第2話 箱入りお嬢さま

 雲ひとつない青空から、燦々と陽光が降り注ぐ。


 太い幹から枝へとわかれ、広大に茂る葉たち。木漏れ日を抜けて、柔らかな芝生をサンダルで踏みしめた。陽を照り返して眩しいくらいに輝く純白のワンピース。肌に涼やかな風を浴びながら、ただひたすらに草原を駆けてゆく。


 どこまでも。どこまでも彼方へ。あの青空へ届くくらいに――伸ばした手は、けれどその憧れへは決して届かない。


「けほっ、けほっ」


 急に息が詰まって、足が止まってしまった。頭がくらくら揺れて、思わず膝をついてしまう。


「お嬢さま、大丈夫ですか?!」


 使用人たちの声がどこからか近づいてくるのを感じた。


 ひゅーっ、ひゅーっ。苦しい呼吸に朦朧とする意識。視界が真っ暗になる直前まで彼方の青空を見つめていたことを――今でも覚えている。


 ――それは遠い日の記憶。わたしが空に憧れると同時に、憧れには届かないことを知った、最初の瞬間だった。



     *



 いつかの夢から目を覚ますと、視界の先にはベッドの天蓋が広がっていた。


 身体を起こして、むにゃむにゃ――と目頭をこする。ベッドから見渡す広々とした寝室の風景。赤い絨毯の上に置かれた、年季の入った洋風の丁度たち。祖母から「白百合しらゆり家の令嬢に相応しく」と与えられたこの部屋は、莉都りつによると「まるでお人形さんの家みたい」なのだという。


 かつかつと秒針を刻む柱時計は、起床時刻ちょうどを指していた。ベッドから降りて、観音開きの窓を開け放つ。そよ風にふわりと煽られるカーテン。屋敷を取り囲む林から射す木漏れ日が、愛佳まなかを優しく照らしてくれる。


 浴びる陽射しは、朝陽くらいがちょうどいい――眩しすぎる輝きは、夢や憧れまでも溶かし尽くしてしまうから。


 溶けて消えてしまわないよう、思い出しかけた憧れを胸の奥に仕舞い直して――白百合しらゆり愛佳まなかの一日は、今朝もしめやかに幕を開ける。



     *



「今日はしっかり梳かしてね――金曜の午後は、りっちゃんが来る日だから」


 古めかしい木製のドレッサーを前に、愛佳は鏡に向かって語りかける。


「仰せのとおりに、お嬢さま」


 愛佳の言葉に応えるのは、彼女の背後に立つ使用人。身に纏うメイド服は、テレビ番組に出てくるような仮装用ではなく、実用に足る古式ゆかしい上品な一着だ。


 彼女の名はれい――愛佳が物心ついた頃から世話を受けている、白百合家専従の使用人だった。


 怜は慣れた手付きで愛佳の髪に櫛を通していく。亜麻色の長髪には強めの癖がついていて、けれど十年以上も愛佳の髪を梳かしてきた怜にとってはお手の物。鏡に映る愛佳の髪は、ものの数分で綺麗なウェーブを描く美しい形に整った。


 ヘンなところがあったらどうしよう――なんて気になってしまって、愛佳は首を左右に振りながら髪型の出来栄えを確かめる。怜はハーフアップの編み込みもいつもどおりキチンと形にしてくれていた。きっと大丈夫――そんな確信を得てから、愛佳は鏡へにっこりと笑いかける。


「いつもありがとう、怜さん」


 怜は「どういたしまして」と小さく頭を下げる。その口許には柔らかい笑みが浮かんでいた。


「どうしたの?」

「いえ、微笑ましいな――と思いまして」

「微笑ましい?」

「ご友人の――大切な人のために身なりを気にする様が、如何にも年頃といった風でしたから」


 どうやら身なりがキチンとしているか気を配ることは、愛佳くらいの年齢の少女にはありがちなことらしい――それがなんだか嬉しくって、えへへと口の端が釣り上がってしまった。


 年頃――きっとわたし以外の子も、こんなことをしてるんだ。


「楽しみにするのは良いことですが、あまり気を逸らせすぎないように。興奮しすぎるのは、お嬢さまの身体に毒ですから」

「楽しみだからって、小さい頃みたいに走り回ったりなんてしないよ? 怜さんはいつまでもわたしを子供扱いするんだから」

「あらあら、そうでしたね」


 それからも愛佳は鏡が気になってばかりで、怜は「それでは朝食の支度は済んでおりますので」と告げてから、先に部屋を去っていった。朝食を冷ましちゃうと怜さんや他のお手伝いさんにも迷惑をかけちゃう――愛佳は鏡を見るのもほどほどにドレッサー前の椅子から立ち上がる。


 真っ白なブラウスに、深い黒のワンピース。楚々とした衣服は、怜が選んでくれたもの。ちょっと地味な気もするけれど、他にそれらしい服もないし、怜が「水無瀬みなせさんはこういうものに憧れてますから」と言ってくれた以上、愛佳は怜の判断を信じるしかなかった。


 りっちゃんと会ったらどんな話をしよう――胸の内で期待が膨らむ。話したいことが山ほど思い浮かんで、その中でもやっぱり一番はアレだろう。


 寝室の隅に、黒々とした箱がぽつんと置かれていた。高さ五十センチほどの縦長の箱。近未来を感じさせる流線型のデザインは、古めかしい部屋の様子から明らかに浮いている。


 ああいうのってりっちゃんのわたしへのイメージとは違うのかな――そう考えると、あの箱について話すのはよくないのかもしれない。清純無垢でおしとやかなお嬢さまに憧れる――愛佳にはよく分からない気持ちながら、莉都がそれを好んでいるのなら、そんな自分を演じるのはやぶさかではなかった。


 箱の話をするかはその時の雰囲気次第として、少なくとも怜さんに笑われないように子供っぽくはしゃぐことはやめよう――そのような決意を胸に、白百合愛佳の一日は始まるのだった。

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