと少しのところでスルリその身を翻し、捕まえてごらんなさいとばかりに長い髪を振って挑発する。二人はさながら渚で戯れる恋人。追いつ追われつの攻防を繰り広げるも、H氏の強靭なる意志と脚力の前では歯科医院といえども歯は立ちようもなく。直ぐに足はもたつき、呼吸は乱れ、クラリ。よろめいたところを、たくましいH氏の胸に抱き止められた。
勝利への感嘆、あるいは痛みへの絶叫か。近所迷惑な雄叫びとともに歯科医院へうち入れば「熱烈歓待」と下手くそな筆文字で書かれた半紙を掲げた男女が待っていた。
歯科医と思われる男は、青いVネック半袖にスラックス、それに顔のほとんどを覆うマスクをつけ、おでこには拡大鏡付きゴーグルが煌めいており、実に歯科医然としていること以外には特筆すべき点は特になく、あえていえば指毛がビニル手袋越しでもわかるほど濃いものであった。
一方の女は恐らく助手だろうが、こちらも青い服の上下、マスクを付けており、歯科医と同じく特徴らしい特徴はなく、重度の描写中毒である読者の皆々様にとっては物足りないと心中お察しするが、肝心のH氏は変に個性をうち出してくる者たちよりは、かえって信用できると好意的に受け止めているので其処には何の、問題も、ない。
助手に促されるまま、治療用のチェアに身を横たえると、歯科医はH氏の頭側に置いてあった小さな丸椅子に掛けてくる。そして、氏の口を開けさせ中を覗き込むと、あちこち触りながら驚くべき話術で、痛みの発生時期、箇所、普段の食事、ひた隠しにしていた性癖まで、H氏に明け透けに語らせたのちに「痛みの原因は十中八九、あれの仕業でしょう」と一つの結論を導きだしてきた。
曰く、氏を苦しめているこののっぴきならない痛みは、一般的には「親知らず」と呼ばれている無垢で不遜極まりない歯が、本来歯肉から出でるべき時期に関わらず、持ち前の反骨心ゆえに、事もあろうに回れ右して全速前進。進行過程で、
「然らば、可及的速やかに治療を開始したまえ」痛みに紳士魂を破壊されたH氏は
「痛みなんて、あっと言う間に吹き飛ばして差し上げますよ。――君、用意を」
歯科医が目配せすると、助手は奥の部屋に一旦引っ込んで、すぐに大きな銀色の機械が乗せられたワゴンを押して戻ってきた。機械から象の鼻のような形をしたノズルをズルズルと引き出して、歯科医に手渡す。
や、ありがとう、と受け取った歯医者は興奮を隠しきれない様子で、それをブンブン振り回した。
「この機械は私どもが独自に開発したものでございまして、コレがなかなか評判が良くてですね、先日も米国資本の
一気に喋り倒した歯科医は、機械の横っ面をバシーンとひとつ
「いやぁ、あなたは本当に運が良い。この機械で治療を受けたいって言ったって、誰でも受けられるわけじゃありませんからね。きっちりとした大人の歯の持ち主じゃないと。大人の歯というのは表層のエナメル質、すなわち皮が子供のものに比べて分厚い。だから、このノズルから発生したビームをキャッチすると、急速に内部にエネルギーが蓄積されて、それで――」
それで? H氏は発せられた自分の声が、とてもとても小さくなっていることに気づいた。それで、一体どうなるんです?
マスクの上に浮かぶ歯科医の二つの目が、不敵にキュウウウと細まった。
——それはもう、お楽しみってわけで。
いなや、グイッとH氏の口にノズルの先端が押し込まれる。
“カチリ”
歯科医の毛むくじゃらな親指が、ノズルについていた赤いボタンを押すのがみえた。
ジ、ジ、ジ、ジ、ジリ、ジリ、ジリジリ
機械の放つ低周波音が、鼓膜を小刻みに震わせる。急速に口の中が熱を帯びていく。温い、温い、熱い、熱い。
ふつ ふつ
ぽこ ぽこ
ふつ ふつ
ぽこ ぽこ
ふぽここ ふぽここ ぽここ ぽここ
ぽここここ ぽここここ ぽこここここここ
骨伝導を経て伝わってくる熱い
がはっ!!
我慢できずH氏が口を開けると、
“ポ、ポ、ポ、ポーン!!!!!!”
乳白色の物体が、大量に飛び出した。
————コーンだ! ポップコーンだ!!!
ポ、ポ、ポ、ポ、ポポポン、ポポポン
ポン ポポ ポポポン ポポポンポン
ポポポポポポポン ポポポンポン
ポンポポポポポポポポポポポ!!!!!!!!
医院の清潔感のある水色の天井に向かって広がるそれは、さながら青空に揺れるかすみ草。可憐な小花はエアコンの風にはらりと揺れて、いつのまにかH氏のお腹の上に置かれていた赤白縦縞柄の紙容器へ。
トトトトトトトトトト
トトトトトトトトトト
トトトトトトトトトト
トト
軽やかな着地音とともに、次々とおさまっていく。
あっという間に、容器は出来立てほやほやのポップコーンでいっぱいになった。
拍手する、助手。
満足げな、歯科医。
まっさらな歯茎が眩しい、H氏。
漂う香ばしい香りのなかで、歯科医と助手それぞれとガッチリ握手をしたH氏は、治療費をカードで分割払いし、ほくほく顔で家路についた。
もちろん、片脇にはポップコーン容器(中身入り)を抱えて。
『はて』
H氏は、ひたと足を止める。冷静になってみれば、治療が必要だったのは迷惑千万な親知らず
けれど、すぐに思い直した。いやいや、これで良かったのだと。考えてもみろ。己が身に歯があるかぎり、その存在に付随する責任と恐怖は耐えず人生に付きまとう。やれ歯磨きをしろ、フロスもしろ、虫歯ができた、詰め物とれた、入れ歯にしなきゃ、実は歯周病でした。現世におけるデンタルケア無期懲役地獄にはウンザリだ。だが、歯がなければこれらの悩みから永遠におサラバ。まさに“予防的治療”精神の体現だ。不便な普遍は、吹っ飛ばしたって構いはしない、かまやしないんだ。
H氏は、再び前に足を踏み出す。
足どりは羽のように軽く、心は浮き立って、今流行りのポップなソングが口から自然と次いで出る。
ラララン ララララ ララランラ
それ。
ポンと、もひとつ。
口に放り込んで、ポップコーン!
あゝ。H氏は、噛み締める。
「今日は最高に素敵な月曜日。」
【完】
ハッピー⭐︎ポップ⭐︎マンデー;或いはH氏の受難と救済について コノハナ ヨル @KONOHANA_YORU
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