極東の魔王 その3

 剣闘士の闘技を観戦してから数日後、ヨハンネは所用でプルクテス国の王都ニブラスの市街地へ出掛けるため馬車で移動していた。


 ヨハンネが乗る四人乗りの馬車は外装が黒く、豪華な彫刻が施されており、さらには小窓がついて、その小窓にはガラスが貼られている。


 景色を見つめながらずっと考え込んでいた。


 それはプルクテスで行なわれている奴隷売買、闘技場での殺し合いだ。彼はこの国の真の姿を知ってしまったのである。


 奴隷になった人々が殺し合い、それをプルクテス人は娯楽のために観戦する。そんなことが許されるのだろうか。自分は平和ボケしていた、そう思った。


 ヨハンネの親は商人であり、人権は保障され、お金もあり、食事も毎日3食。奴隷たちはどんな食事をしているのか、想像もつかない。


 視線を一度、馬車の中に戻したあと再び小窓から街の風景を眺める。舗装された道の脇にはレンガ造りの家が軒並みに建っている。


 王都ニブラスはとても治安が良く、表を歩く者はみんな豪華な衣服に身を包み、笑い声が絶えない賑やかだ。街中には国軍兵士や奴隷監視委員会の監督官が巡回警備しているため、治安はとてもいい。


 その景色はいつもと変わらない。だが、ヨハンネにはそれが今では違和感を感じる。


(―――――ここの人たちはとても優しくしてくれて、皆、笑顔で僕に接してくれる。でも、ここにいる奴隷たちからは怒りや憎しみを感じる)


 近くを通り過ぎる奴隷たちは目が死人になっている。敵意むき出しで睨みつけてくる者もいた。今にも襲いかかって来そうだった。


 奴隷監視委員会の監督官がそれに気が付き、棍棒をふりかざす。


 あの日以来、ヨハンネは街の見え方ががらりと変わってしまった。


 どうして、早く気がつかなかったのだろうか。


 それともこの光景が世界では当たり前とでも言うのだろうか? ヨハンネがこれまで読みあえげてきた書物にはこの国のことは一切触れられていない。情報統制によって、思想の自由、集会の自由、外部からの文化、文学は一切、断ち切られていたからだ。


 ならば世界はどうなのだろうか? 西の果てにあるシェール国もこの国と同じなのだろうか?


 ヨハンネは世界にある書物を読めば、何かわかるかもしれないと考えた。


(―――――あの黒髪の子、今、何を思って生きているのだろうか……? 辛くはないのだろうか?)


 疑問ばかり彼の頭の中で浮かんでいて、気がどうにかなりそうだった。彼は少し疲れた。


「ヨハンネ様? どうかされましたか」


 隣に座っていた教育係でメイド長のロベッタがヨハンネを気にかけてきた。


「あ、いえ。なんでもありません」

「そうですか。もう少ししたら港につきますよ」

「はい」


 その時、突然、馬車が強い衝撃と共に止まった。その勢いでヨハンネとロベッタは大きく揺さぶられ、前の席へと倒れ込む。


 最初に動いたのはロベッタだった。


「お怪我はありませんか?」


 身を案じてくれた。


「う、うん。僕は大丈夫」

「全くっ!! どうして止まったのですか!?」


 ロベッタは怒りの形相で馬車から飛び降りていったので、それに続いてヨハンネも降りる。


 馬車の周りでは人集りが出来ていて騒ついていた。


「どうしたんだろうか?」


 馬車の前に行くと女の子が倒れ込んでいた。ロベッタはその女の子へ小走りで駆け寄る。


「どういうつもりッ!! さっさとお退きなさい!!」


 ロベッタは横たわる女の子の腕を掴み上げ、無理やり立たせた。


「ご、ごめんなさい。転んじゃったんです。本当に許して下さい」


 その言葉にロベッタは我に返ったように冷静になると吐息まじりに忠告する。


「お気をつけなさい。馬車は急には止まれないのですよ! そもそも馬車道を横切ろうなんて――――」


 主であるヨハンネのことを考えると怒りが収まらなかったロベッタは少女を叱りつける。その姿はただ怒っているということではなく、少女のことを考えてのことだろう。少女が泣きそうな顔をしていたので、見かねたヨハンネが止めに入った。


「もういいよ。許してあげて。ロベッタ」

「……わかりました」


 ロベッタは恭しく頭を深々と下げる。少女は恐怖で怯えるようにみえた。無理も無い。奴隷が馬車道を横断して止めたことに対して、どれだけ問題があるのか。少女の運命はこの瞬間に決まったと言ってもいい。


 ヨハンネはその不安を和らげてあげようと笑って見せて、汚れた服を手で払ってあげようとした。


 やがて、来て欲しくない者達がどこからか大声を上げて迫って来た。人壁の奥から数人の男らが掻きわけて出てきた。ヨハンネはその方向に目を向ける。男たちは右腕に赤い腕章をつけていた。


(―――――奴隷監視委員会、まずい……)


「だ、旦那様、お怪我はありませんか?」

「えぇ。僕は大丈夫です」

「それはなにより、安心しました」

「しかし……」

「この愚か者が!」


 監視委員の一人が女の子を平手打ちした。女の子は悲鳴をあげて横に倒れ込む。それと同時に野次馬から罵声を浴びせられた。


「やっちまえ!」

「ほら、さっさと連れておゆきよ。こいつらは病原菌を撒き散らすんだから」

「汚らしい野良犬めっ!」


 壮年の男が顎で部下に指示した。部下の二人が女の子を引きずり、どこかに連れて行き始めた。


「ち、ちょっと、そこまでしなくても」

「いえいえ。彼らにはしつけをせねばなりません。あとの処理は我々にお任せ下さい」


 礼儀正しく一礼した。


「処理って……」


(―――――まるで、ゴミの扱いじゃないか)


 不服だったヨハンネはその監督官らを呼び止めようとした。


 だが、それをロベッタに腕を掴まれ、左右に首を振る。そのまま彼女に馬車に無理やり乗せられるのであった。ヨハンネは馬車の中、自分の不甲斐なさに憤りを感じていた。


 しかし、ロベッタが一度止めただけで、ことを冷静に考えてしまい、何もできなかった。何もしてやれなかった。あの場で、もし声を上げていれば、あの子は救われたかもしれないのに。だが、それが出来なかった。怖かった。国という大きな権力にヨハンネは屈したのである。




★★★★




 それからキンブレイト邸に着くとヨハンネは自分の部屋へと急いだ。途中、ヨハンネの母親であるジュリエンタを横切る。


「あら、お帰りなさい?」


 不思議な顔をする。いつもなら、ただいま、と笑顔で言うのだが今日はそれがなかった。ヨハンネには珍しく不機嫌な顔で、自分の部屋に駆け込んだのである。

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