箱庭の中

 そこはとても建物の中とは思えないほどに自然に満ち溢れていた。空からは柔らかな太陽の光が降り注ぎ、耳を澄ませば小鳥の鳴き声がする。風もそよいでいるようだった。

 目を閉じ、力を抜いて椅子にもたれるだけで、心穏やかになってしまう。そんな居心地の良い場所だった。


「昔は……こんな風だったの?」


 ガラスドームの施設の一角。円卓と椅子が置かれた広場に案内されたリオたちは、そこでリノウの接待を受けていた。

 落ち着きなく辺りを見回すアリィに、そうらしい、と青年は言う。


「もちろんこの小さな施設だ。世界を完全再現とはいかないだろうね。でも、気圧や気温はそれらしく設定されている。知っているかい? 昔は天が近くて、今よりも気圧が高かったらしいよ」


〝気圧〟と聞き慣れない言葉に、リオとアリィは首を傾げる。エカはとっくに話を聴くのを放棄していて、椅子にふんぞり返った体勢で目の前の茶菓子を口に入れるばかりだった。


「僕たちの吸っている空気も質量がある。その空気が積み重なって、大気ができている。僕たちは常にその重い大気を背負って暮らしているんだ。同時に支えられてもいるわけだから、重さを感じることはないわけだけれど――」


 そこで言葉を切って、リノウは眉根を寄せた二人を見て苦笑した。


「あまりこういう話は縁がなかった?」

「父さんがそんな話を前にしていたような気がするけれど……あまりよく覚えていないな」


 両親が居た頃は、リオもアリィも二人から教育を受けていた。文字・数字の読み書きに、計算。世の中の仕組みのこと。一日の中に〝授業〟の時間が設けられ、その限られた時間の中で少しずつ知識を与えられていた。

 その知識の中に、物理と呼ばれる学問もあった。数学の意義を教えられた学問だという以外で、リオの印象は大して強くなかったが。アリィは少し興味を持っていただろうか。だが、父が旅立ったこともあり、教えられた内容はすでに記憶の彼方に行ってしまっている。


「そうか。僕は先生に教えてもらったんだけどね」


 先生。リオは口の中で繰り返す。リノウ以外のヒトだろうか。意外にいるものなのだな、と思う。それなのにどうして、母に死なれた後、自分たちは世界で二人きりなのだと思ったのだろう。

 ――両親は、他の人間について、何か言っていただろうか。


「気圧云々は置いておいて、昔の世界では、空は、このガラスのドームみたいに、頭上で張り巡らされているものだった。だから、あんな風に――」


 リノウはドームの中央に立つ柱のような白い樹を指差した。その樹は葉を付けることはなく、ただ骨のように生白く細い枝を伸ばし、ガラス天井に這わせている。


「――樹が空を支えていたんだって」


 ちょうど太陽を背にしていて直視することはあたわなかったが、青々とした葉を広げる植物が多い中で、その樹はとても異質に映った。近づいて見ないことには確たることは言えないが、表面の質感が石のように冷たく滑らかに見えた。

 現在外には、そのようなものは一つもない。少なくともここまでの旅路では見かけなかった。


「もしかしたら世界が滅びたおおよその原因は、その樹にあるのかもね」


 そうリノウは言う。

 リオはもう一度、ドームの柱に目を向けた。それが失くなったときのことを想像してみる。支えを失ったガラス天井は、重みに耐えきれず潰れていくのだろうか。そんな風に世界は滅びていったのだろうか。

 滅びに直面した人々の心情を想像し、胸が圧迫された気分になる。現在の世界にそんなものが一本も立っていないことを有り難く思った。

 と同時に、この施設の存在に疑問が浮かぶ。滅びかねない世界を再現したこの場所に、何故リノウは居るのだろうか。

 疑問を口にしてみると、あっさりと彼は答えた。


「もちろん、これからの世界で人間が生きていくのに、最適な環境を突き止めるためだよ」


 リオは呆けて口を開けた。対してアリィは引き結んだ。エカは眉をひそめたが、無言のままビスケットを噛み砕いている。

 そんな三様の反応を気に留めることなく、リノウは優雅な動作でティーカップを持ち上げた。


「僕は言うなれば、観察対象。過去の世界の環境が、人間が生きるに最適の環境なのか、それを測るための被験体サンプルなんだよ」


 リノウは白い指先でティーカップの縁を軽く弾いた。小さく澄んだ音が規則正しい律動リズムで刻まれる。微かなその音は、時計の秒針を思わせた。


「この世界で人間がやり直すために、いろんなヒトたちが試行錯誤している。先生たちも、その一人」


 リノウはもう片方の手で頬杖をつき、振動でさざなむ褐色の水面を見つめながら語る。

 この施設を管理する二人の〝先生〟。彼らは幼いリノウをここに住まわせ、それからずっと彼を観察しているのだという。


「滅びの前後で、世界の環境は大きく変化しているらしい。先生たちは、そんな大きく変わった世界の中で人間が暮らしていけるのか、大いに心配しているんだよ」

「でも、別にそんなこと気にしなくったって……」


 アリィは言い淀んだ。リオもアリィも、エカも、現在の世界の中でなんとか生きていけている。食事も取れている。不自由を感じたことはない。

 誰かに、今の環境が生きるのに適しているのか否か、心配されるようなことは何もない。

 ――ならば、リノウは……?

 リオもアリィも、気まずさから口を閉ざした。


「……窮屈そうだ」


 エカが、この小さなガラス張りの箱庭を見上げてポツリと言った。


「まあね。でも、慣れだよ、こういうのは」


 信じ難い、とばかりにエカは顔をしかめた。だが、何も言うことはなく、豪快に用意して貰った茶を飲み干す。


「本当はね、さっきのように一瞬でも外に出ることは許されてはいないんだ。君たちを招き入れたことも、良い顔はされないかもね」


 今は先生たちは居ないから咎められることもないんだけど、とリノウは付け加える。


「なら、どうして……?」


 慣れだ、と諦念を示していたにもかかわらず、〝先生〟の意に反した行動をしている。そのちぐはぐな様子が気になった。

 リオの問いに、リノウは白い樹を見上げた。日光が目に入ったのだろう、彼は目を細める。


「知りたくなった。僕はあの樹と同じなのか、そうじゃないのか」


 リオは樹を見上げ、それからリノウに視線を戻す。彼は、慕わしそうな、それでいてうとましそうな視線を樹に向けている。

 心の内を把握しようとまじまじと見ていたリオの視線に気がついたのか、リノウはこちらに視線を戻し、微笑する。


「どうやら、同じみたいだね」


 砕けたガラスを踏み鳴らしたような、軋んだ笑みだった。少なくともリオにはそう見えた。

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