第49話

 慌ただしくヴァルブランドを旅立って一週間──ロレインとジェサミンを乗せた馬車が、コンプトン公爵家のタウンハウスに近づいている。


(とうとう帰ってきた……)


 ロレインは馬車の窓から見える懐かしい風景を、夢中になって眺めていた。どこの家にもヴァルブランド帝国の国旗が掲げられ、初めてのお国入りを歓迎してくれている。

 婚約破棄によって未来の王太子妃という地位を追われ、国民にとって好ましからざる人物となったロレインが、ヴァルブランドの皇后として戻ってきたのだ。歓迎のために沿道に並ぶ人々を見て、感慨深いものを感じる。

 マクリーシュ側の役人たちも、皇帝と皇后の滞在を素晴らしいものにするため全力を尽くしてくれていた。万全の警備の中、ロレインとジェサミンを乗せた馬車が王都を駆け抜けていく。


(最初にマクリーシュを旅立ったときは、途中の国々で煩雑な手続きが必要だったけど。今回はすべてが簡略化されて、あっという間に着いちゃった。普通なら三週間かかるところが、一週間に短縮される理由がわかったわ。最短経路とジェサミンの威光の合わせ技だったのね)


 これほどの時間短縮をやってのけるヴァルブランド皇帝の力の大きさに、ロレインは改めて感動を覚えた。


「もうすぐお父様に会えると思うと……胸がどきどきしちゃう」


 ずっと窓の外を見ていたロレインは、笑みを浮かべて振り返った。王宮よりも先にコンプトン公爵家を訪れるのは、ジェサミンたっての希望だ。


「お、おおおおう、そっそそそ、そうだな!」


 上ずった声が返ってくる。ロレインはようやくジェサミンの様子がおかしいことに気付いた。


「た、大変! ジェサミンってば汗びっしょりになってるっ!」


 ロレインはびっくりしてジェサミンを見つめた。彼は顔に大量の汗をかき、息まで切らしている。


「具合が悪いの? もしかして馬車に酔った!?」


 慌ててハンカチを取り出し、ジェサミンの顔の汗を拭う。彼は「違う」とうめいて、眉間の皺をさらに深くした。


「こ、怖くてたまらんのだ。俺に会って、お前の父親ががっかりするんじゃないかと! 結婚の挨拶というのは、こんなにどきどきするものなのか!?」


 ジェサミンの口から飛び出した言葉に、ロレインは呆気にとられた。我が目と我が耳が信じられない。


「オーラしか取り柄のない男に、娘はやらんと言われたらどうすればいいっ!?」


 ジェサミンはそう言って、両手で顔を覆ってしまった。心の不安が、体の周囲でちらつくオーラに表れている。恐怖にすくんだ彼の姿など、これまで見たことがなかった。


「冷静になってジェサミン。どうしてそんな、とんでもない発想になるの? あなたは私の名誉を救ってくれたのよ。あなたに愛されて、私は世界で一番恵まれた女性になったの。お父様だって大喜びのはず。何ひとつ、心配する必要なんかないわ」


 父子家庭だったから、世のほとんどの父親より遥かに多くの時間を一緒に過ごしてくれた。しかし父から溺愛され、甘やかされて育ったというわけではない。


「お父様は私にベッタリってわけでもなかったし。性格的にも理不尽なことを言うタイプじゃないわ。恐れることなどないのよ」


 ロレインは一生懸命、心配しなくてもいいということを伝えたが──ジェサミンにとっては気休めにもならないようだ。


「何と言われようと、どうしても気分が落ち着かないのだ。コンプトン公爵から、大切なひとり娘を奪う男であることは、まぎれもない事実なのだし」


「だ、だからってジェサミンが、歓迎されない相手ってわけじゃないわ。お父様的には、むしろ奪ってくれて大歓迎だと思うんだけど。そりゃあ、私が遠方に嫁いだことを、ひそかに残念がっているかもしれないけど」


「やはり、俺を諫める理由があるではないか……!」


 ジェサミンの全身ががくがくと震えている。オーラの波形も乱れまくりだ。鎮めたいと思ってもできないらしい。


「ちくしょう……皇の狂戦士全員を相手に闘うとしても、ここまで緊張はせんぞ。人生初の窮地に陥った……っ!」


「いや、いやいやいや、落ち着いて。心配しすぎだから。うちのお父様となら、すぐに打ち解けられるに決まってるから」


「おおお、俺が父親だったら、娘が連れてくるのがどんな男だろうが許しがたい! とにかく一発殴らせろと思うに違いないっ! 父親としてごく自然なことだ!!」


「自然かなあ?」


 真剣な表情を見せているジェサミンには悪いが、ロレインは首をひねらざるを得なかった。


(許可なんか取らなくても、万事が自分の思い通りになってきた人だし。とてつもなく緊張するのは仕方がないのかも)


 ロレインはジェサミンに抱きついて「大好き」と耳元で囁いた。


「こんなに人を好きになったのは、生まれて初めてなの。私の幸せそうな姿を見れば、お父様はすぐにジェサミンを受け入れるわ。ごく自然なことよ」


「お、おう」


 ロレインのぬくもりと慰めの言葉で、ジェサミンの緊張が少しほぐれたようだ。

 馬車を引く馬の速度が落ちたのを感じる。窓の外を見ると、コンプトン公爵家の屋敷の門が見えた。

 馬車が前庭に乗り入れると、玄関前に立っている小さな集団が目に入る。


「お父様!」


 ロレインは思わず叫んでいた。懐かしい使用人たちに囲まれて、父はにっこり微笑んでいる。

 人々が見守る前で、馬車はゆっくりと止まった。従僕が恭しく扉を開く。先にジェサミンが降り立ち、ロレインに向かって手を差し伸べた。

 馬車から降りてくるロレインを、父が目を細めてじっと見つめている。


「お父様……!」


 本当は、先に父の歓迎の言葉を聞くべきだった。ジェサミンに挨拶をさせてあげるべきだった。しかし頭がぐちゃぐちゃになってしまって、ロレインは気が付いたら父に駆け寄っていた。


「ロレイン!」


 父もロレインに向かって両手を伸ばしてくる。そしてロレインを力いっぱい抱きしめてくれた。


「ただいま戻りました……」


 ロレインは泣きながら言った。


「おかえり。ひとりでよく頑張った。どれだけ褒めても褒め足りない……っ!!」


「ひとりではなかったわ。ずっとジェサミンが側にいてくれたから。お父様、私は幸せよ」


 にっこり笑うと、父が指先で涙を拭ってくれた。


「そうだな。いまのお前には陛下がいて、新たな人生を歩んでいる。すべてが普通ではない出会いだったが、誰よりも幸せそうだ」


 ロレインの頭を愛おし気に撫で、父はジェサミンに目を向けた。


「皇帝陛下、よくおいでくださいました。我が娘を救っていただき、まことに感謝にたえません」


「コンプトン公爵。私的な場では、ジェサミンと呼んでくれると嬉しいのだが」


 父が驚いた表情になる。ジェサミンはきまり悪そうに頭を掻いた。


「俺は皇帝としてではなく、娘婿としてここに来たのだ。義理の息子相手に『陛下』では堅すぎるだろう。家族なのだし、臆することなく振る舞ってほしい」


 ジェサミンの誠実な言葉に、ロレインは感動を新たにした。

 父は「ほう」とつぶやくと、愛情のこもったようなまなざしでロレインとジェサミンを交互に見た。それはどこか、面白がっているような表情でもあった。


「それでは、楽にさせていただきましょう」


 父は承知したという顔でうなずいた。


「ジェサミン。君が嫌でなければ、しばらく話し相手になって貰えるだろうか。聞きたいことがたーっぷりあるんだ」


 父がにっこり微笑む。言葉に責める響きはまったくなかったが、ジェサミンはなぜか、圧倒されたように後ずさりをした。


「お、お父様! たとえ義理の息子だとしても、皇帝を相手に──」


 ロレインの言葉を、ジェサミンが手を上げて制した。


「どんとこいだぞ公爵。いや、お義父さん!」


 ジェサミンの言葉に、父がまたにっこりする。ロレインの目には、父がジェサミンを大層気に入ったように見えた。

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