〝いつか〟の使者

 雪解けと同時に現れたピスタチオグリーンのバスに、ヤンは心を奪われた。

 タイル張りの部屋。足元から天井まで届く大きなガラスの窓に張り付いたヤンは、じっと外の廃墟の風景を見ていた。朽ちた高層ビルの森。割れたアスファルトの隙間から生える草。南中の日差しが降り注ぐ都心を走るその物体を視線で追えば、それはヤンの家の目の前の、白線が引かれた広場に停まった。

 丸みを帯びた四角く長い車輪付きの箱――おもちゃのように小さな、白とピスタチオグリーンのバス。

 資料でしか見たことのないそれが動くのを目にしたヤンの心臓は一つ跳ね、そこからさらに三人の人影が降りたのを見て更に高鳴った。


「……まさか」


 ヤンの隣で様子を窺っていた母の顔は、青ざめていた。ヤンがじっと見上げる中で母は白衣の裾を翻し、家の入口の方へと急いだ。ヤンはくまのぬいぐるみを抱えたまま、その背を追った。

 コンクリートが剥き出しの暗い廊下を駆けていく中で、ヤンの頭の中には、バスから出てきた三人の姿がある。何か新しいことが始まる予感がして、期待に胸が膨らんでいた。

 ――人間だ。

 胸の内でヤンは叫んだ。この滅びた世界の中で、母と自分だけだと思っていた人間が、いま外に居る。

 ――母さんとぼく、二人っきりじゃなかった。


 ガラスの引き戸の扉を通り抜け、玄関から飛び出すと、母の前に今しがた見た三人が並んでいた。ワイシャツにズボンにジャケットとシンプルな恰好の青年。白い作業服に黒のキャスケットを被った少女。黒いドレスを纏った娘。三人ともヤンより五つ以上歳上に見える。

 彼らは、何やら必死な様子の母と話していた。


「うちの子は、まだ小さいんです……!」


 悲鳴に近い高い声で、母は青年に縋り付くように訴えた。


「安心してよ、ミュウさん。私たちは、貴女の子どもをどうこうする気はないからさ。ただちょっと会ってみたかっただけ」


 青年の横に立つ作業服の少女が宥めにかかって、母はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

 ヤンは、扉の前に立ち尽くし、じっと事態を見守る。母と、青年と少女がなにやら言葉を交わす。ドレス姿の娘は腕を組んだまま、退屈そうに待っていた。

 その、ドレス姿の娘の緑色の瞳と目が合う。気怠げな中に刃のような鋭さを秘めた瞳に、ヤンは身を強張らせた。

 何か不興を買っただろうか、と心配をしていると、緑色の目は逸らされた。彼女が退屈そうに欠伸を噛み殺すのを見て、一つ安堵の息を吐く。


 そうこうしているうちに話が終わったのか、母がこちらへと近寄ってきていた。ヤンの背に手を置き、来訪者三人の方へと促される。


「こんにちは」


 穏やかな青年の挨拶に、ヤンは緊張した。言葉に詰まりながらも、なんとか青年に挨拶を返す。


「俺はリオ。それからこっちはアリィと、エカ。君と同じ人間だ」


 頷きながらもぽかんと口を開け、ヤンは青年――リオの淡青の瞳を見つめた。初めて見る、母以外の人間。彼らと自分の同じところ、はたまた違うところを無意識に探した。

 ……似た姿をしているということ以外、よく分からなかった。


 名前を訊かれたので、ヤン、と答える。そうか、とリオが頷いて、会話は途切れた。

 春の風が、四人の間を通り抜けていく。

 穏やかな顔に困ったような表情を浮かべて、リオはアリィへと目配せするが、アリィもまたキャスケット帽の下で曖昧な表情を浮かべるだけだった。


「……リオさんたちは、何しに来たの?」


 こちらから問い掛ければ、リオとアリィは考え込む仕草をした。エカはといえば、先程から変わらずに、退屈そうに成り行きを見守っている。


「君に会いに……かな」


 アリィは苦笑いしながら、躊躇いがちに答える。


「私たちは、人間を探す旅をしているんだ」

「なんで探してるの?」

「君はさ、私たちを見て、どう思った?」


 答えを得ることはできず、それどころか質問の意図が分からなくて首を傾げたまま、ヤンは部屋で三人を見たときの印象を口にした。


「……ぼくたち以外にも人間っているんだって思った」


 そうだよね、とアリィははにかむように微笑みながら頷いた。


「私たちはね、誰かにそう思って欲しくて、この滅びた世界を回ってるの」

「……それだけ?」


 それが何の意味を持つのか、ヤンは理解できなかった。


「それだけ」


 でも大きなことだと思うんだ、とアリィは言う。


「自分が世界で一人っきりじゃないと知ると、安心するでしょ?」

「……ぼくには、お母さんがいるよ?」


 すると、ヤンの頭に掌が触れた。見上げてみると、母がなんだか泣きそうな表情で、ヤンの頭を撫でている。その様子を、リオとアリィは懐かしむように眺めていた。

 そうだね、と呟いたときには、寂しそうだったが。


「見ての通り、この子はまだ幼くて、ここを離れるには早いと思うんです」


 母は言う。

 離れる、と聞いてヤンは驚いた。自分が母から引き離される事態だったとは、今このときまで思いもしなかった。


「そうみたいだね。お母さんのこと大好きみたいだし。一緒に居られるうちは、居たほうが良いと思うよ」

「だが、先のことは考えておいた方が良い」


 ずっと黙っていたエカが口を開いて、ヤンは驚く。あまりにも黙ったままだったので、この人は人形のように話さないのだと思っていた。

 エカは目を眇めて、ヤンを見つめる。


「何も言われずに取り残されたら、子は傷付く」


 そうですね、と母は目を伏せた。あまりに悲しそうだったので、ヤンは母の手を握る。ヤンより歳上のひとたちが交わす会話はヤンにはよく分からなかった。けれど、なんとなく深刻で大切な話であることだけは察することができた。

 それが、母を悩ませることであることも。

 元気を出して欲しい。そう思って見つめると、母は微笑みを返してくれた。ヤンは少し嬉しくなる。


「俺たちが拠点にしている村があります。気が向いたら、そっちへ来てください」


 リオが母に紙片を差し出した。そこにはアルファベットと数字の組み合わせが書かれている。座標だとヤンが知ったのは、後のことだった。


「……そうですね。いつか、きっとそちらに、お世話になれたら」

「どこかに行くの?」


 紙片を受け取る母を見上げ、ヤンは尋ねた。


「いつか……お母さんの決心がついたら、よ」


 その〝いつか〟が楽しみのような気もしたし、ずっとそのときが訪れなくても良いような気もした。まだ見ぬ新しい場所に行くのは楽しそうだが、今のように母と暮らせなくなることは恐ろしい。


「それじゃあ、俺たちはそろそろ」


 別れの言葉をもって踵を返す三人を、ヤンは驚いて見つめた。


「もう行くの?」

「うん。お呼ばれしたわけじゃないし。……ここに居ても、君の平穏を壊すだけだからね」


 招かれざる客、という、何処かで見た文言が頭をよぎる。彼らがそのような迷惑なものとは思えなかったが、母はどこか安堵しているようだった。

 何故だろう。ヤンは首を傾げる。しかしヤンもまた、彼らを引き留めようとは思わなかった。


 小さなバスが、ゆっくりとヤンたちの目の前から離れていく。

 ほんの一瞬すれ違うような邂逅がヤンにどのような変化を齎すか。


 それを知るのは、まだ先のこと。

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