忘れたい過去 その3

 悪い夢を見てしまった黒髪少女は目をパッと開き、毛布を剥ぎ取る。現実へ一気に戻された気分だった。


 荒れていた息を整えたる。視線をめぐらせると冷たい地下牢の壁が視界に広がる。二回ほど瞬きをしたあと、彼女は身体を起こし自分の右手を見つめる。微かに震えていた。身体中にも変な汗をかいていた。それが不快に思った。


「………」


 窓格子を見上げて見ると、どうやら目を覚ましたのが夜更けだったようだ。まだ、鍛錬するには早過ぎる。どうするか悩んだとき、隣の壁を小さく叩く音がした。それに視線を送る。


「うなされていたぞ」


 聞き慣れた声がした。ハルミだった。そいうえば、ハルミは隣の牢だったことを思い出す。本当にいつからいたのか、と不思議に思う。彼女は他人への関心が無い。そのため闘技場に誰が新しく入って、誰が死んだのかを知らないし興味がない。周りに人がいても彼女には居ないのと同じだ。いわば、空気と同じ。黒髪少女は岩壁に背中を預け、三角座りする。ハルミも同じく壁を挟んで背中合わせにしていた。黒髪少女が気になっていたことを尋ねる。


「……どうして―――」

「ん?」

「――――どうして、私に関わろうとするんですか……?」


 その質問に数秒の間が空いた。壁の向こう側から答えが返ってきた。


「死んだ姉に……似ているんだ、お前が」


 それに黒髪少女の目が大きくなる。ハルミは続けて話し出した。


「あたしにはさ~姉がいたんだぁ。歳が一つしか違うんだけど、すっんごく無口で、いつも不貞腐れててね。かっこつけているのかしらないけど、それが面白くて、いつもあたしがいじってたりしてたんだ」


 黒髪少女の眉がはねた。


 まるで、自分が不貞腐れているように聞えたからだ。ハルミがすこし怒ったことに気がついた。急いで話す。


「ま、なんつうか、親近感が湧いたって、言えばいいのかな」

「………」

「理由はそれだけ」

「そうでしたか……」


 ここでどうして姉が死んだのか、聞くのが普通だが黒髪少女は尋ねなかった。膝を抱きかかえる。自分にここまで声をかけ、親しくしてくれる者はハルミくらいしかいないことを改めさせられた。黒髪少女は小さくつぶやく。


「私は…貴方を殺したくない……」

「え、なんでさ? もしかして情でも沸いたか?」


 冗談めかして尋ねる。


「なぜか、わからない。でも、そう思った」


 自分でも不思議に思ってしまう台詞を言っていた。ハルミが軽い声を出した。


「じゃあさ、もし、あたしと闘うことになったらどうする?」


 それに黒髪少女は考え込む。


 闘うことになれば、どちらかが死ぬまでが闘技の決まりだ。それは知っている。だけど、それをどうしても避けたかった。自分が死ぬわけにもいかない。誓ったからだ。大切な妹と。考えた答えが、どうにかして逃がす、というものだった。


 無策で単純な答えにハルミが笑いを吹き出す。


「なにそれ? 面白いな」


 小馬鹿にされて、黒髪少女はムッと頬を膨らました。





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 翌朝、空は怪しい雲行きだった。


 一雨来そうな感じで、薄暗い雲が空を覆い隠す。それでも闘技は行なわれる。ここに雨が降らない限り休みはない。今日の演目が剣闘技議会の発表で決まった。誰と誰が闘うのか、また何と闘うのかを口答で説明される。そのとき、本当に世界は残酷だ、と思ってしまう。その理由は闘う相手がハルミ、というわけではない。共に闘うわけでもなかった。ハルミは複数の剣闘士と闘う。その闘う相手の数が異常なのだ。一対百。明らかに、ハルミを殺すために用意された闘技だ。


 それに黒髪少女は怒りを覚えたのだ。これでは自分は何もできない。ただ、見守るしかないことが耐えられなかった。剣闘技議会の男に意見する。当然、そんなことを聞いてくれるはずがなかった。彼女はそれでもハルミを出さないでくれ、と懇願しようとした。


 が、後ろで見ていた赤髪の女が彼女の肩に手を置きやめさせる。


「大丈夫さ。あたしはもうここに来てから死ぬってことはわかっていたから」


 闘技が決まったハルミの方があっさりと受け入れているようだった。それでも、黒髪少女は珍しく向きになる。


「でも―――」


 勢いで、ハルミに一歩前に出る。彼女を見上げ心配する瞳でジッと見つめてくる。背の高いハルミは彼女を見下ろし、何かを言おうとした彼女の黒髪を優しく撫でて潔い顔で微笑んだ。


「あたしだって戦士だ。無駄死にはしない。五十ほど殺してやるよ、道連れってやつ」

「ダメ、全員殺して。そして必ず……生き残って欲しい……」


 何もできない悔しさと寂しさが混じった低い声音で言うと視線を落とし唇を噛み締める。毎日のように闘い、毎日死人が出る闘技場を見てきた黒髪少女が初めて、今目の前に立っているハルミに、死んで欲しくない、と思ってしまった。彼女が“情が湧いたのか”と言われたことがあったが、本当にそう実感した。


 彼女の見た事のない態度と顔にハルミは驚きを隠せなかった。あの冷酷な魔王と呼ばれた少女が小さく見えた。背が低いからということではない。一回りも二回りも小さく感じた。丸みのある肩、筋肉質だが、日の光りに輝く肌。どこにもいる普通の少女に見えたハルミは自分の姉と重ね合わせて、見つめる。


(――――――うちの姉もこんな感じだったよな……ほんと、頼りない、って言うか、なんて言うか、かわいい……)


 大きく息を吐いたハルミは彼女の両肩を二度叩いて、元気つける。


「おしっ! わかった。あたし、全員やっつけて帰って来るわ!」


 そう勇ましく黒髪少女に告げたハルミは数刻後、闘技に挑んだ。激しい剣戟、観客の歓声が闘技場に響き渡る。黒髪少女は一人、地下牢の壁に背中をつけで膝を抱えながらハルミが帰って来るのを待った。鉄の窓格子から入る明りがなくなり、真っ暗になった。歓声は静まり返り、無音が地下牢を支配する。いつも話しかけてきたハルミの声がしない。隣の牢からの気配もしなかった。


 黒髪少女は三角座りで膝を抱えた両腕に力を入れ、顔をすっぽりと隠した。


(――――――また……一人になった……)


 親しい者を作れば、必ず悲しくなる。それを改めて知らしめられた彼女は声を押し殺しながら心に誓った。ハルミやサクラらのためにもどんな手を使ってでも生き残ると――――――。


 そして、彼女らのことを忘れることも。そすれば、もう悲しくなることはないのだから。

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