第26話


 空になったグラスに、ジェサミンが黙ってお酒を注いでくれる。


(夫と二人っきりのときは、本音をさらけ出してもいいんだ……)


 それはロレインには思いもよらない、新鮮な発想だった。

 冷静さは自分を守る鎧だった。マクリーシュでは、本音を見抜かれないように注意しながら生きてきた。


(でも、ジェサミン様の前でなら……冷静さを失ってもいいんだ)


 胸がどきどきして、酔いが猛烈な勢いで全身を駆け巡っているのがわかる。厳しく教育された、王家の花嫁にふさわしい娘の鎧が剥がれ落ちていく。

 ロレインはお酒をひと口飲んだ。


「エライアスとは、ろくな思い出がなくて……」


 吐息をついて、もうひと口飲む。


「二人とも八歳で、好むと好まざるとに関わらず婚約させられたし。あの人は決められた道筋を歩くのが大嫌い。私は最初から、理想の結婚相手じゃなかった」


 ロレインは宙を見ながら「でも」と続けた。


「いずれ状況が変わると思ってて。私が国の助けになれる知性を身に付けて、国に献身的に尽くせば、恋愛感情で繋がらなくてもやっていけるはずだって」


 ジェサミンの大きな手が、ロレインの肩を掴んだ。お酒でうっとりした気分になっていたので、抵抗せずに彼に身体をすり寄せる。


「愚かな夢を抱いてたなあ……」


 涙がこみ上げ、目がちくちくした。


「そりゃ、私は女としての魅力が乏しいですよ。男の人を引き付ける能力がないのかもしれない。でも全部の責任が私にあるなんて、そんなふうに責められるいわれはないと思う……」


 ロレインはジェサミンの肩に顔をうずめた。


「国王様も王妃様も、私じゃ孫が生まれる希望がないからって。王族の務めに関しての教育よりも心構えよりも、そっちの方が重要なんだって。エライアスはサラしか愛せないから、どうか理解してやってほしいって。冗談だって言われるのをちょっとだけ待ったけど、二人とも大真面目なままで」


 ロレインはくすくす笑った。十年間の努力をにべもなく否定されたときも、笑うしかないような気持ちだった。


「社交界の反応は容赦なかった。婚約破棄されたことが知れ渡るやいなや、誰もが私を無視した……」


 ジェサミンと接しているところからオーラが流れ込んでくる。まったく恐怖を感じないどころか、体がふわふわして気持ちがいい。


「悔しかった。腹立たしかった。そういう扱いをしてくる人たちが憎かった。エライアスの裏切りなんて、別に何とも思ってない。私だってあんな人を求めてなかった。でも王太子妃になるためだけに生きてきたから、心にぽっかり開いた穴が大きすぎた……」


 ジェサミンのオーラが心の痛みを追い払ってくれる。だから思っていることをすべて言える。


「どこへ行っても屈辱的な経験をしたけれど、泣くまいと誓ったの。みっともない振る舞いをしたらサラの思うつぼだもの」


 体の中が温かかった。いつにない速さでお酒を飲んだこともあるが、ジェサミンのオーラが励ましてくれているからに違いない。


「領地に引きこもって、一生独身でも幸せになれる方法を探そうって思ってて……。容色は衰えるけど、知性は色あせない。未来は薔薇色じゃないだろうけど、必要としてくれる人がいる限り、一生懸命働こうって」


 ロレインは顔をあげて、ジェサミンの彫りの深い顔を見つめた。心のままに行動して、彼の頬を両手で包み込む。


「そんな私に、まさか奇跡が起こるなんて。これほど素晴らしく、これほど影響力の強い奇跡が」


 ジェサミンはにやりと笑い、ぐっと顔を近づけてきた。


「嬉しいか?」


 ロレインは即座にうなずき、嬉しいという気持ちを示すために笑おうとした。それなのに、みるみるうちに目から涙が溢れ出した。


 濡れた頬にジェサミンの指が触れる。「なぜ泣く」と尋ねられて、ロレインは鼻をすすり上げた。


「き、奇跡なんか起こらないと思ってたから。誰かに愛されたり、誰かを愛したりすることはないと思ってたから」


 ジェサミンは真面目な顔になってロレインを見ている。ぐいと肩を掴まれて抱き寄せられたかと思うと、耳元で囁かれた。


「要するに、俺を好きになったということだな」


 満足げな声だった。

 強烈なオーラが流れ込んできて、最高に気持ちがよかった。ジェサミンの力強い腕に包まれて、思う存分涙を流す。

 涙が止まるのを辛抱強く待ってくれていたジェサミンが、ぼそりとつぶやいた。


「ああ、くそ。早くお前の父親に挨拶に行かんと、我慢が効かなくなってしまう」


 思いもよらないことを言われて、ロレインは体を起こしてぱちぱちと瞬きをした。


「マクリーシュまで、父に挨拶に行ってくださるのですか……?」


「当たり前だろうが。俺の正妃のただひとりの家族だぞ」


「だってジェサミン様、すごくお忙しいのに……」


「阿呆、皇后の実家を訪ねること以上に大切な仕事などない。とはいえ、前々から決まっていた予定があるからな。何とか調整して、時間を捻出しようとしているところだ」


 ジェサミンがふんと鼻を鳴らした。


「お前に手を出すのは、筋を通してからと決めている。お前の父親は、娘を嫁にやる覚悟を決めて後宮に送り出したわけではないだろう」


「ジェサミン様……」


 また涙が溢れて、視界が曇った。

 二週間前に初めて出会ったこの人は、いまやロレインのことを誰よりも理解してくれている。


「嬉しい……。皇后になることに迷いはなくても、父との埋めがたい距離だけは寂しくて……」


「そう遠くない未来に、いつでも気軽に里帰りできるようにしてやる。その責任は俺にあるからな」


 ジェサミンの男らしい体にもう一度抱きついて、ロレインは泣いた。でも、長い時間ではなかった。オーラによる安心感と一体感、彼の言葉がもたらした幸福感に身をゆだねる。

 守られていることが嬉しい。きっともう二度と疎外感を味わうことはないだろう。


「幸せすぎて、気持ちよすぎて、寝ちゃいそうです……」


「おう、寝ろ寝ろ。伊達に鍛えてないからな、一晩中抱きしめていてやる」


 背中をぽんぽんと叩かれて、ロレインは目を閉じた。飲みすぎて完全に朦朧としている。こんなことはもちろん初めてで──とても恥ずかしいけれど、最高に幸せだった。


──────

「婚約破棄された崖っぷち令嬢は、帝国の皇弟殿下と結ばれる1」

紙書籍、電子書籍ともに発売日です。お迎え下さった皆様に心より御礼申し上げます。

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