第3話 喫茶店事変

亜門先輩の教えは、私にとってはカルチャーショックだった。さっきまで、〝あとは先輩二人の教えを忠実かつ完璧に実行して強くなればいい〟と甘く考えていた自分を恥じた。


 能力が優れている、腕が立つ、その程度のことじゃ、この国を変えられる程の力を持つに値する人間だとは思わない。それはずっと心にあったことなのに、行動に伴っていなかった。これじゃ私の一番嫌いな口だけ人間だ。


 ただ、不安なのは、私は亜門先輩みたいに弁が立つわけでもなく、妻ヶ木ゼミ長の様に人を惹きつけるカリスマ性があるわけでもない。そこは意識的に変えていかなきゃってことね。


 ぶっちゃけ、口の悪さには自信があるから、挑発するのは多分得意だと思うけど。


 亜門先輩とゼミ長が話してくれたのは、こうだった。


 第七感と仰々しく言ってはいるけど、私達人間を構成しているいち内臓器官。


 脳のどっかにそれを司る部分があって、そこから体中の神経を通して電気信号の一種だと言われている〝感覚〟を意識した部分に送り、能力を使役するという仕組みらしい。


 普段から〝感覚〟は静電気のように体表に帯びていて、脳からの指令で送った分とそれ以上に増幅させることが出来るらしい。その総量が、一般的に言われている感覚量センシティビティのことなんだって。


 感想としては、へええ~。全く知らなかった、って感じだった。


 感覚量の概念は知ってて、健康診断でも数値は出されるけど、旧人類の私達のデータなんてみんな似たり寄ったりだった。差分は大きくても数パーセントで、全く気にも留めておらず、詳細も初めて知ったのですごく興味が湧いた。


 もしかして、私達が勝手に無視してるだけで、旧人類の能力を測る指標みたいのものも結構存在してるのかもしれない。今度二人に聞いてみよう。


 それに、第七感を鍛えるという発想自体が真新しいものに感じられるのも妙な話だ。現人類が〝そう〟してくるから、私達も暴力で対抗しなきゃいけないと思い込んでいたけど…


 いや、そのことに関しては、私が意固地になってただけかもしれないな。と心の中で苦笑する。


 亜門先輩によると、第七感を鍛える方法の第一段階としては、日常的に使うことをとにかく意識しろとのことだった。例えばドアを開けるのに一切手を使わず開けたり、飲み終わったコップを第七感で移動させたりとか。


 「第七感をずっと使っていると、かなり精神的に疲れてきて、味わったことのない不快さを覚えるだろうが、構わず使い続けろ。そうすると、第七感が出なくなるはずだ。俺はこれを筋肉痛になぞらえて〝感覚痛〟と呼んでいるが…」


 「え?筋肉痛と同じなんですか?」


 「いや、性質が同じというだけだ。筋肉痛は筋線維が断裂して、超回復で筋肉が肥大するわけだが、感覚痛ってのは感覚量を使い果たすと脳が感覚を増幅させるのをやめることで起きる。」


 「ふむふむ。」


 「すると、脳が回復機能を発揮して、再び感覚を使えるようになる際には感覚量自体が増えるという仕組みだ。筋肉痛と同じだろ?」


 「なるほど!よくわかりました!」


 という会話を思い出す。


 亜門先輩と天音崎先輩はバイト、妻ヶ木ゼミ長は用事があるということで、一通り教えてくれた後に帰っていった。試合の日時は妻ヶ木ゼミ長が調整してすぐに連絡してくれるらしい。


 その後、秋風さんと適当に家にあったお昼ご飯を食べ、それが三時間ほど前。現在私は秋風さんと道場に二人。


 「ふっ…!はぁ…はぁ」


 「し、白木さん、大丈夫?二つのこと一遍にはやっぱり無茶なんじゃ…」


 そう、私はいつもの演武を約三時間繰り返しながら、湯飲みを第七感で宙に浮かし続けていた。それも、自分にプレッシャーをかける為に一番お気に入りのやつを、だ。


 すでに六個の湯飲みを落として割っていたので、バテバテの自分に発破をかける意味と、これを落としたらもう終わりだ、という意気込みも含めている。


 予想はしていたけど、これが滅茶苦茶キツイ。湯飲みを浮かし続けることに全神経を注がなくちゃすぐに落っことしそうになるから、そっちにありったけの集中力を向ける。すると、もはやルーティン化した白木流の演武でも、思うように体が動かないのだ。


 マルチタスクを極める必要があるってわけね。上等じゃない。


 あまりにキツそうな私を見かねて、さっきからタオルや水を持ってきてくれたりと献身的なサポートをしてくれていた秋風さんがオロオロしながら心配している。可愛い。


 「な、なにか私にできることある?手伝いたいよ!」


 「あ…ありがとう、秋風さん。で、でも、これくらいやらなきゃ……」


 そうだ。私は現状、あんな下っ端の現人類にも及ばない。人並みの努力をしていては、優秀な現人類には絶対に勝てない。少なくとも人並の鍛え方じゃダメだ。


 必ず、モノにしてみせる。私も、あの、妻ヶ木ゼミの一員なんだから!


 必死な私の様子を見て、しばらく秋風さんは沈黙していたが、ふいに


 「白木さん!今日家族の人はいつ頃帰ってくるの?」


 と聞いてくる。


 「お、お父さん?今週中は、出張で、帰らないよ」


 と、息も絶え絶えで答える。


「食材、使ってもいいなら、私ごはん作るよ!」


「えっ、い、いいの?」


 お父さんは仕事の関係上よく出張するし、お姉ちゃんはもう社会人で一人暮らし、弟はスポーツ推薦で全寮制の中学へ行っている。なので、私はしょっちゅう家に一人だ。けど、家事能力はお粗末なもので、夜ご飯も出前を取ってばかりだし、掃除洗濯は家政婦さんがやってくれている。


 生活力の全く無い私にとってこれ以上ない嬉しい提案に、私は秋風さんを抱きしめたい衝動に駆られる。


「もちろん!何ならお風呂も沸かしておくよ!」


「さ、最高。秋風さん。食材も、お風呂も好きにしていいからお願い!」


「任せて!じゃあ用意してくるね!」


「お風呂、湯張りボタン、押すだけでいいから!ホント、ありがと!」


 秋風さん、愛してる。初日から良い友達が出来て良かった。


「こちらこそー?」


 と道場からパタパタと出ていく彼女の姿に、修行にもますます身が入る。ようし見てろ!現人類!私達の戦いはこれからだ!






 白木邸をお暇した後、俺は小島さんと会う約束をしていた。伝えなくちゃならないことがあったからだ。


 小島さんの紹介をしておくと、俺達のことを個人でやっている孤児院に迎え入れてくれた、いわば父親みたいな存在だ。警視庁でそこそこのポストについている敏腕刑事でもある。


 俺達三人は、幼少のころ小島さんに鍛えられた。さっき鉄郎の格闘術の知識に白木さんが驚いていたけど、あれはその時教え込まれたもの。でも二人はあんまりそういうのに向いてなくてすぐ辞めてしまっていた。


 ちなみに俺と怜は孤児。生まれてすぐ両親は死んでしまったので、顔すら思い出せない。けど孤児院には俺達と同じような境遇のやつしか居なかったから、寂しさはあんまり感じなかったかな。小島さん夫妻が両親の代わりもしてくれていたし。


 鉄郎に関しては……またちょっと違うんだけど。あいつは両親の顔も、たぶんはっきりと覚えているし、生まれてすぐ捨てられたわけでもない。


 白木さんには、最初の挨拶の時(入学式の数日前に三人で集まった。もちろん鉄郎は来なかった)に俺達がみなしごだってことは一応伝えてある。隠しておいて気を使わせるのも申し訳ないからね。それでも、鉄郎の昔話については伏せておいた。


 あいつは強がって「別に構わん」って言うだろうけど…俺がぺらぺらと語っていいような軽い事情ではない。あいつの判断で、自らの口で説明する時が来るのならそれが一番いい。


 俺はいつものレジスタンスの息がかかった喫茶店で、いつものハニーカフェオレを飲みながらそんなことを考えていた。苦いのはあまり得意じゃないんだ。


 スマホで連絡するのが一番いいんだけど、レジスタンスの人と絡む事情の場合、お互い目に見える足跡を残したくないので、念の為このような安全な場所で直接話すことにしている。油断は命取りだってさっきも鉄郎が言ってただろ?


 しばらくすると、いそいそと小島さんが現れる。ベージュのトレンチコートという、いつもの恰好だ。俺より少し大きい、180㎝後半くらいという大柄なのでやけに様になっているのがおかしい。


 本人曰く仕事に気合を入れるための勝負服らしいが、個人としては動きにくそうだな~という感想しか出てこないし、本人にもいつもそう言っている。


 「おう、待たせたな。」とドカッと席に着く。小島さんはガサツだ。


 「いや、忙しいのに悪いね」


 「全くだ。昼飯食うって出てきたから手短に頼む。」


 そう言いながら、ポケットから取り出した煙草に火をつけている。この時代に、そんな化石みたいな煙草を嗜むのは小島さんくらいだろう。そもそも、どこから手に入れてるんだろう?


 「じゃあ早速。白木さん、ゼミの一年生のことだけど」


 白木さんの名前を出した途端、小島さんは身を乗り出して嬉しそうにする。相変わらずこの無精ひげを生やした厳ついおっさんは、レジスタンス関連のことしか頭にないみたいだ。


 「おお!活動に熱心な例の子だな!その子がどうした?」


 「単純だなあ…見るからにテンション上がって。」


 「そりゃあよ、今時珍しいぜ?腕っぷし、頭脳、思想と三拍子揃ったやつは。よく見つけてきたもんだ。お手柄だったな。」


 「その為だけに、わざわざ二年生でゼミを作ったからね。苦労したよ。最初は反対勢力しかいなかった」


 「そいつはご苦労さん。その話だったら何度も聞かされてるぜ。」


 そううんざり顔で煙草をふかしながら店員を呼び、コーヒーを注文する姿に俺は不満を感じざるを得ない。


 まったく…もう少し労いがあっても良さそうなものだ。その為に地道な選挙活動と根回しをどれだけやったか。結局、得票率トップで生徒会長になることを条件に、教師達にゼミ設立を無理矢理認めさせた。本来ウチの学校では、ゼミは三年生が主体となって設立する制度だったからね。


 まあ、小島さんはふわっとした指示しか出してないから労いを求めるのはおこがましいのかもしれない。彼が高校生になる俺に言ったのは、


 「学校で一番になれ。あと、仲間を見つけろ。」


 というたった二言。生徒会長やゼミは俺の裁量で、それに向けて最善だと思うことをしているに過ぎない。つまりやりたいようにやってるだけ。


 実際、一番を目指すのは、俺の夢の為には当然のことだし、仲間を募るのはとても楽しい。今の状況になんの不満もなかった。後は今度のトーナメントで一番になることだな。


「……はいはい。話を戻すよ。その彼女が今日、上級生といざこざを起こしちゃってさ。」


「ほう。」


「とりあえず鉄郎が収めてくれたんだけど、白木さんのリベンジと、俺達の力を学校に知らしめるっていう意味も込めて、今度改めて当人同士でやりあうことになったんだ」


「あの鉄郎が?珍しいこともあるもんだ。その一年生がカワイ子ちゃんだからか?」


 と少し意地の悪い笑みを浮かべている。俺もカワイ子ちゃんという言葉に笑いながら答える。


「カワイ子ちゃんだからってのはどうだろう…仮にそういう理由だったら怜に殺されるだろうけど、珍しいってのは俺も思ったな。たぶん、白木さんに触発されたんだと思う。正反対のタイプだから」


「まあ、あいつはやる時はやる男だわな。それで、俺は何をすればいい?その白木さんが勝てばいいだけの話じゃねえってことか」


「流石、察しが良くて助かるよ。おそらく、その試合は学生内の問題では済まない。聞き覚えがあったからさっき怜に調べてもらった所、白木さんに手を出してきた生徒指導のトップの望月って三年は学校関係者の息子だってことが分かった。学内ではかなりの権力がある。息子の立場の為なら、外部の人間を使ってでも妨害してきそうだろ」


「ふむ……なるほどな。目には目をってことか。生徒には生徒を。部外者には部外者を。そのリベンジの日はいつだ?」


「さっき決めた。一週間後だよ。」


 この一週間という数字は、我ながら絶妙。何かを仕込むには短いが、白木さんが進化するのには必要最低限の猶予だ。だが、敵が白木さんの器を正確に見積もれていないことを考慮するならば、欺くには十分にも見える。


 小島さんはスマホでスケジュールを確認し、煙草を消しながら言う。


「俺は仕事だからな。レジスタンスの誰かを動かすしかねぇぞ」


 当然そうしようと思っていた。しかし、小島さんをわざわざ呼び出したのは彼にも動いてもらいたいことあるからなので、考えていたことを告げる。


「もちろん、その時に直接動いてもらうわけじゃないさ。小島さんにやってほしいのは、直近で……」


「……それならお安い御用だ。」


 話がまとまると、小島さんは店内の時計を確認する。


 「よし、ならもう行くわ。忘れちまいそうだからよ、一応詳細送っといてくれ」


 「オッケー。ありがとう、小島さん。」


 「気にすんなよ。お前の……いや、俺達の、大いなる目的の為ならな。昼飯も長くならあ」


 そう恰好つけて必要以上に悠然と店を出ていった。傍から見たら痛い中年だが、今さら気にならない。何ならこういう時は本当に頼りになる人だった。コーヒーはまだたっぷり残っているのを見るに、本当に忙しかったらしい。ありがたいことだ。


 「さて……と。」


 他人事ではない。尋常高校のエリート代表たるこの俺、妻ヶ木葵も、何を隠そうスケジュールがパンパンなのだ。さっと立ち上がる。


 レジスタンスということはお互いおくびにも出さずに、店員とごく自然に会計を済ませてアルバイト先の工事現場へと向かう。体も鍛えられるし、給料も割が良い。最高のバイト先だ。


 それが終わるのが八時で……頭でスケジュールをおおまかに組む。


 帰ったら生徒会でやらなきゃいけない仕事が山積みだ。最優先は昨年の部活の活動内容報告に目を通して、今年度の活動を承認するやつ。ゼミのタスクに関しては、取り敢えず今年の活動方針をまとめて担当教員に送らなければ。新学期一発目に学力テストもあるからその仕上げもしておきたい。


 とにかくやることがある。だがそれでこそ生を実感できるのだ。やっぱり、俺の人生はこうでなくちゃ面白くない!今頃、白木さんも頑張っていることだろうしな!






 …………暇だった。とにかくやることがなかった。


 俺が働いているカフェ、〝雄大な原っぱ〟は、かなり客足に波がある店で、忙しい時はとことん忙しいが、暇な時はご覧の有様。店内は十席ちょっとだが、文字通りすっからかんだ。


 このカフェは、この町のメインストリート沿いに位置しているが、隣接するものはなにもないという好立地。


 無意味なほど広い歩道が、飲食店が並ぶ表通りと住宅街が広がる裏通りに分かれる中洲の部分にポツンと立っている。その為、近隣の飲食店とパイの奪い合い、といった野蛮なことからは無縁なのだ。それが現状に繋がっているのやもしれんが。


 外装は、隠れ家的カフェであると主張するかのような、喫茶店が陥りがちな矛盾を見事に内包した様相で、入り口の上部に掛けられた全く目立たない小さな看板と、レンガ調で薄いブラウンの壁紙で彩られた外観になっている。


 そしてなんと、原色ギラギラというわけではないが、思わず目をとられるほど大きなネオンが設置されている。英語でmajestic plain。そのままだ。


 看板とネオンの対比はいつ見ても面白いが…原さんの趣味を全部詰め込んだ結果こうなったらしい。名前もそう。まあ、俺はこういうセンスは全く嫌いじゃないので無問題。


 反して内装はそこまでユニークかというとそうでもなく、意外とストレートにモダン風。大きすぎず小さすぎない窓と、合皮のグレーの座面に温かみのある木枠のロッキングチェア、それと材質は同じ木でも、ニスで加工され艶が出ている机が並ぶ。


 少し濃いグレーのソファ席も端に二席。それにカウンター席もキッチンを取り囲むように三席のみだが用意されている。


 コンセプトは和洋折衷といったところか。だが机の形は特徴的で、オフホワイトのフローリングに対し、コの字が下を向いた形のものが直接取り付けられている。なのでお客さんが動かすことは出来ないが、店内のモダンさに統一感を持たせるという意味で一役買っている。


 身内贔屓にはなるが中々居心地も雰囲気も良い。ジャズを控えめに流しているだけなので、店内は静かだ。だがカウンター席から器具が見えないことと照明が暗めなこともあって、一見洒脱なバーのように見えなくもない。


 この店との付き合いは、客として通い続けている時期から数えると七年近く経つ。去年、高校生になったのを皮切りにようやくかねてからの希望が叶い、従業員として雇ってもらえることになった。


 だが何といっても働く前から五年近く足しげく通っていたので、すでに覚えるべき仕事で真新しいものもなく、オーナーの原さんに代わって、三ヶ月もすればワンオペで店を回すことさえ可能だった。加えて、もともとコーヒーを淹れるのは俺の数少ない趣味の一つでもあったことも大きい。


 特に今日みたいな暇な日は、人件費削減のためにも俺は一人で店を任せられているのだが…それにしてもだった。


 怠惰な俺からしたら暇な時間など大歓迎だが、この店が潰れるのは非常に困るので例外。俺がこんなに手際よく働けるのはこの店だけ。他所に行ったらまるで使い物にならない自信がある。


 と、そんなふざけたことを考えるなら何でもいいから出来ることをすべきでは?と思い直し、新たなブレンドの開発に勤しむことにした。まだ掛け合わせていない産地の豆のバランスを考える。


 それに、店から如何にもカフェらしいかぐわしい香りがしてくれば、集客にもつながるかもしれない。


 適切な比率を思いつき、焙煎に取り掛かってすぐ、日用品の買い出しに行っていた原さんが帰ってきた。店の二階が原さんの居住スペースになっているのだ。


 「ただいまー。あら、鉄郎ちゃん。商品開発?精が出るわねぇ」


 ちなみに原さんは男性だが、とても女性らしい、繊細で穏やかな心の持ち主だ。ファッションセンスが図抜けている…とよく言われている。俺は正直よく分からない。今日もド派手な花柄のストールをしている。身長は165㎝ほどだが、顔が小さくスタイルが良いのでどんな服でも見事に着こなしているし、後ろで束ねた長髪もよく似合っている。


 俺は原さんの包容力にしょっちゅう救われていて、数少ない、俺が心からリスペクトしている人物の一人だ。


 「お帰りなさい。外に香りしてます?」


 「いいえ、まだしてきてないわね。多分窓を開けないと」


 そりゃそうか。よく考えたら、外にまでコーヒーの香りが漂ってくるカフェなどそうそうなかった。


 「そうですか…なら窓を開けてもいいですか?」


 「いいわよ。なによう。随分熱心じゃないの。ありがたいわね。」


 と言いながら窓を少しだけ開けてくれる。


 「お客さん来てくれないかなと思ってやってたんですけど、効果ありそうですかね」


 そう俺が聞くと、原さんがサムズアップして答える。


 「バッチぐーよ。きっと覿面だわ」


 「死語ってレベルじゃないですよそれ…」


 そんな会話をしていると、ようやくお客さんが来てくれたようだ。ドアが開いたことを知らせる鈴が鳴る。


 「いらっしゃいませ」「いらっしゃい~♪」


 そう俺と原さんが同時に言うと、入ってきた男は気安い様子で片手を挙げてまっすぐカウンター席に座った。


 「なんだ…お客さんかと思ったのに」


 「いや、客ではあるよ。注文をお願いしてもいいかな?」


 と口元にごく控えめな笑みを浮かべ、少し探す素振りを見せた後、机の下のスペースに置いてあるメニューを取り出す。


 「あら!涼ちゃんじゃない。ご無沙汰~!」


 原さんは、女子が想定していない相手と偶然会った時よくやる、胸の前で手をパタパタさせる謎の動きで近づいていく。すると男は、身に付けていたサングラスとハットを取り、聞こえようによっちゃ声の低い女にも聞こえる声色で言う。


 「どうも、オーナー。お変わりなく。」


 こういう気障な言い回しがやたら様になっているこの男は、幼少期を共に孤児院で過ごした、柏木涼という。今はレジスタンスに所属していて、何かそれ絡みの用事がある時はちょくちょくコンタクトをとっている。


 見た目も痩身ですらっとした女顔だが、性格はさらにクールで、ドライといっても過言ではない。とにかくあまり人間関係や俗っぽいことに執着の無い人なのだ。俺はそういう態度の人間が付き合っていて一番楽なので、涼さんと話すことには他の誰よりも抵抗がないかもしれない。


 俺より二、三つ年上のはずだ。はっきりとは知らないが。やたら俺達三人に対して年上ぶった振る舞いをするので、俺は勝手に年上だと認定していて、さん付けで呼んでもいる。


 「やだ、相変わらずカッコイイわね。今日はまだお酒出せないのよ、ごめんね。鉄郎ちゃんに会いに来たの?」


 「ええ、久々に顔を見たかったですしね。鉄郎、ブレンドのレギュラーを」


 この人が直接出向いてくる時なんてろくなことに巻き込まれない。そのことを経験則で知っていたので、あえて苦い顔でハンドドリップの準備をする。


 「嫌な予感しかしないんだが…」


 「ふふ、そんな顔するなよ。今日、始業式だったんだってね。進級おめでとう」


 そう心にもないことを言いながら手を組んで顎を乗せている。いつも思うのだが、涼さんは詐欺師に向いているだろうな。そのポーズや声のせいか知らないが、やることなすことが一々真実味を帯びているのだ。ほとんど嘘だと分かっているのに。


 「どうも。大方、小島のおっさんと葵から何か聞いてここへ来たんだろ?レジスタンスが絡んでいるのは間違いなさそうだな。」


 そう憎々し気に言い放ち、豆をミルにかけながらソーサーとドリッパーを熱湯で温めると、涼さんはさも面白そうに瞼を持ち上げ、質問を投げてきた。


 「へえ。そう言い切るなら、理由とその根拠を示してみてくれないか?客観的なやつをね。君たちの祝い事を、順当に祝いに来ただけかもしれないだろう?」


 フィルターに丁寧に折り目をつけながら、ふんと鼻をならす。そんなこと説明するまでもないし、涼さんだって本当に気になっているわけではないはずだが、他愛無い会話をもって余興としてくれているんだろう。おそらく誰もいない店内を見かねて気を使っているらしい。なら一応、乗っておくのが社会的コミュニケーションってものだ。


 「簡単さ。順に説明すると…まず、涼さんがこのカフェに来るのは何度目だ?」


 涼さんは笑顔のまま、視線を斜め上にさまよわせる。そして、


 「うん。二回目かな。」


 と答える。


 「そう、二回目だ。このカフェの看板は小さく、パッと見ではなにか分からない。それに雄大な原っぱ、という店名だけ聞いても何の店かということも分からないはずだ。少なくとも、カフェだとは。極めつけはネオンだ。よくバーに間違われるよ。」


 俺がそう言った瞬間、二階に上がろうとしていた原さんから「そう?」といった視線が飛んでくる。純粋に疑問に思っていそうなのがおかしい。


 涼さんは笑みを絶やさないが、興味深そうに細い眉を少しだけ顰めている。


 「鉄郎は、俺はこの店をカフェだと知らなかった、と言いたいんだね。」


 「そうだ。さっき原さんが言ってて思い出したんだが、涼さんが以前来た時はもう閉店後だったから原さんが個人的に自作のカクテルをふるまっていた。原さんはバーのマスターもやってたからな。しかもその時は、涼さんらしく要件だけ伝えてさっさと帰ったから、雑談もしていないし店内もそれ程注視していなかったと思う。なんなら、中にまで入らず入り口で済ませたことも覚えてるよ。」


 少しの思考の後、頷く。


 「そうだったかもね。その時、確かに俺はバーだと思っていたよ。」


 コーヒーに少しだけお湯をかけ、三十秒ほど蒸らす。この工程が結構侮れないのだ。味がかなり変わってくる。


 「思い出しただろ?ならなぜ、今日は別段驚いた様子もなく俺にブレンドコーヒーを注文できたんだろうか?それに、さっきメニューを探していたが、バーには通常あまりメニューは置いていないので、涼さんがここをバーだと思っていたとするとその行動も不自然に思える。そこから考えると、涼さんは誰かから、予めこの店がカフェだってことを聞かされてここに来たのではという推論が成り立つ。」


 だが涼さんはここで楽しそうに待ったをかけてきた。


 「それは飛躍していないかな。入店時にカフェだと気付いた可能性をまず検討するべきじゃないか?その時点でカフェだと思っていれば、メニューが置いてあると考えるし、さらにメニューをみてコーヒーがあることにも何ら驚きはないはずだ。」


 すぐさま反論。


 「いいや。人から聞いたと分かる根拠があるんだよ。原さんを迷いなくオーナーと呼んでいたが、普通バーであってもカフェであってもマスターが一般的だ。共通した呼び方が存在して、定義が曖昧な状態なら迷うことなくそれを使うだろう。軋轢を生まずに済むからだ。」


 「原さんのこだわりでウチはオーナーと呼んでるんだが、その呼称が最初に頭に上るかは甚だ疑問だし、せっかく誤魔化しの効く〝マスター〟があるのにオーナーという呼称をわざわざ使う道理はない。つまり誰かが原さんを〝オーナー〟と呼んでいるのを聞き、それをそのまま使った可能性が浮上するんだ。」


 涼さんはこれには口を挟まず、もはやニコニコしながら黙って俺の話を聞いている。俺もリアクションは求めない。そもそもこれはコーヒーを淹れる間の余興だ。


 「それに、いまさっき窓を開けたんだ。寒いなら閉めるか?そう、今でこそコーヒーの香りが店外にしてるはずだけど、涼さんが来店した瞬間にはまだしていなかった。直前に原さんがしていなかったと言っているんだからな。このことから、香りでカフェだと気付いた線も消える。カウンター席からは器具は見えないので、内装で確信を持つことも困難だ」


 そう畳み掛けるように語るが、手元はゆっくりと適温のお湯を粉に回しかける。三回以上に分け、の、の字を書くようにするのがポイントだ。


 「外見でもにおいでも内装でもバーではなくカフェだと断定できないのに、呼び方だけにこの店に則った知識がある。以上から又聞きの可能性が一番高いと思った。」


 一杯分のコーヒーを落とし終わったので、カップのお湯を捨てウォーマーに入れてあったソーサーを出し、カップにコーヒーを注ぐ。


 「で、俺とこのカフェのことを涼さんに話せる人物は葵か怜か小島さん。葵が小島さんと今日会うってのは知ってるから関係ない怜の可能性は低く、あの二人が時間を割いて直接会うとなると間違いなくレジスタンス関連。その二人に話を聞いた涼さんが持ってくる話ならそのことだろ。はい、ブレンド」


 そう言い切って、ソーサーとカップを涼さんの前に置く。タイミングばっちりだ。


 涼さんはコーヒーにすぐに口を付け一口飲むと、笑みをますます深くする。


 「見事な論理展開だね。納得せざるを得ないよ。コーヒーも非常においしい。ありがとう」


 筋道立った話をするのはそこまで苦ではない。ポケットに手を突っ込む突っ込まないの話よりはよっぽどマシだ。俺は聞く。


 「結果として、順当に祝いに来たんじゃないことが判明したわけだが、それで何の要件なんだ?」


 コーヒーをまるで水の様にグイグイ飲みながら、笑みを口元のみのささやかなものに切り替えている。やっと本題ということなのだろう。


 「ああ。今度、君の後輩が学校で試合をするそうだね。ひと悶着あったとかで」


 俺は明らかな渋面になる。相も変わらず、情報が巡るのが早すぎる。俺が何かしら失敗談を作ると、次の日にはもう界隈の連中には伝わっているのだ。一体誰が漏らしているのか。


 「お耳が早いことで。おかげで今日は大変だったんだよ」


 「みたいだね。そのことで、外部の人間の介入が考えられるそうだよ。なんでも、学校の重鎮の息子が関係してくるとか」


 なんだと?完全に初耳だった。俺が気絶させてしまった何某君がそうだったのだろうか。確かにあの小物っぷりは、そう言われても意外性はないけれども… 


 「はぁ……面倒だな。それでレジスタンスの出番ってことなのか。」


 涼さんもくだらないことだといったように首を左右に軽く振って答える。


 「そういうこと。葵に解決してもらうのが手っ取り早いんだけどね。立場上、そうもいかない。君への嫌がらせを止められないのと同じ理由さ。それで俺に白羽の矢が立ったんだ。」


 ほう。それを聞いて分かった。涼さんがらしくもない雑談に興じていたのは、本当に大した用事じゃなかったからのようだ。


 ちなみに葵が動けないのは、あいつが学校での地位を不動のものにし、経歴に箔をつけるためだ。分かりやすく言うと、〝妻ヶ木葵は在学中、全校生徒からの羨望を一身に受け、その有能さに目くじらを立てるものもいなかった〟というレッテルが欲しいがため。自分から反対勢力の芽をせっせとつぶして回るのは印象が悪いのだ。


 俺への嫌がらせを黙認しろと言ったのもそれがあったから。馬鹿馬鹿しいと俺は思うのだが、レジスタンス的には結構クリティカルなポイントで、葵を最短で国家中枢に送り込む為には必要な過程らしい。それだけ選考がシビアということなのだろう。


 俺は当事者ではあるが、確かに俯瞰で見ても、葵が俺を露骨に助けることは生徒たちの目にはよく映らないだろうな、とは思う。


 「なんだよ生徒会長も結局身内の肩ばっかり持つ政治家のような汚い人間なのかよ」といった風に。完璧超人との評判を盤石のものにしつつある葵の、唯一つつける穴が亜門鉄郎と言ってもいい。


 なら最初から俺をゼミに入れるなよとは思うのだが…あいつは情に流され安すぎるのだ。学校では俺のことを放っておくだけで解決した話なのに…やれやれ。


 俺も、面倒事は嫌いだが友人が夢を追うことを邪魔するほど落ちてはいないので、結果的に妨害になるならばたとえ置かれている状況が悪いものであっても、何とかしてもらおうなどとは思わなかった。今日の朝の会話にはそういう意図があったのだ。


 レジスタンスのややこしい事情に振り回される同胞の姿に、流石の俺も同情を禁じ得ない。思わず感情の籠った声になってしまう。


 「それは気の毒に…」


 涼さんはやはりクールだった。事もなげに答える。


 「ま、人が足りないんだろうね。組織の性格上、仕方のないことではあるさ。」


 ただ、一つ疑問な点があった。普段蚊帳の外にされがちな俺のところに回ってくるのは、そこそこ重要な話が常だったのに、今回の話はかなりスケールが小さい様に思えた。


 「だとしてもなぜ俺のところに?レジスタンス絡みだから直接会うのは理解できるが、怜でもいいだろう」


 俺があえて疲れた声色でそう言うと、涼さんは冗談、といったように肩をすくめ、


 「もし俺が怜のところに話を持って行ったら、君は〝俺のところで良くないか〟とケチをつけるだろうね。それを分かってて怜の所には行かない。無駄なことは嫌いさ」


 と言う。なにを訳の分からないことを。腕を組んで言う。


 「異論しかないな。別に、怜に話したところで俺はとやかく言わん。好きにしろとは言うがな」


 ふっと笑うと、サングラスをかけハットを被りなおす。引き上げるらしい。涼さんは立ち上がると、黒いコートの内ポケットから無駄にスタイリッシュにメモ書きを取り出し、手渡してくる。


 「鉄郎もまだ十代の若者だと分かって安心したよ。当日の詳細はこれを読んでくれ。」


 釈然としないままそれを受け取る俺を横目に、涼さんは二階への階段の方へ向かい、


 「オーナー!コーヒー、ご馳走さまでした。また来ます。」


 と原さんに挨拶している。奥から、「あら~?もう帰っちゃうの?」と慌てた声が聞こえるが、それに涼さんは笑顔のみで応え、カウンターにピッタリの金をおいて颯爽と鈴を鳴らして出ていった。去り際にこんな言葉を残して。


 「じゃあまたその時。楽しませてもらったよ。怜によろしく」


 俺は手早くお金をレジスターにしまい、商品キーを打ち、食器を片付ける。


 いや全く、釈然としない。俺がまるで怜を、厄介事から遠ざけて…なんというか、物凄く大事にしているみたいじゃないか。筋が通らない話だ。そんなことをした覚えは一度だってない。勝手な勘違いはやめてもらいたいものだ。


 一人憤然としていると再び鈴が鳴り、ハッとする。そうだ、俺は絶賛勤務中。そんな余計な事ではなく、お客様を最高のコーヒーでもてなすことだけを考えるとしよう。


 この店で今日初めてかもしれない笑顔を作り、お冷の用意をする。女性二人組が「いい匂い~」と言いながら席に着くのを見て、抜けた体に気合を入れ直した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る