動乱の種

 二人は「海の源流」を覆うドームを出て、ドームから延びる小さな水の流れに沿って歩きだした。この流れの両岸には白く輝く玉石が敷き詰められており、水はその中央をちろちろと走っている。玉砂利が昼の光を柔らかく反射し、辺りに人影はない。明るさと静けさに包まれたこの場所もまた神聖な雰囲気を醸し出している。


 もっとも玉砂利だけでは皇帝や神官までもが歩きにくいため、左右両岸に大人二人分程の幅の舗道が設けられている。左岸のそれは皇帝用、右岸のそれは神官用と考えてよい。左岸には皇帝とその家族のための宮殿、右岸には神官達の住まいがあるからである。


 この皇帝と神官の住まう場所を内宮と呼び、壁を隔てて下流に広がる建物を外宮と呼ぶ。外宮のうち、小川の右岸には帝国府のさまざまな用向きのための建築物が群れをなしている。皇帝の宮殿と同じ左岸の方には極めて巨大な石造り会堂が聳え立ちその威容を誇っている。


 この会堂は単に巨大なだけでなく、外壁も内装もそしてその天井も壮麗な意匠が施されている。特に今日のような大きな祭典では、その上に花やら布やらをふんだんに用いて特別華やかに装飾される。

 この世のものならぬ絢爛たる空間にあって、会堂内の群集はすっかり興奮していることだろう。


 ――一方。内宮を抜けて外宮の会堂に向かう皇帝とその愛娘は、時折言葉を交わすだけで、静かに歩を進めるだけだった。


 歩きながらスヘイドは、今回の式典の中心となる男のことを考えていた。彼の可愛い娘にとって災いの種となりかねない男のことを。


 ――ゲルガンド将軍。


 彼はスヘイドの従兄弟にあたる。


 皇帝家の傍系に生まれた者は、男子は帝国軍に入り、女子は帝国内の王国の王家に嫁ぐ。それが絶対の不文律となっていた。そうやって傍系皇族達は皇帝家嫡流を守護してきた。


 ゲルガンド一家、すなわち先帝の弟宮一家もこれに倣った。ゲルガンドの父と二人の兄、そしてゲルガンド自身も軍に入り、一人いた姉は西方の国の王妃となっている。


 傍系男子が帝国軍に入隊する時は、「将軍」の地位を与えられる。ただし、古代はともかく、時代が下るにつれてその地位は次第に名目的なものになっていった。ごく最近まで、彼らは将軍位を与えられたからといって特に武芸に習熟することもなければ、実際に軍を率いることもなかった。皇宮の側に居邸を構え、度々皇宮に参内するのがその日常だった。


 しかしながら、ゲルガンドの二人の兄は帝国軍の遠征中に蛮族に襲撃されて命を落とした。


 先帝の御世の後半から、先帝及びその政策を受け継いだ現皇帝と、皇帝家に反発する領内の諸王国との間に緊張が高まっている。また、その間隙を狙った蛮族の襲来も増えた。


 帝国軍の遠征には、辺境の蛮族を駆逐するだけでなく、皇族が各国の王を訪ねて親交を深めるという目的もある。ゲルガンドの兄二人は、後者の目的で、武人としての鍛錬を積まぬまま諸王を訪問する旅に出た。そしてそのまま還ることがなかったのだった。


 息子二人は戦死し、娘は遠い異国に嫁ぎ、ゲルガンドの両親に残ったのは彼一人だった。両親はなんとかこの息子は死なずに済むようにと願った。そのために彼に武芸を磨かせることにしたのだった。蛮族と戦うことがあれば自分の力で勝ち残ることができるように、と。


 両親の計らいはゲルガンド本人にとっても嬉しかったようだった。彼は幼い頃から、窮屈な服を着てしきたりに煩い皇宮に上がることよりも、近習の子供たちと外で伸び伸び走り回って遊ぶ方がよっぽど好きだったからだ。


 彼は武芸の鍛錬に励みたちまち腕を上げた。実戦を積んで用兵術にも長じるようになった。いまや優れた将軍としてゲルガンドの名声は日増しに高まるばかりだ。


 ――災いの種が芽吹こうとしている。


 このほど、軍を退役してひっそり暮らしていたゲルガンドの父親が亡くなった。これでリザ皇女以外に皇統を継ぐことが出来るものはゲルガンド一人になった。


 ――父上の懸念は正しかった。


 スヘイドはゲルガンドが誕生したときのことを思い出す。将来は将軍となるその赤子が、トゥオグルを思わせる黒い髪と黒い瞳を持っていると聞いたとき、スヘイドの父先帝シャルメルは断じた。「あの子は我らにとって災いの種だ」と。傍系の三男にそこまで警戒しなくてもよいのでは、と思う一方でスヘイドもまた禍々しい不安を覚えたのを記憶している。


 リザが産まれた時、この娘も黒い瞳と黒い髪を持っていることに安堵したものだ。しかし、それでも「災いの種」は消えはしなかった。それどころか二人の兄は死に、自分自身の力で人望を集めて、あの男はリザに次いで皇位継承権第二位にまで近付いている。


 リザには出自に問題がある。皇帝家に対して不満を持つ貴族や諸国王も多い。スヘイドは一層顔を険しくして考える。リザの皇位継承や今の皇帝家に反発する者達の中には、ゲルガンドを皇帝にしようとする動きがある。ゲルガンドにそういう誘いがあるという情報は、彼の側に放ってある間諜から聞いている。

今のところゲルガンドにその気はないようだが……。


 ――封じ込めなければ。


 ゲルガンドが将軍として頭角を現し始めた頃、先帝はまだ存命中だった。そしてゲルガンドの扱い方をスヘイドに教えていた。


「軍功を讃えてやれ。それも多くの者の前で華やかに、だ。そして見せ付けてやるのだ。彼は非常に優秀な――しかしながら一介の軍人に過ぎないことを」


 帝国の威容を示す壮麗な大会堂。どんな式典が誰の為に開かれようとこの建造物の主は皇帝だ。


 皇帝の玉座は会堂の最も奥に、十数段の階段を登ったところにある。こここそがこの会堂の主役なのだ。


 会堂の身廊は堅固な石造りゆえに大きな窓は取れない。飾りをかねた無数の燭光で照らされるけれども、ほの暗さを完全に払拭することはできない。しかし、身廊の突き当たりに広がる玉座の周囲は違う。玉座の天井は巨大な円蓋となっており、壁と円蓋の間にぐるりと窓が並んでいる。そのため円蓋の下の玉座は外の明るい日の光に包まれることになる。


 それだけでも身廊から見上げる群衆に玉座は眩しく感じられよう。更に、玉座は金、銀、白金、数多の宝石で飾られている。その煌びやかさは、まるで玉座自体が輝きを放っているように見える。


 この天上と地上の光に包まれた空間には、皇帝と皇太子以外に何人も上ることは出来ない。そこに続く階段に足を掛けることすら許されない。


 ――確かに今日の式典はゲルガンドのためのものだ。


 今日は、今までの軍功と高まる名声に応え、皇帝スヘイドがゲルガンドに「元帥」の地位を与える日であった。これで彼は他の将軍たちを総括する軍人の筆頭の地位に立つことになる。


 しかし――。今日ゲルガンドがこの華麗なる大会堂ですることと言えば――スヘイドとリザの座る場所からずっと低い、床の上に跪くことだ。彼は地に膝をつき、高みに座る皇帝から位を「賜る」。彼は、皇帝の御用人が皇帝の代理で彼に手渡す任命状と徽章とを、額より上にかかげ恭しく押し頂かなければならない。


 そう、スヘイドはあくまで彼に位を「くれてやる」立場であり、ゲルガンドはそれを「頂戴する」立場なのだ。


 この式典は、ゲルガンドを単純に讃える者達の心情を満たしてやると同時に、彼が、いかに皇族と雖もただの軍人であることを示すためのものなのだ。


 この式典の中で、群集はこの自分とゲルガンドの間に存在する身分の差をその目で再確認することだろう。この式典が華やかに執り行われれば執り行われるほど、より一層玉座の荘厳さが際立ち、そこに座る者とその下に跪く者との越え難い差が、視覚を通じて彼らの脳裏に刻み込まれることだろう。


 皇帝スヘイドとリザ皇女が、内宮と外宮との境に近付くにつれ、大会堂が威風堂々たる姿を現し始める。


 リザもその中で行われる式典について思いを巡らせていたらしい。彼女はふと父親に言った。


「そういえば、お父様。私ゲルガンド将軍に会うのは初めてですわ」


 スヘイドは微かに苦笑して答える。


「いや。そなたが幼い頃には何度か会ってはいるよ。けれどもそなたは小さすぎて覚えていないだろうね」


 リザ皇女はそれ以上ゲルガンド将軍について尋ねなかった。これまでも何度か周囲の者達に彼について訊ねたことはあったが、何故か皆一様に彼の話題を避けたがっていた。


 ――どんな方なのかしら。


 リザは少しだけそんな風に思った。けれどもそれは長続きせず、頭の中で思考の焦点はまた別のものに移っていった。


 今日のような特別な式典には、特別な装飾がなされる。彼女の好きなタペストリーもずらりと並べられていることだろう。


 ――また、あの絵を見ることができるのね。


 リザとスヘイドは手を繋いで静かに外宮への開かれた門へ歩いていった。

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