第7話
ロレインは考えるよりも先に走り出していた。
一番近くにいた風呂係の女性──マイもしくはリンという名前らしい──の傍らに膝をつき、そっと首に触れる。脈は規則正しく打っていた。
「よかった。頭にこぶもないし、出血もしていない。どこかの骨が折れているようにも見えないし……」
「大丈夫ですよ、ロレイン様。我々はこういったことに慣れておりますので。マイの意識はすぐに戻るでしょう」
ティオンが寄ってきて、すべて心得ていると言わんばかりにうなずいた。ぐったりと横たわっているマイを見て、ロレインは小さく息を吐いた。
「何が起こったのか教えてください。すべてを受け入れる覚悟で来ましたが、こんなことになるとは予想だにしませんでした。まさか、女官たちが一斉に倒れるなんて……」
ロレインは皇帝を見上げた。彼は無言でロレインを見おろしていた。やはり、彼のオーラが熱波となって押し寄せてくるようだ。
皇帝の目はロレインに釘付けになっている。興味深げというか、意味深長なまなざしだ。
ロレインもじっと彼の目を見つめ返した。
こんなに長時間、男性と見つめ合ったことはない。獅子のような捕食者に狙われる兎の気分だ。
淑女としては怖がるべきだし、実際に怖くもあったが──違う感覚もあった。これは一体なんだろう?
「悪かった。俺の気持ちが高ぶれば高ぶるほど、こういったことが起こる」
風貌に相応しい、深みのある男性的な声だった。申し訳なさそうな響きが混じっているものの、無条件に人を従わせることに慣れている声だ。
「言葉では上手く説明できんが、俺には奇妙な能力が備わっている。まなざしひとつで相手を圧倒することができる。わけがわからんと思うが、そう言った力が存在するのだとしか言いようがない」
ロレインは目を瞬いた。
「特異体質でいらっしゃるのですか。陛下のオーラに当てられると、人によっては倒れてしまうのですね」
皇帝の顔が、ほんの少し柔和になった。
「驚かんのか?」
「もちろん驚いてます。実際のところ、かなりの衝撃でした。でも私、必死で落ち着きを取り戻そうとしているときほど、なぜか冷静に見えてしまうタイプで。本当はいまだって、さっきは怖かったなあとか、ばあやを部屋に残してきてよかったなとか、頭の中がぐちゃぐちゃなんです」
次の瞬間、お腹の底から響くような声で皇帝が笑った。
ティオンがぽかんと口を開けた。ベラもマイもリンも意識が戻ったようだ。周囲が唖然としているのをまったく意に介さず、皇帝はしばらく笑い続けた。
「ああ、笑った笑った。改めて自己紹介をさせてもらおう。俺はヴァルブランド帝国の皇帝、ジェサミン・ゼーン・ヴァルブランドだ」
ジェサミンが身を屈めて、ロレインに手を差し出した。
「我が国へようこそ、コンプトン公爵令嬢ロレイン」
「光栄でございます、ジェサミン陛下。面会をお許しいただき、どうもありがとうございます」
この騒動が『謁見』なのか『お渡り』なのかよくわからず、ロレインは無難に『面会』という言い方をした。
ジェサミンの大きな手に、礼儀正しく手を重ねる。彼はロレインの手を柔らかく包み込み、優しく引っ張って立ち上がらせた。
次の瞬間、周囲から大歓声が上がった。
「陛下のオーラに圧倒されないばかりか、大笑いさせてしまうとは……!」
「ああ、偉大なる神様ありがとうございます!」
「よかった、本当によかった。あれほどオーラを隠すように言ったのにダダ漏れだったから、もう駄目かと……っ!!」
興奮した叫び声の中に、ティオンの声が混じっていた。
「え? ええ? これは一体、何事ですか?」
使用人たちの歓声は止みそうになかった。すっかり回復したらしい女官たちが、抱き合って喜んでいる。
わけがわからず、頭が混乱してしまう。そのときジェサミンの手に力がこもり、ロレインは硬い胸に抱き寄せられた。
「どうしてだと思う?」
ジェサミンの瞳が輝きを増している。黄金の瞳が、ロレインの目をじっと見た。
「俺の正妃が決まったからだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます