湯船の中で抱きあって、退屈な川島君の話をしよう

原田雪

湯船の中で抱きあって、退屈な川島君の話をしよう


 ゆっくりと湯船に浸かっているとき、私の恋人は訪ねてくる。


「入ってもいい?」


 私はいいよ、としか言わないのに、恋人は必ず尋ねる。


 しばらくすると、浴室のドアが開いて、恋人が入ってくる。裸のときもあるし、服を着ているときもある。


 今日は裸だった。


「お邪魔します」


 そう言って、彼はシャワーを浴びる。湯船の中にシャワーのお湯が跳ねないように、控えめに浴びる。

 恋人の、そういうところがとても好きだ。


 彼がシャワーを止めたら、私は伸ばしていた足を曲げて体操座りをする。


「どうぞ」


 恋人を迎え入れるために、私は言う。


「失礼します」


 彼はゆっくりと湯船に侵入する。きちんとタオルを巻いている。お見苦しいところはお見せしません、そんな風に。

 私の恋人はつつましやかなのだ。



 お湯が少しずつかさを増し、ついに浴槽からあふれてこぼれる。

 水が弾けて流れる音が、耳に心地良い。


 彼は私に背を向けて、私と同じ体操座り。


 でも少し窮屈そうだ。

 だって彼は、私よりずっと背が高いから。


 私は足を広げて後ろから彼を包み込む。



 私の恋人の背中は広い。初めて背中を見たときは驚いた。

 背は高くても、ひょろりとした体型だから、男らしい背中だなんて思いもしなかった。


 それ以来、私はこの恋人の背中をこよなく愛した。

 ひょろひょろしているくせに、背中は日に焼けたような小麦色。ほんの少しだけど。


 彼の背中にぴったりとくっついて、頬をつける。

 私の愛おしい背中。

 彼は毎回、ほんの少し肩を上げる。

 もう何回だってしているのに、彼はいつもちょっとだけびっくりする。


 恋人の背中は病院の匂いがする。

 消毒薬とか、薬品とかそういう匂い。

 製薬会社とかいうつまらない会社で、薬の研究だか開発だか、そんな仕事をしているからかもしれない。


 私はこの香りもひどく好きだ。

 薬品の匂いがする、男らしい背中。



 肺の中を、恋人の匂いでたっぷりと満たしたら、私はゆっくりと後ろに倒れる。

 もちろん、彼を道連れにして。


 私は恋人を見下ろす。

 彼は私の胸の中ですっかりくつろいでいる。


 一度も染めたことがないという、彼の真っ黒な髪の毛はハリがあり、ピンと水を弾いている。

 まるで朝露をのせた雑草みたい。



「川島君がダイエットをはじめたよ」


 彼が話し始めると、私はとたんにつまらなくなる。

 黙っていろとは言わないけれど、彼の話は退屈なのだ。

 大抵、どこどこのお店の鰻がおいしいから今度行こう、とか、君が好きそうなマグカップを見つけたよ、とか、そんな話だ。

 今夜は、顔も知らない同僚の近況について聞かされる。


 私は川島君の話を聞きながら、恋人のタオルを剥ぎとる。

 彼は一瞬、身体をこわばらせたけれど、またすぐ同僚の話を続けた。


「ほら、川島君、もうすぐ結婚式でしょう?だから、タキシードが格好良く着れるようにって」


 私は剥ぎとったタオルで恋人の肩を磨く。


「女の子みたいね」


 そう言って、彼の首や胸、腕も、優しく優しく磨く。

 一生懸命に愛を込める。



 私は彼と結婚しない。

 彼との結婚生活なんて、絶対に退屈でつまらない。

 毎日彼のためにご飯を作り、彼の帰りを待ち、一緒に夕食をとりながら、退屈な話を聞く。そのうち私はそんな日常が嫌になって、キッチンドリンカーなんかになる。

 それにもしうっかり子どもなんて出来たら、彼はきっと、もう二度と私の湯船を訪ねてきたりしない。


 だから私は今、全力で恋人に愛情を注ぐ。

 私が彼に与えるはずの、一生分の愛だ。


 せっせと愛しい恋人の体を磨いていると、彼はふいに私を見た。



 真っ黒な瞳。

 彼は黒目が大きくて、墨のように黒い。


「だからね、僕もうらやましくなったんだ」


 なんのことだろう?と思いながら、ゆっくりと恋人の腹を撫でる。

 彼は私とは正反対の健康オタクで、週に2回もジムに通っている。だから、ほんの少し浮き上がった腹筋を、うらやましいと思ってしまう。


「腹筋が?」


 そう聞いたら、彼は笑って、違うよ、と言った。


「結婚したいなって思ったんだ」


 彼がそう言って、私はうっかり、誰と?と聞きそうになった。


「結婚しないかい?」


 彼が下から、真っ黒な瞳で見上げて言う。



「うーん」


 私は相変わらず、愛おしい恋人の体を指でなぞっていた。


 退屈な結婚生活。

 彼を嫌いになるかもしれない。

 いや、きっとなるだろう。この世で一番憎いと思う日がくるだろう。

 彼の背中も嫌いになるだろうか。

 彼の背中も憎くてたまらなくなるだろうか。

 彼の黒い瞳を見つめて、離婚したいと思うのだろうか。



「きっと退屈よ」


 私は彼の瞳を見て言った。


「退屈だけど、きっと面白いよ」


 彼は照りのある真っ黒な瞳で、まっすぐに見つめて言った。


 退屈だけど、面白い。



 私は慎重に考える。

 退屈な毎日を送り、彼を憎く思ったり、また愛おしいと思ったり、喧嘩して離婚したくなったりする。

 彼の背中を嫌いになるかもしれない。

 でも、それはどんな感じだろう。

 案外おもしろかったりして。


「いいよ、でも」


 私がそこまで言うと、彼は大きな黒目を揺らした。



「もしうっかり子どもができたりしても、あなたはこうして私とお風呂に入ってくれる?」


 自分の声がほんの少し震えていたことに、私はひどく驚いた。


「もちろんだよ!」


 彼は起き上がって、私の方に向き直って言った。


「子どもができたら、もしそれが高校生になったりしても、こっそり真夜中に、僕は君の湯船にお邪魔するよ」




 真夜中に彼が訪ねてくる。

 うんと歳をとった彼が訪ねてきたら、うんと歳をとった私が迎え入れる。

 おもしろいかもしれないな、と思った。


「ならいいよ」

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湯船の中で抱きあって、退屈な川島君の話をしよう 原田雪 @yukizoo

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