第9話 あなたのお名前は?

 大理石を叩く無数の靴音が、そう遠くないどこかから聞こえる。


「あのぉ……」


 声を出そうとした愛佳の口を、少女は「しっ」と手で塞いだ。


 吐息が感じられるほどの近い距離で、ふたりはぴたりと身体を寄せ合う。少女のぱっちりとした睫毛が愛佳のすぐ目の前にあった。触れ合う肌から伝わるじんわりとした温もりに、仄かに香るいい匂い――ディープスペースという場所はこういった感覚さえ共有できてしまうのだろうか。だとしたらこの高鳴る心臓の鼓動も相手に伝わっていたりして――


 広大な城内の一角に位置する、六畳程度の物置部屋。剣や甲冑が仕舞われた埃っぽい室内の隅で、愛佳と少女はふたり身を寄せ合っていた。ふたりは息を潜め、城内を歩き回る者たちの気配が消えるのをじっと待つ。


 身を寄せ合っていたその十数秒は、愛佳にとって永遠にも感じられた。足音が消えてしばらくして、少女はようやく愛佳から身体を離してくれる。触れ合う温もりが消えると同時に、愛佳は自身の頬が燃えるように熱くなっていたことに気づいた。


「あなたがこのゲームを少しでも長く楽しみたいのなら、ゲームのルールを知る必要がある。まずは最低限のことだけ伝えておく」


 ファンタスティック・ヒロイン・シューターズ――通称FHSは、二人一組で最大百人が参加する試合マッチに参加し、最後の一チームになるまで戦い合うバトルロイヤル・ゲームである。スーパーヒロインと呼ばれるプレイヤーたちは世界ワールドと呼ばれる舞台に降り立ち、現地で武器やアイテムを収集しながら、敵チームとの戦いを潜り抜けて生き残ることを要求される。


「全てを一度に覚えるのは難しいだろうけれど、あなたにたったひとつ覚えてほしいのは――これが戦うゲームだということ」


 少女の澄んだ瞳は、まっすぐに愛佳を見つめていた。


「このゲーム世界はあくまで虚構――フィクションだけど、ゲームに参加しているプレイヤーたちは、みんな現実に生きているひとりの人間。そしてその誰もがこのゲームを楽しみたくてログインしている。このゲームの楽しみ方というのはつまり、お互いがワンドで輝石弾を撃ち合って戦うということ」

「つまり、その戦う――ってことを、わたしもしなくちゃいけないってことですか?」

「少なくとも敵対関係の中で生き残ることを求められる。敵プレイヤーへ仲睦まじげに話しかけたあなたの行動は、正直ルール違反ぎりぎりだった。敵対関係であるはずのプレイヤー同士が協力したら、ルールを守ってゲームを楽しんでいる他のプレイヤーに迷惑が掛かる。この世界に居たいのなら、ああいった行為だけは絶対にしてはいけない」


 少女の真剣な語調に、愛佳は無言のまま頷いた。正直なところ、戦うだなんて出来る気がしない。愛佳の人生は今日まで争いとはまるで無縁だった。身体の弱い愛佳には、使用人を含め誰もが優しくしてくれている。自らを意図的に害そうとする人に、愛佳はこれまでの人生で一度も出会ったことがない。


 緊張する愛佳を慮ってくれたのか、少女はぽつりと呟く。


「変に気負わなくても大丈夫。戦い方が分からなくても、ただ目の前のプレイヤーが敵だということだけ認識していればいいの――この私を除いてね」


 二人一組で戦うこのゲームにおいて、単独でログインした愛佳と少女はランダムに選出された即席のパートナーとなっているらしい。先程愛佳たちと戦ったプレイヤーがふたり組だったように、愛佳と少女はふたり力を合わせて最後の一チームを目指すことになるのだ。


「私があなたをフォローする。その点については心配しないで」

「よかったぁ……あなたみたいな優しい方といっしょのチームになれて、わたしとっても運がいいみたいですっ」

「べつに特別優しいわけじゃないというか、ゲーム初心者に対する経験者の態度って意味では、他の人と変わらないと思うけど……」


 少女がそっぽを向いたのは、恥ずかしいからだろうか。それでも少女の優しさは愛佳の胸にきゅっと染み渡ってくれる。


「これからよろしくお願いします! そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしは――」

「待った」


 少女は愛佳の眼前に手の平を置く。


「あなた今、本名を言おうとしたでしょう」

「それはもちろん。名乗らない自己紹介なんて、自己紹介じゃありません」

「それは絶対にダメ。ゲーム以前のマナーとして、身元の特定に繋がる個人情報はディープスペース内でシェアしてはいけないの。これは自分自身を守るために最低限守らなくちゃいけない」

「じゃあわたしはどうやってあなたのことをお呼びしたらいいでしょう?」

「ハンドルネーム――ほら、見えるでしょう?」


 目を凝らしてみると、ぽこんと音がして、少女の隣に文字列が浮かび上がった。ジャスミン――それがこの世界における彼女のあだ名らしい。


「よろしくお願いします、ジャスミンさん」

「こちらこそよろしく――えっと」


 ジャスミンが口ごもる。そういえばわたしのハンドルネームはどうなっているんだろう――愛佳がきょろきょろと自分の身体を見回すと、ジャスミンと同じように文字列が浮かび上がった。


「プレイヤー7819……?」

「自分で入力しなかった場合に設定される、デフォルトのハンドルネームね」

「たしかに7819だなんて呼びづらいですね」

「まぁ、カジュアルでランダムに組まれたパートナーなんて一期一会だし、ハンドルネームくらいどうでもいいでしょう」

「そんなことないです。名前はとっても大事ですよ――きちんとジャスミンさんが呼びやすいあだ名を考えますね」


 とは言ったものの、なかなかそれらしい名前が浮かんできてくれない。学校に通っていたら、友達からあだ名を付けられたり、あだ名を付けたりすることもあったのだろうか。そう考えると、自らの学校生活経験の無さがうらめしい。


「ハンドルネームは後回しにして、はやく移動しましょう――今の会話でだいぶ時間を消費した。もうウェーブが迫ってきてる」

「うぇーぶ?」

「細かい話は後、とりあえずこれを持って」


 ジャスミンから渡されたのは、一本の杖だった。長さ六十メートルほどで、赤銅の角張った芯の先に、紅に輝く大きな宝石が嵌め込まれている。


「さっき倒した敵プレイヤーが持っていたワンド。輝石弾を撃つための弾薬――ショット・エナジーも渡しておくから、持っておいて」

「これ、銃みたいなものなんですよね……? わたし、撃ち方とか分からないんですけれど」

「とりあえずお守りのようなものだと思っておいて。あなたがするべきことはひとつ――私に追いつくように移動すること」


 追いつく――それだけならできそうな気がした。現実では病弱でまともに走れなくても、今の愛佳がいるのはディープスペース――仮想現実なのだ。ゲームの中なら、体力の無さも足の遅さも関係ない。


「が、頑張ります!」


 独りきりの外という小さな恐怖が、誰かが隣にいる心強さに変わっていく。そしてそれはやがて、これから待ち受ける新しい世界への期待に――


『フィールド縮小完了まで残り六十秒』


 突如、脳裏に響いた電子音声――それが合図だった。


「行くよ」


 駆け出すジャスミン。それに付き従って、愛佳は城の外――まだ見ぬ世界へと飛び出した。

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