第6話 補足:「銀河」をめぐるさまざまな語感

 ここから先はあまり論旨とは関係のないことです。

 「銀河鉄道の夜」では、「銀河」ということばは「天の川」の意味で使われています。つまり、地上から見上げて、天を横切る川のように見える「微光天体の集まり」のことです。

 いま、「銀河」というと、「アンドロメダ銀河」のように、むしろその「天の川」(天体としては「天の川銀河」といいます)の外にある星やガス星雲やブラックホールなどの集まりを呼ぶことが多い。

 もう最近では「宇宙ができてすぐの銀河(天体の集まり)」まで望遠鏡で見えるという時代になっています。

 一方で、夜空を見上げれば、晴れてさえてれば「銀河」(天の川)が見える、という前提で「銀河鉄道の夜」は書かれています。しかし、いま、空を見上げて天の川が見える地域が日本にどれくらいあるでしょうか? 私自身は、生まれてから数回しか天の川を見たことがありません。

 ですから、「銀河」ということばの感じも、賢治がこの作品を書いたときとは違っていると思います。

 私が国語の問題文で「これは「銀河鉄道の夜」という物語に違いない」と思ったのは、たぶん、ふだんは使わない「銀河」ということばが使われていたからです。

 でも、賢治が「銀河鉄道の夜」を書いたときと、私が国語のテストの問題文を読んだときとでは、「銀河」ということばの語感はずいぶん違っていただろうと思う。

 さらに、私が国語のテストでその文章に出会ったあと「遠くの銀河を観測してみると宇宙膨張が再加速していることがわかった」とか言われるようになりました。たぶん、国語のテストで出会ったときと現在とでは、また語感は違っているだろうと思います。

 あんまり自覚はしていないけど、たぶん、違っているのだろう、と。

 はっきり覚えていなかったり、わからなかったりするので「たぶん」が多いですが。


 加えて、私たちは松本零士の『銀河鉄道999』という作品を知っているので、「銀河鉄道の夜」を読むときにも「宇宙空間を進む汽車列車」のようなものを考えてしまいがちです(ちなみに『宮澤賢治イーハトヴ学事典』という本には松本零士がコラムを寄せています)。

 しかし、「銀河鉄道の夜」の列車は文字どおり「川べりを進む軽便鉄道」で、列車から川を見下ろしている感覚で書かれています(なお、「銀河鉄道」は蒸気機関車牽引列車ではなくて電車ではないか、という説が、近年はよく主張されます。ここではその問題には深入りしません。私は蒸気機関車牽引列車でいいと思っています)。

 そういう、「時代の感覚の違い」を受け入れつつ、それでも感銘を与える物語、という点にも、私は強い魅力を感じます。


 その「銀河鉄道の夜」の部分の最初で否定される「銀河」の説明として「乳の流れたあと」というのがあります。

 ところで、英語の「ギャラクシー」は「乳」ということばの縁語です。

 最初の「gala」という部分はギリシャ語の「乳」に由来しています。たとえば、「乳糖にゅうとう」の構成要素である「ガラクトース」は、同じギリシャ語の「乳」に基づいているそうです。

 英語では、天体の集まりを「ギャラクシー」、そのなかで太陽系を含む「天の川銀河」を「ミルキー・ウェイ」と言って区別しています。だから、「ミルクの流れた道」ということばの感覚は、英語ではいまも持ち続けているのですね。


 賢治がこの物語を書いたのは主として1920年代です。

 この時代、「私たちの銀河系」(天の川銀河)以外にも、いまでいう銀河が存在するのか、それとも「私たちの銀河系」が唯一の宇宙の中の星の集まりなのかがはっきりしませんでした。

 1920年にはアメリカ(合衆国)で、この問題をめぐって「ザ・グレート・ディベート」(定冠詞つきの「大論争」)という天文学上の議論が交わされていますが、決着はつきませんでした。

 1920年代には、スライファーとハッブルの観測を通じて、「私たちの銀河系」以外に銀河があるという想定で「銀河の後退速度」が求められ、宇宙が膨張しているという「ハッブル・ルメートルの法則」が1920年代の終わりには提唱されていました。

 つまり、賢治が「銀河鉄道の夜」に手を加え続けた段階では、「私たちの銀河系」以外に銀河が存在する、ということは確からしくなっていました。しかし、「銀河鉄道の夜」を読むと、賢治は「銀河(私たちの銀河系)が宇宙で唯一の天体の集まりである」という想定でこの「銀河鉄道の夜」を書いているように読めます。

 「銀河こそが宇宙のすべて」なのです。

 では、賢治は、スライファーやハッブルの功績を知らなかったのでしょうか?

 これはなんとも言えないところです。

 賢治は科学者でもあり、科学についての知識も深かった。だから、「銀河鉄道の夜」の最初に部分に、先生のことばとしては「今日の銀河の説」を書いています(ちなみに、この部分は、現存する「銀河鉄道の夜」の原稿のなかで最後に書かれた部分の一部です)。また、賢治は、メモ書きには、「異次元」(ことばどおりだと「異単元」)・「異世界」ということばまで書き残しています。

 その一方で、賢治は、私たちがいま考えるような「科学的正確さ」にこだわらないところもありました。賢治が相対性理論を知っていたのは確実だと思われます(論証もあります)が、賢治は、相対性理論で存在が否定された「エーテル」に「光素」という魅力的な文字を当てて使っています。

 もしかすると、賢治は「私たちの銀河系の外にも銀河は存在する」ということは知っていて、でも、この物語は、「私たちの銀河系が宇宙で唯一の星(天体)の集まりである」という想定で書いたのかも知れません。

 しかし、その文章からは、賢治がスライファーやハッブルの観測結果を知り、いまハッブル・ルメートルの法則として知られる法則を知っていたことはうかがうことはできないようです。

 賢治がとくに重要視していた法華経の「如来寿量品にょらいじゅりょうぼん」は、お釈迦しゃか様が永遠の存在であることを説いています。したがって宇宙も永遠の存在であるはずです。その賢治が、宇宙は有限の過去のある時点で生まれて、将来も永遠の存在ではない(少なくともいまのあり方のまま持続はしない)ということを知っていたら、どんな作品を書いただろう、ということを私は想像します。

 でも、それは賢治の役割ではなくて、たぶん、そういう科学知識が存在している世に物語を書くひとの役割なんだろうな、とも、いま思っています。

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「銀河鉄道の夜」と私 清瀬 六朗 @r_kiyose

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