第六章――⑥

「心配しないで。ハリちゃんの体は無事よ。そもそも、肉体と魂は一時的に切り離すことはできても、どちらか片方が消滅すれば連動して消えるものなの。この世界を去ってもハリちゃんがそのまま死ぬことはないわ」


 そういえば前に、病院で意識不明のまま寝かされているような夢を見た。

 あれはなんらかの影響で元の世界の状況を垣間見た状態だったのか。


 つまり私は、あの事件のあとちゃんと救急搬送されて治療され、適切な延命措置を施されていることになる。

 後遺症の有無までは分からないが、ひとまずは生きていると分かっただけでもほっとした。


 でも、これから先ずっとこの初恋を引きずって生きるのかと思うと気が沈む。

 私がいなくなったあと、ユマが女神の使徒を続けるのかどうかは分からないが、どちらにせよ色恋禁止の制約はなくなるわけだし、自警団の女の子たちにモテモテだったことを考えると、そのうちに新しいカノジョを作って結婚するんだろうなっていう未来は容易に想像がつく。

 ユマが幸せならそれでいい……と、悟れたらどれだけよかったか。そこまで人間ができていない。


 それに引き換え、私は非モテ非リアの三十路オタク喪女。

 今時三十過ぎたからって婚期を逃したわけでもないし、気合を入れて婚活すればそれなりにいい人と結婚できるとは思うけど、いろんな意味でユマを越える男の人に出会うなんてことはないだろう。


 結婚は妥協と打算だとよく言うが、文字通り物語のような恋をしたあとで、現実の恋愛に満足できる自信もない。

 恋なんてロクなもんじゃないな、と心の中で自嘲しているうちに回復魔法を追加でかけられ、容態が少しだけよくなる。ユマに支えられて体を起こすと、女神様が神妙な顔で告げた。


「今は応急処置でこの世界に繋ぎ止めてあるけど、それも長くはもたないわ。一時間か、それより短いかもしれない。悔いのないように、ちゃんとユマと話をしておくことね」


 言葉の終わりに小さく笑みを浮かべ、女神様はイーダの手を取って食堂を出て行った。パタン、と食堂の戸が閉まった音と共に息を吐き出すと、私の横にユマが腰かける。

 分かりやすく気を遣われたことにむず痒い気持ちになりながらも、女神様の言う通り悔いのないよう、言いたいことはしっかり言わねば。


「あの、ユマ。この間は――えっと、杖をすり替えてたことを黙ってて、ごめんなさい。ちょっと調子乗ってたっていうか、カッコつけたかったというか……ちゃんと相談すればよかったって反省してる」

「あ、いや、あれは……俺も怒鳴って悪かった。すり替えに気づかず、民間人の避難を優先した結果、ハリに怪我を負わせることになった。結局のところ俺のミスだ」


「あれは私が独断でやったことだから、ユマに責任なんて……」

「あるんだ。本当に守りたいなら、誰よりも大切だと想うなら、絶対に傍を離れるべきじゃなかった」


 悔いるように言葉を紡ぎながら、ユマは私の頬に手を滑らせた。

 遠目には形のいいきれいな手に見えるのに、こうして直接触れてみると少しザラリとしていて、節くれだった指とか手のひらに点在する肉刺とか男の人らしい感触が伝わってきてドキドキする。


「ハリ……改めて言わせてもらうが、俺はあんたのことが好きだ。外見がどうかなんて関係ない、魂のあり方そのものが好きなんだ。それで……できれば、あんたの気持ちも聞かせてほしい」


 口調だけははっきりしているのだが、顔は真っ赤だし視線があらぬ方向にフラフラ泳いでるしで、なんとも間の抜けた告白だ。

 でも、不器用なりに精一杯頑張っている様子は大いに萌えと胸キュンを誘い、うわああっと意味不明な叫びを上げそうになったが、それをグッと飲み込む。


 こ、こう言われたらやっぱり返事しなきゃダメだよなぁ。

 でも、気持ちを伝えたところでなんの意味もない。もう少しすればそれぞれまったく別の世界の住人になって、一生人生が交わることなんかないんだから。


「そ、そんなのきっと勘違いよ。ほら、つり橋効果ってヤツよ。それに、この見た目だから好意的に見てくれるだけで、もしありのままの私だったら絶対に好きにはならなかったわ。ハティが言った通り地味で野暮だし、女子力手底辺のオタクだし、しかも三十のおばさんなのよ? ユマとは全然釣り合わないもの」

「そんな言い訳が聞きたいんじゃない。あんたが俺をどう想っているか知りたいんだ。それとも、答えたくないほど俺が嫌いか?」


「そんなわけないでしょ。でも、知ったところで無意味じゃない。どうせ離れ離れになっちゃうのよ? それに、この体は借り物で……たとえ気持ちが通じ合ったとしても、何もできない。戻った瞬間死ぬかもしれないのに、好きな人となんの思い出もないまま別れるな、んて――」


 ポロっと「好きな人」という言葉が漏れてしまい、慌てて口をつぐんだが遅かった。

 しっかり聞かれていたらしく、さっきよりもさらに顔を赤くしてこちらを見下ろしている。


「それは……俺のこと、か?」

「い、今の文脈からしてユマ以外にないでしょ!?」


 いたたまれなくなって目を逸らしたが、両頬を包むようにして引き寄せられ、至近距離で目を合わせることになる。


 ち、近い近い! この距離感でのイケメンは心臓に悪すぎる!

 少しでも離れようと思って体を押すが、私の力じゃびくともしない。

 さすがチート使徒……って感心してる場合じゃない!

 このままじゃラブシーン一直線だ。冥途の土産(死なないけど)に体験したいのはやまやまだけど、自分の体じゃないので好き勝手はできない。


「ちょ、ちょっと……この体はハティのなんだから、変なことしないでよ? まだハティはあなたのことを諦めてないかもしれないし、キスひとつでも責任取らされるかもしれないんだから。貴族令嬢ってその辺狡猾よ?」

「たとえそうなっても、女神の使徒だからいくらでも逃げようはあるが」

「一途な女心を踏みにじるクズ男は嫌いよ」


 半眼で睨みつければ、ユマはバツ悪そうに私の顔から手を離す。

 その温もりが離れると無性に寂しい気分になったが、万が一の間違いが起きるよりはマシだ。


「はあ……だが、ハリの言うことはもっともだな。こうして触れ合える距離にいるのに、恋人らしいことは何もできないのはつらすぎる。何をするにもあんたの体じゃないと意味はないのは分かってるが」


 えっと……もしこれが私の体だったら、どこまでする気だったんだ?

 いやまあ、三十の喪女相手にナニをする気にもなれないだろうし、恋が始まってすらなかっただろうけど。


 ていうか恋人って……乙女ゲームの推しキャラと恋人になるって、どんなご都合主義な夢展開だよ。

 歴代の聖女も騎士たちとゲームと同じように恋仲になった、っていう夢オチ体験してるみたいだから似たようなものだけど。


 そんなことをぼんやりと考えているとユマが肩を寄せ、私の手に自分の手を重ねて指を絡ませる。


「これくらいなら許容範囲だろう?」

「ま、まあ……いいんじゃない?」


 そもそも密室で男女二人きりという時点で倫理的にアウトだが……細かいことは気にしてはいけない。

 それから私たちは、触れ合った肩と指から伝わる温もりを感じながら、穏やかな沈黙に身を委ねていた。話したいことはいくらでもあるが、これ以上口を開いたらとめどなく未練と涙が溢れ出てきそうで、唇を引き結ぶしかなかった。


 どれくらいそうしていたのか、その沈黙を破ってポツリとユマがつぶやく。


「俺はこれまで数え切れないほどの聖女を育てて見送ってきたが、使命に関係なく守りたいと思ったのはハリだけだ。どんな手段を用いても傍にいたい、身も心も全部俺のものにしたいと思うのも、ハリだけだ。なのに、生きる世界が違うというだけで手放さないといけないなんて……」

「ユマ……」


 悔しさと愛しさで強く絡められた指に胸が痛んだと同時に、視界が二重三重にブレて体が急に重くなり、そのまま床に倒れ込みそうになるところをユマに支えられた。


「ハリ!? まさか、もう……」

「た、多分……」


 女神様が何かしてくれたのか、さっきのような息苦しさを伴う激痛は感じなかったが、その代わり瞬く間に四肢の感覚がなくなっていって、ユマの腕の中にいるのにその感触も温もりも分からなくなっていく。

 それが怖くてギュッと縋りつくのに、まるで雲や霧でも掴んでいるような反発のなさにゾッとした。これが肉体と魂が分離するということなのか。


「い、嫌、離れたく、ない。ユマと、一緒に……」

「……心配するな。離れるのは一時だけだ。必ずハリに会いに行く。どれだけ時間がかかっても、必ず」

「馬鹿、言わないで。そんなの、できるわけ――」

「あんたに会うためなら、世界の壁くらい越えてやる。だから、向こうで待っていてくれ」


 ぼやけた視界の中で、忠誠を誓う騎士のようにユマが私の手を取って甲にキスを落とした。

 この肌はもう何も感じないはずなのに、唇が触れたところだけは妙に熱いような気がしたのを最後に――パチンと電源が落ちるように意識がブラックアウトした。

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