第3話 白銀の苑

 そして、同じ年の真冬。


その日は、まる一日降り続いた雪のため、後宮も後苑も全てが白い輝きで埋め尽くされていた。


秋烟しゅうえん、秋烟! 危ないぞ、凍っている池の上なんて。氷が割れて池に落ちたら大変だ!」

 後苑の北西の隅にある、人も通わぬ小さな池。凍った水面に足を載せようとする秋烟を、ぐいっと朗朗ろうろうの腕が引き止める。


「でも朗朗、あそこに僕の香袋こうぶくろが……」

 情けない声を出した秋烟は、池の遥かな先を指さす。そこには緑色の袋状のものが氷の上に乗っているのが見えた。


「お前のか? 何であんなところにあるんだ?」

「先輩が……建寧殿けんねいでんづきの王内官に取り上げられて、あんなところに投げられちゃって……」

 朗朗は眉を寄せたが、そのまま秋烟の首根っこを掴むようにして、無理やり池のほとりに引き戻した。


「お前はここで待っていろ。危ないから、俺が取って来てやる」

「そんな……朗朗!」

 秋烟が止めようとするのもかまわず、朗朗はそろそろと池の中心に向かって進んでいく。


 ――こんな冷たい水に落ちたら、心の臓が止まっちゃうのに!


 秋烟がはらはらしながら見守るなか、朗朗は身をかがめて緑の香袋を回収し、また立ち上がってこちらに手を振って見せた。


「おーい、取ったぞ!」

「あ、ありがとう! 朗朗。早く戻って……!」

 口もとに両手を添えて叫ぶ秋烟は、朗朗が行きと同じように慎重に歩くさまを凝視ぎょうししていた。


 ――ああ、どうか天帝さま! 彼を無事にお戻しください……!


 だが、彼の祈りを嘲笑うかのように、朗朗が姿勢をぐらりと崩した。ついに足元の氷が割れたのだ。


「わっ……」


 思わず朗朗が足を踏み出す先も、また「ぱりん」と氷のひびが入る。彼は割れゆく氷と競争するように、よろめき、沈み込みながらこちらに近づいて来る。秋烟はなかば池の上に身を乗り出し、手を差し伸べていた。


 朗朗が悲鳴を上げ、大きく割れた氷の間に落ちるのと、秋烟が朗朗の手首を掴むのはほぼ同時だった。

「朗朗!」

 非力な秋烟のどこにそんな力が秘められていたのか、彼は友人を半ば池から引き上げるようにして、ともに雪の積もる岸辺に転がった。


「っ、いてえ……」

「朗朗、大丈夫?」

 朗朗はやっとのことで仰向けになると、一笑して香袋を差し出した。

「ありがとう、おかげで氷の下に落ちないで済んだよ」

「朗朗、そんな。礼を言うのは僕のほうだよ……無事で良かった。本当に良かった。朗朗に何かあったら、僕は……」


 ――とても生きてはいられない。


 秋烟は、その言葉を呑み込んだ。


「そんな泣きそうな顔をするなよ。ところで、その中には何が入ってるんだい? 随分大事そうにしているけど」

「ああ、これ……」

 秋烟は香袋を開け、中身を取り出して見せた。それは、一条の赤い紐だった。


「妹の髪飾りだったんだ。僕とは引き離されて妓楼に売られたはずだけど、今はどうしているのか……」


 ――紅児。お腹を空かせてないだろうか、泣いてはいないだろうか? 


「本当に大切なものだったんだな。とにかく、取り戻せてよかった」

「うん、ありがとう」


 肉親を思い出して涙ぐむ秋烟は、ぶるっと身体を震わせた。池から朗朗を引き上げるとき、上半身がずぶ濡れになってしまっていた。よく見れば、朗朗の唇も紫に変色し、身体もがたがた震えている。


「ああいけない、朗朗。早く『師父』の小屋に行って、温まらせてもらおうよ……立てるかい?」


 池に舞い降りた二羽のさぎが耳障りな声でき交わし、身体を引きずるようにして去る宦官たちを見守っていた。

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