第5話 不可思議な暗転

 夜は空の彼方を闇ですっかり覆ってしまって、だけどぽっかりと浮かぶ月や微かに瞬く星々の存在が、遥か遠くに在るだろう幻想を愛佳に伝えてくれる。


『やっぱり今日一日じゃセットアップは終わりそうにないから、続きはまた明日ね』


 そう告げて夕方に帰っていった莉都。彼女が明日も来てくれるということが、愛佳は嬉しくて仕方なかった。


「早く明日にならないかなぁ――」


 夕食とお風呂を済ませて、後はもう就寝するだけ。なのに明日のことを考えると目が冴えてしまって、愛佳はパジャマを着たまま窓の向こうの夜空を独り眺めていた。


 窓の近く、部屋の隅には莉都がセットアップをしてくれている流線型の黒い箱――ディープスペース接続用コンピュータがある。黒い箱の上にはインカムが置かれていた。後頭部に沿って両耳に掛けるようなデザインの白い機器――莉都の言うところによれば、正確にはインカムではなくインターフェースだとか何とか。これは黒い箱を操作するために必要なものらしく、昼間の莉都はこれを耳に掛けながらセットアップと呼ばれる作業を行っていた。


 インターフェースを耳に掛けながら、真剣な面持ちで黒い箱と向き合っていた莉都の姿を思い出す。あのときのりっちゃん、なんだかとっても様になっていて、かっこよかったな――ぼんやりとそんなことを考えてしまっていた。愛佳の知らない外の世界を知っている莉都は、いつだって愛佳のずっと先を歩んでいる。その姿は――屋敷の庭から見上げる空のように、どうしようもなく手の届かない、彼方の眩しさであるはずだった。


 その眩しさの欠片が、今こうして、目の前にある。愛佳は――ほんの出来心で――莉都が付けていたインターフェースを手に取り、それを両耳に掛けてみた。ドレッサーに座って、鏡を見てみる――やっぱりりっちゃんほどは似合ってないかな。まだ愛佳が使うためのセットアップは終わっていない。これはあくまで格好だけ――そのつもりだったんだけど。


 ポコン――と愛佳の脳裏で電子音が響いた。脳裏、としか表現できない。耳に音が入ってきたわけではなくて、頭の中に直接、音が鳴ったのだ。


「あれ」


 続いて愛佳の視界にアルファベットの羅列が飛び込んできた。たぶん英語――ただしそのどれもが愛佳の知らない単語だ。よく分からない文章が愛佳の目の前に次々と浮かんでは消えていく。どうやらこの文字列は実在しているわけではなくて、音と同じように愛佳の脳へ直接働きかけた結果見えているものらしい。


 インターフェースという言葉の意味を愛佳はようやく理解する。昼間に莉都がセットアップをしてくれていたとき、彼女はきっとインターフェースを通じてこの文字列を読んでいたのだ。


 よく分からない英文が流れた後にようやく日本語が表示されるものの、その日本語もイマイチ意味を読み取ることができなかった。アカウント、アバター、ネットワークへの接続、設定の同期――わけの分からない単語が並んでいる。


 これ、どうやったら電源をオフにできるんだろ――愛佳がインターフェースを身につけると同時に七色に輝き始めた黒い箱は、愛佳がインターフェースを耳から外しても光り続けていた。


「どうしよう……」


 分からないままに、宙に浮かんでいる文字列へとりあえず触れてみる。するとその文字列が点滅して、新しい文字列が表示された。触れる度に次々と移り変わる画面。なんだかちょっぴり面白いなぁ――なんて色々と触れてみたら、気づけば愛佳はわけの分からない画面へたどり着いてた。


 画面中央に表示されるのは「ログインしますか?」の文字列。ログインとはどういう意味なのだろう? ヘンな操作をして機械を壊してしまったら大変だ。たぶんこれは「はい」ではなく「いいえ」を選ぶことが正解なのだと思うけど、そもそもクエスチョンマークで問いかけられているのに「はい」や「いいえ」といった選択肢がどこにもないことに気づく。どのように操作したら「はい」になるのか「いいえ」になるのか、そもそもそれを愛佳は理解できていなかった。


 文字列に触ると画面が変わる――愛佳が知っているのはたったそれだけ。勇気を出して「ログインしますか?」の文字列に触れてみる。


 瞬間――世界が真っ暗になった。


 停電したのかと思った。寝室の灯りが消えて、暗闇の中に取り残される。窓の外でリンリンと鳴いていた虫たちの声も、ぱったり途絶えてしまった。何かがおかしい。椅子から立ち上がろうとして、そもそも椅子に座っているという感覚さえも消えてしまっていることに気づく。


 これ、もしかしてよくないことをしちゃったんじゃあ――気づいたときにはもう遅い。インターフェースは愛佳の脳に働きかけて、愛佳を現実からすっかり切り離してしまっていた。


 全てが消失した、無の世界――そこに光が射す。暗闇を染め上げるように迫る眩い白。


 愛佳はその白へ手を伸ばし、そして――

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